高麗時代の「叛逆伝」研究 VI 一一辛岡 (Sin T o n?-1371 年)の場合一一 l i 西 p--. ,, r 孝 京佐 はじめに 妖僧遍照の出生 2 師侍辛蝿の誕生 3 田民排正都監設置 4 李存吾の糾弾抗疏 5 王殺害計画失敗 結び一一辛網王の誕生一一 はじめに 先に,高麗時代の「叛逆伝」研究 V 一一立伝人物の分析一一(愛知学院大学人間文化研究所紀要『人 間文化』第 23 号)を発表した。そこでは主に『高麗史』列伝の「叛逆」伍)に見える立伝人物 10 名を分 析した。列伝第四十四「叛逆 J (却に集録されていた 10 名は第 27 代忠霜王代から第 32 代禍王代までの人 物である。この立伝人物 10 名の内,第 31 代恭感王代の人物が 8 名もふくまれていた。この時代は反元 自主政策から親明政策へと転換した時代であった。 今回は列伝第四十五に収録されている辛闘について分析検討してその特色を解明したいと思う。辛時 (?'"'-'137 1)は第 31 代国王恭懸王 (1330'"'-'74) の親任を得て政権を独裁した僧である。この時代は圏内 においては親元勢力の排除と対元関係の停止,親明政策へと転換した時代である。辛時を恭感王は重用 し弊政改革に当たらせたが あまりにも急激なやり方のため失敗した。 以下において,妖僧から神僧(聖人)ヘ,そして叛逆僧・賊僧といわれ変転した辛暗について,その 経緯と特色を考察検討することにする。先ず,妖僧遍照の出生と武臣・功臣の金元命(? '"'-'1370) の紹 介により恭感王に見えて信寵をえて師侍辛岡の誕生となった経緯について検討する。そして世禄の旧臣 追放と田民排正都監設置をしてその判事(長官)となった事情即ち,土地兼併と賎隷民の良民への解放 政策について考察する。続いて 辛時の凌倦不法について李存吾 (1341 '"'-'137 1)の糾弾抗疏について検 討し,ついで、王殺害計画の失敗にいたる経緯について考察する。結びとして辛時の子といわれる辛鵡王 の誕生について述べ 妖僧辛時の評価をまとめることにする。 叛逆僧・賊僧といわれた辛時が生きた当時の社会の葛藤と矛盾構造を分析し 何故に辛陀が「叛逆 イ曽」と云われるに至ったのか,その理由を考察検討し解明する。 ト妖僧遍照の出生 先ず,妖僧辛 H屯に関する先行研究論文をみると 1938 年には萎裕文著「辛純考 J (IT'仏教dl 13 から 17 集) がある。その内容は第一章から第五章までありそれぞれ辛時の人物,恭感王との関係,政治的活躍,仏 - 91- 愛知学院大学文学部紀要第 38 号 僧としての地位,妙清との比較等について論述している。多くの文献を使用して考証しており妖僧辛時 の全体像を最初に明らかにしたすぐれた論考である。次に, 1968 年には関賢九著「辛時の執権とその 政治的性格 J (上・下『歴史学報 JI 37 輯と 40 輯)がある。その内容は, 1 政治過程, III. 辛闘の登場と政治体制の変化(且, IV. 辛時執権下の政治実態 革の実施 3. 新進文臣勢力の成長, V 序言, II 恭感王朝初期の 1.権力の撞断 2 改 辛純の没落と政治的再編成, VI.結語(下)となっている。この 論考も多くの文献を使用して考証しており,妖僧辛目屯の生きた社会的背景を述べ更に,辛時の実施した 改革と新進文臣勢力の成長について解明したすぐれた論考である。その他に若干の論考がある 1) 。 以下において『高麗史』巻 132 ,列伝巻第 45 ,叛逆 6 辛岡伝の記述について要約してその伝記につい て検討することにする 2) 。 妖僧遍照の出生についてその伝記には凡そ,次のようにある。 伝記史料(1) 辛 H屯霊山の人。母は桂城豚玉川寺の稗なり。幼にして僧と矯り,名を遁照(辛純の幼名)と臼 よわい い,字を耀空と日う。母の賎きを以て其の類に歯(仲間にいれる)せられず,常に山房に慮る。 高麗恭慾王夢に人有り剣を抜て己を刺す, f曾有り之を救い菟かるるを得。曾ま武臣・功臣の金元命 日屯を以て見ゆ。其の貌夢みる所に宵たり。王大に之を異とし輿に語る。聴慧耕給,自ら得道(悟り を開く)せりと稽し いっわ 読りて大言を矯し旨に稽う。是より屡召されて入内し,王と輿に空(仏理・ きょうゅう 仏道の空)を談ず。同常に京都に遊びて勤進し,諸寡婦を誼誘(たぶらかしいざなう)して好淫 を怒にす。王に見えてより, 矯飾(うわベをいつわりかざる)に務め,其の形を枯稿(やせて色 主えど はのう すすめ つやがなくなる)にし,盛夏隆各と難も常に一破禍を衣る。王盆之を重んじ,凡そ服食を韻るに 潔浄に務め,足機(たび)に至るまで必ず頂戴致敬して之を韻る。 妖僧辛 H屯(? '"'-'137 1)の出生について次のような点が明らかになっているが全体像は不明な部分が多 い。辛時は霊山県(今日の慶尚南道昌寧郡内)の出生で幼時から僧であった。母は桂城県(昌寧郡内) 玉川(一本に泉とある)寺の寺埠であった。幼名を遍照と言い,字を耀空と言う。霊山県桂城県は慶尚 南道昌寧県に合併されており 玉川寺は邑誌等には掲載されていない。萎裕文氏の研究によれば「霊山 の名誉関係上故意に削除したもの」であると云う。『成宗実録』巻八十四,八年九月壬辰条に次の様に あるからである。 御タ講,崖叔精啓日,昌寧蘇有玉泉寺蓄基,乃前朝妖イ曾辛随所創市居之者也。日屯,濁首L朝政,至 妙亡園,此寺,不可修葺,近者僧徒,托言重修蓄基,大興土木,経年未畢,而宏イ多亦甚,臣意以矯 日屯難在前車月,其悪、,吾今猶不滅,宜瀦其寺,以徴好徒,況天之生財,只有此敷,量可使{曾徒,取 奪民財,妄費白奉乎。上,即命下議観察使,審察馳啓。 朝政をみだして亡国にいたらせたこの玉泉寺を,今も僧徒が旧基を重修しようとしているので, 寺をこわして瀦(溜め池)刑にすべきであると崖叔精が啓しており この 王は即命して観察使に審察するよ う馳啓している。それ故邑誌等からは削除されたのであろう。叛逆者の住した旧基をこわして溜め池に する瀦刑はしばしばみられる。次に,父親については墳基は玄風人の郭儀が霊山に往っておまいりをし ており,辛陀の生地は霊山県であると推測されている。郭儀について『高麗史節要』と『東国通鑑』は 恭感王十七年(十八年)八月条に次の様に伝えている。 是月,郭儀ヲ朔方江陵道按廉使ト矯ス。儀,玄風ニ居リ 名(命)日ニ遇フ毎ニ酒鎮(酒と食 てん 物)ヲ備ヘテ霊山ニ往キ,辛問ノ父ノ墳ヲ実シ,墳ニ直スル者ヲシテ辞ヲ具シテ,日屯ニ達セシム。 いや 時,儀ト素ト相識ラザリシヲ以テ,驚喜シテ之ヲ召シ,尋イデ正言ニ除ス。識者之を部しむ。(Ii高 麗史節要』巻二八,恭感王十七年八月と『東闘遁鑑』巻四八,高麗紀恭感、王十七年秋八月) 郭儀と日屯は面識がなかったが,理由は不明であるが辛陀の父の墳墓に酒食を供えてまっていたのであ - 92- 高麗時代の「叛逆伝」研究 VI (西川) り,そのお礼として正言(従六品)に除任している。父の本貫は霊山辛氏であると云う。 次に,僧遍照が恭感王と会見するのは武臣・功臣である金元命(? "-'1370) の紹介による 3) 。王の夢 の中に出てきた僧とよく似ていたからである。これよりしばしば召されて入内して玉と仏道の空につい て談ずるようになっていった。これ以後辛時の二面性があらわれる。常に山房にいて修禅をしてくらし ていた僧が京都に出て好淫をほしいままにする。一方,王の前では修禅僧としてふるまい王の寵信をう けるのである。 2. 師侍辛聞の誕生 王宮に出入するようになった師侍辛時の誕生について,その伝記には凡そ次のようにある。 伝記史料(2) こん 李承慶之を見て日く,園家を簡L る者は必ず此の莞(ぼうずあたま・僧)ならんと。鄭世雲亦以て ずだ 妖f曾と矯し,之を殺さんと欲す。王密に之を避けしむ。