水探訪(歴史編) ~農業用水の流れ

~ 農業用水の流れ ~
脈々と
受け継がれる
紀州の水と農業
紀の川の の恵みを受けとる の歴史
水
用水路
農業振興に尽くした と 井澤弥惣兵衛 大畑才蔵
先人から引き継いだ の歴史
梅栽培
CONTENTS
紀の川の水の恵みをつなぐ「用水路」の歴史
○ 飛鳥時代 ~ 平安時代中期 / 宮井用水
●
六箇井用水 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P.5
○ 平安時代末期 ~ 安土桃山時代 / 文覚井用水
●
○ 江戸時代 / 荒見井用水
小田井用水 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P.7
●
藤崎井用水
●
安楽川井用水 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P.6
先人から受け継がれてきた、大切な農地・農業用水利施設という財産があります。
私達は今、これらを活用することで、
安定した農業生産を行うことが出来ます。
が
また、
雨水を受け入れ洪水被害を軽減する、
防火用水として活用できる、
様々な生物の
-漫画-
住みかや住民の憩いの場となるなど、
農業以外にも多面的な機能を発揮しています。
私達にとってなくてはならない大切な施設ですが、
近年、
農家の減少や高齢化などにより、
充分な管理が難しくなっています。
大畑才蔵
お
ま ん
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・P.
9
○ 明治時代 〜 /『紀の川の水の歴史が動いた』十津川・紀の川総合開発事業
受け継いだ財産を子や孫の世代にも引き継ぎ、
農業・農村を守っていくために、
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・P.
11
地域みんなで協力していくことが大切ではないでしょうか。
先人から引き継いだ「梅栽培」の歴史
1
○ 紀州梅栽培の歴史
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・P.
14
○ 南紀用水事業
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17
○ みなべ・田辺の梅システム
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18
2
用水路
紀の川の水の恵みを受け取る
登録有形文化財(小田井用水の4施設)
(7ページ)
の
歴史
こ づ み が わ と い
1 【木積川渡井】・・・・・ ●
紀の川流域に住む人々は、弥生時代から紀の
た
つ
の
と
い
2
【龍之渡井】・・・・・・ ●
紀の川市西三谷・
紀の川市西野山・
岩出市東坂本境界
かつらぎ町高田境界
こ に わ だ に が わ と い
なかたにがわすいもん
・・・・・ 4 3 【中谷川水門】
【小 庭谷川渡井】・・・・・ ●
●
かつらぎ町笠田東
かつらぎ町中飯降
川の水の恵みを、用水路を開削する技術で、豊
紀の川流域
かな実りにつなげてきました。古代の「宮井」
「六
箇井」用水、中世の「文覚井」
「安楽川井」用水、
そして近世の「荒見井」
「藤崎井」
「小田井」用水
へと引き継いできました。
この「紀の川の水の恵み」をかんがい用水路
で活かした流域の経済力を背景に、古代から豊
かな歴史・文化を育んできたのです。
文覚上人(6ページ)
文覚井用水路(6ページ)
七郷井用水路
(8ページ)
紀の川用水用水路
藤崎井用水路(7ページ)
日前宮(5ページ)
六箇井用水路(5ページ)
三谷井用水路
(13ページ)
(13ページ)
日前宮
紀の川左岸用水路
(6ページ)
旧藤崎井堰
(7ページ)
(5ページ)
貴志川用水路
荒見井一水門(明治45年)
(13ページ)
木食応其(6ページ)
(13ページ)
3
4
用水路の
歴史
紀の川の水の恵みを受け取る
飛鳥時代~平安時代中期
平安時代末期〜安土桃山時代
【この時代の有名な出来事】
み
や
い
よ
う
す
い
〜神々の地を潤す〜【宮井用水】
