D-3 物部一族と石上麻呂 物部氏の系図 *物部氏は天孫系なの? 物部氏が完全に消滅した平安期の「新撰姓氏録」では天神系扱いだが天孫系に入れてい ないが、記紀では天孫族とし神武に先立ち大和地方支配した饒速日命(にぎはやひのみこ と)を祖として「先代旧事本紀」では瓊瓊杵尊の兄としており、天孫降臨の伝承を持つ大 王家以外では唯一の氏族である。 物部氏は「モノノフ」(兵士)としての戦闘集団氏族で、神武東征以前から生駒山麓に勢力 を張っていた豪族・長髄比古を従えており、八十伴雄(やそとものお)氏族群として大和 王権の警察・軍事・祭祀的伴造(とものみやつこ)である物部連(むらじ)家の総称であ る。 -8- 8世紀初め右大臣、左大臣を歴任した石上朝臣麻呂が上記系図を造作したとされ、記・ 紀編纂時の大王家系譜ストーリーの中で活躍した人物、垂仁朝の物部十市根(といちね) ・ ふ つ く る あ ら か ひ お こ し 雄略朝の物部布都久留(ふつくる) ・継体朝の物部麁鹿火(あらかひ) ・欽明朝の物部尾興 もののべのもく (おこし)等をつなぎ合わせるため三人の同名人物・物部目(もののべのもく)を配する ことにより物部一族の系図を系統だったものとし、特に石上朝臣家は蘇我氏との関係を希 薄にし、滅亡した守屋系とは一線を画している。 *なぜ大王家の臣下になったの? 伝承では饒速日命が長髄比古を謀殺して神武政権確立に協力したとあるが詳細は不詳 である。大王家にとって無視できない天孫系のため大連の地位を得た可能性はある。 物部氏が武器庫としての石上神宮(いそのかみじんぐう)を管理して軍を押えたとされ るのは垂仁朝で、武器を石上神宮に集合し管理した時に十市根が物部の姓を賜り大連にな り、以後物部一族は歴代王朝の大連として中枢の座を占めた。 い そ の か み に ま す み た ま じ ん じ ゃ 古くは石上坐布留御魂神社(いそのかみにますふるみたまじんじゃ)がその役割を有し ふ る の す く ね ており、布留宿禰(ふるのすくね)一族が祭祀を司っていたが基本は鍛冶機能を有し、金 もののべのやまとふる 属製品の製造技術を一手に握り物部倭古 (もののべのやまとふる)が石上地区に勢力を 張っていたがこれを取り込んだのが物部氏で石上神宮の祭祀権を手中に収めたのでしょ う。 *物部氏の全盛期は何時なの? 大伴金村に迎えられたとされる継体大王は大和に入るにあたり物部一族の麁鹿火を先 陣として旧勢力を抑え込み安定政権を確立したが、九州で磐井の乱が勃発した時も麁鹿火 を大将軍として派遣され筑紫や半島の武力制圧に活躍している。 継体後の王位継承問題で物部一族は対立した大王家の両陣営に属しており、河内・弓削 の尾輿と大和・石上の倭古が手を組んで欽明を支援しており、欽明政権が確立した元年に 大伴金村を失脚に追い込んだのも物部一族の力と云えよう。 6世紀は物部一族の最盛期で欽明~用命期には物部尾輿・守屋父子と蘇我稲目・馬子父 子の二大勢力が実権を有し覇を争った。特に仏教導入に際し天神系の豪族・物部氏は古代 神道を推し、新興勢力の蘇我氏が仏教導入を推進したのは先刻承知の事実である。 しかし氏姓制度における両氏族の役割分担には差異があり、拮抗した勢力維持のためか 尾輿の娘(守屋の妹)が蘇我馬子と政略結婚をしているが、結局587年蘇我馬子は守屋大 連を滅ぼし、物部氏の牙城である石上神宮を押さえているが、やはり伝統には抗しきれな もののべのおおおみ としかた い為か蘇我入鹿の弟を物部大臣敏傍(としかた)として管理させたと伝えられている。 後に尾輿の末裔である石上朝臣麻呂は系図上バッファーを置いて蘇我氏との関係を希 薄化し、蘇我氏による石上神宮の支配を否定しようとした意図が窺がえる。 *守屋の没後はどうなったの? 守屋の没後物部氏は歴史の中心舞台から姿を消し蘇我氏の天下となるが、推古朝で -9- いそのかみのにえこ えのいのむらじ 石上贄古(にえこ)の娘鎌姫が蘇我蝦夷の妻となり入鹿を生んだとされ、物部朴井連(え のいのむらじ)雄君が天武の舎人(とねり)として壬申の乱で活躍しており、一方物部連 あ そ ん 麻呂が大友皇子の舎人として最後まで付き従った後に天武朝に仕え朝臣(あそん)を賜姓 されている。 いそのかみにますふるみたまじんじゃ 天武三年石上坐布留御魂神社に収納されていた各氏族の武器・神宝を各々に還付し、是 まで物部氏の氏神的存在であったものを国家の神社として伊勢神宮と並び石上神宮とし 国家鎮護の軍神と位置付け、石上朝臣を設置した。通説では物部朝臣麻呂が石上朝臣麻呂 としているが日本書紀に明記なく、別人との説もある。 やかつぐ この時期に石上朝臣家が物部氏の本宗家となったが、麻呂の孫である石上朝臣宅嗣(や かつぐ)の代にその重責に耐えかね石上朝臣姓を返上し、石上神宮は元の石上坐布留御魂 神社に戻している。 石上神宮の名は日本書紀には早くから見られるが、万葉集には石上坐布留御魂神社とし てのみ詠まれており、石上神宮の名は見られずその存在は疑問とされている。 ゆげのどうきょう 奈良孝謙朝で出現する怪僧弓削道鏡は系図では物部守屋大連の末裔とされている。守屋 は弓削大連とも呼ばれていたことから、物部本宗家は蘇我馬子に討伐された後は弓削姓を 使用していたものと考えられ、石上麻呂は守屋の兄弟とされる大市御狩の系列で石上地区 に勢力を張っていた物部一族であろう。 *なぜ物部氏は消滅したの? 我国の氏族で最も謎の多いのが物部氏で、その要因と考えられるのは祖が大王家と同一 の天神・天孫系だったためでしょう。 本来同等の家系のため大王家にとっては扱いが厄介な存在であったはずで、大王家にと って不利な伝承は全て抹消した可能性が高い。従って伝記にも繋がりが無く辻褄が合わぬ ため8世紀になり石上麻呂が物部氏の立場で系図を造作したのでしょう。 平安期に編纂された「新撰姓氏録」と「先代旧事本紀」はほぼ同時期に作製されたと考 えられているが、「先代旧事本紀」は物部氏系の作者により編纂されたと見做されており 「新撰姓氏録」との差異が問題視されているが、平安期後半から江戸期前半の間は古事記、 日本書紀と併せて「三部の本書」と称され、記紀より重要視された経緯がある。 「先代旧事本紀」は序文に推古大王の命で聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとあり、古事 記と同じく天地開闢から推古までの歴史書であるが江戸期後半に偽書説が出されており、 現在でも偽書の可能性大としているが物部氏の記述には他文献に見られない内容もあり 部分的な伝承は文献資料としての価値は認められている。 従って古代から問題のある氏族で大王家にとっては歴史から抹消したい存在だったの でしょう。 <註> 新撰姓氏録:815年嵯峨天皇により編纂された古代氏族名鑑 1182氏族記録 天神:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際付き従った神たち - 10 - 天孫:瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫 - 11 -
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