GKH020904

天理大学学報 2
0
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4
3,2
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0
4
フランスにおける柔術 と柔道の起源 (3)
細
川
伸
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フランス柔道の歴史 を探 り,今 日まで発展
は じめ に
しつづけた過程 を明 らかにすることは,わが
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LEJUDO,
本翻訳 は,Mi
国をは じめ世界の柔道の普及 ・発展 を考 える
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996,
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L̀E JUJUTSU OU LES RACI
NES DU
'の翻訳である。
JUDOENFRANCE'
5
巻第
天理大学学報第5
4巻第 3号お よび第5
うえでの指針 ともなろう。
川石造酒之助 :日本人エキスパー ト
川石造酒之助がパ リにやって きたのは1
9
3
5
3号 に引 き続 き,"
LE JUDO,s
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年1
0月 1日のことであった。大学で経済 と政
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" の翻訳および注釈 を連載する
治学 を学 んだ学生 ・川石は1
0年間の海外諸国
第 3部 は,フランス柔道の先駆者,川石造酒
の旅の後,プロの柔道家 になっていた。 この
之助 と彼が考案 した 「
川石流指導法」,そ し
間,彼 はアメリカ,ブラジル,そ してロン ド
.
て,その柔道精神 を紹介することにする。川
ンと,指導者の受け入れ体制が整 っている大
石 は1
9
3
5年にフランスに渡 り,独特の指導法
都市 を巡 っていた。 クロー ド・チ イボー1)は
を確立す る。合理的かつユニークな彼の指導
著書 「
百万人の柔道家2
)
」の中で,川石のパ
法 と柔道精神は現在 も受け継がれ, フランス
リ到着 につ いて こ う述べ る。「ミル キ ン氏3)
柔道の原点 となっている。
を中心 とす る数名のユ ダヤ人の柔術実践者が,
1) 天理大学体育学部
1.De
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36
フランスにおける柔術 と柔道の起源 (3)
四段の 日本人 をイギ リスか ら呼び寄せた。彼
イギ リス植民地支配に対す るユ ダヤ人コミュ
、
62番地 に設立 したばか り
らはボブール通 り4
ニティーの抵抗運動 などがあったO
の道場で, この 日本人柔道家が東洋の格闘技
について高度 な指導 をして くれることを期待
したのであった。
」現在,当時川石が どの よ
西洋の川石 :カ リフォルニアから
ロン ドン,そ してパ リへ
うな指導 を行 ったかを記す文献は見当たらな
1
8
9
9年 ,川石 は京都 か ら約 1
0
0Km 離 れ た
いが,口述で伝 えられる証言 によ り十分推測
海沿いの街,姫路で 7人兄弟の 6番 目として
が可能である。彼 らは効果的な格闘技 として
生 まれた。中等教育終了後,名門早稲 田大学
柔道 を求めたのであったが,その背景には ド
に入学 ,1
9
25年 に同校 を卒業後,カリフォル
イツにおけるナチスのユ ダヤ人迫害の激化や,
ニアへ と旅立 った。 日本 を発つ時,彼 は既 に
写真 1 杉村日本大使と川石造酒之助
(
フランス柔術クラブ 1
93
6年)
写真 2 フランスチャンピオンを肩車で投げる川石 (
寒がりの
チャンピオンは靴下をはいている)
37
細川
ひ とか どの柔道家 となっていた。1
9
2
4年 1
2月
2
3日には,当時高段位 であった四段 を講道館
か ら授与 されていたのである。