・3~5世紀 前方後円墳など巨大古墳が築造される
・604年 聖徳太子が十七条憲法を作る
・816 年 空海が高野山開創
【この時代の有名な出来事】
もんがくゆようすい
〜高度な土木技術!文覚上人の取り入れた水〜【文覚井用水】
宮井用水は全長 28km、現在も和歌山平野の水田を潤している現役の水路ですが、そ
和 歌山 県 指 定 文化 財になっ
の成立は極めて古く、4 ~ 5 世紀に和歌山市にある日前・国懸両神宮(総称:日前宮)
ている文覚井(もんがくゆ)は、
を主神とする豪族であった紀氏が作ったとされています。
京 都 神 護 寺 の文 覚 上 人(1139
日前宮の鎮座する土地一帯は穀倉地帯であ
~ 1203)が 開削した水路とい
り、この地の水田を潤すために作られた用水、
われています。文覚は北面の武
宮に供する水ということから、宮井用水と名付
士(上皇御所の警護役)でした
けられました。
が、誤って人をあやめて出家し、
日前宮は平安時代には
熊野で修行。後に高雄山神護寺
「溝口神」とも記されてい
を再興し、東寺の修理も主導し
ます。この「溝口」とは宮
日前宮
紀伊国名所図会より
ています。源頼朝の挙兵に助勢
慶安三年 賀勢田荘絵図(けいあんさんねん かせだしょうえず) ※宝来山神社蔵
上の細い河川が穴伏川。下の河川が紀の川。穴伏川にある三つの堰から、
山沿いに絵の下の方に流れる3本の水路が文覚井用水。
井用水の音浦樋(現在は
しますが、頼朝没後は対馬に流
音浦分水工)のことであ
罪となるというドラマチックな生涯を送った僧侶です。
り、紀の川下流の農業・水
この水路は、笠田庄の北側の山中から流れ出る穴伏川から取水しており、一の井、二
路の神を奉っていたこと
の井、三の井と 3 つの堰を持ち、それぞれ別々の村に引かれています。一の井の標高は
が分かります。
約 130m。この山奥から水路は等高線に沿って急崖部を降り、丘陵のくぼ地を通って上
日前宮の近くからは、古墳時代初期(4 世紀)
人滝となり、風呂谷川の水源に落としこみ、さらに南下して風呂谷川から幾つかに分水さ
に開削された水路が発見されています。これは
れるという大胆かつ高度なルートとなっています。
幅 7 ~ 8 m、深さ 3m と現代の水路にも劣らぬ
現在の宮井用水
大規模なもので、当時すでに相当広範囲にわたって水路網ができていたことを想像させ
これは当時、この地の測量や土木技術が相当高度であったことを物語っており、江戸
時代の大畑才蔵や井澤弥惣兵衛の登場を考え合わせると興味深いものがあります。
ます。
あ
ら
か
わ
い
よ
う
す
い
また、要所にはいくつかの式内社(
『延喜式』に載っている由緒ある神社)があり、こ
〜春は必見!一面桃色、桃源郷〜【安楽川井用水】
れらは分水社(みまくりしゃ:水を分配する神)としての性格を持っていました。
安楽川井用水は、紀の川と貴志川に囲まれた紀の川左岸地域をか
現在は、四箇井・小倉井と統合され「紀の川左岸用水」として名称を変更しています。
時代とともに改修されていますが、4 ~ 5 世紀から今日まで 1500 年にわたり農業用水
を脈々と流し続け、農業だけでなく、地域の人達の憩いの場や防火用水としても役だって
います。
ろ
っ
か
い
んがいする水路で、高野山の文書によると鎌倉時代頃には存在して
おり、安土・桃山時代の 1590 年、高野山の僧侶木食応其(もくじき
おうご)
(1536 ~ 1608)によって、再興されたといわれています。
木食応其は、近江出身の武士であり、高野山で出家しました。
よ
う
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木食応其上人座像
高野山の客僧でしたが、秀吉の紀州攻め時の和議交渉で、秀吉
い
【六箇井用水】
の信頼を得、高野山を焼失から救います。また、紀の川に橋を
紀の川北岸の六箇井は、その起源の詳細は未だ不
かけ、その地を橋本と呼び、まちを創った人でもあります。連歌
明ですが、紀の川南岸の宮井と並ぶ二大用水路として
の名手でもあったようです。
古い歴史を持っています。
5
・1011 年 紫式部の源氏物語が完成
・1573 年 織田信長の政権が確立される
・1590 年 豊臣秀吉が天下統一を果たす
現在の安楽川井用水
