評にまかす。理屈で割り切 れるような心事ならば、は じめから蹶起もせず

評にまかす。理屈で割り切 のだ。
ところで、お前自身はど 話し合いが成立して全員無 同胞一心
れるような心事ならば、は 理屈以上の道理、成敗以 うなのだ。本当にわかって 事 下 山 で き た か も 知 れ ぬ そのうち大東塾や明朗会
じめから蹶起もせず、いわ 上の大義の厳存することを いると言えるのか。彼らを し、あるいは私たちも生き の自決も知って、死に遅れ
んや自決などしなかったの 確信した諸士は、必敗の戦 讃える資格があるのか。天 ていられたかどうかわから た孤独の思いは強まるばか
である。自重論や穏健説や に蹶起し、生きる道がある 地にただ一人残された寂寥 ない」というように記され りであったが、やがて影山
効果論は常に割り切れる論 のに死を選んだのである。 が ひ し ひ し と 私 を 包 ん で、 ているのを見て、感慨まこ 正治氏が北支戦線に出征し
理である。彼等が自重論や 生命の荘厳の極致を私心 やり切れぬ毎日が続いた。 とに切ないものがあった。 ていたため大東塾十四士の
形 勢 観 望 論 に 耳 を 傾 け ず、 なき殉皇の死に見るという ずっと後日。出獄して数 今更仮定の論は無意味だ 自決に加わっていない、長
承詔必謹論にも形の上では ことは、降伏して喜んでい 年経った頃、当時愛宕山で が、もし私が獄中になく一 谷川幸男君もそうだという
背 を 向 け て、 一 途 に「 戦 」 るような人間どもにできる 包囲の警官隊の指揮官だっ 緒 に 行 動 し て い た と す れ ことを聞いて、私一人では
とした。同じような運命を
と「死」を選んだのは、「か こ と で は な い。 い わ ん や、 た特高二課長の石岡實氏の ば、やはり屍が一つ増える なかったと、何となくほっ
くすればかくなるものと知 夫君を追って同じ殉皇の血 回顧談を「文藝春秋」誌で だけのことであろう。
る」論理を超えて、内心の を献げた若妻たちの悲しい 読んで、その終わりに「あ 私 が い て も い な く て も、 与えられた者同士は、神兵
奥深いところから突き上げ ま心を讃えることは、限ら の時中村が一緒に立篭もっ 尊攘義軍の辿る運命は一つ 隊分裂以来の対立を水に流
ていたであろう。あるいは る。
のだと思った。
(後略)
頃だったと思います。この
に 出 席 し て 頂 い た こ と で、
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て来る「やむにやまれぬ日 れた志ある人々にしか期待 ていたら大分様子が変わっ しかなかったと思うのであ して、友情を復活したいも
本魂」の至上命令に従った できない。
中村武彦先生
年
月の「全国学協」結成
との出会いの中で…
祭に参加したのは、昭和
最初に「尊攘義軍」慰霊 一周年大会に中村武彦先生
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年の夏休み、大学三年生の それから先生のご指導を得
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るようになりました。
生のご自宅、歩いても行け け境内に櫓を組んで盆踊り 弘 勝、 駒 場 克 己 な ど が 手 作り、日常的な尊攘精神の
ともありました。靖国神社 ンバーで存命は、野里裕克、 事件関係者で印象深かっ
楠公祭、神兵隊事件決起 る距離で月次祭などに参加 を慰霊祭当日に行なったこ 伝ってくれた。その頃のメ 普及を誓い合いました。
記念日、そして愛宕山に当 させて頂きました。
年 の 卒 業 と 同 時 に 上 たことは物の本で知ってい 雪洞の木枠に絵や揮毫を書 年祭の前後に、今後慰 が毎年参列されたこと。
時 の 委 員 長 吉 田 良 二 氏 と 最初に参加した頃は、終 のみたま祭りと同じように 古賀祐輔、三澤浩一ぐらい たのは、石岡実先生、園田
・
共に参加しました。
戦当時に多くの自決者が出 献 灯 も 行 な っ て い ま し た。 になってしまいました。
天光光先生、金杉秀信先生