川石 は,西洋文化の解放 とい う大 きな変革
期 を経験 した世代 の 日本人である。絶対 的父
権 を特徴 とす る伝統文化のなかで,西洋的 自
由思想 の啓蒙で知 られる大学で学ぶ とい う,
対峠す る二つの教育 を受 けたのであった。川
石のアメ リカ行 きにはこう した1
9
2
0年代 の 日
本の時代背景が影響 した もの と考 え られる。
当時 日本 は経済的に も社会的 に も困窮 して
3万人以上の死者 を出 した1
9
2
3年の
いた上 ,1
関東大震災が-一
連の危機 に追い討 ちをかけた。
こう した状況の中,西洋 は多 くの 日本人に と
って希望 と映 った。その結果,移民制 限措置
が とられるほどアメ リカへの移住者が急増 し
た。 とりわけ川石家が住 んでいた西 日本 は特
に移民 が盛 んであった。 こう した地域的特徴
に加 え,彼 の家庭環境 の影響 もあげ られ る。
父親の死後 ,長兄が家業の酒造会社 を引 き継
ぎ,少年川石 はこの長兄 によって育 て られた
のだった。 こうした出生順位 とい う要素 も彼
写真 4 川石造酒之助
が海外での経験 を試み ようと考 えた補足的理
由の一つ とみなせ よう。
,「イ ッセ イ」 と呼 ば
アメ リカ西海岸 で は
れる第 1世代 である 日系移民 は 日本 の文化 を
守 るべ く努力 を払 っていた。 このため 日本 人
コ ミュニテ ィーでは生活様式 を教 えるための
人材 の需要があ り,学問のために渡米 した学
生
弓日石 に も武術 を教 える とい う機会が与 え
られた。川石 はサ ンデ ィエ ゴ大学5)に籍 を置
く傍 ら,柔道 と剣道 を教 えたのであった。や
がて兄か らの経済援助が尽 きたのだが,す ぐ
には 日本 に帰国 しようとは考 えなかった。柔
道のエキスパー トとして外 国で より大 きな手
ごたえを感 じていたためである。ニュー ヨー
クで数年過 ご した後 , ブラジル ・サ ンパ ウロ
に渡 った川石 は, この間に様 々な経験 を積み,
西洋的視点か らみた武道 に対 しての職業的能
力 を身につけたのだ。 また,柔道の授 業以外
,
マ ツダ」 とい う偽名 を使 い,他 の 同
にも 「
じ状況 にあった 日本人柔道家 同様 ,ため らう
ことな くボクサ ーやプロ レス ラー との試合 を
写真 3 小泉軍治 (
イギリス柔道の元祖)
,
柔
行 うため に リングにの ぼ った。 しか し 「
3
8
フランスにおける柔術 と柔道の起源 (3)
写莫 5 昇級試合で審判をする川石
l
J誌 のヘ ン リー ・プ リ- 7)に よる
道 プ レスG
家 に新 たな活路 を開 くきっかけ となった。パ
インタビューをみる と,川石はこうした活動
リのボ ブール通 りの道場 はす ぐに E
]仏 クラ
について多 くを語 ろうとは していない。
ブ川となった ものの,やがて川石 も前任者達
プ リ- : 「プロ レスラー との試合 は大変話
題 にな りま したが。
」
川石 : 「
ああ,あ ま りに昔 の ことで もう何
と同 じ苦難 を味 わ うことになる。やがて,坐
徒数が減 り, クラブは閉鎖 を余儀 な くされた
のだ。川石 はモ シェ ・フェルデ ンクライス12)
も憶 えていない。
」
プ リ- : 「
世界チ ャンピオンのジャック ・
デ ンブ シ
と の 試 合 も話 題 で し た
イ 8)
ね。
」
川石 : 「あれは試合ではない。ニュー ヨー
ク ・アス レチ ッククラブで行 われた単 な
る親 睦 の デ モ ンス トレー シ ョ ンだ っ
た。
」
1
9
31
年1
0月,川石 は ロ ン ドンの武道会9
)
へ
向か った。 ここは1
91
8
年 に創設 され, イギ リ
スの社会的エ リー ト達が通 っていた。その運
営 は極東 の古美術 品や漆器の専 門家 となった
小泉軍治が担 っていた。川石 は指導助手 とし
て 2年 間この組織 に身 を置 き,提携 団体 での
指導 にあた った。
1
9
3
3
年1
0月,意見 の食 い違いが もとで川石
は武道会 を去 ったが,その後 もイギ リス に残
り, E
]英 クラブ抑をは じめ様 々なクラブで個
人的 に指導 を続 けていた。