二人死するに及び,日世蓄髪して頭陀(托鉢 修行僧)と矯り,復た来りて王に謁し,始めて入内事を用う(宮殿で政権を専らにする)。携を清 しふ しほ 閑居士と賜い,稽して師停(王の顧問と教育係り)と矯し,園政を啓訪(相談)す。言従われざる 無く,人多く之に附す。士大夫の妻以て神僧と矯し,聴法求幅せんとして至れば,崎町ち私す。時 既に幸を王に得,其の迩甚だ読秘なり。李仁復・韓筒王に謂て日く,此れ端人に非ず,他日必ず愛 有らん。請う之を遠けんと。李費賢も亦言う,其の骨法(骨格)古の凶人に類す,必ず後患を胎さ んと。王並に聴かず。 H屯王に諮して仁復を罷め 賛成事崖埜を庭して鶏林の安と矯し,文賛成事李 重量需を遠州に流す。凡そ己を誘る者は皆中傷し 大臣以下皆之を畏る。時注擬(科挙・官吏登用試 験の合格者の姓名・履歴を帳簿に記入し,任命すべき官職をあてはめる)の日に嘗り,自ら賢良を 皐ぐと稽し,除目(官吏の任命状)下るに及び擢授する所は皆其の親黛なり。王時を異平侯に封 じ,是より盆崇重を加え,尋で功臣の披を賜い領都愈議使司事,鷲城府院君を授く。 辛時は李承慶から「国家を乱すのはこの僧」であるといわれ,鄭世雲からは「妖僧と為し,これを殺 さんと欲す」と云われている。王はこれを極力避けている。二人の死により托鉢修行僧となって王に拝 謁しはじめて宮殿内で政治の相談役となり しだいに政権を専らにしていく。恭感王十五年五月には師 侍となり清閑居士」の号を賜い,国政を杏訪するようになっていった。七月には「真平侯」となっ ている。萎裕文氏の研究によると真平は地名には見当らない。侯とは『高麗史』百官志によると正一品 の爵位であるとしている。辛時の負の面は「士大夫の妻以て神僧となし,聴法求福せんとして至れば, 陀即ち私す」と云われるように 「好淫」病が出るのである。 李仁復・韓修等は王に「此れ端人に非ず。他日必ず変有らん。請うこれを遠ざ、けん」と云われてい る。又,李斉賢も亦言う。「其の骨法(骨格)古の凶人に類す。必ず後患を胎さん」としている。王は また避けて聴き入れていない。結局 純は仁復をやめさせ,賛成事崖釜を鶏林(慶州)の手(従三品) となし,また,賛成事李亀寿を遠州|に流罪にしている。辛時は「己を誇る者は皆中傷し,大臣以下皆こ れを畏る」といわれていた。恭感十四(五)年九月には侍中金普や仁君輔から次のようにいわれてい た。 都余議侍中金普罷ム。時ニ任君輔,遁照ニ因リテ相ニ復ストイエドモ 内ニ漸J随ヲ懐ク,嘗テ王 ニ白シテ日ク,崖壁・李亀害等ハ,皆ナ笑卯定酋L ノ功臣ナリ,勝ニ十世ヲ宥スベシ。何ノ罪アリテ 庭瓢セルヤ。且ツ師侍ハ本ト僧ナリ。園朝人ニ乏シトイエドモ,量賎僧ヲシテ政ヲ矯サシメ,笑ヲ 天下ニ取ルベケンヤト。金普モ亦タ屡王ニ言フ。遁照,普ヲ議シテ相ヲ罷メ,並ニ君輔ヲ斥ケン ト欲ス。王日ク,普ト君輔トハ同時ニ復進ス。今復タ故ナクシテ輩ク逐ハパ,人,我ト卿ト進退, 太ダ軽シト調ハン。姑ク後日ヲ待ツニ如カズト。是ヨリ君輔,政府ニ在リトイエドモ,復タ園事ニ 9 3- 愛知学院大学文学部紀要第 38 号 輿カラズ。(IT'高麗史』巻四一,世家四一恭感王十四年九月庚午・巻一一四 列博二七任君輔と 「高麗史節要」巻二八,恭感王十四年九月) 師停は本と僧である。「賎僧をして政を為さしめ,笑を天下に取るベけんや」と云われている。辛陀 の国政を専らにする姿がうかぶのである。官吏の人々は「皆其の(辛時の)親党なり」と云われる人々 でかためられていたことが判明する。以後功臣の号」を賜わっている。 3. 田民排正都監設置 田民排正都監設置の意義について次のようにいわれる 4) 。 田民弁整都監は国家の社会・経済的基盤をなす土地と奴婚を整備するために設置されていた特別 の官庁である。元宗,忠烈王,恭感王(元年と 15 年の 2 回) ,鵡王( 7 年と 14 年)時代に設置され たことがあるが,恭感王 15 年 (1366) のものを除いては成果を上げることができなかったので, 田民弁整都監というのは,大体,この時のことをいう。武臣政権期とモンゴル干渉期に権臣達が土 地を大々的に兼併し,農場内外の良人達を奴坪化したので国家財政が難しくなった。恭感王は権臣 達の勢力背景となっていた元の衰退する国際情勢を捕らえ,辛陀の建議を受けてこれを設置し,辛 時を判事にして,権臣達が奪い取った土地をもとの主人に返して良人が奴稗になった者を解放して 権門世族の勢力を弱体化させて王権を強化した。しかし,権臣達の反対を受け,最後まで成功でき ず,辛日屯は追放された。 旧民弁整都監は辛目屯の建議を受けて設置したことが判明する。一方IT'高麗史節要JI IT'高麗史』恭感王 十五(六)年五月や叛逆六辛略伝等には次のように伝えている。 是月,田民耕整都監ヲ置キ,辛時ヲ以テ判事ト矯ス。中外ニ梼議シテ臼ク,比来(このごろ)紀 綱大イニ壊レ,貧墨風ヲ成シ,宗廟・撃校・倉庫. Iit土寺・旅轄・軍須田,及ビ園人世業ノ田民ハ, 豪強ノ家,占奪シテ幾ド壷キ,或ノ\巳ニ決シテ 1JJ ホ執リ,或ハ民ヲ認メテ隷トナシ,州、!豚騨吏,官 奴百姓ノ逃役スル者ヲ悉ク漏隠シ,大イニ農荘ヲ置キ,民ヲ病シ,園ヲ痔セシメ,水早ヲ招キ癒疫 息マズ。今都監ヲ設ケ之ヲ推整セシム。京中ノ、十五日,諸道ノ、四十日ヲ限ル,其非ヲ知リテ自ラ改 ムル者ノ\間フ勿ク,限ヲ遁ギテ事費ノ\ルル者ノ\来月治セン。妄リニ訴フル者ハ反ツテ坐セシム。権豪 ヲシテ奪フ所ノ田民ヲ出シ,其主ニ還サシメント,中外欣然タリ。 H屯開一日ニシテ都監ニ至リ, 李仁任・李春富以下聴決ス。 H屯常ニ外ニ公義ヲ偲リ,賓ハ J恩ヲ人ニ市リ,群小ノ心ヲ牧メテ以 テ,好恵ヲ瀦ス。是ニオイテ奴稗ノ主ニ背ク者,蜂起シテ臼ク,聖人出ヅト。(IT'高麗史節要』巻二 八,恭感王十五年五月と『高麗史」巻一三二,列惇四五,叛逆六辛崎) 辛陀は判事(長官)となり中外に梼諭している。豪強貴族の土地兼併をとりしまり,逃役を漏隠して いる農荘は京中は十五日,諸道は四十日を限る, として田民を出させて其の主に還そうとしている。一 方,奴婚の主に背く者は蜂起して「聖人出づ」と述べている。が 辛陀自身は「貧淫」癖があり自己の 領地拡大をはかったので貴族の反対にあい失敗している。 次に,何故,王は辛闘を国政に参加させたのであろうか。『高麗史』と r 高麗史節要』恭感王十四 (五)年十二月条に次のような史料がある。 廿四日五辛日屯ヲ以テ守正履順論道愛理保世功臣,壁上三韓三重大匡領都余議使司事剣監察司事, 鷲城府院君,提調イ曾録司事兼剣書雲観事ト矯ス。時ノ\卸チ遁照ナリ。王,在位日久シク,宰相多ク 意ニ稽ハズ。嘗テ謂ヘラク,世臣大族ノ\親黛根連シテ,互ニ掩蔽ヲナシ,草野ノ新進ハ,矯情飾 行シテ,以テ名望ヲ取リ,其貴顕ニ及ビテハ,白ラ門地ノ車寒ヲ恥ヂテ,大族ニ連姻シ,蓋ク其初 ヲ棄ツ。儒生ノ\儒ニシテ剛ヲ少ク。文タ門生座主同年ノ競アリテ,黛比(徒党を組む)絢情(私情 にとらわれる)ス。三者皆ナ用フルニ足ラズト。離世濁立ノ人ヲ得テ,以テ因循ノ弊(しきたりど - 94- 高麗時代の「叛逆伝」研究 VI (西川) おりにして進取改革の精神のとぼしいこと)ヲ革メンコトヲ思フヤ久シ。岡ヲ見ルニ及ビ以矯ヘラ ク,得道寡欲,且ツ賎微ニ出デ,更ニ親比(したしむこと)ナシ,之ニ大事ヲ任ズレバ,必ズ径行 (思いのまま行動にうっす)シテ顧籍(気にかけおしむ)スルトコロナケント。故ニ莞絡ヨリ抜キ テ,授クルニ園政ヲ以テシテ,疑ハザ、ルナリ。王,日屯ニ行ヲ屈シテ,世事ヲ救ハンコトヲ請フ, ザンカン 日屯,陽ワリ肯ンゼズ,以テ王ノ意ヲ堅ム。王之ヲ強フ。時日ク,嘗テ聞ク,園王大臣,多ク議開 ナ (告げ口をして人の仲を裂く)ヲ信ズト。慎ミテ此ノ如クスル舟クンバ,乃チ世間ヲ幅利(しあわ せに)スベキナリト。王乃チ盟辞ヲ手寓シテ日ク,師,我ヲ救へ,我レ師ヲ救ハン,死生之ヲ以テ シ,人言ニ惑フナシ。