山吹神社眼難 り11崎神社隊 永田三島神社朧騒膊司

宮大工・彫刻師 門井宗吉・友祐 匠の技
栗の町としての歴史も古く江戸時代に献上した栗
又、
中山町。
松山市と大洲市を結ぶ「大洲街道」と言われた宿場町、
を徳川3代 将軍家光がことのほか賞費せられたという故事も伝えられている。この地に長州大工として多くの作品
友祐の「宮大工・彫刻師Jと しての匠の技を巡る。
を残した門丼宗吉 口
﹁司
:3
山吹神社 眼難
り 神社 隊
手前を
11崎
]
「山吹御前神社」である。
この社は山吹御前ゆかりの社、
この社は、
長州大工棟梁、
門井友祐の手によつて建築さ
建物には他に類を見ない
れ、
明治27年 に落成している。
この社は江戸時代の大洲藩主加藤泰候が自書 した「天
満宮」の扁額 が献納された社であるとも伝 えられてい
棟札に門井宗吉以外の
る。
神社社殿の建築に当つては、
木曾義仲
立派な彫亥lが 施されている。山吹御前神社は、
の側室、
建物は山吹御前の姿のよ
山吹御前ゆかりの社、
うに美しくひつそりと立つている。
複数の大工が普請の分担をになつて建築したとされる
めずらしい建築施工であるとされている。また、この社
は小高い山の上にあり、中山川と栗田川が合流している
崎にある社であることから川崎神社の社号が付けられ
たと言われている。
永田三島神社 朧騒膊司
この 社は第 16代 仁徳天皇の御代、
伊予
九州より来訪 し、
の 国、永 田の里を作 つたと言 われる長 田連 (な がたのむ
らし)を 祭 るため に建 てられ たと伝 えられる。元禄 6年
盛景寺
上]
中学校の
レ山
建長 6年 法灯国師 が宋国
室町時代の建築遺構とされ、
より持ち帰り手植えしたものと伝 えられる樹令700年
伊福城 主の直 系仙 波 氏 によつて建 築され今 日に至 つて
いる。本 殿 は、明 治 25年 大 工 棟 梁 、門 丼 宗 吉 、友 祐 に
大工棟
の書提樹のある寺として有名である。明治30年 、
梁門井友祐 によつて本堂が改築されたという「らく書
寺の特徴としては、向拝屋根で唐
き」
柱か祀られている。
が残 つている 。彫 刻
よつて建 築 され 、現在 も見事 な彫 亥」
のよ
い、
とし
ては、
の下部
に腰
を用
の特 徴
欄 間彫亥」
縁
板
又、この寺の楼門は6坪 木造
破風とした例 の寺である。
2層 建て、
室町時代の建築とされ、
釘を一切使用せず―
うに彫 り物を施 しているところである。
層の上に層を組 重ねる建築方法で正面門と脇門を持
ち、中世の砦の役目を兼ねた楼門といわれている。
お 問 い含 わ せ ・ポ ランティアガイ ド申 し込 み 先
伊予市観光協会
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●JR伊 予中山駅
>0農 業総合センター
0浄 光寺 0富 島神社 0脇 本陣旧玉丼家ロ
0大 興寺 0永 田三鵬神社 0中 山中学校
>o中 山小学校 >⑩ 盛曇寺 >
● JR伊 予中山駅
0佐 礼谷小学校
0安月U当 真光寺
0燿
森三島神社
0ホ 勿レ鑑賞
OJR伊 予中山駅
宮 島 神 社 (JRか ら泉町通りの左側)
泉町通り左側にあ:,こ の境内に下村為山の句碑 がある。
為山は明治から昭和にかけて活躍した松山出身の画家で
ありfJ卜懸 ある。
江戸時代 の脇本 陣旧三井家
(宮 島神社 から宗町通りを300m程 行 つて右側)
農業総合 センター(」 Rか ら中山バス停前)
中山 小学校 鈴木貞 雄
松山市
玉井家は江戸時代に脇本陣を務 めた家である。
に次ぐ古さである。
重要文化財「豊島家」
この建物の玄関横に村上斉月の句碑がある。
斉月は実業
詠ん
家で明治 35年 に中山の「河萬旅館」に宿泊した時、
だ旬である。
六」肇寺 (元 中山高校の反対の高台にある)
永田三島神社(東 町通り)
若葉同人であり、
大興寺楼門前に丼上三餘 の句碑がある。
風生や自象等を中山へ招き俳句会を開き興隆に努める。
この境内 に渡部抱オト
子 の句碑 がある。松根東洋城 の
高弟、
杜羊子 の二男で昭和 12年 に5代 目主宰となる。
中 山 中 学 校 (JRか ら中山バス停信号1抜 )
昭和 24年 にホ
学校正門左側 に富安風生の句碑がある。
若葉初代主宰である。中山町の俳
トトギスの同人であり、
旬を極 めた点 ,あ る。
中山Jヽ 学校 (中 山中学校の隣り)
安別当真光寺
階上城主の墓
国道 56号 線 を南下 し県道 221号 線 を5∼ 6km遡 れ
ば安別当地に真光寺がある。この境内に松本梨雪の句