そ して次 のフランス滞在が,放浪す る柔道
写真 6 川石 とフェルデンクライスによる
1
9
3
9
年頃)
護身術 (
39
写真 7 川石 とフ工ルデンクライスによる喪技
1
9
40年)女性も柔道をしている
写真 8 フランス柔術クラブ (
の力添 えで,ESTP1
3
〉(
パ リ土木専 門学校)
の推薦 を受け役員 に就任, フランス柔術 クラ
ブの技術部長 となったo
「
川石流指導法」
川石流指導法 とは,柔道の技術体系を帯の
この頃には,柔道 を支える組織 は比較的安
色が表す階級 に結 びつけた指導 プログラムで
定 していた。パ リの生徒達の気質や知的好奇
ある。敬意 を払い川石の名 を冠 してはいるも
心 に合わせて指導法の見直 しを行 ったことで,
のの,この指導法は技術者川石 と科学者 フェ
新 たな段階を乗 り越 えることがで きた。川石
ルデ ンクライスという互いに補完 しあ う二人
はその状況に応 じて指導法の調整 を行 うこと
の知性が結実 したものであった。
の必要性 を痛感 した。彼 は後 に 「
柔道 は麦や
フェルデ ンクライスは,パ レスチナで数年
米 と同 じだ。その土地 に適応 させ なければな
間を過 ご し,テルアヴイヴの 「
ベ二 ・レオナ
らない。」 と語 っている。
ール」ボクシング ・クラブ14)でエ ミール ・ア
ヴイネリ15)か ら柔術の手 ほ どきを受 けていた
が,危険に満ちた 日常生活 に対するために護
40
フランス における柔術 と柔道の起源 (3)
写真 9 パリの最初の道場
身術 を学 んでいた。好奇心旺盛 な科学者であ
ているかの判断 も容易 になった。技 を記憶す
った彼 は嘉納治五郎師範 と出会って以来,莱
るの も簡単であ った。 これ らは,物理学者 フ
道 に関する疑問 をい くつ も抱 えていたのだが,
ェルデ ンクライスが実践者川石 に影響 を与 え
フランス柔術 クラブに川石がや って くること
た結果であ る。
で, こう した疑問に答 えがみつかる もの と期
しか し, フラ ンス流の昇級体系 については
待 した。 しか し,パ リ到着 当初の川石の指導
西洋的発想 な しには語れないであろ う。帯の
は他 の 日本 人に比べ て も大差はなかった。川
色の違 いによ り柔道家の習得 レベ ルを具体 的
9
3
9
年 に黒帯 を授 与 した最初の フランス
石が1
に表現 したのである。
人生徒,モー リス ・コ ツ トロー1
6
)
は 日仏 クラ
ブでの稽古 について こ う語 る。「
稽 古 は反復
イギ リスの ビリヤー ドと帯の色
練習,動作 の研 究, しなやかな乱取 りが基本
柔道では,習得 レベルは級 (
黒帯 よ り下の
だった。川石先生 は毎 回の稽古 で新 しい技術
レベル) と段 (
黒帯。異 なる レベ ルを含 む)
を一つずつ教 え,指導マニュアル本 として使
とい う 2つの大 きな階級 に分 け られている。
用 していた分厚 い本 の中か ら選 んだ動作 に目
日本では,
級 の レベルを区別す るの に白帯 (4
印 を付 けていた。
」
フェルデ ンクライスは,川石 との数多 くの
・5 ・6級) と茶帯 (1 ・2 ・3級)の 2色
の色帯 しか使 われていなかった。
交流 について記述 している。共同の著作計画
1
9
2
0
年以来,ロン ドン武道会の指導者 は講
や, 2年間の研 究や協力か ら新 たな方法 に至
道館 に加盟 していた。彼 らは柔術 や剣術 には
った経緯 について も触 れている。川石流指導
目もくれず,嘉納治五郎師範の講道館柔道の
仕では,技 の呼称 を定めるにあた り, 日本の
指導 に専念 した。小泉 とその周辺の者達 は講
ように説明や視覚 イメージを重視す るのでは
道館 の規則 を守 りつつ も,生徒 の レベルをよ
な く,番号 を振 った。 また,嘉納治五郎 師範
りよ く分類する方法 を早 くか ら模索 していた。
の講道館柔道の 「
五教」 と比較す る と,技 の
こう した中,彼 らは帯 の色 に関心 を向けたの
47) ほか,その分 類 方法 に
数が多 い (
総数1
であった。最初 の級 を白帯 とし,2番 目を黄
ついて も若干違 いがみ られた。技 の体系 につ