現在の六箇井用水
6
用水路の
歴史
紀の川の水の恵みを受け取る
江戸時代
お
【この時代の有名な出来事】
徳川の命により、
用水路工事がピーク
広がる穀倉地帯
・1600 年 関ヶ原の戦い
・1716 年 徳川吉宗が8 代将軍となる
・1853 年 ペリー来航
あ
ら
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い
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い
【小田井用水】
徳川吉宗の命を受けて大畑才蔵が、宝永4年
(1707 年)開削しました。
い
【荒見井用水】
紀の川の北岸の河岸段丘を流れる用水で、紀
紀の川左岸中流に位置し、初代藩主徳川頼宣時代、寛永
の川に平行して、北岸の等高線を巡るように開
7年(1667 年)に開削され、粉河町の荒見・杉原一帯の平
削されたため、途中でいくつもの河川と交差し
坦部をかんがいし、遠方の西で紀の川に合流していました。
ます。それを渡井(水路橋)や伏越(サイフォン)
現在は藤崎頭首工から取水し、安楽川井用水に通じています。
による立体交差で解決しています。これらの施
現在の荒見井用水
小田井用水路の上につくられた「せせらぎ公園」
設は現在も残っており、木積川渡井、小庭谷川渡井、龍之渡井、中谷川水門の 4 施設は、
県内の土木構造物で始めて「登録有形文化財」に指定されています。
ふ じ さ き い よ う す い
【藤崎井用水】
用水は、橋本市、かつらぎ町、紀の川市、岩出市を通る延長約 30km におよぶもので、
紀 の川 市 藤 崎 から 和 歌 山 市 山 口ま で の 紀 の川 右 岸 約
この用水により 1,000ha をこえる水田が生まれました。
24km の大規模な用水路です。
徳 川吉宗の父 光貞の命を受けて大 畑才蔵が、元禄9年
新田開発と治水の立役者たち
(1696 年)から元禄14年(1701 年)にかけて開削しました。
この工事は、畑を水田に変え藩財政の建て直しに貢献しまし
い ざ わ や そ べ え た め な が
現在の藤崎井用水
登録有形文化財!-小田井用水4施設-
【井澤弥惣兵衛為永】
徳川吉宗は新田開発や殖産興業など
洪水を滞留させないように河川の蛇行を
による収入増を図ったことから、
「米将軍」
直線化し、遊水池を干拓して新田を開発
とも言われています。この米将軍を支え
し、その用水を遠くに求めることにあり
小田井用水路にある4 施設は、平成18 年3 月に県内の土木構造物で初めて「登録有形文化財」に登録されました。築80 年~90
た人物こそ、全国各地で高度な土木技術
ました。特に有名な工事に、埼玉県見沼
年を経過し、農業用施設の近代化を表すとともに地域の歴史的景観に寄与しており、現在も地域の人たちに親しまれています。
を駆使し、河川改修や新田開発などによ
の干拓と見沼代用水があります。
り米の増産に寄与した紀州那賀郡溝ノ口
村(現、海南市野上新)出身の井澤弥惣
兵衛為永でした。
彼の工法は、紀州流土木工法と言われ、
近 畿・東 海・関東・北陸の河川の改修、
湖沼の新田開発などに広く使用された工
法で、その特徴は、堅固な堤防を築き、
こ づ み が わ と い
た
【木積川渡井】
つ
の
と
い
【龍之渡井】
【中谷川水門】
紀の川市(旧打田町)西三谷・岩出
紀の川市(旧那賀町)西野山・かつ
かつらぎ町中飯降
市東坂本境界
らぎ町高田境界
中谷川の川床下に設置し通水するサ
木積川に架かる水路橋(渡井)
穴伏川に架かる水路橋(渡井)
イフォン
1913(大正 2)年完成
1919(大正 8)年完成
1912(明治 45)年完成
こ に わ だ に が わ と い
見沼代用水土地改良区提供
おおはたさいぞう
【大畑才蔵】
元禄 9 年(1696 年)、伊 都 郡方役 人
であった井澤弥惣兵衛為永により藩の役
人に取りたてられ、元禄 12 年(1699 年)
から 13 年にかけては藤崎井用水、宝永
【小庭谷川渡井】 4 年(1707 年)には小田井用水の工事
かつらぎ町笠田東
に携わっています。
堂田川に架かる水路橋(渡井)
1909(明治 42)年完成
次ページからの
-漫画- 大畑才蔵
で、詳しく知ろう!
