29 幸手宿∼栗橋宿 興和工業 ウチコン 埼玉県幸手市 埼玉県久喜市 権現堂 ∼ 小右衛門 ( 歩行距離 1795m 20分 ) これからさらに狭くなる 茨城県 五霞町 伸明アルミ アクシス 行幸堤 歩く地図でたどる日光街道 http://nikko-kaido.jp/ [email protected] 埼玉県 久喜市 栗橋町 小右衛門の狭いトンネル 栗橋解体 イワイ住建 特養ホームきららの杜 神明社 三友建築設計事務所 法宣寺 Panasonicの看板 栗橋城址 車1台通れる トンネルをく ぐる 雷電社 湯殿社 狛犬 金子急便 共栄電気 生活改善センター 松本家 飯塚建設 須釜建築 とむ整体院 川村建業 五加工業 カワムラ 日の丸工業 橋本建設 埼玉県 幸手市 そんなに古くないが 趣のある吉羽酒店 三隆工業 スガマ設備 日光街道 小右衛門(南) coffee time 狛犬 狛犬(こまいぬ)とは、獅子や犬に似た 日本の獣で、想像上の生物とされる。像と 「 小 右 衛 門 新 田 」 して神社や寺院の入口の両脇、あるいは本 (五海道中細見独案 殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う 内)「此村より栗橋 形、または守るべき寺社に背を向け、参拝 までの往還は、利根 者と正対する形で置かれる事が多く、また 川除の隄上(ていじ その際には無角の獅子と有角の狛犬とが一 ょう)にして、右の かたに利根川(権現 レントリー幸手 坂を上がり 対とされる。 4号線に出 飛鳥時代に日本に伝わった当初は左右の 堂川の誤り)流れ、 てすぐ細い 姿に差異はなかったが、平安時代になって 左のかたは水田うち 道を下りて それぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像 つゝき路をさしはさ いく。 が対で置かれるようになり、狭義には後者 みて竹篠生じけり」 のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を (日光道中略記)と いう風景であった。 併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。 4号線の土手下の 一般的に、獅子・狛犬は向かって右側の 道を歩く。車1台 獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開い 通れる狭い道。 ており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょ う)」で口を閉じ、古くは角を持ってい 雷電社 た。鎌倉時代後期以降になると様式が簡略 湯殿社合殿 化されたものが出現しはじめ、昭和時代以 降に作られた物は左右ともに角が無い物が 外国府間集落農業センター 多く、口の開き方以外に外見上の差異がな くなっている。これらは本来「獅子」と呼 ぶべきものであるが、今日では両方の像を 外国府間 合わせて「狛犬」と称することが多い。 田川家具 元栗橋 栗橋城案内板 菅井美容 カスミ工芸 船渡橋 カワムラの看板 マツモト 幸手霊園法 宣寺の看板 坂口屋根工事 中山和裁 イワキ工業所 赤帽 クリナップの看板 山王木材 雷電社 湯殿社合殿 「湯殿権現 雷電合社」(日光道中略 記)石の鳥居の額に「雷電 湯殿権現」 と刻まれ、境内には庚申塔、如意輪観音 日光街道の道しるべ などの石仏があり、右の地蔵堂の鰐口は 銅製で、元禄年間(1688∼1704)製造 野村自動車 田川木工 つくば道 消火栓。オリエン テーリングのポス トがある。 松本設計 栗橋城趾址まで 1314m 17分 外国府間 日光街道の道しるべ 日光道中の道しるべ 安永4年(1775年)に日光道中と筑波 道の分岐点に建てられたもので、正面に は「右つくば道」左側面には「左日光 道」右側面には「東川つま道 まいばや し道」と刻まれている。 川妻は茨城県五霞村字川妻、前林は茨 城県総和村前林のこと。この辺から「外 青木石材店 国府間村」(日光道中略記)に入ってい く。昭和58年3月24日に市指定史跡とな っています。 東京から 青木石材店 共進旅行サービス 51 船戸橋を渡り、左にマツモト酒 km 店がある信号を過ぎ、カワムラ ・幸手霊園法宣寺・三峰工業入 口の矢印がある交差点を左に曲 あったかい手 がり、まっすぐ行くとつきあた りに鳥居が見えてくる。左にス ガマ設備・TOTO・Panasonic右 に三隆工業の看板がある。 Panasonicの看板の手前に路地 があ。左に「栗橋城」の案内板 前沢工業 がある。路地は松本家の敷地 で、許可をもらえば、およそ 狭く歩道 500年前の七曲の空堀や土塁な がない どを見ることができる。 栗橋城趾 室町時代あるいは戦国時代に古河公方家 重臣・野田氏の居城となった。野田氏は 鎌倉公方の奉公衆・古河城の城主となっ ていたが、古河公方時代には栗橋城に移 り、引き続きその重臣となっていた。し かし、本城はのちに北条氏照による北関 東攻略の拠点となっており、野田氏は北 条氏の傘下に組み入れられたとも考えら れている。 栗橋城址の案内板
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