色 ,3番 目をオ レンジ色 ,4番 目を緑色 ,5
いては,その構成 における論理性 は秀逸であ
番 目を青色,そ して 6番 目を茶色1
7
)
とい う風
った。生徒 が技 に関す る知識 をどの程度持 っ
とい うビ
に定めたのであ った。スヌー カー181
41
神川
リヤー ド競技か ら発想 を得たのではないか と
イス と川石が始めた活動が完成 をみたのであ
もいわれる。実際,イギ リスの ビリヤー ドの
った。ただ し,この書物の最終的形式 は,文
玉の価値 は色 によって定められている。 しか
章 お よびイ ラス トを担 当 した ジ ャン ・ガイ
し,このような仮説を裏付 ける確 たる証拠は
アZZ
)
の功績 による ところが大 きい。 フランス
9
2
7
年6
一切ない。発想の出所 はともか く,1
柔道 ・柔術連盟の事務局長23)であったジャン
月2
2日付 けの武道会の公式報告書では,帯の
・ガイアは川石のアシスタン トを勤めていた
色 と階級 を対応 させ る分類法 に関 して,その
が,高等 商業 専 門学校 (
H.
E.
C.
)
原則が記 されている。川石 はイギ リス滞在中,
学院25)出身の法学博士で もあった。彼 もまた,
と政 治
24
生徒達のやる気 を高めるにはこうした方法が
ポール ・ボネーモー T
)2
6
)
同様,その情熱や論
有効であることを確認 していた。そのため,
理的セ ンス,企画セ ンスを連盟の活動 に注い
パ リで も直 ぐにこの方法 を取 り入れたのであ
だのであった。同書の編集 により,ジャン ・
った。他 にイギ リスの影響力 を受 けた証 とし
ガイアは川石流指導法の内容 についてその形
て,当初 は茶帯1
9
'
を褐色帯2
0
)
と呼んでいた。
式 を定め,それ まで唆味であった部分 も含め,
こうした視覚的な要因は一見些細 なことの
全てを具体的に表現 したのであった。その後
ようであるが,これ も川石流指導法によるフ
「
私の柔道指導法」 は指導および昇級判定 に
ランス柔道成功の一つの大 きな要因であろう。
あたって不可欠な参考基準 となった。この 「川
このように体系的手法 に基づ き教科内容 を
石流指導法」 は 日本の柔道指導 に西洋的な形
定めるとい う方針が,帯の色 によ り階級 を示
式 を導入 したものであった。 このことか ら,
す というアイデアにも反映 されたのである。
海外で,特 にフランスで広 く活用 されること
また, こうした体系的手法は教育プログラム
となった。
の作成 にも応用 された。川石流指導法は 「
指
導の 目標」 とい う実用的な教育の枠組みを作
柔道 と柔術
り上げた。その合理性 は一般大衆の希望 と合
柔術か ら柔道への移行 は相互 に関係 を持 ち
致 した。黒帯到達 を習得 目標 とし,各階級の
つつ行 われた。連盟機構の名称でさえ,二つ
昇級ペースを定めた。つ まり,白帯の最短実
の武道 を統合するとい う指導陣の意思 を示 さ
践時間を 2ケ月,黄帯 3ケ月,オレンジ帯 4
なかったのだろうか。
ケ札 緑帯 6ケ月,青帯 9ケ月 としたのであ
多 くの専 門家 にとって柔道 とは 「
護身のス
る。 また最短2
4ケ月で茶帯 を,3
6ケ月で黒帯
ポーツ」 と考えられていた。 クラブの呼称 に
の取得 を課 した。
日本の制度の完壁 さを追求 した末 に,川石
いたっては, さらに些細 な事柄である。川石
が 「フランスの クラブを今後柔術 クラブでは
流指導法では,柔道家の上達 に向けてこうし
な く,柔道 クラブと変更する」 と決めたのは,
た合理的かつ数量的な方法 を用いたのであっ
彼がフランスに戻 った1
9
4
8
年の終わ りになっ
た。 また生徒の練習プログラムは一つにまと
てのことであった。ただ し名称が変わって も,
め られた。こうして 日本人が 自分の レベルを
それによ り実践内容が変わることはなかった。
内に秘めるのに対 し,フランス人はこれを誇
らしげに示す ようになったのである。帯の色
移行が遅れた第一の原因は技の体系 にあっ
た。その歴史的経緯 か ら, 「
川石流指導法」
が能力の レベルや柔道の階級制度 における地
では嘉納治五郎師範の講道館柔道 に残 されな