工事前
7
見沼代用水
なかたにがわすいもん
工事中
現在
8
紀の川の水の恵みを受け取る
むずか
とち
こう てい さ
難しいのは、
りょうがわ
かた
いわ
土地の高低差があるし
げん あなぶしがわ
両側は固い岩である
しじゅうはっせがわ
した
四十八瀬川だ。
(現・穴伏川)
ふせ こし ほう しき
かわ
うえ
伏越方式のように下
ではなく、川の上を
とお
しちゅう
けいさん
ぶぶん
通してはどうだろうか。
さいぞう
その部分は
いっぽん
才蔵の計算により
いわ
の筧になった。
かけい
一本の支柱もない
やく
約
い ざわ どの
りょうぎし
井澤殿、
り よう
き
こめ
べん
かわ
しゅうかく
きた がわ
すく
紀の川の北側は、
米の収穫が少ないな。
ふ
はっ …
。
なにぶん、
みず
水が不便
こめ
でして、
米がとれない
みず
い
ざわ
みず
井澤!
た
ほう ほう
田に水を
ひ
引く方法を
かんが
ぎ
じゅつ しゃ
考えられる、
ゆう しゅう
優秀な技術者は
だれ
誰かおらんか。
との
殿、それなら
はし もと
む
ろ
橋本の
か
おお はた さい ぞう
学文路に
大畑才蔵という
てき にん しゃ
適任者が
とく
おさな
い
ころ
おりますぞ。
さい ぞう
けい さん
じん かく
才蔵は幼い頃から、
わか
つだ
ぼく こう
じ
かわ し
な
て
ご せん ごく ふ
しょう や
いちば
よ
しゅ
はち だい しょう ぐん
き しゅう はん
すい
さい ぞう
かわ
はん
一七〇七年
き
みず
才蔵は藩から
ひ
紀の川の水を
きた がわ
こう
じ
めい
北側へ引く
じ
く いき
こう
せん ぶん
いち
わ
う
こうはい
かつらぎ町
橋本市 高野口町
とお
たにがわ
伏越で通すか。
ふせこし
さい ぞう
はん
さいぞう
才蔵 …
く ろう
ご苦労であった。
おお
あり
が
た
き幸
せ!
こう せき
紀の川
日数 …
工事
人数 …形なら
。
地
ずだ
この
いは
で良
これ
ふーむ …
。
山から流れる谷川は
なが
紀の川市 那賀町
工事の命を受ける。
き
じゅう さん
だい いっ
に
第一期工事を
ご
二十三区域に分けて
すす
たくわ
やま
五千分の一の勾配で
進めよう。
とく がわ よし むね
じゅうよん まん りょう
かみ さま
よ
紀州藩は十四万両の蓄えがある藩に
ち
水↑
水↓
水↑
「治水の神様」と呼ばれた才蔵の功績が大きい。
計算が得意で人格も良く
て
若いころから庄屋の
手伝いなどを
ど
していた。
じっ せき
土木工事の
だい いっ き こう じ
業績もあった。
やく
りよう
しゅう かく
き しゅう はん
一七一六年
←
紀州藩主 徳川吉宗が
八代将軍になったときには
←
2
なっていた。
方法です。
とお
かわどこ
4
細かく計算し、報告したのは、
紀州藩では才蔵が初めてでした。
8
←
←
のです。
いち ねん た
き
一年足らずで約 キロの第一期工事
かん せい
が完成。
はし もと し こう や ぐち ちょう
橋本市高野口町から紀の川市名手市場
こめ
にかけて水の利用ができるようになった。
やす
それにより、米の収穫が五千石増えた。
よる
夜は、休まれてはどうか?