{弗天証明アレト。(Ii'高麗史』巻四一,世家四一,恭感、王十四年十二月丁丑・ 巻一三二列博四五,叛逆六辛時と『高麗史節要』巻二八,恭感王十四年十二月) 恭感王は在位久しく宰相の多くは意にかなわない者が多い。また,世巨大族は親党根連して名望を取 り,貴顕な門地は単寒を恥じて大族と連姻している。儒生は剛なる者少し党比街情している。この三 者は用いるに足らずとしている。「離世独立の人を得て,以て因循の弊を革めんことを思うこと久し」 として,闘は, この考えに合致しており国政をまかして疑わないとして盟辞している。 辛日屯を国政に参加させた理由は前述したが,その伝記には其の他の史料も含めて凡そ次のようにあ る。 伝記史料(3) えんぺい 初め王在位日久しく,宰相多く意に稽わず。嘗て以矯らく,世臣大族は親黛根連し,互に掩蔽 (おおいかくす)を矯す。草野の新進は,情を矯め行を飾り,以て名を鈎り,其の貴穎なるに及ん では門地の車寒(親族が少なく孤独で貧乏なこと)を恥じ,大族に連姻(親類となる)して意く其 の奮を捨つ。儒生は柔儒(気が弱い)にて剛少し叉門生座主(科挙合格者が試験官をよぶこと) 同年と稽し,相黛比して情に循う。三者皆用うるに足らず。因て離世濁立の人を得て之を大用し, いんじゅん 以て因循(しきたりどおりにする)の弊を革めんと。時を見るに及んで,以矯らく得道寡欲,且 つ賎微親比(したしむ)無く,任ずるに大事を以てすれば,則ち必ず能く直情径行(思ったことを こんし そのまま行動にうっす) ,顧慮する所無からんと。遂に莞絡(僧侶)より抜き園政を授けて疑わず。 いつわ かた H屯陽り肯んぜ、るが如くして以て王の意を堅む。王乃ち手づから盟鮮を書してイ弗天(王・仏道の修 ざんき 行者が仏を天として尊崇すること)に誓う。是において両政を乗る僅に三旬,大臣を議段(そし る)し,領都余議李公遂・侍中慶千興等を罷逐(罷免放逐する)し,家宰蓋諌皆其の口に出て,内 外の大権皆其手に蹄す。始め禁中を出て奇額の家に寓す。百官門に詣りて事を議す。金元命が己を 薦むるを以て鷹揚軍上護軍と矯し;兼ねて八衛四十二都府の兵を掌らしむ。穎の後妻初め寡居す。剛 健たりし時之に通ず。此に至りて復た之に通じ, 中韻(料理炊事)を主らしむ。類其の妻と朝夕 ふくそう 側に侍し,老奴稗の如く然り。 H屯食淫日に甚しく貨賂輯湊(四方から集まる)し,家に居りては酒 かじ ちゃ を飲み内を目白い,聾色を怒にし,王に謁しては則ち清談終日,菜果を監り若を飲み,僧行有るが如 し。密直提撃李達衷は時の名儒なり。嘗て虞坐において,之を辱かしめて日く 人言う公酒色度を 遁ぐと。日屯悦びず之を罷む。 無名の僧であった辛時を恭感王とあわせてくれた武臣の金元命には「己を薦むるを以て鷹揚軍上護軍 と為し,兼ねて八衛四十二都府の兵を掌らし」めていることが判明する。其の他のことは辛時の二面性 がよく示されている。即ち貧淫癖」と王に謁する時は「修禅僧」としてふるまう両面があることが 判明する。 4. 李存吾の糾弾抗疏 文臣李存吾 (1341 '"'-'1371) 等について『高麗史』列伝第四十五辛岡伝には凡そ次のようにある。 - 95- 愛知学院大学文学部紀要第 38 号 しりぞ おと 諌官鄭植・李存吾上疏して H屯を瓢けんことを請い叉庭せらる。是より陀の築驚(凶暴でなまい き)尤も甚しく,宰相牽諌も皆目屯に附して敢て言う者無し。雨府(門下府と密直司)正陵を祭る。 ゅうしょく 附奔さず。坐して公主の紳座に封して佑食(貴人にはべっていっしょに食事する)す。王諸陵に 謁す。百官皆王に随て奔す。日屯濁り立て奔さず。王嘗て偲棲に御し撃盤を観る。同騎馬して都堂の 幕前に至る。諸相皆起立す。時馬して諸相と語り 棲下に至りて馬を下り王と輿に棲上に坐す。侍 せん 中柳濯鎮(食物をすすめる)を進む。時坐して受く。服飾ーに王の如く見る者排ずる能わず。王 あるひ さいはい 一日歩して時の邸に至る。日竜王と並び据して傍輩(同じ仲間)の如く,復た君臣の櫨無し。出入毎 うず に騎従百蝕,儀衛乗輿に擬す。百官嘗て時の家に曾す。車馬街を填め,市して宮門は寂然たり。識 者寒心(おそれおののいて心が寒くなる)す。十六年元,闘を以て築様大夫集賢殿大撃土と矯し衣 酒を賜わる。 H屯宣を受けて之を座傍に置て日く 安ぞ此物を用うるを矯さん,但だ他の輿うる所棄 つべからざるなりと。其の騎倣(おごりたかぶってほしいままにふるまう)此くの如し。王 H屯の 言に惑い,子を生まんことを糞い,大に文殊曾を演幅寺イ弗殿に設け,総吊(あやぎぬ)を結びて須 めぐ ちんしゅう 蒲山と矯し,山を環りて大燭を燃し,燭の大さ柱の如く,高さ丈徐,夜明にして董の如く,珍差 げんよう めぐ (めずらしい食物)を備列し,糸花綴鳳人目を絃耀(光かがやく)す。僧三百を選みて山を繰りて 法を修し,党唄天に震う。随喜(喜んで、仏道に帰依する)執事するもの八千人。王時と輿に須蒲山 の東に坐し,雨府を率いて併を奔す。一曾費す所鉦高に至る。時叉道説秘記,松都気衰の説を以て 王に遷都を勤め,往て地を平壌に相(うらなう)し,既に還りて四日猶お朝謁せず。玉之を召し て見んと欲す。時日く吾今疲れたり 明日乃ち進まんと。時奇穎の家に居り,奉先寺松岡より王宮 に出入す。岡の西南に隙地あり,時王に白して房を構う。日ならずして成る。宏倣(広くて平ら しんすい か)深濯(奥ふかい)なり。叉北園に別室を作る。重門深幽,明薗浄机(書斎の清潔なさま) ,香 を焚て濁坐し,粛然、として無欲者の如し。惟だ穎の妻及び二牌の出入を許す。凡そ宛を訴うる者, 官を求むる者は必ず妻妾を這りて先ず穎の妻に賂して内謁す。穎の妻其の人に謂て日く,別室甚だ さん ちゃく 狭し,表衣を著くべからず,叉従者を率いて以て入るべからずと,其の妻妾短杉(はだぎ)を著 し,貨賄を賓し濁り入りて欲する所を陳ぶ。時濁り輿に相針し,醜聾流聞す。知都愈議呉仁津・ 侍中慶千興・三司右使安遇慶・前密直副使越希古・剣開城李希汝等密に H屯を除かんと謀り,事漏れ て流さる。前密直副使金精・金興組・越思恭等叉闘を訣さんと謀り 事露われて巡軍の獄に繋か れ,尋で杖流せらる。時私人を中路に遣り皆之を総殺(しめころす)す。 H屯初め{曾行を以て王に信 ぜられ,既にして金蘭の女を納れ,又妾を蓄うること算無く,卿大夫の妻の貌美なる者は必ず密に 招き之を私す。人皆思を希い威を畏れ,争いて戚獲(奴婦)賓器を献ず。然れども王猶お時が線を 受けず色に近かづかず田園を置かざるを以て之を信重す。此を以て盆威幅を溶にし,思告(情と あだ)必ず復し,世家大族諒殺殆ど轟く。人之を視ること虎狼の如し。奇,穎・崖思遠を腹心と矯 し,李春富・金蘭を羽翼と矯し,黛輿j繭朝 王も亦不安の意有り。 以上,先ず,辛略伝の内容を要約するとその要点は次の様である。 諌官鄭植・正言李存吾は抗疏して奇抜な行ないをする辛 H屯をしりぞけんとした。 (1)辛陀の凶暴なふるまいを誰も諌めなかった。 (2)正陵(恭慾王の妃の陵)を祭る時も百官皆王に随って拝したのに陀独り立って拝さなかった。 (3)撃越を観る時も H屯は王と一緒に坐していた。時の服飾は王の如くであったが誰も何もいえなかっ た。 (4)陀の邸に王が至った時も「君臣の礼無き」振舞をした。 (5)元より時は「築様大夫集賢殿大学士」の称号と衣酒を賜わったが,此の物は用いられないし棄てら れないとおごりたかぶって云った。 9 6- 高麗時代の「叛逆伝」研究 VI (西川) (6)王は時の言に惑い子が生まれることを願って「一会費す所鉦寓」に至るといわれ僧三百人,執事八 千人も参加した文殊会を開いている。 (7)辛時は『道説秘記』により松都気衰の説を以て 王に平壌へ遷都することをすすめている。 (8)略は北園に別室をっくり「凡そ寛を訴うる者,官を求むる者は」顛の妻に賂して内謁した。 