ほとけさまの終着駅

世界の宝『アンコール・ワット』の夜明け
ほとけさまの終着駅
◇東南アジアの大帝国
カンボジアの国民の90 %がクメール人である。クメー
ルは海洋民族であると私は考えている。昔、神武天皇の東
ワット・プノン寺(プノンペン)
ワット:寺院
プノン:山という意味で、現在
のプノンペンの語源となった寺で
ある。小高い岡の上に立てられ、
王家の菩提寺でもある。
この玄関の7頭のコブラは大変
迫力があり、クメール人が蛇族の
総本家であると実感させられる。
右の図は最盛時の扶南国の支配
地である。
オケオの遺跡については、後に
詳しく説明する機会があるが、現
在ベトナムの領土であるが、扶南
国の港としてインド文明の流入に
かかわった所である。
チャンパ国とは現在の南ベトナ
ムの北部にあった国で、後年、ア
ンコール王朝と戦に明け暮れした
ヒンズー教の国である。
征に参加した大久米命はクメール人だという説がある。ク
メール人は昔から、東南アジアから東シナ海にかけて、広
く活躍した民族である。
古代中国BC2世紀の後半(漢の武帝の頃)南海貿易の
記録によれば、越人という名前で歴史に登場したのはクメ
ール人だと考えられている。その後AD1 ∼2世紀頃、扶
南(フーナン=中国の呼び名、現地語ブナム=山)国とい
うクメール人の王国が建設されたことになっている。
その範囲は現在のベトナムからマレー半島及びビルマとイ
ンドネシアのスマトラ島を含む大帝国であったという。こ
の王国は北インドのクシャーン王朝や、南インドのアント
ラ王朝及び中国三国時代の呉の国と外交関係を持っていた
と伝えられている。
◇古代カンボジア王国の建国物語
扶南(フーナン)国の建国物語は次の様に伝えられてい
る。
「扶南は女王国であった。AD1世紀の頃、女王は、イ
ンドのベンガル地方(ガンジス河下流)より渡来した「混
眞」という男の持っていた神弓をおそれ結婚して国を作っ
た。」ということになっている。これを梅山なりに解釈する
現オケオの遺跡の関連図
オケオは当時、海岸に面した港
町であった。発掘された遺物には
ヒンズー教の神像と共に仏像も
含まれている。当時の大乗仏教は
梅山が考えた『インド教』として
ヒンズーの神と共に、東南アジア
に進出した。
と、
「クメール族の国・扶南に、AD1世紀頃ガンジス河下
流の地方から、インド文明が入って来た。クメールはこの
文化を受入れることにより、国が富み国力も強くなった。」
となる。当時のインド文明とは、物質的なものもあるが、
ヒンズー教・仏教(ガンジス河流域であるから、大乗仏教
と考えられる。)とそれに関連する建築技術や医学・闘争の
技術等の事であろう。
海洋民族であったクメールの扶南国は、早くからインド
や中国と海上交易を行っており、独自の宗教や文化を持っ
ていた。(蛇族の蛇信仰を持っていた。) A D1世紀には、
プノンペン付近を
蛇行するメコン河
飛行機が着陸するとき上手く
メコン河が視野に入った。
此処から海まで500Km以
上の緩やかな流れとなり、有名な
メコンデルタ(現在ベトナム領)
といわれる大穀倉地帯である。
新興宗教としての大乗仏教が北インド地方で興隆し、驚く
ほど速いスピードで、東南アジア迄進出したのであろう。
当時の東南アジアの宗主国であった扶南国は、この新興文
明に屈したのではないだろうか。即ち、伝統の蛇信仰を残
す形で大乗仏教を受け入れたのである。
◇AD1世紀の仏像を発掘
このことを実証する遺跡が最近発見された。メコン河下
流域でシャム湾に面するオケオ遺跡(現在はベトナム領)
である。オケオは昔扶南国の貿易港で、市内に古代のクリ
ークが縦横に走っている。その1本のクリークは、遠くア
ンコール・ワットのあるシェムリアップ地方まで通じてい
る。
そのオケオ遺跡から、ガンダーラ様式の青銅メッキの仏
座像、アマラバティ様式の錫製の仏座像、又ヒンズー教の
ヴィシュヌ神像等が発見された。仏像の詳細について、現
地を見ていないので、ほとけさまの名前迄はつまびらかで
はないが、ガンダーラ様式の仏像となれば、大乗仏教のも
のであるし、アマラバティ様式とは南インドのもので、未
チャンパ王国の遺跡・ベトナム
だ当時の南インドでは小乗仏教の筈であるから、小乗仏教
ミーソン遺跡群
の釈迦像ではないだろうか、このことにより扶南国は、北
この遺跡はヒンズー教様式であ
る。一説によると、インド・ガン
ジス河流域にチャンパ王国があ
り、その植民地がこの地であった
という。当時の文明国として、ア
ンコール王朝の羨望の的であった
と言われている。
この遺跡は、トヨタ財団が鋭意
研究、修復中である。
インドのクシャーン王朝や、南インドのアントラ王朝とそ
れぞれ文化交流を行っていたものと考えて良かろう。その
他、遺跡の発掘物には北インドからと思われる拝火教(ク
シャーン族は、元もと拝火教であった。)の遺物等も発見さ
れている。
【注】オケオ遺跡は、ベトナム、インド、日本の学者の
共同研究として、現在も継続中である。この地は、
東南アジアの海上交易の基地としてインドの植民地
であった?
