天使も羨む恵み

天使も羨む恵み
第一ペトロ書の福音 2
天使も羨む恵み
1:10-12
表題は、今の朗読の最後の言葉(:12)から取ったものです。あなたがた
が受けた福音の恵みは、「天使たちも見て確かめたいと願っているものなの
です」とペトロは言います。そんな貴重なものだという、ただの比喩だと言
ってしまえばそれまでです。でも、この「確かめ」たいと訳してある言葉
は、「身を屈めて覗き込む」という、とても描写的な言葉なの
です。「なに、そんなすごいものが……日本人の織田に……?」と、天使が
身を乗り出して確かめている感じの絵を、ペトロは描いていると言いましょ
うか。これと同じくらいスケールの大きい表現と言えば、パウロのエフェソ
書にもう一か所見られるだけです。(エフェソ 3:10)
さて、1 行目の「恵み」はダテに書いてあるのではありません。ユダヤの
宗教家なら、「そのなの……有りかァ!」と言ったような甘すぎると思える
ような憐れみが、異邦人に与えられた驚きがこの「恵み」という言葉に込め
られています。幼い時から聖書を教えられて読んできた訳でもない。外の人
より立派で高貴な生き方を通してきた訳でもない。血を流すほどの苦行を積
んだ訳でもないし、試練に耐えた訳でもないのに、そんな雑な(と見えた)
人が神様から愛されて喜びに満ちている。これには天使たちもびっくりした。
預言者たちは「ああ、あのような救いの実現を生きている間に見たかった。
いつ来るかだけでも知りたかった!」と嘆声を発している。そう言うのです。
それほど大きな、貴重な、ありがたいものをあなたは受けた。それも、あな
たの真剣な努力でつかんだのではない。それは向こう側から来たのです。キ
リストが来られた時に来たのです。キリストが……4 行目にありますように、
「苦難を」受けて十字架で死なれた時に来た。死人の中から復活して……5
行目にありますように、「栄光を」お受けになった時に、この途方もない恵
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みは来たのです。
最後から 4 行目にある「福音」という言葉をごらんください。ペトロは「嬉
しい知らせ」という意味の言葉《》から派生した動詞を使って
()表現しています。どんな意味で「嬉しい知らせ」か?
それは、この私のような悲しい者、泥にまみれたような、いや、タルソのサ
ウロ式に言うなら死体同然の絶望的な者に、「あなたにイエスと同じ清さと
輝きを与える」とおっしゃるのです。「あなたの罪は十字架の血で完全に清
められた。死体であったあなたに、復活のイエスの命が注ぎ込まれる。この
命は墓場の向こうまで、死の壁をブチ抜いて生ける神の命につながっている。
イエスがあなたのために死んで、あなたのために生きたことを、あなたがも
し信じるなら……。」天の父がそう言って保証してくださるというのが「福
音」―あなたへの“嬉しい知らせ”であります。
もう一つ、終わりから 5 行目の「啓示」という言葉に注目してください。
もしこの二字を近鉄の名投手の名前(鈴木啓示)でしか知らなかった方は、
ここで覚えてください。聖書で言う「啓示」というのは、神御自身が教えて
分からせてくださることです。あなたが賢くて分かるのではない。あなたが
霊的に鋭くて悟るのではない。こちら側からではなく向こう側から主の霊が
心を開いて、「本当だ! これは、私一人のために準備された恵みだ!」と叫
ばせる感動……それがこの「啓示」の意味であります。啓示は宗教家やエリ
ートにだけ与えられるのじゃない。平凡な私やあなたに与えられるものです。
こう言いますと、もう結論までいってしまったのと同じですが最後にまた
この結論に戻って、具体的な実例や経験と結び付ける前に、まずこの短いペ
トロの文の趣旨を味わってみましょう。
1.預言者たちの探求と、彼らの発見の限界。 :10-11.