そくりょう さぎょう
)
※
もっこ
では両岸の岩を
お
り よう
墨壷
八代将軍 徳川吉宗
たけ
なか
ま
ょうかん
を入れて両
きょう ど しり
真ん中の竹にすぎ水むら こう えんない
料館に
はし もと し
にある郷土資
内
園
公
村
杉
※橋本市の
てん じ
どう ぐ
とう じ
います。
が展示されて
具
道
の
時
当
さだ
み
みず
利用して
の距離、
いや こ
…
では …
この高低
ちょうちん
つた
みず
を定めた。
すいへい
水を見て水平
方の竹から出る
で
かけい
めじるし
つづ
目印に堤灯を置いて測量作業を
こう じ
続けたと伝えられている。(
だい に き
だい さん き
第二期、
いわ で し
岩出市まで水の利用が
川床をくぐらせて通す
尺
たけ
←
←
井
小田
谷川
メモ
げんのう
1
できるようになった。
水盛器
才蔵手き製の
すい じゅん
(水準器)
りょうほう
ふせこし
すみつぼ
6
7
ほうほう
折りたたみ
どうぐ
とうじ
21
3
大畑才蔵
(55歳)
くわ
道具
コンパス
しゃく
お
い
みず
ン方式)とは。
伏越(サイフォ
用水
ほうしき
井澤弥惣兵衛
(34歳)
メモ
5
筧…水を通すための
竹や木などのとい。
紀州藩主
徳川吉宗
(24歳)
第三期の工事で
1200ha の美田が
ひらける
筧をかけることに
さい ぞう
つきよ
ん
た
かわ しゅうへ
き
10
9
どう ぐ
せい ず
さいぞう
き
みず もり
てせい
さいぞう
当時の道具
才蔵の製図
なか
ほう
いたしましょう。
龍之渡井
と
きょう
つう すい
月夜にや
辺の田は「
紀の川周つき
よ
てし
でもかわい
う
のうぎょうよ
け る」(月い夜
農業用
ど
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まう)と言
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るかった。
わ
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こう
中でも
れた工法つうのすい きょう
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才
橋 は、
とく
たこの通水
特 に す ぐ れだい かい しゅう こう じ とき
ねん
事の時
改修の工
ひつ
くわ
1965 年 の 大
て
加える必
を
手
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いた。
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専門家も驚
要がない」と
メモ
30
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近代技
たつ の
メモ
水橋
術も驚いた通
おどろ
ぎじゅつ
きんだい
用水路の
歴史
-漫画-
※:
「大畑才蔵」
(平成5年橋本市発行)には、実際に提灯を目印として測量を行った記録は無いと記載されている。
用水路の
歴史
紀の川の水の恵みを受け取る
明治時代~
〜『紀の川の水の歴史が動いた』十津川・紀の川の総合開発事業〜
けてもらえないかと再三にわたる交渉を重ねますが、いずれも和歌山県側の根強い反対
〜奈良県の水不足〜「大和豊年米食わず」
とが必要と考え、紀伊の水需給を調査します。その結果、大和平
この言葉は、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多
野と同じように、慢性的な水不足で悩んでいることが判明。計画
く不順な年となり、他が豊作であれば大和は干ばつに苦しむ、
が持ち上がる毎に、ムシロ旗を立てて反対してきた農民の真意が
つまり、大和平野の農業用水の水不足をいいあらわしています。
判りました。紀伊平野の農民も大和平野と同じ苦しみを味わって
大和平野はもともと少雨地帯であり、大きな河川に恵まれ
きたのです。
ず、水源のほとんどをため池に頼ってきました。
このことから、
「吉野川分水」は、大和だけではなく、紀伊平野
ところが、山ひとつ隔てれば、日本有数の大河・吉野川(紀
隠し井戸による水汲みのようす
により計画は頓挫しました。奈良県側は、反対を唱える紀伊平野の農民の実情を知るこ
の用水不足をも解決する総合的な利用計画でなければ実現は不可
和歌山県側、
吉野川分水地を実地視察
(昭和4年4月18日付大阪毎日新聞)
の川)が流れています。しかも、大台ケ原など最も雨の多い流域は奈良県。そこに降っ
能であるという認識に達したのです。
