記念講演 国際貢献とは何か - 栄光学園

学園通信
№64
2006.7.20
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創立記念日 記念講演
国際貢献とは何か
― アンコール・ワットで人材養成 15 年 ―
石澤 良昭 (上智大学)
当日の録音テープを編集部で起こしてまとめました。
写真は石澤先生にお借りしたものから何枚かを掲載
します。
(図書館にもアンコール遺跡に関する本がい
ろいろあるので参照してください。
(大沢)
今日は皆さんにいろいろな話をしたいと思ってやって
きました。最近、高松塚のことが新聞によく出ますが、
実は私はその調査委員会の委員長をしています。どうし
て上智大学の学長が高松塚のことをやらなければいけな
いかというと、正義にのっとった調査をして報告を出し
てもらう、ということで受けてほしいと頼まれたので、
喜んで引き受けました。今週の初めにすべてが終わり、
報告書を出したところです。
私は上智大学のフランス語学科を出て、卒業と同時に
カンボジアに行きました。1961 年のことです。それ以来
45 年間、半世紀近くアンコール・ワット遺跡の保存・修
復と人材養成をやってきました。
そのきっかけは私のフランス語の先生で、ポール・リ
ーチというフランスのアルザス生まれの先生でした。こ
の先生は井上ひさしの小説のモッキンポットのモデルに
なった人で、とても面白い神父さんでした。私はこの神
父さんが大好きだったのですが、
成績はよくなかったし、
いろいろなことでよく怒られました。
私が卒業した直後、
神父さんに集中講義でベトナムに行くから一緒に行くか
と言われて、ついて行きました。その続きでカンボジア
に行き、アンコール・ワットの前に立った時に、すごい
なという感じがして、背中がぞくぞくするような衝撃を
受けました。
立ちすくんだというのが本当のところです。
その後、カンボジア、パリ、日本を行ったり来たりしな
がら遺跡修復の仕事を続けてきました。
皆さん、カンボジアというと何を思い浮かべますか。
『広辞苑』でカボチャの項を引くと、俗説としてカンボ
ジアから来たウリと書いてあります。俗説ですから確固
たる裏づけがあるわけではないのですが、そういわれて
います。もう一つ、カンボジアから来て日本語になった
のにキセルという言葉があります。電車のキセルではな
くてパイプのキセルです。これはクセルというのが江戸
時代に日本に入ってキセルとなったものです。こんなこ
とで日本とカンボジアはけっこうつながりがあります。
アンコール・ワットを訪ねた日本人としては、寛永 10
年ですから 1632 年、熊本の加藤藩の家臣で森本右近太
夫一房という方がいます。彼は感激のあまりそこを祇園
精舎と思ってしまいました。
祇園精舎は釈迦の時代、
B.C.
の 600 年代には確かにあったものですが、彼はアンコー
ル・ワットがそれだと思ったのです。
私がカンボジアを好きになったもう一つの理由は、人
がやさしいということです。大自然に囲まれて豊かな生
活をしていますが、所得からいうと日本の 100 分の 1 で
す。汚いシャツを着て裸足で歩いているので、私たちは
かわいそうだ、何とかしてあげたいと思うのですが、非
常に人にやさしい。仏教というちゃんとした信仰を持っ
ていて、目と目があうとニコッとします。日本ではあら
ゆるものがそろっているけれど、今の社会は校長先生の
話にもあったような格差社会です。
以前、カンボジアの方が日本に留学生としてやってき
て、最初に中央線に乗せました。彼は、
「石澤、どうして
みな黙っているんだ。本を読んだり、目をつぶったり、
みな怒っているのか。だから話しかけないのか」と言い
ました。異文化の違いを彼は感じたのです。
人にやさしいということは、貧しさとか汚いシャツを
着ているからかわいそうとか、そういう問題ではなく、
心の問題です。私は常にそう思っています。
カンボジア人の心のやさしさを、カンボジアに数年住
んでみて感じました。1961 年、日本人は私一人でした。
何で日本人がカンボジアまでやって来るのかと言われま
したが、若者どうしで友達もできました。その友達が何
だかんだ言いながらカンボジアのことを教えてくれ、一
緒に生活し、仕事もしました。30 数名の仲間はコンサベ
ーター(遺跡の保存官)です。私が、カンボジアが好き
だから遺跡のことを一生研究し続け、研究の結果を世界
に発表したいと言うと皆が賛成してくれました。昼、夜
はたいてい一緒で、食堂に行くと顔を合わせる。行事が
あると誘ってくれる。今日は畑の水を抜くから見にくる
かとか、祭りがあるから来るかとか、過ごした年月はカ
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ンボジア人のなかにどっぷりでした。
そのカンボジアに、政治的な理由でポルポト時代とい
う虐殺政権の時代がありました。1975 年 4 月 17 日、ポ
ルポト政権がプノンペンを制圧しました。この時のカン
ボジアの人口は 800 万でした。政権は人々をプノンペン
から追い出し、多くの人を殺しました。その理由は、