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10.この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ
語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。 11.預言者たちは、自
分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光に
ついてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指す
のか調べたのです。
「預言者たち」と言いますのは、イザヤとか、エレミヤとか、ホセアとい
うような、いわゆる「預言書」を残した人たちだけではなく、詩篇を書いた
ダビデ王とか、そのダビデを選んで香油を注いだサムエルなども含んで言っ
ているのだと思います。神に召されたその預言者たちが、でも、どうして七
百年、八百年から千年近い未来の恵みを見て語れたのか……。この「恵み」
というのは(さっきは、ユダヤ人の宗教家なら「甘すぎる」と言ったろうと
言いましたが)、ちょうど私たちと同じような、もともと神と無縁の反逆者
で、清さも準備も何もなかった「異邦人」に、神の愛が及ぶということを表
しております。パウロの引用を参考にしますなら、「『わたしの民ではない』
と言われた者をそのまま『生ける神の子ら』と呼ぶ」(ローマ 9:26,ホセア
2:1)……というような言葉が、これをよく表しております。
しかもその恵みは、キリストが来て何か為になることを教えてくださるの
ではなくて、4 行目にありますように、
「キリストの苦難とそれに続く栄光」、
つまり、キリストが辱めを受けて死ぬ。そして死人の中から復活して、天の
父の右に上げられる……というそのことだけによって恵みは来るのです。そ
んな、およそ誰も考えなかったようなことを、実際に預言したというのです。
どうしてそんなことが分かったかと言うと、預言者の中からキリストの霊が
証ししたと、ペトロは言います。啓示です。神御自身の命の息吹が預言者の
中に吹き込んでてそれを見せた。
たとえば、イザヤに知らされた内容は、次の詩の中に描かれています。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
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……彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのため。彼が打ち砕かれたの
はわたしたちの咎のため。彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
(イザヤ 53:3,5)その後に神御自身の言葉としてこうあります。
「わが僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」
(イザヤ 53:11)
ただその恵みが、いつどんな形で実現するか……そのキリストである方は
いったいどなたなのか……については、預言者たちも真剣に探求したし、精
密に調べて知ろうとした……とこれは(11 節後半)新共同訳や新改訳の訳文
による意味ですが、句読の打ち方によっては、口語訳のような意味にも取れ
ます。とにかく預言者たちはキリストの苦難と栄光ということまでは御霊に
よって示されたけれども、そこから先は手探りする外はなかった。この 11
節にこめたペトロの意図は、「その預言者も見ようとして見られなかった恵
みを、私たちは経験した幸せ者だと知れ」というのです。
2.福音は本当は、今のあなたのためにある。 :12.
12.彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのため
であるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導
かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知
らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。
「自分たちのためではなく」というのは、自分たちの時代に実現して同時
代の人が救われるのではなく、ということでしょう。その後の、「あなたが
たのためであるとの啓示を受けた」と言いますのは、正確に訳せば「あなた
たちに奉仕していた」と書いてありますから、「この救
いを本当に頂くことになるあなたがた今の時代の人たちのために、特にこの
