20130310 タウンニュースホール(秦野) 昆虫から見た渋沢丘陵の里地里山 高桑正敏(神奈川県立生命の星・地球博物館 名誉館員) 自然植生の頃 自然植生の頃 もし人間の関与がなかった(=原自然状態)とすれば、現在見る渋沢丘陵とは景観が相 当に違っていたと推定される。すなわち、現在では尾根と中腹を中心にコナラやシデ類な ど夏緑樹の雑木林とスギ・ヒノキ植林地が広がり、谷戸と山麓を中心に耕作地や住宅地、 ゴルフ場などが虫食い状に忍び寄っているのに対し、原自然状態であったならば(渋沢丘 陵における具体的なデータは知らないが)全面的に照葉樹と夏緑樹の混交林、ないしほと んど照葉樹林に被われていたであろう。そこには、ある程度の面積をもった草地や不安定 な林分は存在せず、安定した極相状態の暗い林が広がっていたと推察される。 いずれにしろ、縄文海進時以降少なくとも弥生時代より前までは、照葉樹が優占するう っそうとした森林で被われていたことは確実であり、そのため昆虫相も現在とはかなり違 っていた可能性がある。たとえば、照葉樹林を生息環境とするヒメハルゼミやルーミスシ ジミも分布していたであろう(註:現在は、前種は箱根山麓以西や八王子市~町田市、房 総半島などに、後種は房総半島と紀伊半島以西に分布)し、その他の照葉樹林構成種(= 要素)も広く分布していたと考えるしかない。 その一方で、たとえば夏緑樹林要素として代表的なオオムラサキやウラナミアカシジミ は、それぞれの寄主植物(=ホスト;食樹)であるエノキとクヌギ(またはコナラ)が優 占樹種でなかったこと、極相的な暗い樹林を生息環境として好まないことから、ごく限ら れた不安定な場所(林縁や一時的に生じた林内空間など)に細々と生息していた可能性が 高い。 里地里山の特徴 渋沢丘陵の各地で(具体的な時代は検証していないが)人間が農耕を始めるようになっ て集落を形成し、地域循環型の農村社会を営むようになってから、植生も大きく変化して きたであろう。すなわち、照葉樹優占の安定したうっそうとした森林から、不安定な若く て明るい夏緑樹林、ならびに水田など非森林環境の広面積にわたる出現である。概略は次 のようであるが、こうした環境が創出されただけでなく、安定的に維持されてきたことが きわめて重要な意味をもつ。 水田:湿地環境の創出・維持と、法面などの草地の創出・維持。 ため池:止水環境の創出・維持と、法面などの草地の創出・維持。 水路:流水環境の創出・維持と、水路沿いの草地の創出・維持。 畑:広い林内空間の創出・維持と、草地の創出・維持。 道:林縁的環境の創出・維持(と道沿いの草地の創出・維持)。 カヤ場:ススキ草原の創出・維持。 果樹栽培:クリやカキノキ(それにスダジイ)などの繁栄。 薪炭林:定期的な伐採と、それによる伐採地(=一次的な荒れ地環境)、伐採木・薪・粗 朶、遷移途中の雑木林環境、ならびに林縁的環境の出現と維持。 こうした環境の創出と維持は昆虫相に多大な影響を与えたであろう。とくに湿地・水環 境と草地環境に生息するものは、大躍進を遂げることになったはずである。クリを寄主植 物とする種はもちろん、その花に集まる多種の昆虫も個体数を増加させたに違いない。薪 炭林の出現もクヌギやコナラ、クリ、シデ類など夏緑樹を繁栄させたので、夏緑樹を寄主 植物とする昆虫を大幅に増やしたはずである。マイナスに転じたものは照葉樹林要素であ り、暗い樹林内を生息環境とする種であったと推定できる。 以下、樹林環境に生息する里山の昆虫に絞って説明する。 もともとの里山の特徴 もともとの里山の特徴 里山では燃料を得るために、カシ類やタブノキなど照葉樹が優占する林を伐採し、薪炭 林を形成してきた。薪炭林は生長が早い夏緑樹で構成され、生長の遅い照葉樹は消失して しまった。 夏緑樹を燃料として用いるためには、伐採後 10 数年~30 年ほどの生長期間を置く必要が あり、薪炭林は順繰りに伐採されたので、広域にわたって安定した雑木林環境が保たれて きた。