という説もある。
◇崑崙船とクメール民族
東南アジア全域の海で活躍した崑崙船という船がある。
ミーソン遺跡への入口
活躍した時代はBC2世紀頃よりAD13 ∼14世紀にわ
竹で組んだ橋を渡っての見学で
ある。2001年1月現在
たっている。東洋の文明国・中国といえども、海上交通に
関しては、崑崙船に任さなければならなかったほどで、そ
の海上技術と港湾にかかわる勢力を持っていたのはクメー
ル族であったと云われている。崑崙船は西のペルシャ船(ア
ラビヤ・ペルシャ)やバラモン船(インド)といわれる海
上船団に伍して、インド洋から東アジア方面に活躍し、A
D8∼9世紀ごろには100人の船乗りで漕ぐ程の大型船
崑崙船の彫刻
ボロブドール遺跡(インドネシ
ア)の壁に浮き彫りされた外洋船
の彫刻。
これらの技術は『扶南国』より
受け継いだものであろう。
が存在していた。船の形等は、ジャワ島にあるボロブドー
ル遺跡(世界最大の仏跡)にその浮き彫りが残されている。
隆盛を誇った扶南国も、代を重ねるにつれて子孫が分裂
し内乱が起きる。時を同じくして8世紀に興隆したジャワ
島のシャインレーンドラ王朝(ボロブドールを建設した王
朝)に海上の権利は勿論、王様まで人質に捕られることと
なった。やがてジャワで育った息子のジャヤバルマン2世
が帰国し、ジャワの属国から国を開放、802年現在のア
ンコール地区に本拠を構えた。これがクメール帝国・アン
コール王朝の始まりとなった。
◇蛇族総本家の安住の地
アンコール・ワット入口
に立つ7頭のコブラ
カンボジアに於ける多頭のコブ
ラは、日本でいえば狛犬か仁王様
のようなもので、王様や神様のガ
ードマンである。
アンコール・ワットやアンコール・トムについては別の
レポートに譲ることにするが、東南アジアの仏教の伝播に
ついては、AD1世紀大乗仏教の成立の頃、海上ルートに
よってこの地に渡ってきたことが明らかになってきた。こ
れは恐らく、陸上のシルクロードよりはるかに早いスピー
ドで伝わったものと考えて良かろう。その頃、扶南国の原
始宗教には、ナーガ(蛇)信仰があり、仏教もヒンズー教
も、ナーガ信仰の中に取り入れられていった事が、カンボ
ジアを筆頭に、このインドシナ半島で良く分かる。それは
蛇神をデザインした様式の寺や、建造物が大変多いからで
ある。
ナーガ信仰を持った民族は、BC1 5 0 0年頃、アーリ
アンコール・トム南門
ヤ人のインド侵入により、南インド方面よりはみ出し、ボ
橋柱の五頭のコブラ
ートピープルとなって東方に移住したと考えられている。
欄干手摺は蛇の胴体である。ヒ
ンズー教・天地創生の物語『神々
と阿修羅の綱引き』を表す欄干で
ある。
2001年に訪れたときは、観
光客で満ち溢れていた。
今回のカンボジア旅行を経験して考えられる事は、蛇族の
本隊は、このメコン河流域に定住し、新しい文明を作って
いったということである。この民族の最強の部族がクメー
ルであり、クメール族こそナーガ信仰を持った民族の総本
家であり、高い海洋技術を持った海洋民族だったのだろう。
◇クメール族の興亡
AD1世紀に伝播したインド文明は、ヒンズー教・大乗
仏教・小乗仏教など明確な区分をすることなく取り入れら
ボロブドール遺跡
世界最大の仏教遺跡・インドネ
シア中部ジャワにある。シャイン
レーンドラ王朝(9世紀前半)は
大乗仏教国であった。2002年
3度目の時の写真である。
