茨城県 古河市 栃木県 野木町

日光道中の道標の先右
に、「スーパートミヤ」
がる。その先が直角に曲
が り く ね っ た曲 の 手 通
り。よこまち柳通りはス
ーパートミヤを右に入っ
ていく。赤レンガの道路
で両側が歩道になってい
る。古民家が多く残って
いて何となく懐かしい道
である。
㉗雀神社
30
り
宮前町
雀神社
西町
10
平井工業
④古河歴史博物館
古河城・古河宿・中田
宿の模型展示
4
鷹見泉石記念館
5
古河駅前に
「逢わずして行
かば惜しけむ麻
久良我の許我漕
ぐ船に君も逢は
ぬかも」古河の
地名と関係があ
ると思われる歌
が詠まれている
室町時代の11面観音座像がある
昔このあたりに旅籠、茶店、
遊郭があった
250
本町2
261
2
7
3
東日本
古河文学館 了正寺
菓子処清水屋
諏訪曲輪土井内蔵允
の屋敷があった
元亀元年(1570)ここに移ったもので、同年に亡くなった
北条氏康の謚(おくりな)を寺名とした。足利晴氏の正室
が、氏康の妹であったから。古河藩家老古杉監物、南画の枚
田水石の墓がある
坂長
江戸時代から
続く老舗通り
八幡神社は古河公方
成氏が鶴ヶ岡八幡宮
を勧請した。
八幡神社
1
小林医院
「せきやど道・四
リヨ」(五海道中
細見独案内)
本町3 御茶屋口跡
中山モータース あくつ化粧品
子ノ神社
下本陣址
大聖院
台町
内田茶店
古河藩使者取次所跡
12
ぬたや甘露煮
中央町3
大名の使者を応接す
る役所があり、役人は
客を迎えるために走り
廻るので、ここの役人
をご馳走役人、役所を
御馳走番所ともいっ
た。
福法寺
⑦福法寺
御茶屋口跡
遠藤医院
関東つくば
塚田製茶
跡
駅西口
古河1
古河城乾門
高札場の向か
い側に、本陣跡
の石柱の表示が
ある。大名の宿
泊所で格式が要
求されたので、
庶民の家では造
ることが出来な
い門、玄関、書
院を設けること
が許された。
⑧古河藩使者取次所
御馳走番所跡
9 8
⑩下本陣跡碑
朝日タクシー
11
問屋場跡
寛永10年(1625)古河藩主土井利勝開
基。
土井家は譜代大名として幕府の要職に
ついていた家柄で、初代利勝は徳川3代
に仕えた幕閣の有力者、家康の庶子とす
る説が有力である。 寺には赤門、黒門
があるが、赤は10万石以上の格式の武家
に許された色で、黒門は江戸本郷にあっ
た土井家下屋敷の表門を移築したもの。
土井家墓所に向かう途中にお楽の供養
塔がある。お楽は古河藩領、高島村の出
身、13歳の時、春日局の推挙で家光の側
室となり 4代将 軍、家綱の生母となっ
た。 寺宝の弁財天は、頭に冠のように
蛇がとぐろをまいているので、蛇冠弁財
天といわれている。「春もややけしきと
ゝのふ月と梅」松尾芭蕉の句碑がある。
コモディイイダ
浄円寺
高札場
本町2
㉕正定寺の黒門
⑪大聖院
西光寺
312
赤嶺医院
福法寺
永仁元年銘の板碑
万葉集の歌碑
常陽
文禄4年(1595)古河藩初代藩主、小
笠原秀政が、非業の死を遂げた妻の父、
岡崎三郎信康(家康の長男)の菩提を弔
うために開基した。信康が武田勝頼と組
んで不穏の企てがある旨の報告を受けた
信長は、大変立腹して天正7年(1579)
家康に命じて、生母、筑前殿とともに自
害させたといわれている。時に信康21歳
であったという
⑫万葉の歌碑
294
9
河鍋暁斎生誕の地
13
出城跡
歴史博物館
6
長谷観音
「本尊大日及び十一面観音
を安置す。十一観音は山と国
長谷寺の模したるよし」(日
光道中略記)鎌倉・大和の長
谷とともに日本3大長谷とい
う
ヒルマ商会
前沢商店
⑤長谷観音
スター
アオキ
20
社伝によれば、天正年間(1573∼91)
の創建で古河城主の小笠原秀政の信仰が
厚く、祈願所とした。社前にタラヨウの
木があるが、葉の裏に文字を書くと文字
か浮き上がることから「はがき」のいわ
れになったという。
法輪寺
本町1
田村屋