H屯独り ともに相対し,醜声(みにくい評判)がひろく伝わりきこえた。 (9)知都余議呉仁津・侍中慶千興等が密かに陀を除かんとして謀り,事漏れて流された。また,前密直 副使金精・金興租等は崎を訴さんと謀り,事露われて獄につながれ杖流された。後に聞は私人を遣 り彼等を絞め殺させた。 Uü)時には「貧淫癖」があるのがわからず,王は聞が「隷を受けず色に近かづかず田園を置かざるを以 て時を信重」している。しかし,時は思讐のある世家大族を殆ど諒殺していたし人皆思を希い 威を畏れ,争いて賊獲(奴婦)宝器を献じ」させていた。時は人々から虎狼の如く見られた。朝廷 には時の徒党が満ち満ちており,王もようやく不安の意を示すようになった。 次に,李存吾の抗疏についてみることにする。『高麗史 JI Ii'高麗史節要』恭感王十五(六)年四月条に 次のようにある。 李存吾史料(1) (恭感王十五年)四月十三日里左司議大夫鄭極・右正言李存吾上疏シテ辛時ヲ論ズ。日ク,臣等 三月十八日,殿内ニオイテ文殊曾を設クルニ値フ。領都余議辛時,宰臣ノ列ニ坐セズ,敢ヘテ殿下 ト並ビ坐シ,開敷尺ナラズ。園人驚骸シテ d陶d陶タラザ、ルハナシ。夫レ檀ハ上下ヲ耕ジ,民志ヲ定ム ル所以ナリ。萄クモ檀ナケレバ ニ, 何ヲ以テカ君臣父子タラン 何ヲ以テカ園家タラン。矯カニ見ル ナ B屯,上恩、ヲ遁蒙シ,園政ヲ専ラニシ,市シテ君ヲ無ミスル(かろんじる)ノ心アリ。嘗初領都 余議剣監察ノ命下ルノ日,法嘗ニ朝服シテ謝スベシ,而モ竿月ニシテ出デズ,閥庭ニ進ムニ及ビテ ハ,膝少シモ屈セズ。常ニ騎馬シテ紅門(廟・陵などに建てる赤門)ニ出入シ,殿下ト並ビテ胡床 ニ擦リ,其家ニ在ルヤ,宰相庭下ニ奔スルニ,皆ナ坐シテ之ヲ待ツ。佳流・金仁俊・林街ノ所矯ト イエドモ,未ダ此ノ如キ者アラザ、ルナリ。昔ハ沙門タリ。嘗ニ度外ニ置キ,必ズシモ其無櫨ヲ責メ ザルモ可ナリ。今ハ宰相タリ。名位定マレリ。而ルニ敢ヘテ穫ヲ失シ 常ヲ穀ルコト此ノ若シ。其 由ヲ原究スルニ,必ズ以テ師停(王の顧問や教育係)ノ名ニ託スル者アラン。然レドモ,食升E ハ 高王ノ師,鄭可臣ハ徳陵ノ停タリ。臣等未ダ彼ノ二人者ノ敢ヘテ此ノ如クナリシヲ聞カザルナリ。 オカ 時ハ是レ何人ニシテ自尊此ノ若キカ。臣ニシテ上ノ権ヲ轡セバ,位ニ有ル者,皆ナ其分ニ安ンゼ ズ,小民之ニ化シテ,亦タ其常ヲ験越セン。時既ニ殿下ト檀ヲ抗ス。是レ園ニ雨君アルナリ。司馬 光臼ク,紀綱立タザレバ,好雄心ヲ生ズト。然ラバ則チ櫨ノ、巌ナラザ、ルベカラズ,習ハ慎マザ、ルベ カラズ。若シ殿下ニシテ,必ズ此人ヲ敬シテ民ニ災禍ナクンバ,其頭ヲ究(かみをそり落とす)ニ シ,其服ヲ絡ニシ,其官ヲ削リ,之ヲ寺院ニ置キテ敬セヨ。必ズ此人ヲ用イ園家平康ナラパ,其権 ヲ裁抑シ,上下ノ櫨ヲ巌ニシ,以テ之ヲ使へ。民志定マリ,困難静(やわらぐ)ビン。且ツ殿下, 時ヲ以テ賢トナス。陀,事ヲ用イテ以来,陰陽時ヲ失シ,各月ニシテ雷シ,貰霧四塞旬日ニ嫡リ, 黒子夜赤寝シ,天狗地ニ墜チ,木涼甚ダシク,清明ノ後雨霊寒風アリ,乾文屡愛ジ,山禽野獣, 白日城中ニ飛走ス。時ノ論道盈通(宰相の職)功臣ノ披,果シテ天地租宗ノ意ニ合スルカト。疏上 おと ル。王大イニ怒リ,極ヲ東莱豚令ニ,存吾ヲ長沙監務ニ疑ス。(Ii'高麗史』巻四一,世家四一,恭懸 王十五年四月甲子・巻一一二列博二五,李存吾・巻一三二列惇四五 叛逆六辛 H屯と『高麗史節要』 巻二八,恭懸王十五年四月) 李存吾史料(2) (恭感王二十年)五月廿三日度前長沙監務李存吾卒ス。存吾,字ハ順卿,慶州ノ人姿相端潔,簡 9 7 愛知学院大学文学部紀要第 38 号 重寡言。早ク孤トナリ 撃に力ム。煉慨志節アリ。辛時ノ不法ヲ上疏極論シ トナリ,公州ノ石灘ニ臥ス。後チ崎ノ勢盆蛾ンナルヲ見 シテ扶ケ起サシメテ日ク,純白ホ蟻ンナルカト。日ク 庭セラレテ長沙監務 憂憤疾ヲ成ス。疾革マルニ及ビ,左右ヲ 然リト。臥ニ還リテ日ク,時亡ビテ吾レ乃 チ亡ピント。席ニ返リ未ダ安ンゼズシテ卒ス。享年三十一。(Ii高麗史』巻四三 世家四三,恭懸王 二十年五月甲戊・巻一一二列博二五,李存吾と「東園遁鑑』巻四九,高麗紀恭感王二十年五月・七 月) 李存吾史料(3), ( A ) 忠清道観察使李世鷹朕啓日,臣籍惟前朝高麗正言李存吾,天昇忠義,乗心歌直,身遇麗季,妖僧 辛 H屯,矯位縦邪,上下怖悟,莫敢枝梧存吾能蓄不顧身披批死争張目叱向精義所激, B屯乃奪 気,不費下床,玄陵不察。卒見損震未幾見宥,還居石灘別業石灘在今公州治西扶徐東境。著在 輿地勝寛,及其終也,因憤成疾,敷起大呼日。 H宅街蛾乎 侍者日向蛾,日間亡吾乃亡死而後巳,其 意以矯恭態、,盛惑逆 H宅,園将危筒L ,以身之死生,矯園之存亡。庶幾裁時而存園也,忠悦義烈,高出 千古,上可以事日月,下足以激高生,臣子之義烈。恭懸後猶悔悟,贈職褒古,我園家亦嘗褒崇彰異 以属節義,至今向無褒典賓所大闘,存吾遺嘘,向在石灘之傍,浪滅榛蕪,無跡可尋,田夫野老,猶 稽某人之櫨,有識過行,指点容瑳,至有紡f皇不忍、去者,其風聾之久市猶激者,如此,且存吾少時, 有大野皆矯波,高山猫不降之句,言者以謂終樹大節之識 臣等所料,於石灘之上,竪短碑,以志其 居,前面書日,高麗正言李先生存吾寓居之所,雨芳分書大野皆矯波高山濁不降雨句,陰記平生所行 大略,環以短塘,使其後孫世守之,則可以旋示永久,庶使見其地,而思其人 感動奮護之念,自不 容巳,昔武王伐殻,封比子之墓式,商容之闇,乃矯翠義之首事。今此之翠,亦賓閤家盛典,且其後 孫在公州者五,在河川者五,姓名開具啓間後録,其中揮其堪矯朝士者録用,其不堪任者賜物復戸, 旋死勤生,不惟振作一道士気,其於轄移一世之機,音不大関,請令該曹磨錬施行,史臣日,此非世 謄之志。乃都事朴世票所欲矯,而世臆不能抑,敢啓請之。(Ii中宗実録』巻三十三,十三年六月条) 李存吾史料(3), ( B ) 御董講講高麗史節要特進官許舷日観辛時之事君臣倒置,未有如此之甚者,嘗此之時季存吾抗疏極 論王猶不悟使園歩日摩,王若聴存吾之言 則宣至珍如此裁 以王偏信逆岡敬檀重之草月無敢言者矯人 君偏信甚不可罵,検討官沈思遜日,人君好悪不可不慣,白古人君,以偏信其臣,市終致危亡多失, 量濁恭懸裁。(Ii中宗実録』巻四十三,十七年正月条) (1)の史料によると左司議大夫鄭枢と右正言李存吾は上疏して辛時の文殊会の際の欠礼をせめている。 「時,上思を過蒙し,国政を専らにし,市して君を余みするの心あり」として叱責している。昔は沙門 であったから無礼を責めないが,今は一国の宰相である。名位が定っているのであると。また, B屯は 「輿殿下抗穫,是国有両君也J (殿下ト檀ヲ抗ス。是レ国ニ両君アルナリ)と云われて,臣下として礼を 失せしを責められている。存吾が疏をたてまつるや王は大いに怒り枢を東莱県令に存吾を長沙監務に 疑斥(官位をさげて左遷する)してしまった。 次に, (2) の史料によると五月になると存吾は憂憤して疾を成し,革まるにより時のいまだきかんなる を聞き「時亡び、て吾れ乃ち亡び、ん」と。席に返りそのまま卒してしまった。享年三十ーであったことが 判明する。 次に,史料(3) の (A) と (B) の史料によると朝鮮王朝時代中宗王十三年に忠清道観察使李世応が正言李存吾 の「忠J比(まこと)義烈」なる人物であることを称賛しており,公州の西の石灘上に短碑を立てたこと を啓上している 5) 。後孫が公州等に住しており「賜物復戸(忠臣・孝子等に戸役を免ずること) J を願 い出ている。 (B) の史料では君臣倒置のため李存吾は「抗疏」していることが判明する。 さて,以上の史料をもとに李存吾 (1341'" 1371) の生涯をまとめると次のようになる。 - 98- 高麗時代の「叛逆伝」研究 VI (西川) 李存吾 字は順慶。慶州の人。姿相端潔,簡重寡言。早く孤にして撃に力め,懐慨志節有り。年十 徐にして。十二徒に購う(手習いする)。