educated people、つまり外国語が話せたり、外国のこと
を知っていたり、軍隊に入っていたり、官庁に勤めてい
たりする人は敵だ、外国の思想に汚染されているという
ことでした。そのとき、30 数名の友人がことごとくやら
れてしまったのです。
政権がどうやって人を見分けたかを聞いてびっくりし
ました。米を配るといって村単位で人を集め、名前を書
かせ、年齢、職業などを書かせ、そのあとで手を見せろ
と言ったというのです。農民の手は土くれを扱っている
ので硬くなっている。ところがお役人などの書記の手は
軟い。それで私の仲間のコンサベーターはことごとく行
方不明になりました。
その後、1980 年、まだ内戦時代でしたが、生き残りの
一人から手紙をもらいました。日本に石澤というのがい
るから届けてくれと、特派員だった人に託したのです。
その時私は鹿児島大学にいました。手紙を見てすぐにで
かけようと、バンコクまで行き、薬品を積んでカンボジ
アに入る国際赤十字の飛行機に乗せてもらいました。80
年の 8 月 16 日でした。そして友達がいなくなっている
のを知ってたいへんショックを受けました。
私はその人たちとした約束を守ろうと思いました。そ
こから人材養成のプロジェクトを立ち上げました。プノ
ンペンの大学の正式な再開は 1993 年ですが、内戦も終
わってその 2 年前から事実上始まっていました。93 年の
パリ和平協定で完全に平和になり、
その後自衛隊が PKO
で出かけ、明石康さんが全体の指揮をとりました。私も
その時、プノンペンの王立芸術大学を訪問し、考古学科
と建築学科のカリキュラムを見ました。皆さんの時間割
は毎日、全部埋まっているでしょう。ところがその大学
ではところどころにしか科目が入っていません。そこで
日本の先生方にプノンペンに行っていただいて考古学、
建築学、歴史学、保存科学などの集中講義をしてもらい
ました。2 週間の講義のあと、シェムリアップの遺跡に
連れて行き、1 月間、学生を保存官という遺跡を守る人
に育てます。
考古学は、穴を掘って、測量し、出てきたものを水洗
いし、目録に載せていきます。今日はこんな瓦が出た、
大きさは何センチかを測り、写真に撮り、台帳に載せま
す。どんな穴を掘ったかは平板測量をし、土の層位も調
べます。建築学の方は、石の現況図を先ず描き、一つず
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つ石をはずし、また元に戻すという作業をします。
こういうことを大学の休みごと、3 月、8 月、12∼1
月と年に 3 回、先生を派遣し、学生は 1 月間講義と実習
を受けます。その中から優秀な学生、その道の専門家に
なれる学生を日本に連れてきて、上智大学で修士、ドク
ター(博士)課程を取らせる。これを初めて 15 年目に
なり、現在ドクターが 4 人、修士を終えた者が 8 名いま
す。その人たちはカンボジアに戻り、現場の指揮官とし
て働いています。
私がなぜこういうことをやろうと思ったかというと、
やはり友達との約束を絶対にやろう、彼らがもし生きて
いたら私と一緒にいろいろなことができたのだから、彼
らに代わって遺跡を守る人を作ろうということでした。
私はこれを行うにあたって、
三つのことを掲げました。
自前発掘、自前修復、自国研究ということです。カンボ
ジアは 1953 年までフランス領でした。その植民地時代
にはカンボジア人は遺跡を守る人として育っていません
でした。私が 1961 年に会ったのは第 1 期生でした。私
もその 1 期生の中に入ったわけですから、思いひとしお
で、彼らとの約束をこれからの人たちに託そうとしたの
です。
私は昨年 1 月まで、学長になどなるつもりはありませ
んでした。ずっとカンボジアに行って遺跡の発掘や修復
をすることが私の使命だと思っています。ところが上智
大学は民主的な大学で、選挙で当選してしまい、昨年 4
月から学長をしています。ほんとうはカンボジアに戻り
たいのですが、なかなか許してくれません。なぜカンボ
ジアなのかと問われても、どうしてもカンボジアなんだ
というのが今の私の偽らざる気持ちなのです。
私たちは宣伝をしません。政府の ODA のようにこん
な建物を作ったとかは言いません。しかし、現地では上
智大学(ソフィア・ユニヴァーシティ)の名前から、ソ
フィア・ミッションと呼ばれ、よく知られています。上
智も栄光も同じイエズス会という修道会が設立したもの
ですが、他人のためにつくす、奉仕するというのが共通
の建学の精神です。それにのっとって、困った人を助け
るというのが根本精神です。自己犠牲の上に、困った人
に手を差し伸べることを、私たちは遺跡の保存・修復と
いう形でやっています。皆さん、アンコール・ワットに
行く機会があったらのぞいてみてください。西参道沿い
にソフィア・ミッションと小さく書かれた建物があり、
上智大学から派遣された建築や考古学の専門家が一人な
いし二人、カンボジア人と一緒に働いています。仕事は
カンボジアの人がほとんどやっています。これが、私た