た雨のほとんどが紀州(和歌山県)に流れていく。なんとか吉野川の水を大和平野へ引
〜国家の一大プロジェクト〜「十津川・紀の川総合開発計画」
けないものか(分水という)
。これが大和平野の農民のかなわぬ夢でした。
国やぶれて山河あり。終戦後の国土復興には食糧の増産と資源の開発が急務となりました。
〜紀の川の水を大和へ〜「実現しない大和への分水計画」
県境を越えた総合利水の立場から計画が進められ、両県の話し合いが進展、ついに「十
この吉野川分水計画は、すでに江戸初期 ( 元禄年間 )、高橋佐助によって提案されて
津川・紀の川総合開発計画」が国家の一大プロジェクトとして位置づけされることになり
います。寛政年間
(1700 年代後半)には角倉玄匡
(すみのくらはるまさ)による実地調査。
ました。
また、幕末に立てられた下渕村の農民の分水計画や辰市祐興らの分水計画を元に、明治
〜豊かな紀の川を豊かに使う〜「日本の水資源総合開発の手本」
政府が現地調査も行なっています。まさに、吉野川分水は江戸から昭和にいたる 300 年
十津川・紀の川総合開発計画は、水源施設として、
紀の川水系に
「大迫ダム」
「津風呂ダム」
の間、浮かんでは消え、消えては浮かんだ大和平野の歴史的悲願だったのです。
「山田ダム」を築造。さらに、熊野灘に流れている十津川水系に「猿谷ダム」を建設し、
〜紀州の思い〜「歩み寄れない和歌山と奈良」
このダムの水をトンネルで山を越えて紀の川に流しこむ(流域変更)。あわせて、紀伊平
「冗談じゃない」というのが紀州の言い分でした。降る雨は奈良県のものかも知れない
野の取水施設を近代的な堰に改修統合(井堰の統合)することで水資源の有効化を図る
が、洪水の被害をこうむるのは紀州だ。
というものです。
紀の川 ( 吉野川 ) は、歴史に名高い暴れ川でした。一年に二度の割で大洪水が和歌山
一方、大和側の用水は、吉野川の水を下渕頭首工で分水し、トンネルで大和平野に運
城下を襲い、幾万という人が亡くなっていました。降れば大洪水、日照れば大渇水。
ぶという壮大な計画でした。
十万人の農民が鐘を打ち鳴らし庄屋を襲ったという文政 6 年(1823 年)の百姓一揆は、
「十津川・紀の川総合開発計画」は、その後の日本における水資源総合開発の手本と
干ばつに苦しめられてきた農民の怨嗟が爆発したものです。
もなった秀逸な計画でした。
「渇水に苦しんできたのは大和だけではない。こちらは、水害と渇水の両方に耐えてき
〜300 年を経て、和歌山と奈良が手をむすぶ〜「プルニエ協定」
たのだ」。
3 カ年の調査期間を経て、いよいよ事業の開始が迫ってきます。この間数回に渡って
大和の悲願、紀州の苦闘。それは永遠に歩み寄ることもできそうにない歴史的矛盾で
協議会が開かれ、事業の施工順位などが取り決められました。そして、昭和 25 年 6 月
もあったのです。
に開催された会議で、ついに両県の間で事業実施の協定書が正式調印されます。
〜紀伊平野農民の真意〜「解決策が見えてきた」
この会議は、京都の元京都祇園演舞場内にあった和風レストラン「プルニエ」で開か
明治 18 年には、再び分水の調査計画が奈良県議会で議決され、ついで、日清、日露、第
れたことから、ここでの協定は「プルニエ協定」と呼ばれています。
一次大戦を経てますます食糧増産の機運が高まるなか、大正 4 年、大正 15 年、昭和 4 年、
300 年に及ぶ、水資源開発の歴史を動かした一瞬でした。
昭和 16 年と度重なる提訴運動を繰り広げ、第 1次水紛争から第 4 次水紛争へと展開しました。
何としても大和平野へ水を引きたいという悲願、余剰水でも洪水時の水でもいいから分
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元京都祇園演舞場
プルニエにて
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紀 の川 水 系吉 野川に築 造され た
アー チ 式 コンクリートダム 。提 高
70.5m、堤長222.3m、有効貯水
量26,700,000㎥
堤高2.05m、堤長26.7m
西吉野頭首工
大迫ダム
紀の川水系津風呂川に築造された
重 力 式 コ ン ク リ ート ダム 。提 高
54.3m、堤長240.0m、有効貯水
量24,600,000㎥
堤高(扉高)2.9m、堤長58.6m、
取水量10.98㎥/s、農業用水9.91
㎥/s、上水道1.07㎥/s
かのぼり、梅は観賞用、薬用、食用な
ど様々な用途で活用されてきました。
紀南地域の人々は、梅の品種改良を
重ね、品質を向上させ、また、梅畑周
辺にウバメガシを植えることで水源を守
しんたんりん
り、斜面崩落を防止し、薪 炭林に住む