預言をしていた」ということで、「あなたがたの役に立とうと、語るだけ語
ってその時を信じて待った」と言い直しても良いのです。
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そして、現にその福音をこの手紙の読者たちに伝えた伝道者たちも、自分
の信念とか、思想や宗教哲学としてこの福音を伝えているのではなくて、「神
から遣わされた」聖霊で、つまり、神の命の息吹でキリストの福音を内に込
められて、神御自身の力で押し出されるようにして伝えた。それは神の憐れ
みの御事業であったと。こうして、イエス・キリストの血の力であなたが清
められたこと。キリストの復活の命であなたに新しい命が吹き込まれている
こと。こんな、驚くべき奇跡は、さすがの天使たちにも想像できなかったこ
とで、天使たちは今あなたたちに起こっていることを、目を凝らして自分で
確かめないと信じられない位だと。
こうして、ペトロの手紙は、預言者でさえ自分の目で見ることができなか
ったような恵み、そして天使たちもびっくりして目を見張っているような福
音が、あなたがたに届けられた。それも神御自身の手で届けられたことを、
ゆめ忘れるな、と結びます。
《 勧めの言葉 》「啓示」があなた自身に起こる“時”。
この 12 行の底を流れる基調は、「恵み」、「啓示」、「聖霊」という三つ
のテーマです。それは、別の言葉で言えば、「神御自身がなさった憐れみの
業」ということで、その内容もその伝達もすべて神御自身の御手の業である
というに尽きます。昔これをまず知らされた預言者たちも、キリストの霊の
啓示が内から溢れて初めて語ったし、この人たちにキリストの福音を伝えた
人たちも聖霊で信仰を与えられて、聖霊に押し出されるようにして、あなた
たちに伝えた。それに、ここには書いてありませんけれど、あなたたち自身
キリストの十字架を自分のための十字架と信じることができたのも聖霊によ
った。それは、啓示以外のなにものでもなかった。こうして恵みは恵みとし
て受け止められた。ペトロの伝えたいことはその一事(1:2,3 参照)であり
ます。
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時代を 1900 年へだてる今の私たち自身を考えてみても、恵みの出来事はや
はり、同じ起こり方で起こっています。キリストを信じる信仰の戸口までは、
いろんな事情やいきさつで、人はたどり着きます。不幸や病気や問題で砕か
れてそこへ来る人もあれば若い時から聖書を教えられて、そこへ来ないのが
不思議なくらい自然に信仰の入り口へ来る人もいます。しかし、本当にイエ
ス・キリストの血が私を清くした、イエスはこの私を生かすために復活した
という正味の確信だけは、聖霊が人の心を開いて啓示なさる時にしか生まれ
ないのです。この出来事は、外から見れば信仰の決断と霊の飛躍ですが、そ
の人の霊の深みで起こっていることは、神御自身の指が触れて起こる奇跡で、
英語では“conversion”―これは“変換”、“転換”、すべてがひっくり
返って逆になることですが、日本語では「回心」の二字で表されます。
さっき、「人は自分の悲しさから戸口まで来る」と言いました。でも、自
分の人格的欠陥に悲しむ人は、自動的にキリストを信じるでしょうか? 人を
傷付ける悲しさを何とかしたい! 呪いと毒を取り除いて愛の人格を形成し
たい! そんな人は喜んで十字架の血を受けるでしょうか? たいていは受け
ないで済ますのです。キリストの教えを利用させて頂いて、愛と赦しの実験
か体操の一つもやらせて頂いて、それで“御免こうむる”のです。キリスト
の言葉が修養の糧になれば十分。十字架の血だ、復活だ、聖霊だで悩まさな
いでくれ。それが普通です。
仕事に行き詰まった人は容易にキリストを信じるでしょうか? 恋に破れ
た人、人の不実や裏切りで打ちのめされた人は、“当然”クリスチャンにな
るでしょうか? それで信仰の戸口まで来る人はいますが、大体はならないで
終わるものです。復活したキリストを信じなくても、聖書の中には、受け止
めようによっては勇気を奮い起こしてくれる言葉、自分に打ち勝てるだけの
処方はいくらでも見付けることができます。十字架からは犠牲的愛の精神を
学べば十分だし、復活は美しい夢とヴィジョンを提供してくれます。いつで
したか、ラマンチャの男ドン・キホーテの夢に託して話したことがあります。
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復活で夢が持てればいい。聖霊の力だとか、次の世の命だとかは、宗教的に
凝る人に任せておけ!