高麗恭慾玉九年(1 360 年)登第し,水原の書記に調せら れ,史翰に選補せらる。鄭夢周・朴向哀・李崇仁・鄭道惇・金九容・金費顔と友とし善く,講論虚 日無し。大に人に稽賞せらる。監察斜正に累遷す。十五年,正言となる。辛時閣に嘗り,凌傍(我 がままなこと)不法,敢て言う者無し。存吾身を顧みず,終に之を論ぜんとし,疏藁を袖にして省 に赴き,同列に示して日く妖物園を誤る,去らざるべからず」と。諸郎畏縮して敢て麿ずる者 無し。左司議大夫鄭植は存吾の姻親なり。謂て日く兄は嘗に是の如くなるべからず」と。橿之 に従い,遂に上疏して聞の凌僧惰慢を痛論(はげしく議論する)す。王代言権仲和をして之を譲ま しめ,譲んで宇に至らず\大怒して遠に命じて之を焚かしめ,橿・存吾を召して面責(面と向かつ て責める)す。時に時王と封床す。存吾闘を目して之を叱して日く老僧何ぞ無檀此の如くなる を得んや」と。陀憧骸費えず床を下る。王愈怒りて巡軍の獄に下し,賛成事李春富・密直李稽等を して之を鞠せしめ,乃ち左右に言て日く予は存吾の怒目を畏る」と。春富等存吾に間て日く, いんそう 「爾乳臭の童子何ぞ能く自ら知らん,必ず老孤の陰嚇(扇動する)する者有らん,其れ隠す無かれ」 と。封えて日く童子の無知を以てせずして之を言官(諌官・政事の失を諌める官)に置く,量 そむ に言わずして以て園家に負かんや J と。時に存吾年二十五。時必ず之を殺さんと欲す。稽,春富に 謂て臼く二人狂妄固と罪すべし。然れども我が太組以来五百年 未だ嘗て一諌官を殺さず。今 令公に因りて諌言を殺せば,恐らくは悪聾遠く播らん。且つ小儒の言大人において何ぞ損せん,如 おと かず王に白して之を殺す勿れ」と。春富等之を然りとし,兎かるることを得,庭せられて長沙監務 と矯る。閤人之を稽して員正言と日う。退て公州の石灘に臥す。時に時の勢盆蟻にして,存吾憂憤 さかん 疾を成し,二十年疾革まり,左右をして扶起(たすけ起こす)せしめて日く日屯向お織か」と。 左右の日く「然り J と。還り臥して日く 「時亡ぶれば存吾亡び、ん」と。返席未だ安んぜ、ずして卒 す。年三十一。浸後三月にして同誌せらる。王其忠を思い 成均大司成を贈る。 以上,抗疏で、は辛暗に対して次の諸点を訴えていた。王が諸陵に謁した時 百官は皆王にしたがって 拝したが時は独り立って拝しなかった。王の撃盆観戦のときも諸相皆起立したが聞は楼上に坐してい た。また,王が H屯の邸に至った時も君臣の礼が無いふるまいをした。辛闘は恭懸王十六年になって元か ら栄禄大夫集賢殿大学士と衣酒を賜った時も「安ぞ此物を用うるを為さん」と騒倣であった。また,王 は時の言に従って子を生まんことをこいねがって文殊会を演福寺で聞いており,一会費すところは鎧万 に至っておる。また 王に松都気衰の説によって遷都を勧めている。 時は北園に別室を作り 香を焚いて独坐し無欲者のようであった。また,時は完を訴える者や官を求 める者に対して醜声流聞をされている。聞を除かんとした謀が 2 回おこりすべて総殺されている。ま た,闘は「貧淫癖」がおこりその反面,王に対しては「禄を受けず,色に近かづかず,田園を置かざる を以て時を信重」させている。闘の党与は朝廷に満ちており,王もようやく不安の意を示すようになっ た。 5. 王殺害計画失敗 辛目屯の王殺害計画失敗についてその伝記には凡そ次のようにある。 伝記史料(4) 王本と性猪忌(人の才能などをそねみきらう) ,腹心大臣といえども其の権盛なるに及べば,必 ず忌ん(にくむ)で之を諒す。時自ら鴎張(勢がつよくわがままなこと)甚しきを知り,王の忌 ふき まんことを恐れ遂に不軌(反乱をはかる)を園る。王の憲・景二陵に謁するに及び薫人を分遣して 伏を道傍に設け,約して大事を行わしむ。其の黛儀衛の甚だ盛なるを見,憧れて殺せず。王宮に還 - 99- 愛知学院大学文学部紀要第 38 号 るに及び,時其の怯儒(おくびょう)を怒り,更に日を刻して事を皐げしむ。時の客選部議郎李 靭陰に其の兇謀を記し,匿名の書を作り,稽して寒林居士と言い,夜宰相金績命の第に投じ,微服 して逃がる。績命其の書を以て聞す。王巡衛府に命じて闘の黛穎・思遠・前少手鄭亀漢・将軍陳充 倹等を捕えて之を鞠わしめ皆服す。乃ち之を諒し 時を水原に流す。尋で察訪使林撲等を這りて之 を諒せしめ,支解(身をばらばらに切りはなす。重刑罰の一つ)して諸道に絢え,首を京城の東門 さら でん やろう に棄す。陀性敗(狩り)犬を畏れ射猶(狩り)を悪み 且つ淫を縦にし,常に烏鶏白馬を殺し以 て陽道(男子の生殖機能)を助く。時人之を老狐精と稽す。 辛時の党による王殺害計画について『高麗史』恭感王二十(ー)年七月には次のようにある。 二十(一)年六日震辛時ノ黛奇顛・崖思遠等ヲ諒ス。初メ王ノ憲・景二陵ニ謁スルヤ,辛日宅其 黛ヲ分遣シ,伏ヲ道傍ニ設ケ,大事ヲ行ハンコトヲ約ス。其黛,王ノ儀衛甚ダ盛ンナルヲ見,犯ス ニ忍ビズ,事無キヲ得タリ。 H屯怒リ罵リテ日ク,爾ガ輩,誠ニ怯儒,無用ノ者ナリト。是ヨリ日 夜緊謀,更ニ日ヲ刻シテ事ヲ皐ゲントス。時に官ヲ求ムル者,悉ク時ニ附ス。選部議郎李靭モ亦タ 略ノ門客トナリ,備サニ兇謀ヲ知リ,事ノ迫マレルヲ見テ,乃チ姓名ヲ匿シテ寒林居士ト稽シ,書 ヲ矯リテ,夜宰相金績命ノ第二投ジ,微服シテ亡ゲ、去ル。績命其書ヲ以テ開ス。王,巡衛府ニ命 ジ, B直ノ黛顛・思遠・鄭重量漢・陳允倹・奇仲筒等ヲ牧捕シテ之ヲ鞠ス。王,始メ靭ノ謹構(罪のな い者を無理に罪あるようにいつわり仕立てる)ヲ疑ヒテ之ヲ信ゼズ。其黛ヲ訊スルニ及ビテ,皆ナ 服ス。即チ之ヲ諒ス。(If'高麗史』巻四三,世家四三,恭懸王二十年七月丙辰・巻一三二列博四五, 叛逆六辛時) 王が憲・景二陵に謁する機会をねらって大事を行なわんとしたが儀式に参列した護衛兵が警備厳重な じん ため失敗をしてしまう。蝿の門客であった客選部議郎李靭がその兇謀を記し,匿名で夜宰相金続命の第 に投じた。その書をもって王に申し上げたので王は巡衛府に命じて辛時の党を捕諒した。日屯を水原に流 した。そして,察訪使林撲等を遣って訴させて支解し諸道にそなえて,首を京城の東門にさらしたので ある。恭感王自身も 3 年後に官官崖万生・寵臣洪倫らに殺されてしまうのである。 結び一一辛網王の誕生一一 『高麗史』列伝巻四十六には辛摘について次のように述べられている。 辛鵡 小字牟尼奴,辛略ノ妾般若ノ出ナリ。或ハ云,初般若身メル有リ。月満ツ H屯友僧能祐ノ母家 ニ就キ産ス。祐ノ母之ヲ養フ,期年ナラズシテ児死ス。祐時ノ譲メ穿ンコトヲ恐レ,貌ノ類スル 者ヲ求メ矯カニ鄭家隊卒ノ完ヲ取リ諸テ他所ニ置キ時ニ告テ日ク。児病アリ請フ移養セン,時諾ス 居ルコト一年,時取テ家ニ養フ。金鉱ノ舛金旺ヲ以テ乳蝿ト矯ス。般若亦未ダ其児ニ非ザ、ルヲ知ラ ザ、ルナリ。恭感王常ニ嗣無キヲ憂フ。一日微詩(しのび歩き)シテ時ノ家ニ至ル,日屯其児ヲ指シテ 日ク願クハ殿下養子ト矯シテ以テ立後トセヨ。王脱テ笑テ答ヘズ,然モ心之ヲ許ス。時其徒呉一 鵠ヲシテ洛山観昔ニ析ラシメテ日ク,願クハ弟子ノ分身牟尼奴ヲシテ肩書園ノ住タラシメヨ。時水 原ニ流サル王近臣ニ語テ日ク,予普テ日屯ノ家ニ至リ其舛ニ幸シ子ヲ生ム。驚動セシムル舟ク善ク之 ヲ保護ス。時既ニ諒セラル王牟尼奴ヲ召シ,明徳太后(第 27 代王忠覇王の妃)ノ殿ニ納レ,守侍 中(門下府の従一品の官職)李仁任ニ謂テ日ク。元子吾ニ在リ憂フル勿レ,因テ言フ美婦有リ時ノ 家ニ在リ其ノ子ニ宜シキヲ聞キ途ニ之ニ幸ス。乃チ此見有リ,後ニ王牟尼奴ヲ以テ嗣ト矯サント オソ ス。太后欲セズシテ臼ク,梢長シテ皐ニ就ク未ダ晩カラズ,其牟尼奴ノ名ヲ改メ鵡ヲ以テ命ズ。二 十三年九月王鵡ヲ故宮人韓氏ノ出ト冒稀ス,洪倫等王ヲ獄ス。太后鵡ヲ率ヰ内ニ入リ喪ヲ護セズ。 丙戊賓房ニ贋ス,禍宰樋ト喪ヲ護シ,皐哀(死者を祭るために突泣する礼)翌日太后立宗セント欲 ス。