宗願寺
百間堀跡 古河局
御成門跡
跡で古河城主が歩迎え、出城跡を古河文学館の
方へ曲がり御成道を通って御成門からお城に入
った。家老屋敷跡の手前が御成門跡で、右に獅
子崎の土塁がある。 御成門から北へ延びる道
が城内で最も広い道であった。宿城した将軍は
この道を通って次の宿宇都宮をめざした。社参
の後、帰路古河城には追手門から入った。
桜門跡
家老屋敷長屋門
⑥ 家老長屋門 日光社参の将軍は、御茶屋口
武蔵屋
㉔寿福稲荷
万葉集の歌碑
尊勝院
古河一小
獅子崎の土塁
正応元年(1288)城内の地に開山。馬頭
観世音塔。「西の方松原の間より土井殿の
城の櫓、遙に聳(そびえ)て見ゆ」(日光
家老屋敷長屋門 駅程見聞雑記)
神宮寺
ジョイパティオ
鷹見泉石生誕の地碑
⑬妙光寺
長島外科
古河3
旧古河市役所
かった旧石町 中央町1
茨城
本陣跡
浅井
⑭船戸門跡
「宿内館林道筋宇渡良瀬川あり。幅大概六
拾六間程、船渡也」とあるように館林の渡
しであった。昔は枕香の渡しともいった。
(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)
横山町1
21
若松旅館 H
スーパー
山水
トミヤ
三省堂耳鼻咽喉科
妙光寺
親鸞上人木造
藩がかかわる建築、土木・清掃(城、
屋敷・社寺、橋、道路などの工事、修繕
を扱った。
オールテイク
横山町1 ハンザ
篆刻美術館
江戸時代
最も広い
道だった
井筒屋陶器店
あきやま化粧品
古橋商店
とんかつ美乃家
古河街角美術館
14
⑮作事役所跡
追手門跡
永井路子旧宅
船渡門跡
田中病院
木村耳鼻咽喉科
やまご鮨
てん刻美術館前
鎮火
稲荷神社
http://nikko-kaido.jp/
[email protected]
正定寺の黒門
㉓隆岩寺
寿福稲荷
25 寿福稲荷
日光道中道標 19
脇本陣跡
24
穀物問屋の多
うなぎ川松
観音寺郭跡
正定寺
堀跡
もと城内にあり古河城の鎮守とされ
た。渡良瀬川河川改修のため、大正2年
(1913)に現在地に移された。社殿の建
つ高台は旧古河城の大手門のあった観音
寺曲輪の土塁の一部である。
23
隆岩寺
博物館入口
⑰頼政神社
大手町
16
河口信任屋敷跡
城の追手(正面)にあた
り、的の正面に攻めかかる
軍勢(追手)を配置するこ
とから、城の正門(表門)
のことを大手門とか追手門
と呼んだ。昼閒は通行自由
だったが、午後6時以降は
姓名と人数を門番に告げ許
可を得て通った。東西方向
の大通りを境に、北側は武
家屋敷となっていて、南側
は城の堀と五間ほどの高さ
の土塁があった。
作事役所跡 15
藩校盈科堂跡
堀家の椎の木
伊勢や
HONDA
17
頼政神社
22
黒門
頼政神社
追手門跡
すみれ薬局
野村商店
古河4
小澤屋
池澤
ふるはし園
はつせ
西町ハイツ
さくらい
オカザキ
地方役所跡
18
⑯追手門
茨城県
古河市
赤レンガ
と雪華
歩く地図でたどる日光街道
松並1
クリーニング杉山写真
菅谷肥料
針谷たばこ
リラ美容室 29
すずらん
鷹見象石の墓
栄光交通 美芳野菓子店
横山町3
ワシズ輪業
つかだ呉服店
割烹わしず
横山町2
松本輪業
みむら
五家宝
徳星寺
大和屋薬局
武家屋敷
の面影が
残る道
古河宿 ∼ 松 並
( 歩行距離 1978m 25分 )
古河5
長浜商店
ナガハマ
斉藤皮膚科 晩食屋ひとみ
田中正造遺徳の碑
永井寺
古河藩主、永井直勝は寛永2年
(1625)63歳で江戸に没した。永井寺は
直勝が生前古河に開基しておいた永井家
の菩提寺である。市内最大といわれる江
戸時代初期の宝筐印塔が日光の東照宮方
面を向いて建てられている。
下宮八幡神社
茨城県古河市 栃木県野木町
佐藤電気
本成寺 ヤオキ
28
古河リバーサイド
倶楽部
城下町は道が直角に曲がるようにつ
くられる。それに相当するのが「曲の
手通り」日光街道と筑波道の分かれる