真剣に論議しました。年月 資料にも出てくる当時の特
所を置きました。井の頭線 いするような緊張感、ある 和 紙 を 各 団 体 へ 届 け に 行 事件関係者も少なくなって 安部長を務め、佐藤栄作内
が住んでいた下北沢に事務 でした。厳粛な儀式に身震 お盆休みの時期を挟んで の経過と共に次第に遺族や 高課長、戦後は警視庁の公
を結成、阿部勉氏の奥さん 「 慰 霊 祭 」 も 初 め て の こ と を点じます。
京、鈴木邦男氏らと一水会 たが、詳しい事情は分らず、 いた和紙を張って電球で火 霊 祭 を ど う 営 ん で い く か、 石 岡 先 生 は「 玉 砕 顛 末 」
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を中心に松本効三さん、摺
年に独立して中村 建寿隆さん、大塚和平さん、
実践躬行という
慰霊顕彰のかたち
先生の「八千矛社」を継承 山口申さんといった先輩や 中村先生がお亡くなりに
は、一年だ 伊藤勇悦、佐藤文映、青木 わり「尊攘義軍顕彰会」を 日)一ヶ月前に六十年祭を
愛宕山で し、いずれも故人になった 阿部勉、私など若い者も加 なる(平成十七年九月三十
ました。
ようになり 昭和
伝いをする した。
先生のお手 として夏休みという感じで の根本原理です。中村先生 きます。
で、自然に 行事が終わって始めてほっ て新しい右翼維新陣営共通 い方々の顔が目に浮かんで
場だったの 隙のいる作業で、愛宕山の 「 尊 攘 維 新 」 の 精 神 は 古 く 藤豊久さんもいた。懐かし
付け易い立 で書いてもらう。結構手間 然し、烈士女達が願った 祭場まで来ておられた。衛
間の都合を 納者には絵の巧い方に頼ん を 抱 い た こ と も あ り ま す。 晩年は関係者の肩を借りて
り、割と時 に届ける。地方の個人の奉 厳粛さが薄れていく危機感 先生も必ず参列された。最
宅を訪ねた にそれを頂きに伺い、神社 て煙草を吸い、私語をする。 一先生、その縁で西山廣喜
取りにご自 訪ねて、出来上がった時期 出席で、祭典中に列を離れ だったのが世話人の大庭勝
先生の原稿 た錚々たる方々の事務所を 中には明らかに「義理」の 三浦義一先生の秘書的立場
な 立 場 で、 卓門下生グループ)といっ に 雰 囲 気 も 変 わ っ て く る。 弔魂碑建立に尽力された
従職のよう 一 路 さ ん(「 大 正 会 」 三 上 者の参加が多くなり、次第 歴を有しておられます。
新聞の半専 ん(日本及び日本人)清水 どをしていたので運動関係 バーで、何れも赫々たる経
私は国民 (日本青年社)、西山廣喜さ 先生が多くの団体の顧問な は 尊 攘 同 志 会 当 時 の メ ン
えました。 想 研 究 会 )、 小 林 楠 扶 さ ん で参加が難しくなる。中村 れた方。園田、金杉両先生
で二つ先の東松原が中村先 種の怖さのようなものを覚 く。高橋正義さん(青年思 いく、存命でもお体の具合 閣では長く官房副長官をさ
尊攘義軍慰霊祭参列者に対し挨拶する犬塚先生
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行い、これを以て大掛かり 草刈を行い当日に備え、神 州日赤看護婦の集団服毒事 霊を安んじることだと固く 今から百五十年前に、この
な祭典を最後にすることを 式の慰霊祭を継続していま 件「青葉地蔵尊」慰霊法要 信じている。死者と思いを 山頂に水戸浪士たちが集結
年祭や
回 忌 を 以 頂いている。本当に有り難 係者の高齢化で長続きしな いれば為されたこと、為さ 井伊の首を挙げた 年後に
申し合わせました。一般的 す。数十名の方に参列して も一時は盛んだったが、関 共有する。烈士女が生きて し桜田門に出撃した。大老
には
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族や関係者が殆どいなくな を斎行します。
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践躬行する。その誓いを新 を発動した聖なる空間なん
中村武彦先生の
義軍十二烈士女之碑」を時