李仁任等百官ヲ率ヰ主主ニ網ヲ立ツ年十歳。喪ヲ大廟ニ告グ。 高麗時代の「叛逆伝」研究 VI (西川) 『太宗実録』巻六,三年十一月己丑の条に王統宗系について述べた記事の中に辛時の子網についての 記述が次のようにある。 恭懸王無子,将寵臣辛昭子鵡,陰養宮中,稽矯己子,及恭懸王蒐,其臣李仁任,乃立鵡矯嗣,臣 父自恭懸王至偽姓踊。 王統宗系について,次のようにいわれる。恭感王は子が無く,寵臣辛時の子鵡をひそかに宮中で養育 して自分の子と称した。恭感王がみまかるに及び,臣下の李仁任は偽姓網を立てて継嗣とした。 以上,辛時についていろいろと検討してきたが先行研究についてみる。「辛陀考」を書カ亙れた萎裕文 氏の場合は次の諸点、が指摘できょう。辛闘の出現によって二大事実を醸成したといわれる。一つは仏教 徒の非を具体的に露出して,排仏運動を起こすようになり,儒者の新舞台を出現させた。他の一つは高 麗朝政教の乱れがひどくなり一部の人をして,王氏に対する離反の資を作り李氏の新王朝を建設する因 を作ったのであるとしている。恭感王が辛時と際会したのは一種の反動的現象だが同時に当時の社会の 不安相を生きられたのであるとしている。 さて,本論文の要点をまとめると次の諸点が指摘できょう。 妖僧遍照の出生では妖僧辛陀の母は桂城県玉川(泉)寺の輝であることは判明していたが,父に ついては玄風人の郭儀が霊山にある墳墓をおまいりしていたので,時は面識がなかったがお礼として正 言(従六品)に除任していた。父の本貫は霊山辛氏であった。また,僧遍照が恭感王と会見するのは武 臣の金元命の紹介によったのである。また,辛陀の二面性即ち「修禅僧」の姿をもっ面と「好淫癖」を 持つ面があることを指摘した。修禅僧として王のまえではふるまい寵信を得たのである。 2 師侍辛 H屯の誕生では辛時は国家を乱す僧であるとか妖僧であるとかの理由で殺さんと欲すなどと いわれた。王は極力これを避けている。恭感王十五年には師停となり,七月には「真平侯」となってい た。一方,また,辛純は批判をされていた。「端人(心や行ないの正しい人)でないので他日変をおこ すから遠さやけん」とか「骨格が古の凶人に似ているので後患をもたらす」とかいわれたが王は避けてお り,反対者は遠州流罪にしている。師停は賎僧で政治をしようとしており,天下の笑いものになると侍 中金普は批判している。官吏の人々は辛闘の親党でしめられていることが指摘できた。 3. 田民排正都監設置では辛時の建議で設置したことが判明した。土地兼併のとりしまりや逃役者を 漏隠している農荘は田民を出せと命じている。では,王は僧の辛時を何故に国政に参加させたのであろ うか。恭懸王の宰相・世巨大族・儒生の三者に対する不満が指摘された。恭感王は「離世独立の人」即 ち辛時を得て,因循の弊を革めんとしていたことが解明できた。 4 李存吾の糾弾抗疏で、は鄭枢と李存吾の上疏についてみると「殿下ト穂ヲ抗ス。是レ国ニ両君アル ナリ」とした臣下辛時の無礼を叱責している。辛陀は「修禅僧」の姿を玉の前ではみせるのである。 「禄を受けず,色に近かづかず,田園を置かずを以て,日屯を信重」させている。朝廷の中は時の党与で 満ちており,王もようやく不安の意を示すようになった点を指摘した。 5. 王殺害計画失敗では王が陵に謁する機会を狙い殺そうとしたが警備が厳重で失敗をした。闘の行 動は門客の一人の密告によって辛時の党は捕訴されてしまった。辛 H屯は支解され首は京城の東門にさら された点を指摘した。恭感王自身も 3 年後には殺されてしまう。 結びの辛繭王の誕生では辛時の子の網を王位に立てた点が朝鮮王朝時代に王統宗系が問題にされてい た点を指摘した。結局 IF高麗史』編纂時に辛網・辛昌父子を「世家」におかず叛逆」伝の後の「列 {云」に入れることになった。『高麗史』の「纂修凡例」には「辛網父子以逆時之撃(庶子) ,矯位十六 年,今準漢書王葬停,降矯列停,以巌討賊之義。」とあり,辛鵡父子は逆時の庶子と断定し IF漢書」王 葬伝に準じて降して「列伝」に入れられている。王葬(前 45-23) は平帝を毒殺して国をうばい,みず から帝位について国を新と号し,後漢の光武帝に殺されていた人物である。「王姓の王統が二分され」 愛知学院大学文学部紀要第 38 号 辛鵡父子の二王は辛氏とされたのであり 「朝鮮王朝の国際観や名分論に拠るもの」である。この様に 編纂されるに至ったのは周知のとおりである 6) 。以上が辛院の歴史的側面の分析である。辛時の執権か ら没落に至った政治過程を分析された関賢九氏は辛時の因循の弊を革めんとしたいろいろな改革的措置 も結局「弥縫策の限界」を切り抜けられなかった点を指摘されている 7) 。 『高麗史』叛逆六辛 H屯伝には íB屯目不知書 J (日屯, 目は書を知らず)とあり,辛時は「目に一丁字も識 らず」文字は読めなかったと思われる。文字の読めない僧侶が政治と宗教の二面性をもって活動する時 代は中世的世界の姿であると考える。恭感王と辛H屯の際会は「一種の反動的現象」であると指摘されて いるが,辛時の執権政治担当から失敗没落へは排仏から儒教へ移る中世的役割をになって次の儒教を中 心とした新王朝をうみだす役割をはたしたといえるのである。 註 1)徐景沫著「辛略朝服を着た '1蚤僧」新丘文化社 は[風雲に乗って 2 果てなき王の信任 IF韓国の人間像』第 l 巻王家・政治家篇所収, 3 ,聖人の称号を 4 聖人から妖僧ヘ 5 1965 年刊。内容 悲劇の末路となっ ている。 2)辛陀伝記史料(1) 辛日屯 辛時,霊山人,母,桂城豚玉川寺稗也,幼矯倍,名遁照,字,耀空,以母賎,不見歯妙其類,常慮山房,恭懸 王夢,人抜剣刺己,有僧救之得克,明日,以告太后,曾,金元命,以 H屯見,其貌惟宵,王,大異之,輿語,聴、 慧刻字給, 白謂得道,龍馬大言,輔中旨,王,素信イ弗,文感夢,由是,屡密召入内,輿之談空,日屯 目不知書, 常遊京都勘縁,誼誘諸寡婦,焦其虫干淫,自見王,務矯飾,枯楕其形,難盛夏隆各,常衣一被柄,王,盆重之, 凡韻衣服飲食,必潔浄,至於足機,必頂戴,致敬韻之,李承慶,見之日,首L 園家者,必此賢也,鄭世雲,以矯 妖{曾,欲殺之,王,密令避之,承慶・世雲死,髪而矯頭陀,復来謂王,始入内用事,賜披清閑居士,稽矯師 侍,容訪園政,言無不従,人多附之,士大夫之妻,以矯 l神{曾,聴、法求幅市至,日屯甑私罵,十四年,日屯主密直金 蘭家,蘭有城府,好投審人,以二慮女輿之,崖壁責蘭,時,嫉之,諮辰鶏林予,文罷賛成事李仁復・密直越希 古・洪師範・崖孟孫等,引所善蘭及金普・李春富・任君輔・朴蟻,伏之,文諮流賛成李重量書・評理梁伯盆・判 密直朴椿・丙城君石文成・宣者府院君李寧・金書高等,分遣其黛上護軍李得宗.~軍経歴果季南,鞠壁・重量蕎 等,以交結書高,離間上下,斥去賢頁,大不忠,羅織成獄,壁等,皆謹服日,請速即刑,法制壁等三品以上 爵,除毒高名,矯民,並籍其田民,文流陽川君許猷・典工剣書漫光秀・判事洪仁桂・猷子典理判書瑞・愈議評 理金貴・上護軍梁漕・大護軍李仁書・護軍洪承老,凡誘己者,親中傷,虐焔董灼,大臣以下,皆畏之, 祝重量書・貴椿髪,置山寺,遣白絢・李元具,杖之,復遣王安徳・袈仁吉,沈子海, 及除目下,所擢授者,皆其所善也,王,封日屯矯員平侯,白是, B屯,尋 B屯嘗注擬,自稽皐賢良, 日加崇重,尋授守正履順論道愛理保世功臣,壁 上三韓三重大匡領都倉議使司事剣重房監察司事,鷲城府院君,提調僧録司事兼剣書雲観事,始改名目屯,初,王 在位久,宰相,多不稽志,嘗以矯,世臣大族,親薫根連,互矯掩蔽,草野新進,矯情飾行,以釣名,及貴顛, 恥門地車塞,連姻大族,壷奔其初,儒生,柔儒少剛,文稿門生・座主・同年,黛比f旬情,三者皆不足用,思得 離世燭立之人,大用之,以革因循之弊,及見 H屯,以矯得道寡欲且賎微無親比,任以大事,則必径情無所顧籍, 途抜方李賢絡,授園政市不疑,請時以屈行救世, B屯,陽不肯 以堅王意,王,強之, B屯日 嘗聞王輿大臣,多信 議開,願勿如是,可幅利世間也。