ミツバチにより受粉を促進するといっ
た、それぞれが密接に関わる自然のサ
猿谷ダム
イクルを活用し、これまで梅栽培を続け
新宮川水系熊野川に築造された重
力 式 コ ン ク リ ー ト ダ ム 。堤 高
74.0m、堤長170.0m、有効貯水
量17,300,000㎥
津風呂ダム
下渕頭首工
紀南地域
田辺の梅栽培の歴史は江戸時代にさ
てきました。
~米の出来ないやせ地に梅を~「江戸時代」
~
紀州藩主、徳川頼宣のころ、田辺・南部の農民は、あまり米が育たない田畑と重い年
なおつぐ
貢に苦しんでいました。これを見た田辺藩主安藤直次は、以前からあった「やぶ梅」に注
しのたけ
目し、篠竹ややぶ梅が生える場所は痩せ地で田畑の耕作不能な地域だ、として免税地と
しました。同時に、米の出来な
紀の川水系貴志川支流山田川に築造された
重力式コンクリートダム。堤高34.0m、堤
長140.0m、有効貯水量3,370,000㎥
六箇井用水路
山田ダム
堤高2.80m、堤長221.4m
ある梅を植えさせ、年貢の軽減
と農 作 物の育成に努めました。
こうして、田辺・南部地方を中
心に「やぶ 梅」の栽培が広がっ
たと伝えられています。江戸時
代中期には江戸で梅干しの人気
が出て、紀州の木材、木炭、み
かんとともに送られていました。
堤高1.50m、堤長212.0m
~南部の梅のルーツ「内本梅」
の発見~
お し ね
明治 12 年頃、内本徳松が上南部村(現:みなべ町)の晩稲地区で良種の梅を見つけ、
新六箇井
用水路
堰 幅15.0m、堰 長30.0m(可 動
部)別事業だが、同時期昭和28年
に水害を受け、昭和32年に復旧。
その後改修され、現在の堰は昭和
58年完成。
これを母樹として繁殖させたのが
諸井頭首工
堤高1.4m、堤長365.8m
現 在この頭首工はなく、国土 交 通
省により建設された紀の川大堰に
取水口の位置が変更されている。
新六ヶ頭首工
堤高2.90m、堤長258.2m
藤崎頭首工
小田頭首工
いやせ地や山の斜面に生命力の
岩出頭首工
国家の一大プロジェクト 〜十津川・紀の川総合開発事業〜
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梅栽培の
歴史
先人から引き継いだ
「内本梅」で、上南部にある梅の
9 割はこの系統と言われています。
この原木は「内本梅原木」として
昭和 11 年、県の天然記念物に指
定されました。
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梅栽培の
歴史
先人から引き継いだ
~梅畑経営の始まり~
〜より安定した農業へ〜「南紀用水事業」
梅干は、軍隊の常備食として需要が増えていきました。
第二次世界大戦末期に、梅の木を伐採してサツマイモ等を栽培したことから、梅の栽培面
お し ね
晩稲でも耕地を広げ、梅作りをする人々が登場します。
明治20 年頃、内本幸右ヱ門が晩稲字下の谷奥・関戸に、
約
15 アールの土地を開墾し梅を植え、翌年、内中為七もそれに続き
積は大きく減少しましたが、戦後増加し、昭和30 年代以降は急速に伸びています。
内中源蔵
梅は地域の主要な産業となっていきましたが、多くの畑が山の斜面にあるため、日照り
が続けばたちまち木々が被害を受けました。
ました。その後、内中為七の長男であり、紺屋を営む青年実業家内中源蔵が、時代を読み、
この様な状況の中、南紀用水事業が始まります。この事業は、昭和40 年から構想され、
明治34 年、紺屋を廃業し、私財を投じて扇山を買い取り4 ヘクタールの土地を開墾しまし
昭和50 年に工事着工、平成8 年に完成しており、水源となる島ノ瀬ダムや畑への用水路な
た。その開墾地に内本梅を植樹します。この事業がきっかけとなり梅栽培が広がりました。
どが整備されました。
さらに、日清・日露戦争での軍用として、またコレラ・赤痢の予防と治療用として梅干し
この事業により、田辺市・みなべ町にまたがる樹園地約1,550ha の畑地かんがい用水
の需用は急速に伸びていきました。
を確保し、新設した畑地かんがい施設を活用した干ばつ被害の防止や、防除作業の省力化
〜高田貞楠が発見「高田梅」〜
明治35 年、上南部村の晩稲に住む高田貞楠が、近所の人から購入した内中梅の苗60 本
を行うことができ、合理的な農業が可能となりました。
島ノ瀬ダム周辺では、四季折々の美しい景色を楽しむことができ、地域の人々の憩いの
場となっています。
の中に、実が大きく美しい紅がかかる木を発見し「高田梅」として育てます。昭和6 年、
小山
貞一が高田梅の穂木を譲り受け、梅畑を広げていきます。
~優良品種「南高」の誕生~
昭和25 年、村内で優良品種の梅探しが始まり、小山