重い病気に圧し潰される人は、キリストで新しい命を見いだすでしょう
か? 大多数は“ノー”です。「元気が出るテレビ」という番組の名を新聞で
見たことがあります。ちょうどそれと同じような「元気の出る聖句」を見つ
けて、好きな言葉を手帳に書き付けて楽しんで、元気にれば用のなくなる人
は軽い方です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、元気を出しなさ
い。わたしは既に世に勝っている。」キリストだってそうおっしゃった。私
はこれで行く。パウロだって「苦難を誇りとする」と言ったんだ。「苦難は
忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。しかもこの希望は私たちを欺か
ない。」さすがは大パウロ。良い言葉を残してくれた! 重い病気の人でも、
これで間に合わせる人もいます。そうでなければ、時たま、キリストを信じ
る親切な人に励まされて、勇気づけられて、それで終わります。「ありがと
う。あなたの一言で心がどんなに温められたか。感謝してますよ。一生忘れ
ませんよ。キリスト教って良いですねェ。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…
…」―それで終わるとしたら、あまりに惜しいのです。
しかし、どんな事情からその戸口に来たにせよ。そういう方たちの中には、
霊の準備が整って、神の時が満ちて、本当の信仰の飛躍の瞬間が、「回心」
の時がフルに満ちている人もいます。その人は決して自分の病気の苦しさを
忘れた訳ではない。自分の事業の行き詰まりで苦しまないのではない。欠陥
人間の悲哀に泣いていないのではない。人に裏切られた痛手が癒えたのでも
ない。そういう悲しみと現実はそのまま残っているのですけれど、その悲し
みの中で、それとは比べられない大きな深刻な問題に気づいた人がいたら、
自分の中に始まっている本当の“死”に気づいた人にだけ、聖霊の命の言葉
は届きます。預言者を内から動かしたと同じ“キリストの霊”です。ヘブラ
イ書の読者たちに福音を伝えた人たちをつき動かしていたと同じ聖霊が、き
っと感動と確信を与えてくれます。
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「あなたの罪を処分した。あなたを清くするための十字架がある。あなた
を死人から生きた人間にして、死の向こう側まで突き抜ける凄い命を与える
キリストがおられる。あなた一人を生かすためだけにでも、キリストは復活
したのだ!」これは聖霊の声です。これがもし聞こえたら、「アーメン、こ
れは私のための福音。これは私のためのキリストです」と告白する人は今も
出ます。その人は恐れず、躊躇せずに、キリストに自分をお委ねなさい。そ
れは決してその人が賢いからではない。その人が純粋だからでもない。それ
は神様が起こす恵みの奇跡だ……とペトロはここで、それが言いたい。それ
に気づいて欲しいのです。
(1991/01/27)
《研究者のための注》
1.「天使らが身を屈めて覗き込もうとしている」くらいの驚異的な恵み……という表現
に匹敵するパウロの言葉は、エフェソ書 3:16 です。録音シリーズ「エフェソ書の福
音」第 7 講「神の多彩な知恵」の3項「天使もあなたを見て驚く」を参照。またこの
テーマは、1985 年の第 36 回キリストの教会全国大会報告書 7 頁以下の「前代未聞の
奥義」でも扱っています。
2.預言者たちが「恵み」を語ったことへの、パウロの旧約引用による言及として Stibbs
は、ローマ 9:25,26,33,同 10:11,13,20,同 15:9-12,21 を指摘しています。
3. (:11)のを大多数の訳者はと並んで
を修飾すると見、「どの時、またいかなる時に」の意味に訳しています。「どの」と
「いかなる」は対句ですが、そのニュアンスの違いについては、竹森満佐一氏の注解
102 頁の最後の 2 行の説明が適切です。このをにかかると見ずに、
そのすぐ後に出ると並行する意味「誰に関して」と解せば、
はと切り離されて、フィリポの質問《……》と同じ意
味(使徒 8:34)になります。RSV や新改訳、共同訳、新共同訳が「だれを」と訳し
ているのは、この読み方を取っているわけです。
4.預言者たちの中の「キリストの霊」《》がキリストの死と栄光を事
前に証しする形で()示そうとして()おられたとペト
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ロは証言しているのですがこのは、肉の形を取らない先在のキリス
トが預言者の中に働いて「御自分のことを啓示した」と取ることもできますし、また
Stibbs のようにをキリスト御自身とは理解せず、神が任職の香油
を注ぐようにしてキリストに与えておられた「神の霊」(イザヤ 42:1,ルカ 4:18,21,
マタイ 3:16,ヨハネ 3:34)という角度から、「キリストに与えられていた神の霊」
─神の息吹である生命エネルギーが、預言者にも与えられてキリストを啓示したと
解釈することもできます。Stibbs が 83 頁で、ヨハネ 15:26 や同 16:14 に言及しな
がら試みている説明は示唆的です。この解釈を取れば、「キリストの霊」は、「キリ
ストが所有してのおられた霊」、「キリストも(預言者と同じように)受けて所有し
ておられた霊」くらいの意味に薄められる嫌いがありますが……。
5.「栄光」が複数形で表現されているのは「復活の栄光、昇天の栄光、最後の審
判者としての栄光、天の支配の栄光を含む」とは Bengel の古典的説明です。
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