王,乃手寓盟僻臼,師救我,我救師,死生以之,無惑人言,イ弗天証明,於 是,興議園政,用事三旬,議接大臣,罷逐領都余議李公、途・侍中慶千興・判三司事李書山・賛成事宋卿・密直 韓公義・政堂元松書・同知密直王重貴等,家宰憂諌,皆出其口,領都愈議,久慮其位,至是,自領之,始出禁 中,寓奇穎家,百城中,都人初聞,以矯宮中有饗,皆驚骸,久之乃定,曾罷, B屯乃出,絡貰雑流,填咽宮披, 令諸君宰植及各司,逐日設費,鹿費不費,王,幸時願剃洛山寺,左右手言,今歳大稔,王,脆{弗前日,自不穀 在園,十有五年,水早矯突,今歳之稔,寅由愈議愛理,王,敬 H屯,常稽愈議而不名,王,上書太后,盆妃・定 妃,侍宴, B屯,亦輿罵,一日,柳濯,享王,二妃在東,日屯坐西,謂王日,二妃年少而愚,王日不愚, B竜文戯 日,聖瞳不巳勢乎,王日勢失哉,密直許綱妻金氏,上洛君永照孫也,綱死,陀,慕其門閥,欲安之,金聞之 日,我公,平生未嘗脱粉黛,妾何忍背耶,必欲汚,我嘗自制,濯断髪矯尼, 102- B屯,聞市止,十六年,元,以同局 高麗時代の「叛逆伝」研究 VI (西Jl I) 築様大夫集賢殿大皐士,賜衣酒, B屯,受宣,置座傍日,安用此物矯,但他所輿,不可奔也,玉,惑 H屯言,糞生 子,文大設文殊曾於演福寺中イ弗殿,結彩吊,矯須蒲山,環山燃大燭,文環{弗殿燃燭,燭大如柱,高丈飴,負以 獅象,夜明如重,備列珍差,凡五行赫花彩鳳,熔煙人目,幣用彩吊十六束,叉以金銀,作偲山,置子庭,瞳幡 楳蓋,五色嘩日,選{曾三百,遺須蒲山,作法党唄,震天随喜,執事者,無慮、八千人,王,輿日屯,坐須蒲山東, 率雨府檀イ弗,日屯,白王日,善男女,願従上,結文殊勝因,請許諸婦女上殿聴法,妙是,士女雑還,寡婦,至有 矯 B4:~台容者,日屯以餅果,散珍婦女,威喜日,余議乃文殊後身也,士女,飲珍差,或奔地,一曾所費,至鎧 高,王,命忽赤・忠勇衛二百五十人,董夜衛 H屯演幅寺{曾達孜,嘗以識,説時日,寺有三池九井,三池澄浄, 扶蘇山,映池心,則君臣心正,致大卒,九井者,九龍所在,埋塞久,不可不開,賂設曾,日屯令李云牧,役府 兵,開三池九井,是曾,凡七日,暴風三日,大霜三日,始曾,暴風終日,責挨穣天,御床,矯人所鯛市砕, 王,文親設文殊曾於演幅寺,有気如畑,出イ弗殿三日,日屯,白王日, fj弗放光,日屯以道説秘記,松都気衰之説, 勤王遷都,王,命日屯,往平壌相地,春富・達J祥・直者檀儀書手忠佐等,従之,典校令林撲・内書合人金麟・知 製教金稽,皆楓剣以行,麟,監察大夫漢貴之子,稽,漢貴姪也, 1.莫貴,嘗詐稿 H宅戚属,故従之,及陀還四日, 猷不朝謁,王,以久不見,懐然不柴,使人請見, 稿,曾崇文館,相蓄祉, B屯日,吾今疲失,明日乃進,王,命管成均館, B屯,克冠f口頭,誓先聖日,童心重管,左右皆日,少損蓄制,可易成, B屯輿濯・李 B屯日,文宣王, 天下高世乃師也,可斬小費酷前代之規平,有{曾稗顛・千稽,皆 H屯所善者也,千稽自言,入江漸, f専達磨法, 王,親訪子イ弗腹蔵,尋封園師,又逝蹄頴子康安殿,封王師,王,九奔,稗顛立受,百官,朝服就班,日屯,猫戎 服,立殿上,毎王一拝,聴噴噴稽嘆,私語直者日,主上躍容,天下稀有,其陰堀取寵,如此,史官手紹宗,在 傍, B屯顧謂日,時妄書園事,吾賂取観之,初,稗穎之未封也,紹宗族倍夫目,調紹宗日,日屯之貧暴,犬家不 若,必課園家,稗穎附之,吾不忍見,途逃入山,元使乞徹至,問日,聞爾圏,有権王,何在,時,中園,謂 H竜 馬権王故云, B屯在奇顛家,由奉先寺松岡,出入王宮,岡西南,有隙地, 僕進退,王,許之, B宅白王日,幸就此構小房,則庶便老 B屯分其黛督役,不日而成,宏敵深蓬,文珍北圏,作別室,重門深幽,明薗浄凡,焚香濁 坐,粛然若無欲者,惟許顛妻,及二蝉出入,凡訴完官,詣門議事, B屯以辰巳聖人出之識,揚言日,所謂聖 人,量非我欺,以元命,兼鷹揚軍上護軍,掌八衛四十二都府兵,元命・蘭,皆以純故大用,初,穎後妻寡居, H屯,矯{曾通罵,後蹄穎,及 H宅貴,主穎家,文遁罵,以顛妻,主中績, B屯,貧滞日甚,貨賂轄湊,居家飲酒陥 向,怒意聾色,謁王則清談,能菜果若飲,密直提皐李達衷,嘗於慶坐,謂日屯日,人調公酒色過度, B屯,不悦, 罷之,十五年,時,以四月八日,大燃燈子其第,京城争放之,貧戸,至乞巧以蹄,諌官鄭橿・李存吾,上疏, 極論陀罪悪,皆見庭逐,語在存吾{専,自是, B屯之築驚尤甚,宰相・蓋諌,皆附崎市言路塞免王,以無嗣,欲 納妃,親選徳豊君王義・散騎安克仁・正郎鄭寓・判官鄭頁生女子内庭,日屯輿王並擦胡床,観之, B屯既以計 量逐動蓄,余議評理睦仁吉,難潜邸奮臣,以武人不識字,不矯忌,及其兇詐盆露,恐仁吉白王,因事諮之,任 君輔言,仁吉蕃人,不可以小失去,日屯,衝之,文聞植之見逐,君輔管救,盆嫉之,港諮王,井仁吉,同日霞 之, B屯,以責裳・李書山・韓方信・安遇群・李金剛・池龍書・楊伯淵・金達群・李云牧・張必檀・李善等,局 禁衛提調官,珍是,内外之樺,悉摺、方全日屯陀,輿宰橿,迎慶州天王寺合利子王輪寺,王,率百官往観,百官, 冠帯立庭,日屯,著宇膏,手園扇,並御床坐,袖縁イ七文,立授王令押,王,受之愈謹,居敷日, B屯率僧徒,還 舎利,賛成李仁任,従 H屯,歩至天書寺,迭之,後,雨府,祭正陵,日屯不拝,坐封公主紳座,イ有食,王,調諸 陵,百官,皆随王奔, 皆起立, 文幸高羅里,観撃毛主, 行酒, B屯,濁立不奔,王,嘗御偲棲,観撃毛主雑戯,都堂帳幕,在棲東, B屯,馬而輿語,至棲下,乃下馬,輿王坐棲上,侍中柳濯,進鰻, B屯,於帳殿前乗馬,侍中以下起立, B屯騎馬至幕前,諸相 B屯服飾,一如王,見者不能耕,王, B屯,騎遁,垂鞭自若,文興侍中手桓,侍王宴,桓, B屯,以飲飴授桓,桓,飲之無f鬼色,王,一日,歩幸陀第,日宅輿王,並据傍輩,無復君臣之檀,毎出入, 騎従百徐,儀衛,擬珍乗輿,日屯,請置田民主!宇整都監,自矯判事,梼議中外日,比来,紀綱大壊,貧墨成風,宗 廟・撃校・倉庫・寺市土・椋轄・軍須田,及園人世業国民豪強之家,奪占幾輩,或己決伺執,或認民局隷,リ十| 豚騨吏・官奴・百姓之逃役者,悉皆漏隠,大置農荘,病民椿園,感召水早, 愛知学院大学文学部紀要第 38 号 有得子之望,前曾一日 別建浄殿,覆以白茅,矯道場,吹螺撃鼓,如三軍鼓角,聾振者,求官者,必遣妻妾, 先賂頴妻内謁,穎妻,謂其人日,別室甚狭,不可著表衣,文不可率従者以入,其妻妾,著短杉,費貨賄,猫 入,陳所欲,時,猫輿相針,醜聾流聞,判事僕普安・三宰萎碩,嘗以事,遣其妻謁 H屯,日屯欲汚之,皆働聾固 拒,頴輿妻,事H屯朝夕不離側,若老奴稗然,知都余議呉仁津,輿千興・仁吉・元命・三司右使安遇慶・前密 直副使越希古・剣開城李希泌・評理韓日軍・鷹揚上護軍越珠・上護軍予承順等,密議日,辛 H屯姦倭陰投,好議 段人,斥逐動嘗,殺裁無事,黛輿日盛,道説密記,有非僧非俗,首L政亡園之語,必是此人,持矯園家大患、,宜 白王,早除之,剣少府寺事萎元甫,輿剣書辛貴,善,曾,貴遣人,借器妙元甫,元甫日,欲何用,日時以韻 同,元甫臼,何用韻,我輿某某,賂除之,其人,蹄告貴,貴,馳往告 H屯, 種目,日屯,山水間一禍也,上,勃令至此, H屯夜令其徒,備弓剣以衛,詣王告 B屯,不敢遺命,思欲去姦悪,用賢良,使三韓百姓,組得平康,然後 勝一衣ー鉢,還向山林,今園人,将殺日屯願上哀持,王,驚間之, B屯具以貴語封,乃命繋仁津等子巡軍,文 因貴・元甫,鞠之,杖流仁津・希古・千興・元命・遇慶・仁吉,及仁津子英佐子南沓,波矯官奴,籍其家,文 流 H軍・希泌・燐・承 11慎・元甫・大護軍柳仁梓・韓徳卿,文以郎持田永貴・朴世元,私議千輿等無罪,井流之, 獄方興,日屯赴西普通法席,三品以下,皆帯弓剣以衛,日屯以其黛李元具,矯慶尚・江陵道察訪使,金鼎,矯 