重複ありのウェーブレット変換を利用した原油先物のリスクに関する考察 上智大学大学院理工学研究科数学領域・院 細野 剛二郎 上智大学理工学部情報理工学科 加藤 剛 1 研究の背景と目的 本研究は,ウェーブレット変換の一種である重複ありの離散ウェーブレット変換を利用して,東京商品取引所 (TOCOM) における原油先物価格について,大きな下落や上昇の前兆現象をとらえることを目的としたものであ る.例えば原油先物は,化学製品メーカーのような大口需要家にとっては,長期にわたる原料の安定した調達に必 要な仕組みである.また,現在では,先物市場は投資家の資産運用の場と化している一面もある.大口需要家に とっても投資家にとっても,先物価格が急激に大きく変動することが事前にある程度予測できれば,売りと買いの 入れ替えやポートフォリオの組み替えなどにより,損失を回避する手を打つことができる.ところが,株式市場や 債券市場を対象にした研究に比べると,先物市場におけるリスク評価に関する研究は限られている.特に,相場が 急激に変動した際の措置を 2009 年 5 月に東京商品取引所 (TOCOM) が値幅制限制度からサーキットブレーカー 制度へ変更したこともあって,TOCOM 取扱いの商品先物を対象とした研究は少ない. 重複ありの離散ウェーブレット変換は,時系列データを複数のスケールで分解して時変周波数の推定をするこ とに長けている.そこで,その性質を活用し,原油先物価格が急激に大きく変動する前兆現象をとらえ,リスク評 価の指標として使えるように数値化できるか否かを試みる.原油価格は,その標準指標である WTI (West Texas Intermediate) について,この 1 年間はほぼ一貫して下落傾向を続けている.また,リーマンショックが起きた 2008 年には,大きな上昇と下落の両方の値動きをした.そこで,前兆現象の有無を検討するデータを入手しやす いという理由により,本研究では原油先物を対象にした. 2 ウェーブレット変換 2.1 フーリエ変換とウェーブレット変換 信号処理を初めとする時系列解析には,定常性の仮定のもとで,伝統的にフーリエ変換が用いられてきた.1980 年代初めにウェーブレット変換が考案されると,それは工学の分野を中心に理論と応用の両面で大きな発展を遂 げ,現在ではフーリエ変換とともに必要不可欠な道具となっている. フーリエ変換とウェーブレット変換の違いをごく簡単に述べると,フーリエ変換が「相似性 + 周期性」である のに対し,ウェーブレット変換は「相似性 + 局所性」である.両者に共通する相似性とは,フーリエ変換ならば eix ,ウェーブレット解析ならばある条件を満たす ψ(x) に対し,パラメータを導入して eiωx (ω ∈ R) あるいは ψa,b (x) = a−1/2 ψ((x − b)/a) (a, b ∈ R, a > 0) という族を考えて変換を行うことを指す.フーリエ変換のもう1 つの特徴である周期性は,時系列解析ならば定常時系列の周波数のように,時刻に依存しない性質のものを分析す ることに役立つ.一方,ウェーブレット変換のもう1つの特徴である局所性は,信号の変化点の推定や,時系列 データにおいて時刻の推移に伴って変化する周波数(時変周波数)の推定に威力を発揮する. 2.2 連続ウェーブレット変換 ウェーブレット変換は, ウェーブレットという特別な関数を用いて, 関数をさまざまな尺度で局所的に分解する 変換で, その分解を通して関数の特徴を調べることができる. ウェーブレットを生成するにあたって, まず, 条件 ∫ ∞ ψ(x)dx = 0 −∞ ∫ ∞ −∞ 2 |ψ(x)| dx = 1 をみたす関数としてマザーウェーブレット ψ を定義する. 次にマザーウェーブレットから, ウェーブレット ψj,k を生成する. 任意の整数 j, k に対し, ψj,k を j ψj,k (x) = 2 2 ψ(2j x − k) (1) と定める. j, k は,それぞれスケール (周期) の決定と平行移動の役割をもつ, このウェーブレット ψj,k を用いて, 解析したい関数を成分ごとに分解することができる. 解析したい関数を f としたとき, ∫ dj,k = ∞ −∞ f (x)ψj,k (x)dx をウェーブレット係数という. この, ウェーブレット係数 dj,k の多くは 0 に近い値になるという性質がある. また, ψj,k (x) が, ∫ { ∞ −∞ ψj,k (x)ψj ′ ,k′ (x)dx = 1 j = j ′ , k = k′ , 0 otherwise, をみたすとき, f (x) = ∞ ∑ ∞ ∑ dj,k ψj,k (x) j=−∞ k=−∞ となり, f を成分ごとに分解した形で表現できる. ウェーブレット変換は, 関数をスケールだけではなく, スケール と時間ごとに分解することにより, 関数の変化の探知に優れている. 