位 を公式 に表す もの となった。
かった防禦 か ら着想 を得た動作 をい くつか残
1
9
5
1
年にようや く公式 と呼べ る川石先生に
していた (
手首,脚,首 などの関節技,1
1
番
よる 「
私の柔道指導法21
㌧
」が出版 され,ここ
目の抑 え技 (
裏 固め)な ど)。 こう した技 が,
に指導法の最終内容 を定め,フェルデ ンクラ
後 に国際的なスポーツ ・ルールの制定 をきっ
42
フランスにおける柔術 と柔道の起源 (3)
かけにすたれるまで実践 され続 けたのである。
敬意 に加 え,身体が空 中を舞 う不思議 な光景
第二の理 由は,川石が 自分の指導法 を, フ
な ども強烈 な印象 を与える。柔道の動 きは重
ランス人が既 に習得 していた 日本流指導法の
力への挑戦である。体格や社会 における格差
実践の流れの中に組み入れていた ことにある。
を消滅 させ る柔道衣,細か く注意が払 われる
彼 は稽古 中,防禦 テクニ ックの習得 に1
0分 間
儀式 も,ただ秘伝 を授 か った者のみが,身体
を割 いていた。取材 を受 けた当時の参加者 は,
と空間 を支配 し,行動や感情 をコン トロール
川石が冗談 っぼ く 「さあ,今度 は警官 に対す
で きるようになるのだ との思い をさらに強い
る防禦 を しよう。
」 と口に していた と言 う。
ものにす る。皆が先生の動 きを捉 えるべ く注
一般 的 に,柔術 とい う言葉 には強 さを感 じさ
視 し,その先生のカ リスマ性が道場 を包み込
せ る響 きがあった。新聞 に次 の ような広告が
む。すべ てが,階級化 され,儀式化 され,神
掲載 されていた。
聖化 されるのである。
「
柔道 を習いませ んか。柔術 を大衆化 した
ジ ャ ンール シア ン ・ジ ヤザ ラ ン2
7
)
は長年 に
非常 に科学的なこのスポーツである柔道は,
渡 り柔道の数 えを普及すべ く努力 を重 ねた。
武器携帯が禁止 された今,大人気です。
」
実業家であ り,哲学者そ して活動家で もあっ
4
0
年代 以降 もしば ら く,大衆 向けのデモ ン
た彼 は 「人生の学校」 として彼の前 に出現 し
ス トレー ションでは,一人の柔道家が刀 な ど
た柔道の伝道者 となった。彼 は,初期 の フラ
を構 えた敵か ら身 を守 るといった護 身術の場
ンスの柔道家の精神状態 を鋭 く詳細 にこう描
面 に多 くの時間を費や していた。 また, この
いた。「
我 々は柔道 に溢 れんばか りの賞賛 と
類の シ ョーの中では,よ くある町の喧嘩 に「
か
敬意 を送 った。過剰 ともいえるほ ど熱心 に稽
弱 い乙女」 を登場 させ,彼女が多 くの敵 を一
古 と理論 の学習 に打 ち込 んだ。先生達 に対 し
人一人戦闘不能 に して しまう場面が組み込 ま
て感 じた,ある畏怖 の念,そ して多大 な賞賛
れた。
は,やがて敬意- と変 わった。先生達の人格
,「柔道」 の出現 は柔術 と
日本 においては
に自分達の夢や絶対的な希望 を投影 した。 こ
の断絶 を指 すが, フラ ンスで は継 続 しつつ
う した心 を高揚 させ る熱情が比類 のなき独特
柔 よ く剛
徐 々に変化 してい ったのであ る 「
の雰囲気 を醸 しだ し,かかる雰囲気 の中,厳
を制す」 とい う柔道の イメージが,強いチ ャ
格 な柔道の礼儀作法 や独特 の遺徳的な行動や
ンピオ ンの イメージ と重 なるには,スポーツ
姿勢の習得が苦 もな くで きたのであった。
」
。
としての柔道の到来 を得 たねばならなか った。
東洋の神秘や無敵 になれる とい う想 いに惹
その時,柔術 と柔道 はその 目的や技 の形がは
かれた初心者 は,す ぐさま,成績 自体 に対 し
っ きり異 なる二つの武道 なのだ と認識す るの
てはある一定の重要性 しか与 えない とい う柔
である。
道の本 質に直面す る。 ジヤザ ランは次 の よう
無敵の精神 と東洋の神秘へ の受容性 を持つ,
。「道場 とは,真 に 自分 自身 を探 し
に続 ける
この地 フラ ンスに,特別で独特 な側面 を更に
求める場であ り,単 に巧妙 さ,技 の習得,身
強化 した規律 と実践者 を特徴 とす る柔道精神