碑 がある。むささび句会の発起者である。
左へ2km程 遡ったところ)
この地には、階上城主、
佐川喜三兵衛及び従者 の五輪
塔がある。
道)
燈森 三島神社慎光寺から2km帰 り
道)
佐ネL谷 Jヽ 学校 に島神社から2km帰 り
神社の境内に佐礼谷むささび旬会員で長く俳句活動をさ
れた地元の俳人下岡広洋 の句碑 がある。氏は539句 を
収録した句集を刊行した。
運動場西側 の校庭に地元の俳人橋本月登の句碑があ
る。
橋本氏も昭和 54年 に句集「遠嶺」を刊行している。
吉循氏の
又、
校庭 の東側 に鷹尾吉循 の頌徳碑 がある。
後世
頌徳碑は、
佐礼谷村発展 に多大なる貢献をたたえ、
に語り伝えるために、
皇紀 2600年 を記念し平田甚平氏
により建立されたものである。
Jこ 5∼ 6km)
(県 道 221号 線川沿し
ホ タル 1現 賞 (県 道 221∼ 225号 の中山川沿線)
6月 上旬から中旬 にかけて源氏ホタル、
平家ホタルが多
詳 しくは住民
く飛 びかい幻想の世界 へ と誘 ってくれる。
自治されだにホームページにて
三
二代目の清崎敏郎、
ここには若葉主宰の句碑がある。
又、中山生まれの妻鳥暁天作
代目の鈴木貞雄氏である。
の旬碑と中山行進曲の歌碑がある。
県道 221号 に出合うとそこから
(真光寺から元の道を帰り、
http://saredani.net/hotaru/map/index.htnnl
び
盛 景 寺 仲 山中学校 の上)
愛媛県指定文化財の菩提樹 のある寺である。この境内
極堂 は子規 とは
に柳原極堂 と三木照恵の句碑がある。
「楳」同人である。
三木 は風生らに師事 し、
文友であり又、
0宮 島神社
0農 業総合センター
花の森ホテル 品川柳之助
浄 光 寺 館 島神社 の反対側 の山合 い)
この境内の高台 に芭蕉塚 がある。
芭蕉 を慕 っていた愛
好者 が久万町大宝寺住職 の書文字を持ち帰り石に彫っ
て建立した。
宮 島 神 社 (JRか ら泉町通りの左側)
泉町通 り左側 にありこの境 内 に下村為 山の句碑があ
る。為山は明治 から昭和 にかけて活躍 した松 山出身の
画家であ 俳人である。
農業総合 センター(」 Rか ら中山バス停前)
花 の 森 ホ テ ル (56号 線沿いの遊栗館 の上)
度々中山町 に
入 口右側に品川柳之助の句碑 がある。
俳旬は富安風生に師
来町 し旬会を開き指導 している。
事。昭和 21年「雲雀」を主宰する。
この建物の玄関横 に村上斉月の旬碑 がある。
斉月は実
業家で明治 35年 に中山の「河萬旅館」に宿泊 した時、
詠 んだ句である。
運::巨 富ヨ(中 山バス停から2つ 目の信号を右へ)
遊栗館入口に松根東洋城の句碑 がある。
東洋城 は夏目
漱石 に師事 し、中山へも度々来町 し句会 を開 いている。
広田村庄屋日
又中山村生山の奥村漢山の旬碑もある。
野林椎桐 と供に句集伊 予寿多連を出版する。
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漆 地 区 の 梅 林 (56号 線遊栗館の反対の谷)
山の斜面に広がる幾枚もの棚田、3月 中旬には5000
本という梅の木に花が咲きまさに桃源郷の趣がある。
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ヽ
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0卒 本
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浄 光寺 苗蕉 塚
0浄 光寺
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佐礼 谷 小 学 校 橋 本 月 豊
浄 光 寺 倍 島神社の反対側の山合 い)
文里 は故あっ
この境内の高台に田辺文里の句碑がある。
中山の寺子屋教育の基とな
て中山町に寺子屋を創設 し、
る。
芭蕉を幕う。
スタート0脇 本陣旧王丼家口
0階 上城主の墨
‐ご
〓
一 ヽ
ヽ
\
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(葦ゃメ1)
″
安別 当 真光寺 松本 梨 雪
>
富 島 神 社 下村 為 山
′′′
♪
偉大なる俳人による多くの句碑が歴史とともに
中山町には、
浪漫あふれる
雄大な自然の中で静かにたたずまいを見せています。
句碑めぐりは来肪者の心を知的に演出してくれることでしよう。