しかもその雑木林環境は、伐採直後の状態、萌芽してまもない若い林から 30 年近く の年数を経た林まで混在し、多様な林相を保っていた。そればかりでなく、樹林性昆虫に とって重要と考えられている撹乱環境と林縁環境が常にどこかに存在していた。 撹乱環境の重要性の 1 つには伐採地がある。伐採は雑木林に荒れ地という二次空間と林 縁(次に説明)のほか、伐採木・薪・粗朶を提供した。タマムシ科やカミキリムシ科甲虫 などこれらを利用する(=分解する)昆虫にとっては、大規模躍進の場が現れたことにな る。そればかりか、こうした多数の昆虫を餌とするヒメバチ科ハチ類やコメツキムシ科甲 虫など食肉性昆虫も繁栄する。 林縁環境の重要性の 1 つには樹液がある。樹液はいろいろな分類群の昆虫にとって餌と して重要だが、シロスジカミキリなどカミキリムシ科やボクトウガなどガ類の幼虫が樹皮 下に侵入することで浸出する。しかし、樹液が浸出する環境は限られており、ふつうは樹 林内部では見かけることがない。ほとんどが林縁に位置しているクヌギやコナラ、クリな のである。しかも、シロスジカミキリがクヌギの幹に産卵できるのは、地表よりほぼ 2m 以 下、胸高直径 15cm 以下の若木である(高桑、2007)。林縁もクズなどマント群落構成種で 被われてしまうと、樹液は出にくくなってしまう。 一方、照葉樹はいちじるしく衰亡してしまったが、渋沢丘陵から絶えてしまったわけで はない。神社などの社叢林として各地に小規模ながら残され、また奥山や急傾斜地など薪 炭林に利用されなかった場所では生育していたものと考えられる。 以上のことから、夏緑樹を寄主植物とする種類や不安定で遷移途中の明るい環境を好む 種類は、飛躍的に繁栄したことであろう。逆に、照葉樹を寄主植物とする種類や極相林の 暗い環境を好む種類は、里山では衰亡したことは確実である。ただし、照葉樹林要素の多 くは細々ながらも生息していたものと推定される。 夏緑林要素と照葉樹林要素 話をちょっと変えよう。原自然状態なら、渋沢丘陵の植生は照葉樹が優占していたが、 里山を形成することでクヌギやコナラなど夏緑樹が繁栄するようになったと述べた。では、 照葉樹と夏緑樹とではどちらの方がより多くの昆虫を育むのだろうか。 照葉樹林の中心はヒマラヤ~中国大陸南部(や東南アジア山地)にあり、後氷期(=1 万 年前以降)になってから海沿いに関東地方に広がり、現在ほぼ北限になっている。関東地 方の場合、いわば地史的に新参者であり、そこでは照葉樹要素は種多様性に乏しい。蝶を 例にするなら、アオスジアゲハやムラサキシジミなど数種しか見当たらない。 これに対し、後氷期に入るまでの関東地方は夏緑樹(と冷温帯性針葉樹)が卓越し、照 葉樹林は房総半島南部や伊豆半島南部など温暖な地域に避難していたと推定される。この 状態は最終氷期(7 万年前以降)の間、ほぼずっと続いていたと考えられるので、夏緑樹林 要素は地史的に古い時代からすんでいたことになる。そのため関東地方の場合、夏緑樹林 要素の蝶はオオムラサキはじめ非常に多種に及ぶ。 里山は照葉樹林を夏緑樹林に変えたので、渋沢丘陵でも種多様性が著しく高まったと考 えてよい。 現在の里山 永い間安定してきた里地里山の環境も、1950~1960 年代以降になって急速かつ急激に変 化することとなった。その原因の 1 つは燃料革命であり、もう 1 つは産業構造の変化によ るものであった。 それまでは家庭での燃料として、主に薪や炭が使用されていた。この薪や炭を供給する ために、里山の薪炭林は重要な経済的価値をもっていたのである。しかし、石油が燃料の 主役になると、薪炭林は経済的価値を失うこととなった。時を同じくして、日本はそれま での農業立国から工業立国に変わり、商業などの第三次産業も一気に発展するようになっ た。