具体的なウェーブレットの例としては, マザーファンウェーブレットを ) [ 1 x ∈ 0, 21 , [ ) −1 x ∈ 21 , 1 , ψ(x) = 0 otherwise, としたものから生成される, ハールウェーブレットがあり, 今回の解析でもこれを用いる. 2.3 離散ウェーブレット変換 次に, 離散データ y = (y1 , . . . , yn ) のウェーブレット変換の中でも, 特にハールウェーブレットの場合を考える. このとき, 離散ウェーブレット変換の性質の都合上, n は 2 のべき乗とし, n = 2J とする. そして, 2 種類の係数, { √ dj,k = (cj+1,2k − cj+1,2k−1 )/√ 2 cj,k = (cj+1,2k + cj+1,2k−1 )/ 2 特に, j = J のときは, { √ dJ,k = (y2k − y2k−1 )/√ 2 cJ,k = (y2k + y2k−1 )/ 2 を考える. ただし, j と k はそれぞれ, 0 ≤ j ≤ J, 1 ≤ k ≤ 2j をみたす整数とする. これらの係数 dj,k , cj,k はそれ ぞれ, 連続の場合の dj,k と式 (1) の ψ 内の 2j x − k の部分に対応していて, 連続のときと同様な結果を得ることが できる. 2.4 重複ありの離散ウェーブレット変換 離散ウェーブレット変換の問題点としては, j が小さいとき, つまり周期が大きいときに, 係数の数が少ないた め, 変化を認識しづらいことがある. この欠点を補うものが重複ありの離散ウェーブレット変換であり, 2 種類の 係数をそれぞれ, { √ dj,k = (cj+1,k − cj+1,k−1 )/√ 2 cj,k = (cj+1,k + cj+1,k−1 )/ 2 特に, j = J のときは, { √ dJ,k = (yk − yk−1 )/√ 2 cJ,k = (yk + yk−1 )/ 2 で定義する. ただし, j と k はそれぞれ, 0 ≤ j ≤ J, 1 ≤ k ≤ n をみたす整数である. この定義により, どの周期においても n 個の係数を得ることができる.そのため, j が小さい場合でもデータの 変化を認識することができるので, 重複ありの離散ウェーブレット変換はデータ解析の面では優れている. しかし, この変換は逆変換をするには余計な係数まで生成するので,逆変換を念頭においた分析には向いていない. 3 原油先物価格の分析 金融商品の価格の時系列データについて重複ありの離散ウェーブレット変換をすることにより,周波数の局所 的な変化をとらえ,価格が大きく変動する際の前兆現象をつかむことができるのではないかと考えた.例えば原 油先物を対象にした場合,もしも大きな下落の前兆現象を何らかの数値指標の形でとらえることができれば,大口 需要家や投資家は,先物取引を手じまいしたり,資産内容の組み替えを行ったりして,損失を回避または減少させ ることが可能になる. 本研究では,東京商品取引所が扱う原油先物の約定値段のデータを 15 分次データに換算し,重複ありの離散 ウェーブレット変換を用いて分析した. 原油価格は,その標準指標である WTI (West Texas Intermediate) につ いて,2014 年半ばの 100 ドルから今年の 9 月末時点では 45 ドル前後になるまで,一貫して下落基調を続けてい る.また,リーマンショックが起きた 2008 年には,大きな上昇と下落の両方を見せた.比較的大きな変動をした ときのデータをとりやすいという理由で,東京商品取引所の原油先物価格のデータを対象にした. 3.1 2014 年の原油価格の暴落 図 1 は 2014 年 8 月 8 日から 10 月 31 日までの東京商品取引所の原油先物価格で, データの個数は 4096(= 212 ) 個である. 横軸 2600 付近にある点線は 10 月 1 日 20 時 45 分を示すものであり, その後から値を大きく下げ始め ている. 図 1 2014 年の原油先物価格 このデータに対して重複ありの離散ウェーブレット変換を行い,得られたウェーブレット係数を視覚化したも のが図 2 である.レベル 0 から 11 までのウェーブレット係数が得られる.レベル 0 が最大の周期,レベル 11 が 最小の周期を表す.価格の下落を反映して,小さいレベルから中程度のレベルで係数が下落後に大きく振れてい ることが見て取れる.また,小さいレベルと比較して,大きいレベルの係数は絶対値が相対的に小さくなるとい う, 離散ウェーブレット変換の性質が現れていることもわかる. 