西 行 庵 - 本門佛立宗

さい
西
ぎょう
行
あん
庵
第
回
兵庫県尼崎の本興寺檀林︵学校︶で入学を拒
否された開導聖人は、お師匠さまの配慮により
千葉県行きの準備のため、京都の生家に戻られ
千葉県の細草檀林に入学することになったんだ。
ていた開導聖人のもとに、二人の友人が訪ねて
来たんだ。今回は西行庵での修行のお話しをす
るね。
京 都 の 生 家 に 戻ら れ た 開 導 聖 人 の も と に
昔 か ら と て も 仲の 良か っ た 友達 の 村上 勘 兵
衛 と 村 田 麦 浪 が や っ て き た ん だ。 そ し て、
二人は、開導聖人が千葉県の細草檀林︵学
校︶に行く︵入学する︶ことを強 く 反対し
開 導 聖 人 は、 二 人 の 言 葉 を 真 剣 に 聞 き、
よく考えられ、千葉県の細草檀林に行くこ
所﹂として借りてくれたんだ。
を、開導聖人の﹁住 まい﹂と﹁ご奉 公 の 場
の 双林 寺 境 内 に あ っ た ﹁ 西 行 庵 ﹂ と い う 所
西行庵での修行
村 上 と 村 田 の 二 人 は 、 早 速、 京 都 ・ 東 山
嘉 永 元 年︵ 一 八 四 八 ︶ 七 月 末、 開 導 聖 人
は こ の 西 行 庵 に 住 ま わ れ 、 ご 信心 の 勉 強 と
れるとウワサされていたんだ。
超えた不 思 議なもの・不 気味 な も の ︶ が 現
ヌキが住みつき、夜には妖怪︵人の理解を
誰 も 住 ん で お ら ず 荒 れ 放題 で 、 キ ツ ネ や タ
い た 時 に 住 ん で い た 小 屋 な ん だ。 長 い 間、
八∼一一九〇︶が、京都・東山で暮 ら し て
この﹁西行庵﹂とは、昔、自 然 を 愛 し 全
を 旅 し て 回 っ た 歌 人 の 西 行 法 師︵ 一 一 一
国
とをやめたんだ。そして、僧侶としての勉
開導聖人が西行庵に入 り 、 毎 日 御 題 目 を
唱えされると、不思議なことに、妖怪な
お
どが全 く現れなくなったんだ。そして西行
庵には、次々と多くの人たちが集ま る よ う
もととなる力︶となったんだよ。
の﹁ 佛 立 講 ﹂ を 作 ら れ る 原 動 力︵ 活 動 の
苦労をされたんだ。でもこれらの苦労が後
れ、五 度 も 居場 所 を 追 い 出 さ れ る と い う ご
と ︶ を し て い る ﹂ と 勝手 な 言 い 分で 嫌が ら
住まず町の中に住み布教︵宗教を広めるこ
﹁僧侶が寺に
人 か ら﹁ 人 の 出 入 り が 多 い ﹂
以後、開導聖人の行く所は、必ず御題目
のご信者が増えていったんだけど、周りの
い出されることになってしまったんだ。
や不満︶があがり、開導聖人は西行庵を追
ある︶とその近所から、多くの苦情︵不平
で、双林寺︵西行庵はこのお寺の境内地に
、西行庵に来て二
嘉 永 三 年︵ 一 八 五 〇 ︶
年 が 過 ぎ た 頃、 あ ま り に 参 詣 者 が 増 え た の
ったんだね。
日 々、 沢 山 の 参 詣 者 が や っ て 来 る よ う に な
で ご 利 益 を い た だ い た 人 な ど が お 礼 に と、
る人、喜 ん で ご 信 心 を は じ め る 人 、 御 題 目
に な っ た ん だ 。 開 導 聖 人 の お 話を 聞 き に 来
開導聖人に千葉の細草檀林行きをやめるように説得する村上・
村田の二人。
強よりも、多 く の 人 々 に 御題 目 を 伝え 弘め
の人をお救いした方がよい﹂というんだ。
こ の ま ま 京 都 に 残 り、悩み 苦し む 人 や 病 気
その理由として﹁千葉県で僧侶として勉
に 励 み、 将 来、 偉 い 僧 侶 に な る よ り も、
強
たんだね。
7
毎 日﹁ 御 題 目 を 一 万 遍 ﹂ お 唱 え す る と い う
大へん厳しい修行に励まれたんだ。
京都・東山、円山公園の奥にある現在の西行
庵。開導聖人はここで2年間、修行の日々を
送られた。
開導聖人が西行庵に入り3日目、不思議なこ
とに妖怪などが全く現れなくなった。 「清風
一代記略図」
・御自画伝・扇全5巻195頁
お助けするという道を選ばれたんだ。
西行法師(1118年∼ 1190年) 平安時代末
期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人