貞一も委員の一人となった梅優良母樹調査選定委員
会で優良37 品種が選定されます。選定委員会の委員
長に、当時、南部高校の園芸科の教諭だった「竹中勝
島ノ瀬ダム鯉のぼり
(3 月下旬〜5月上旬)
島ノ瀬ダム 桜
太郎」が就任し、南部高校園芸科の生徒たちを実習指
島ノ瀬ダム 雪景色
導しながら、優良37 品種を5 年間にわたり調査し、最
も優秀な品種を選定しました。この品種は、南部高校
園芸科の生徒たちの調査研究への協力もあったことか
なんこう
ら「南高」と名付けられました。
【南部梅林】
南部梅林
南部川に沿って広がるなだらかな山の
斜面に見渡す限りの梅林が続いています。
な ん こ う う め
【南高梅】
紀南地域で広くで栽培され、全国
に優秀性が認められている品種です。
豊産性で樹勢は中庸。表面に紅がか
かる大きな果実は、梅干にすると果
肉が厚く皮が薄い最上級品です。
『一目百万、香り十里』と称される程、名実
ともに日本一を誇る梅林です。
【岩代大梅林】
小高い山頂から見渡す約30ha の広大
な梅林に約2 万本の梅の木が 咲き乱れ、
開花時期になるとまるで白いジュウタンを
敷き詰めたような美しさを誇ります。
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岩代大梅林
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南紀用水事業
〜世界に誇る〜
「みなべ・田辺の梅システム」
〜みなべ・田辺の梅システムとは〜
みなべ・田辺地域では、里山の斜面を梅林
として利用し、その周辺にウバメガシなどを
へ が わ
は
や
しんたんりん
1
●島ノ瀬ダム 2
●辺
川頭首工 3
●岩代揚水機場 4
●芳
養揚水機場のポンプ
植え薪炭林を残すことで水源涵養や崩落防止
平成3 年3 月、南部川上流に造
川から農業用水を取り入れる
揚水機場には大きなポンプが
芳養揚水機場におかれている
られました。総 貯 水 量307 万
施設を「頭首工」といいます。 おかれ、頭首 工から取り入れ
等の機能を持たせ、薪炭林に住むニホンミツ
トン、有効貯水量248 万トンの
辺川頭首工では少し上流に取
農業用水を供給するためのダ
り入れ口があります。
ポンプの写真です。
た水を丘の上のファームポンド
(農業用水の貯水槽)に押し上
ムです。春にはダム周辺に植栽
げます。ここは、岩代地区へ水
した桜がとてもきれいです。
を送るための揚水機場です。
しんたんりん
バチと梅との共生など、地域の資源を有効に
薪炭林
薪炭林
活用して、高品質な梅を持続的に生産してき
梅林
ました。この様な農業システムを「みなべ・田
辺の梅システム」と呼んでいます。
水源涵養崩落防止
1
しん
たん
りん
薪炭林
製炭
2
7
持続的な
薪炭林の管理
「紀州備長炭」
を生産
8
水・養分
6
3
里山
生物多様性
梅林
ミツバチ等
梅生産
受粉
水・養分
・斜面が多い里山利用の工夫
・多様な遺伝子資源 ・品種育成
・優れた伝統技術
草生栽培 表土の保護、有機物補給
生物多様性
ため池・用水路
4
5
多様な
農産物
梅加工
↓
経営安定
↓
雇用創出
里地
「みなべ・田辺の梅システム」は H27 年度世界農業遺産認定を目指しています。
【世界農業遺産とは】
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5
●中芳養調整池 6
●ファームポンド 7
●中央管理事務所
8
●中央監視室 用水路を通り送られてきた水を
農業用水を貯めておく大きな
南紀用水の施設を管理する事
離れたところの水門を管理した
貯め、熊岡と芳養のファームポ
貯 水槽が丘の上にあります。 務所です。みなべ町西本庄にあ
り、用水路の水量を確認したり
ンドへポンプで押し上げていま
南紀用水には10 基の貯水槽
します。台風や大雨の時は夜中
す。貯水量は10,000トンもあり
があり、貯水量は800トンから
ます。
最大2,700トンあります。学校
のプールのおよそ2~7倍です。
ります。
も監視しています。
国際連合食糧農業機関(FAO、本部イタリア・ローマ)が 2002 年に開始した仕組みで、次世代に受け継がれるべ
き重要な伝統的農業(林業、水産業を含む)や生物多様性、伝統知識、農村文化、農業景観などを全体として認定し、
その保全と持続的な活用を図るものです。日本では、2011 年に新潟県佐渡地域と石川県能登地域が、2013 年に
静岡県掛川周辺地域、熊本県阿蘇地域及び大分県国東半島宇佐地域が認定されています。
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