れ、ナーガ・ヒンズー仏教と云う形で庶民の信仰を集めた。
そして南太平洋方面や、極東にも伝えられたと想像される
けれども、受け入れ地域の文化程度や、経済力の差によっ
て異なっていったのではなかろうか。その点ジャワのシャ
インレーンドラ王朝には、比較的純粋(?)な大乗仏教が、
又同じジャワの隣国・マタラーム王朝へは、ヒンズー教が
受け継がれ、※9 世紀前半のボロブドール仏教遺跡及び、
※9世紀後半のプランパナン・ヒンズー教寺院となって現
在に伝わっている。残念ながらクメールの扶南国には、本
家らしい遺跡はなく、9世紀から始まるアンコール王朝に、
9世紀末頃より建築された小規模のヒンズー寺院が、アン
コール都城の郊外に残っている。
プランバナン遺跡
ボロブドール遺跡と同じ中部ジ
ャワにあるマタラーム王朝( 9 世紀
後半)
・ヒンズー教の遺跡である。
インドのヒンズー寺院にも匹敵す
る規模を持っているが、建築の部
分的な様式にはボロブドール遺跡
と共通するものがある。
アンコール王朝の全盛は、11∼12世紀で、或る王様
はヒンズー教寺院を、又別の王様は仏教寺院(大乗仏教)
を建設している。特に寺院の壁に浮き彫りされた物語、王
様の生涯譚、戦争の図、庶民の生活図は、その独特の絵画
技法と共に、後世の人々に大変貴重な遺産となっている。
※:後述・第三篇のレポート「釣鐘に入ったほとけさま」
を参照されたい。
◇仏教の三角地帯
ここで私は、このインドシナ半島に伝わった仏教につい
て、その伝わり方に大変興味を持っている。1つには南方
より(実際にはインドから海上ルートで)カンボジアに大
仏教の三角地帯の伝播地図
「梅山説」
ラオスの首都ビエンチャンの喫
茶店にて日本人カメラマンと同席
した時、この話をした。
彼は「仏教の三角地帯」という言
葉を始めて聞いたといって、興味
を示してくれた。
学問的に考えるような話題では
ないのであろうか。
乗仏教が(本格的にはインドネシアから)又クメール帝国
衰退後、ビルマ及び北部タイよりラオス方面に小乗仏教が、
更に第3の伝わり方として、北部ベトナム方面から中国仏
教が伝わり、仏教の三角地帯(梅山の造語)を作ることと
なった。
今回の旅行は、その混ざり方を見ることが1つの目的で
あった。カンボジアの大乗仏教は現在一般庶民からは忘れ
去られ、形式上は小乗仏教となっているが、お寺の中に安
置されている仏様は、ナーガ信仰と共に多神教的要素を各
所に含み、ヒンズー教の神様や、中国の神様が見られる。
この地方は、やはり仏教の終着駅だったのだと、我が意を
得た次第である。
プノンペンの王宮
シアヌーク殿下の住む王宮、屋
根の色が美しい。右側にメコン河
が少し見える。
【注】インドから最初に仏教が伝わったのは、カンボジ
アか?或はジャワ島か?わからないが、ジャワ島の
方が古い遺跡が残っているので、ジャワ島経由でカ
ンボジアへ、と言う説が今は有力となっている。
【注】仏教の終着駅は、権力者層では東
南アジアだが、庶民層には更に海上ルート
で韓国・日本にも伝わったと私は考えてい
る。
1992年3月
2001 年 の ア ン コ ー ル は 観 光 地 と し て 良 く
整備され立派なホテルが軒を連ねていた。
この 日 本 人 用 の ホ テ ル の 玄 関 前 に は 、 「 ジ
ャヤ・バルマン 7 世」 ・「ラ イ王」 と呼ばれ 、
失明はしたがアンコール王朝全盛を築いた
王 様 の 像が 飾 ら れ て いる。