ところ。石造りで常夜灯形式、正面に
「左日光道」、右側面に「東筑波
山」、左側面に「右江戸道」と刻まれ
ている。文字は幕末の書家小山霞外、
梧岡、遜堂という父、子、孫三人の揮
毫によるものである。
30
正麟寺
元は鴻巣
にあった
のを古河
城鬼門除
けとして
ここに移
した。
35 古河宿∼野木宿
石川石材
日高米殻
松原出口と
枡形跡
中井商店
水戸藩勤王志士殉難乃地
⑱永井寺
延宝年間(1673
∼1680)古河城主
・土井利益の生母
(法清院)の墓が
ある。
万葉の歌碑
日光道中道標
栃木県
野木町
㉚本成寺
27
26
⑲日光道中道標
永井寺
野渡御蔵跡
て)通り
城下町は道が直角に
曲がるようにつくられ
た。二丁目曲の手は日
光街道と、筑波道の分
かれるところ、日光街
道は曲の手通りから横
町を通って城下を出ま
したが、現在の道路が
開通したのは昭和13年
(1938)です。
㉒杉並通
佐藤建具店
㉙松原出口と枡形跡
古河には大名
アライブ古河城下北の玄関、横町木
緒方歯科
開基の寺が四ヶ
戸。土塁柵に囲まれた番所が
歯 万寿美食堂正面に置かれ、右に曲がり東
寺(永井寺、正
定寺、隆岩寺、 和田生花 福富建築 側にある木戸から町を出るよ
正鱗寺)ある
うに作られていました。な
が、ここは隆岩
お、その木戸口からはそれま
寺と同じく小笠
では旅人にとり常に右手前に
原 氏 の 開 基 で 松原町会館
見えていた筑波山が初めて左
(天正5年)寺
手前に美しく眺めたのでここ
パトス
名は、秀政の祖
を「左筑波」と呼び、名所と
父長時の法号に
されたそうです。この先は野 正面カーブを曲がると北の出口
ちなむ。
木宿まで再び松並木のある街
道になっていました。
隆岩寺
松原町
川島鉄工所
アカザワ
酒巻金物
正鱗寺
⑳曲の手(かぎの
慶長10年(1605)松平康長の造営。俗
に「お雀さま」といわれ古河の総鎮守。
創立年は不詳だが、崇神天皇の御代に豊
城入彦命が東国鎮護のために勧請し、鎮
めの社といい、後に訛って雀宮となった ㉖万葉の歌碑
という。
「麻久良我(まくらが)
雀神社の夏祭りに奉納されている獅子 の許我(こが)の渡りのか
舞は、「ささら」と呼ばれている。
ら楫(かぢ)の音高しもな
寝なへ児ゆゑに」
古河の地名がはじめて文字
の上にあらわれたとされて 曲の手通り
いる。
赤レンガ
と雪華をイ
杉並通り メージして
造られた道
で、武家屋
敷の面影を
残す町並み
と調和して
なかなかの
景観をかも
しだしてい
る。
㉘正鱗寺
㉒よこまち柳通り
よこまち柳通り
万葉の歌碑
雀神社
①御茶屋口跡
「(将軍が)御泊、古
河城へ来せらるゝ時、此
口より御成門へ入らせら
る。其間右に大工町、東
西鷹匠町などいふ小路あ
り。又古河城より日光の
方へ成らせらるゝには、
大手門より江戸町通、石
町、元肴町より街道弐丁
目へ出させらる」(日光
道中略記)将軍が日光社
参の時ここにあった門を
通り御成道を経て古河城
に入った。
山門は旧古河城内の二の丸御殿の入口
にあったとされる乾門で、市内に現存す
る 唯一の城 内遺構の 門である。明治7
年、城取り壊しの時檀家の一人が払い下
げを受け、翌年寺に寄進し、移築したと
いう。大日如来種子板碑がある。
⑨坂長
店蔵は、古河城の文庫蔵を明治期に移
築したもので、登録文化財。今はお休み
処「坂長」となっている。
出城跡
鷹見泉石記念館
③鷹見泉石記念館
蘭学者鷹見泉石(たかみせんせき)の
晩年の住まいです。鷹見泉石は、家老と
して、藩主土井利位(としつら)に仕え
た古河藩士。
②出城跡
ここには土塁や堀などが残り往時が偲ば
れる。将軍が日光社参の折、古河城に宿
泊するため、日光街道茶屋口から城に向
かう道筋で、突き当たりを左に行けば鷹
見泉石記念館へ、また手前を左に行くと
古河第一小学校の校庭にあった御成道を
通り御成門から城に入った。