6 デフレスパイラルの可能性について:総需要曲線が垂直な場合 6

6 デフレスパイラルの可能性について:総需要曲線が垂直な場合
6-1 AS-AD モデルにおけるデフレスパイラル現象
本節では,第 6 章第 6 節で議論したように,金融市場が流動性の罠に陥っているために
総需要曲線が垂直になっている場合を考えてみよう。具体的には,図 7-12 が示すよう
に,潜在 GDP よりも下回る GDP 水準において,総需要曲線が垂直になっている場合を考
察していく。
このような場合には,総供給曲線と総需要曲線の交点における産出量が潜在 GDP を常
に下回るために,合理的期待形成によって潜在 GDP で成立する物価水準を予想すること
ができない。総需要が総供給を下回る過小需要状態が恒常化すれば,物価水準は,需給調
整する役割をまったく果たせないままに,急落していくことになるであろう。
また,図 7-13 が示すように,適応的期待形成においては,前期に成立した物価水準が
潜在 GDP 上の予想物価水準となるので,総供給曲線は下方にシフトする。すると,下方
シフトした総供給曲線で交わる物価水準が次期の予想物価水準となるので,総供給曲線は
さらに下方シフトする。このように総供給曲線の下方シフトが繰り返され,物価水準が継
続的に下落していく。
以上のように見てくると,合理的期待仮説であっても,適応的期待仮説であっても,物
価水準は継続的に下落していくことになる。こうした価格調整プロセスは,デフレーショ
ン・スパイラル(略してデフレスパイラルル)と呼ばれている。中央銀行や政府の政策担
当者が継続的なデフレ状況を懸念するのは,GDP 水準が潜在 GDP さえ達成できない状態
が慢性化してデフレスパイラルが生じている可能性を鑑みているからである。
こうした慢性的な過小需要状態を伴うデフレスパイラルの主因は,標準的なケインズ経
済学で不況の原因とされている名目価格の硬直性ではない。第 6 章第 6 節で議論してきた
ように,デフレスパイラルのもっとも重要な原因は,マクロ経済政策の不徹底にある。図
6-23 と図 6-24 が示すように,積極的な財政政策によって IS 曲線を右方にシフトさせる
か,名目金利をマイナス水準に誘導する金融政策によって LM 曲線を下方にシフトさせる
かによって,垂直の総需要曲線の位置を右側にシフトさせることができる。その結果,実
際の GDP と潜在 GDP のギャップを埋め合わせられる。
すなわち,大胆なマクロ経済政策を展開すればデフレスパイラルを回避できるというの
が,垂直な総需要曲線を伴う AS-AD モデルのインプリケーションということになる。
6-2
理論的な問題点
AS-AD モデルが中期モデルであるということを考えると,せいぜい数年間に起きる急激
な物価下落がデフレスパイラルに相当すると解釈すること自然であろう。しかし,実際の
政策担当者は,より長期に及ぶ持続的な物価下落についても,それがたとえマイルドなも
のであったとしても,デフレスパイラルと解釈する傾向が強い。
それでは、数年間を超えるような継続的物価下落をもって、AS-AD モデル上における垂
直な総需要曲線によって生じたデフレスパイラル現象と考えることが理論的に妥当なので
あろうか。
本章の第 2 節で議論してきたように,潜在 GDP の水準は,生産関数,企業の価格設定
行動,労使間の賃金決定などの供給側の民間行動で決定される。一方,垂直の総需要関数
の位置は,図 6-21 が示すように,IS 曲線が横軸と交わる切片で決まってくる。すなわ
ち,財政政策の要因を除けば,消費関数を決定する家計行動,設備投資関数を決定する企
業行動,純輸出を決定する貿易活動などの民間行動で決まってくる。
AS-AD 分析では,そうした供給サイドの民間行動と需要サイドの民間行動がまったく独
立していて,両者の間に相互作用はいっさい想定されていない。このような分析枠組み
は,たかだか数年の期間で生じる中期の経済現象には妥当するであろうが,それ以上の期
間に及ぶ経済現象には不適切でないだろうか。長期にわたって,企業や家計の民間行動が
供給サイドと需要サイドで完全に分断されるとは考えにくい。
6-3
実際的な問題点
また,垂直の総需要関数によってデフレスパイラルの可能性を理論的に説明できたとし
ても,そのモデルから,
「どの程度の期間にわたって,どの程度の物価下落が生じた場合
にデフレスパイラルと判断するのか」という実証的なインプリケーションを得ることは非
常に難しい。
たとえば,米国で 1929 年 10 月の株式市場暴落後に起きた大恐慌下の急激なデフレーシ
ョンは,AS-AD モデル上で中期に生じるデフレスパイラル現象に相当すると解釈すること
ができるかもしれない。米国労働統計局によると,消費者物価指数(総合)は,1929 年
10 月から 1933 年 4 月までの 3 年 7 ヶ月の間に 27.4%下落した。年率換算すると,8.7%
という高いデフレ率であった。
一方,日本経済について考えられているデフレスパイラルは,期間についていうと非常
に長く,程度についていうと非常に軽微なものである。第 2 章で見てきたように,総務省
統計局によると,消費者物価指数(総合,2010 年基準)は,1998 年 10 月に 104.5 のピ
ークを記録して以降低下傾向が続き,2013 年 2 月に 99.2 のボトムを記録した。すなわ
ち,14 年 5 ヶ月の間に 5.1%の物価が下落したが,年率に換算すると,0.36%のデフレ率
にすぎなかった。このような長期に及び,しかも非常にマイルドな物価下落は,中期モデ
ルである AS-AD 分析におけるデフレスパイラル現象に相当すると考えることはなかなか
むずかしい。
なお,日本経済の GDP デフレーター(季節調整済み)は,1997 年第 2 四半期から
2013 年第 3 四半期の 16 年あまりの間に 17.9%(年率換算で 1.2%)のデフレが生じた。
しかし,第 9 章で詳しく論じるように,この間の GDP デフレーター低下は,純粋な物価
下落と解釈することはできない。
いずれにしても,日本では 2000 年前後から,欧米では 2008 年のリーマンショックを起
因とする世界的な金融危機以降に展開されたきわめて積極的な金融政策の背後には,マク
ロ経済がデフレスパイラルに陥ったという状況判断があったことは確かであろう。第 IV
部第 15 章では,日本銀行がどのような積極的金融政策を展開してきたのかを見ていこ
う。
なお,本章の第 7 節では,1990 年代後半以降の日本経済が,はたして金融政策の不徹
底による総需要不足に陥っていたのかどうかを実証的に検討している。
図 7-12
垂直な総需要曲線のケース
総供給曲線
物価水準
総需要曲線
A
GDP
潜在 GDP
図 7-13
期待的予想形成でデフレスパイラルが生じるケース
総供給曲線
物価水準
総需要曲線
A
潜在 GDP
GDP