日に愛宕山に立つ か、平成の御世の時代転換
間と共に風化させていくの
月
門人として
愛宕山を訪れ、自分の愛刀 慰霊祭を始めることは割と も本旨ではないかと思う。 愛宕山の頂にある「尊攘
我々は顕彰会を作り、慰 を碑の近くに埋め、幽明境 簡単ですが、気負いが大き
霊祭を継承していくことを を異にしても尊攘義軍の精 過 ぎ る と 無 理 が 祟 っ て く
誓ったが、従来のような大 神を護りぬくことを同志た る。身の丈にあった、質素 22
しょう。
るという事情によるもので 中村先生は出獄後始めて 誰 か が 気 付 き 思 い 立 ち、 たにすることが慰霊祭の最 です。
だけと聞きました。
後とする考え方がある。遺 形式で夕刻 時には慰霊祭 が命日当日にお参りされた を、生ある我々が代って実 ここ愛宕山は歴史的転換
て、慰霊祭、追善供養を最 く尊いことです。今年も同 かった。今年は有志関係者 ん と し て 為 さ ざ り し こ と 明治維新がなった。
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こで「犬塚、よくやった」と、 しょう。
す。烈士女が生命を賭して を受けるような緊張感から 方、戦い方をしていくこと
を深く誓い合いたいと思い
年が経過します。階段 心を込めて尊攘同志会の
慰 霊 継 承 は 磐 石 だ ろ う が、 ていないが、志を同じくす を下った町並みは一変した 誓 願 句 を 声 高 ら か に 唱 え、
た 神 州 の 正 気 を 恢 復 し 、
に覆われ、僅か
メートル 神州恢復
朝敵撃滅」
大宮の青葉霊園に祀られ 天皇国日本の正しい姿を恢 の山頂なのに、都心の空気 「天皇陛下万歳」
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祭典の一週間前に祭場の ているソ連に抑留された満 復顕現する。そのことが御 とは明らかに異なる。丁度 (文責・横山孝平)
形式に変えました。
る人だけが、自ずと集まる を伴うものでしょう。
出さず、祭典日を覚えてい ていくことはなかなか困難 日々実践し、烈士女が願っ の変化もない。満山蝉時雨 「尊皇絶対
生命奉還
翌年からは案内状も一切 慰霊祭を長く継承存続させ る 道 の 後 進 で あ る 我 々 が、 が、境内の情景はいささか 聖寿万歳を熱祷したい。
は長続きしない。
した。しかし、無理をして しっかりしているところは は面識もなく、血も繋がっ 満
円以上の出費を要していま 人、財団法人の組織形態が 神州恢復の願いを、生前に 私が愛宕山に登り始めて ます。
かしいことだが、百五十万 大 東 塾 の よ う な 宗 教 法 訴え願ったこと、尊皇絶対、 なかなか解放されない。
銭的なことを言うのは恥ず よう。
納者の手配、直会など、金 平山芳仁君は果報者といえ の 世 で の 幸 せ と い う 意 で か。まるで年に一度の試験 師 に 恥 ず か し く な い 生 き
参列者へのお土産、詩吟奉 ことが出来た横山孝平君や る、という「冥福」とはあ は」と、お叱りを受けるの め て 互 い に 切 磋 練 磨 し て、
額 に な る。 テ ン ト の 設 営、 うした先生のお姿に触れる とですが、故人の冥福を祈 も「何だその醜態俗人ぶり けた者、没後の門下生も含
から、祭典料もおのずと高 囲気が溢れていました。そ 最近私がよく指摘するこ お褒め頂けるのか。それと 中村武彦先生の教えを受
に置かせて貰っている関係 いうか、神々しいまでの雰 しょうか。
お墓にも似た弔魂碑を境内 は、孤塁を守り抜く悲壮と 徹すればいいのではないで 感じ取ることが出来る。そ か っ て い る と も い え る で
担が大き過ぎた。烈士女の の祭典に臨む先生の後ろ姿 こもった神事、祭典運営に 御霊が共にあることを魂で のか、偏に我々の双肩にか
掛かりな規模では経済的負 ちの御霊に誓われた。晩年 簡素でいいから、気持ちの と、そこに中村武彦先生の の大きなメモリアルとする
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