こうした複合的な効果から、里地里山の働き手が労働力として都市へと流出してしま ったのである。 経済的価値を失い、かつ働き手が少なくなった里山はどうなったか。 1 つには、薪炭林としての維持管理、すなわち定期的な伐採と落ち葉掻きが行われなくな り、植生遷移が進行していった。この結果、やがて雑木林は大径木化するとともに、林床 は中・低木層が発達して荒れた、暗い林内にと変わっていった。里山の生きものにとって 重要な撹乱環境と林縁環境も極端に減少してしまったのである。シロスジカミキリも林縁 環境の喪失化とクヌギなどの大径化によって次第に衰退するようになり、樹液も少なくな っていった。 もう 1 つには、戦後の拡大造林施策があった。経済的価値のない雑木林は、将来への投 資としてスギ・ヒノキ針葉樹植林地に次々と変えられてしまった。その挙句、多くの場所 では造林管理されることもなく、生きもののほとんどがすめない空間となってしまった。 さらには、折からの都市化の影響である。交通の便のよい場所やなだらかな地形は、土地 開発によって住宅地や事業所にとって代わってしまった。 こうして、渋沢丘陵の里山全体の生物個体群の小規模・弱体化が急速に起きてしまった。 里地も里山以上に大きく変わってしまった。水田耕作や草地管理がなされなくなり、湿地 環境と草地環境が激減したばかりでなく、ため池環境の喪失・劣化や水路化(=小川の喪 失)によって、水生・草地の生物の衰亡はきわめて著しい。 種多様性の維持のために これまで見てきたように、里地里山の生きものたちは人間の営みによって、劇的に翻弄 されてきた。言うならば、生かすも殺すも人間次第なのである。もしこのまま、渋沢丘陵 において虫食い状の開発が続くのであれば、徐々に地域の生物多様性はその価値を減じて いくだろう。渋沢丘陵における生物多様性の保全を最優先して考えるのであれば、まずは 開発(=土地の改変)に NO を突き付けることである。 開発はときに広域にダメージを与える。とくに渋沢丘陵のように、生物個体群のほぼ全 体が小規模・弱体化している場合は、コアとなる生息地(メタ個体群)を失ったとき、そ の地域から一気に絶滅してしまう可能性が高くなる。今回の峠地区における霊園開発を例 にすれば、オオムラサキがそうなってしまうかもしれない代表的昆虫であろう。その個体 群を失ってからでは、将来に復元したくとも実現はかなりきびしい。それゆえにこそ、地 域の種多様性保全には個体群絶滅を回避するために、変化に富んだ広い自然環境(=メタ 個体群の存在する場所)が必要なのである。 一方、土地を含む私有財産権は憲法によって保証されている。それゆえ開発を防ぐには、 公有地化あるいはそれなりの体制を構築しておくしかない。そのためには、生物多様性保 全の観点から地域における土地利用計画を策定し、その実現をめざすしかないだろう。そ のための 1 つとして、NPO 法人神奈川県自然保護協会では「生物多様性ホットスポット選 定」作業を進めている。もちろん選定されただけでは法的強制力はないが、保全に念頭を 置いた地域計画の策定に向けて、多少なりとも役立つようにしていきたい。そのとき、行 政や土地所有者に対してプレッシャーをかける意味で、地域の自然を後世に残していこう という市民の大きな声こそが必要であろう。 引用文献 高桑正敏, 2007.雑木林におけるシロスジカミキリと好樹液性昆虫はなぜ衰退したか?.神奈川県立 博物館研究報告(自然科学), (36): 75-90. お断り 上記の内容は、文献等にあたって検証したものではなく、2 月末日現在の演者の記憶と考え方に基 づいている。このため、文献は 1 つしか提示できず、また思い込みによる誤りや齟齬があるかもしれ ないが、その場合にはお許しをいただきたい。
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