楊慶・全羅道察訪使,高漢雨,矯西海・平壌・交州道察訪使,元具,素輿時相善,及 H屯得志,来謁,尋求去, 岡田,園家,欲選賢頁,君何去也,俄授大護軍,矯察訪,凡 H竜之錐怨,皆矯之報,累遷剣大僕事,叉監察大夫 孫湧, 日詣略家,事皆告菓,日屯,坐堂上,湧,毎出入,備伏堂下,玄風人郭儀,毎遇俗節,備酒撰,往霊山, 集日屯父墳,令守者這岡 至,行省諸相皆立, 崎,以素不相識,驚喜召之,尋除正言,十七年, B屯,濁南向坐,不矯躍,党塗等,怒詰之, 任,私飼之,王聞甚漸,日屯終無'塊侮, 日本,遣{曾党温等,来聴,党量等 B屯,念甚,欲敵之,館待甚簿,至闘其覆鏡,仁 B屯,燃燈,設火山,逝王幸其第,輿云牧・顛・知申事廉輿邦・鷹揚軍 上護軍李得課等,率文武敷百人,矯左右隊,督之,燈以百高計,極其奇巧,文盛陳雑戯,王,賜布百匹,得 京本隊尉,責縁附 H屯,膝頴,貧縦不法,嘗矯全羅道按廉,未行,憲府,劾得寮盗慶州貢紬,王,命蓋官勿 問,督令之任,及矯班主,縛厳内侍別監,憲府,文劾之,王,亦不問,後日屯,以得震盗影殿材,殺之,問,始 有寵,李費賢,白王日 日竜骨法 類古之凶人,請勿近, 門生,互相干請,如李斉賢門生・門下見門生 王,素疑署科或濫, il重注随意,不許既市 B屯,深街之,以老不得加害,乃謂王白,儒者,稽座主 途矯 j繭園之盗科畢之害有如此,時,義文館,請行科皐, 聞典校寺書疏祝者,惟一人,乃幸九費,取李倉等七人, 悪柳淑,諸王殺之,文聴金文鉱議殺文鉱父達群及其兄君鼎 B屯 語在淑・文鉱{専前密直副使金精,輿金興組・ 趨思恭・食思義・金粛顔・金重量賓・李元林・戸希宗等,謀議日屯思恭,渡謀方会所善前洪州牧使鄭購,輝,輿提 皐韓蔵,告春富,春富入白,王,命繋巡軍獄,鞠之,杖流有差, B屯遁遣私人珍中略,皆総殺之,叉以珠・元 命,嘗輿思義遁書,皆杖殺之,凡矯随所殺者,妻子,不敢訴完,廷臣,無敢言之,日屯叉欲謹殺流人,訴妙 王,遣孫演子慶尚・全羅道,其黛洪永逼,謂陀日,多殺人,何盆, {~弗氏罪幅報展之説,亦可畏,願更思之, B屯 倍,更白玉,召演還,十八年,以公主忌長,設曾子演幅寺, f曾尼敷千,施布八百匹,時,水原道機,流民,聞 曾全集, B屯,以蝕布,分輿流民,以干審, B屯,欲自矯五道都事審官,令三司,上書請復之,王日,我皇考忠君 王,値早災,党香告天,罷此宮,天乃雨,寡人,可忘先王之意乎,焚其書,後, 王,王戯日,五道都事審,食議,可自矯之,文日,大盗 州,王怒, B宅,費諸州豚事審奏目,詣 莫若諸州事審,事途寝, B屯密令春富,請移都忠 B屯,托言,松京漬海,海冠可畏,以解之,王,乃下令,牌巡駐三蘇,護民除道,文松平壌・忠州、1 , 皆作離宮,及公主魂殿,峠供頓,民甚苦之,然畏 H屯無敢言者,判司天監陳永緒等上書,以矯,近者,太白董 見,文年機,静吉動凶,王日,何晩奏耶,明日,謂左右白,園事,大臣不可不興開,輿問議,罷之, B屯珍八 開曾,揖王,受群臣朝子儀鳳棲,王性猪忍,雄腹心大臣,及其擢盛,必忌市謙之,日屯,自知鴎張太甚,恐王忌 之,密謀不軌,イ曾韓温,初附 H屯以辛丑戦功,封輔理君,後被罪逃,髪市改性名高仁器,奔剣少府監事,洩日直 逆謀, B宅,因自耕於王,復杭仁器髪,放千金剛山,賓庇之,十九年,帝遺使,来錫王命,井賜日屯綜吊璽書,稿 相園辛日屯,王国諌官言,令六部蓋省官,毎月六街日,親奏事,時言,六街日聴政,則聴訟官,五日内,未能窮 治,請珍初二 -104 高麗時代の「叛逆伝」研究 VI (西川) 犯也, B屯怒且罵日,爾輩,誠怯儒無用者也,自是,日夜粟謀,更刻日皐事,時,求官者,悉附 H屯選部議郎 李靭,亦矯開門客,備知兇謀,陰籍記之,事迫,乃匿姓名,稽矯寒林居士,矯書,夜投宰相金績命第,即微服 亡去,績命,以其書聞,王,命巡衛府,牧捕時黛頴・思遠・仁器・前少 F鄭亀漢・将軍陳允倹・頴子前正郎仲 惰・韓乙松等,鞠之,王,始疑靭謹構,不之信,及訊,其黛皆服,乃諒穎・思遠・重量漢・允倹・仲備・仁器・ 乙松等,流云牧・辛貴・辛修,翼日, B屯以小児生辰,飯僧慶明寺,王,命承宣擢仲和,降香,賜鱗龍衣, H屯渥謁正陵,王,命仁任・興邦,及頭裏速古赤,従之,後二日,流時子水原,命李成林・王安徳,押行,理 部・憲司,請族顛等,王日,門下・重房,何無朕疏,都評議司奏日, B屯,本庸{曾,遁蒙恩、幸,乃詑謀矯擢,陰 結黛輿,圃矯不軌,幸頼、天佑,勢除其黛, B宅以逆首,只賀子外,向保首領,宜置極刑,井謙遣華同産,及其薫 顛・居、遠等子,飴黛,亦悉窮治,門下省奏日,大逆,天下高世之所不容,辛 H屯本一微{曾,濫遇上知,位極人 臣,進退百官,顕指気使,虞植兇徒,観観非分,幸頼、組宗之霊,殿下先見之明,兇謀議費,乃用寛典,止方合流 放,三韓歓望,且時之黛輿,不但頴・思遠等七人市己,伏望断以大義,置問極刑,籍波家産,井夷其黛,以快 衆心,憲府文請諒 H屯流其親黛,籍産瀦宅,王日,法者,天下高世之公,予不得私撰,宜如所奏,遣察訪使林 撲・伏覆使金到子水原,訣間,即召還随所逐千輿・壁・希泌・承JI慎等,初,王,興開・春富等,同盟,至是授 撲盟書,使示日屯敷罪日,爾嘗謂近婦女,所以導引養気,非敢私之,今聞至生児息,是在盟書者欺,城仲,遁 甲第至七,是在盟書者欺,如是者数事,敷罪詑,可焚此書,撲,至水原,使人詐報宣召, B屯,喜臼,今日召 還,蓋矯阿只思我也,阿只,方言小児之稽,日宅稗妾般若,生牟尼奴,王,以矯己子,是矯禍,阿只,指牟尼奴 也,水原府使朴東生,泣時前,陳其情欺,成林,叱逗之,純,嘗刑,束手乞哀於撲日,願公見阿只,活我,乃 斬之,支解, l'旬諸道,棄首京城東門,初,撲,輿上将軍李美沖,侍王,王,目美沖日,汝知阿只事免劉日, 臣己知,撲,佐之,出以間美沖,美J中日,上嘗鋳金銭,授臣往略家,賜阿只,阿只大喜, B屯謂予日,上,敷 幸吾家,非矯我也,予,具以聞故,上,有是言,至是, B宅訣,撲,謂史官閲由誼・李至日,諒辛時,園家大 慶,文有大慶,君等知予,上,幸宮人生子,今己七歳, B屯,漕養之,不使園人知,是亦嘗諒,史官,宜知之, 文斬時二歳児,及間異父弟判事菱成乙,訣春富・蘭・云牧,其子,;支局官奴,文訴時黛大護軍李伯修・護軍白 絢・孫演・金斗達・金元高・僧天正・哲観・奇頴子仲粛,淑倫・仲平・林照載・辛岡・辛貴・林世・崖津・林 仁茂・林端,波蘭従弟大護軍千賓・端弟郎将桂,矯奴,皆伏剣自死,杖流湧・永遁・金鉱・許完・前承旨金 額・春富弟光富・元富・上将軍金重源・大護軍宋蘭・孫湊・金安・石蘭・金鼎・果仲華・民部尚書成俊徳・成 汝完・檀部直郎臭ー鵠,大常少卿越思謙・柳溶・郎将朴千祐・前軍簿正郎柳資津・芦徳方・韓休・楊天式・羅 松・金晦西・辛冗之・金真鯛・高敏等,有差,思謙,後矯判事,論遁其妻父之妾,文附 H屯多受賄賂,廃矯庶 人,流遠州、1 ,一顎,嘗属政房少卿,胃受中部将河永洪俸職,監察司論劾,除名不紋,附 H屯得官,至是敗,三司 右芦李遇龍,亦以時黛,克官, B屯及逆薫妻妾,皆浸属官稗,靭,後以功,膝濯至政堂文皐,日屯,性畏般犬,悪 射強,旦縦活,常殺烏難白馬,以助陽道,時人謂 H屯矯老狐精。 3)金元命については拙著「高麗時代の『姦臣伝』の研究 I 一一立伝人物の分析一一」愛知学院大学人間文化研究 所紀要「人間文化』第 20 号金元命の項, 222"-'3 頁参照。 4) 金徳珍著『年表で見る韓国の歴史』明石書店刊, 2005 年, 119"-'120 頁。 5) ff'東国輿地勝覧』巻十八,扶余,山川・石灘の項に詩があり「白雲千載空悠然」とある。 6) 武田幸男著『高麗史日本伝』 ω 岩波書店刊, 2005 年, 28"-'29 頁。 7)関賢九著「辛聞の執権とその政治的性格」例『歴史学報』第四十輯, 180 頁。
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