体的能力の向上 を図るばか りでな く,意識,
が生 まれるのである。
柔道精神
初心者が フランス柔術 クラブの道場 に入 る
自制心,意思 な どを向上 させ る場であった。
勝 ち負 けだけが重要ではない。
」
ここで述べ る 「
柔道精神」 とは実践者が共
有す る一つの文化である。それは特別 な武道
とその雰囲気 に庄倒 される。受 け身の音が途
である柔道へ の帰属感 を共有す る柔道家達 を
切れる ときの静寂,年長者 に対する控 えめで
結ぶ 目に見 えぬ繋が りなのである。嘉納泊五
敬意 に満 ちた態度,先生 に対す る生徒全員の
郎師範 によ り考案 された柔道 は,精神 と肉体
43
細川
を鍛錬する。柔道 にみ られるエ リー ト主義 は,
1
2)Mo
s
heFel
de
nkr
ai
s「フランスにおける
厳密 には社会 におけるエ リー ト主義 とは異な
」天理大学学 報
柔術 と柔道 の起源 (2)
る。つ ま り,文化的かつ知 的な意味 でのエ リ
5巻第 3号参照
第5
ー ト主義であ り,その強 さは思考 と行動,初
性 と効果,品性 と達 しさといった組 み合わせ
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異 な り,柔道では人間性や社会的価値 に重 き
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を置 く。競技 スポーツの インス トラクターや
コーチは, こう した価値観 の指導 と技術 の指
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導 を連携 させ る柔道の師範 には及ばないので
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r 白色 の手 玉 1個 ,赤色 の玉 1
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個 と色違いの 6個の玉 (
黄 ・緑 ・青 ・茶
ある。
柔道 は結果 に対する精神的意義 を重視す る。
そのため,勝負 に も形が要求 され る。 クラブ
では腰 を曲げた り,力ず くでの防禦 は禁止 あ
・ピンク ・黒) を使用す る
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9)直訳では栗色。 フラ ンスでの茶色 の一般
的な呼 び方
るいは軽蔑 された。 こう したルールは暗黙 の
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wn イギ リス風 の茶色 の呼 び方
了解 であった。取材 に応 じた柔道家 は,柔道
は単 なる格 闘技ではない と力説す る。立派 な
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姿勢 を伴 っているときにのみ結果が評価 され,
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さらに攻める姿勢が立派だ とされた。多 くの
指導者 には返 し技 は評価が低か った。寝技 を
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す る ものの,足技や 巴投 げ を得意 とす る者 に
与 えられた感嘆 を得 るには至 らなか った。 こ
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y 「フランス柔道発展
うした見解 を当時の柔道家全体 に当てはめる
史 とポール .ボネ-モー リ氏 の存在」天
ことはで きないか もしれないが,いずれにせ
よ多かれ少 なかれ,興奮や意識 を超 えた完壁
で絶対 的な動 きこそが理想的 とされ,衆 目の
一致で賞賛 されていた。
注
釈
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6
巻第 3号参照
理大学学報第4
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