注意 本報告では,レベル(水準)0 が最長の周期で,レベルが大きくなるほど小さい周期を表す.次の報告(若 林,加藤)では,これが逆になっている.すなわち,レベル 0 が最短の周期で,レベルが大きくなるほど長い周期 を表す.この違いは,異なる参考文献における正反対の使い方を,表記に関して統一する作業を欠いたことに起因 する. 図 2 2014 年の原油先物価格にもとづくウェーブレット係数 一番大きいレベル 11 の係数, つまり,最も短い周期に対応する係数だけを抜き出したものが図 3 である. 図 3 レベル 11 の係数 一番最後の係数は,データの終端の影響で絶対値が大きな値をとっている. したがって,この値は観察対象から はずしてよい.全体を見ると, 最初は振れ幅が小さいが, 価格の下落の前から振れ幅が大きくなり, 価格の下落が 落ち着いた時期に一番振れているていることがわかる. 振れを見やすくするために, レベル 11 の係数を自乗したものを図 4 として添える.価格の下落の前の横軸 1500 あたりから, それより前と比べて大きな値を多くとるように変化していることがわかる. 図 4 レベル 11 の係数の自乗 さらに, それぞれの点から前に, その点も含めて 40 個の点の平均をとったものが図 5 である.横軸で 1500 あた りから平均が 20000 を超えていることがわかる. 図 5 レベル 11 の係数の自乗の移動平均 3.2 リーマンショック前の価格上昇 図 1 とは反対の高騰する局面についても検討する.図 6 は,2007 年 9 月 18 日 14 時 45 分から 2008 年 12 月 30 日までの東京商品取引所の原油先物価格で, データの個数は 8192(= 213 ) 個である. 横軸 3000 付近の実線は 2008 年 3 月 31 日で,その後から価格が大きく上昇している. また, 横軸 5000 付近の点線は 2008 年 7 月 14 日を示し, その後から価格が大きく下がっている. 図 6 2007 年から 2008 年の原油先物価格 このデータのウェーブレット係数を計算すると,図 7 が得られる.値上がり局面になった後(実線と点線の間) で中程度以上のレベルで係数が下に振れていることがわかる.そして,値下がりに転じた後(点線以降)では,同 じレベルで係数が上に振れていることも読み取れる. また, 図 2 と同様に, ウェーブレット変換の性質で, 大きいレ ベルの係数は小さいレベルの係数と比べて 0 に近い値をとっている. 図 7 2007 年から 2008 年の原油先物価格にもとづくウェーブレット係数 一番大きいレベル 12 の係数のうち,横軸 0 から,8000 までを抜き出したものが図 8 である. 値上がり中と値下 がり中に, 値上がり以前と比べて高頻度で大きく振れていることがわかる. 図 8 レベル 12 のウェーブレット係数 レベル 12 のウェーブレット係数自乗したものが図 9,さらに,図 5 と同じ方法でウェーブレット係数を平滑化 したものが図 10 である. 図 9 レベル 12 のウェーブレット係数の 2 乗 図 10 レベル 12 のウェーブレット係数の 2 乗の平均 図 5 ほど顕著ではないが,値上がり前の 2800 付近で,それ以前より大きな値をとっていることがわかる. これは, 図 9 からわかるように,2800 付近でウェーブレット係数が高頻度で大きな値になっていることを反映している. 3.3 まとめ 図 5 と図 10 で示したように,価格が大きく動く前に, 短い周期の係数が大きく振れる傾向があることがわかっ た. 別の時刻における急騰や暴落の状況で更に検討を重ね,もしも短い周期のウェーブレット係数が大きく振れる 特徴が現れるならば,それを前兆現象の 1 つとして利用できる可能性が出てくる.その場合,何が理由となって 原油先物価格が短期間で上下するように変化するのかを考える必要もある. 参考文献 [1] G.P. Nason, Wavelet Methods in Statistics with R. Springer. (2008). [2] G.P. Nason, R. Sachs, and G. Kroisandt, Wavelet processes and adaptive estimation of the evolutionary wavelet spectrum. J. R. Stat. Soc. Ser. B, 62, 271-292 (2000). [3] データ提供 東京商品取引所
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