ちもびっくりしたのですが、NHK の「プロジェクト X」
にとりあげられました。現場では、石工さんの訓練、保
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存の専門家の育成、地元の協力者の養成の三本立てで動
いています。
では、これからはパワーポイントで絵を見ながらお話
をしていきます。
カンボジアの地図です。西がタイ、東はベトナム、こ
こがホーチミンです。今の人口は 1100 万、真ん中をメ
コン川が流れています。アンコールはトンレサップとい
う大きな湖のほとりにあるアンコール王朝の大きな遺跡
です。この王朝は今のタイ、ラオス、ベトナムの半分く
らいを領土としていました。
日本でいうと邪馬台国の卑弥呼の時代、カンボジアに
は大きな国がありました。中国の三国の魏が日本と使い
を交換していましたが、カンボジアには日本の卑弥呼よ
りも 10 年早い 229 年、呉の国から使いが来ていて、そ
の使いがインドのクシャン王朝からの使いと出くわした
という記録がありますから、3 世紀にはすいぶん開けた
国でした。使いが来たのは海岸沿いの町で、そこからは
ローマのコイン、マルクス・アウレリウスという 2 世紀
の皇帝のコインが出ます。またインドの彫刻やペルシア
の沈み彫りという彫刻も出ます。海のシルクロードを通
じて相当大きな交流があったのです。
アンコール遺跡には、東西に大きなバライという巨大
貯水池があります。カンボジアの気候は雨期と乾期なの
で、雨期の洪水防止のために水を蓄え、乾期にこの水を
使って米を作ります。それでアンコールで働いた人の食
料をまかなえるのです。アンコールができたのはこの食
料対策がうまくいっていたからです。アンコールを作る
のにどれだけの人が働いたのかをコンピューターでシミ
ュレーションしてみました。作業員が一日に 9500 から
10300 人くらい必要でした。石を運ぶ人、石を積む人、
浮き彫りを彫る人など職分に応じて職能集団があったで
しょう。それで 30 数年かけて作られたのです。これは
作業員の男の人の数ですから、家族も含めると 40 万か
アンコール・ワット全景 回廊に囲まれている
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ら 50 万の都市だったと考えられます。当時、世界で一
番大きな都市はコルドバで 60 万程度、次がコンスタン
ティノープルで 50 数万、そして宋の開封、4 番目がアン
コールで、5 番目が京都です。ですから、アンコール・
ワットは突然できたわけではなく、それなりの前提がで
きていて、歴史が作られたのです。
アンコール遺跡を東京都と比べると、だいたい 23 区
の広さに相当します。ランドサットの映像でも、アンコ
ール・ワット、アンコール・トム、貯水池がわかります。
貯水池は 2 ㎞×8 ㎞です。近くの飛行場と比べるととに
かく大きいことがわかるでしょう。
ワットの周りには 200m の環濠があります。雨が降っ
ても冠水しないように土を盛るために、ここから土を掘
って盛り上げました。また環濠は川から水路でつながっ
ていて、石を運ぶのに筏を使って運んだのです。
今、実験中で、皆さんにもぜひ見てもらいたいのです
が、500 ㎏、1t、3t という石をどうやって運んだか。ゾ
ウが引っ張るとか、水に流したとか、いろいろな仮説が
あります。カンボジアにも木材はありますが、硬くて比
重が重い材で水に沈んでしまいます。そこで竹、日本の
とは違い中空ではない竹があります。それで筏を組んで
それに乗せるのではないかと思い実験をしましたが、失
敗しました。そうではなくて、石を水につけて重さを半
減させ、それを筏にくくりつけて川から水路、環濠を伝
って流したようです。これは 4 月 7 日に NHK で放送さ
れ、その時はあまりうまくいきませんでしたが、この方
法を使ったものと思われます。
アンコール・ワットには外回廊、中回廊、中心回廊が
あります。高い塔が密林の中に頭を出しています。ヒン
ドゥーの信仰では、インドのヒマラヤの奥の奥に須弥山
という神様が住んでいる山があると考えられています。
そうヴェーダに言われています。その山を地上に作った
のがアンコール・ワットで、シンボリックに須弥山を模
しているのです。
傾斜度 62 度 神々が上り下りする階段
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傾斜度が 62 度という急な階段があります。どうして
こんな人も上れないような階段を作ったのかとよく観光
客に聞かれます。これは神々が上り下りする階段で、神
様の思し召しが広く人々に行きわたるようにということ
で作られた階段なのです。
回廊には浮き彫りが掘られています。識字率がほとん
どゼロに近い時代には、
絵を見せて日常生活のきまりや、
極楽浄土のインフォメーションを伝えたのです。浮き彫
りの下段は閻魔大王の地獄、中段は現世、上段は極楽浄
土です。王女様が閻魔大王に今生の別れをして出かける
場面では、女官たちの不安な面持ちまで浮き彫りには表
現されています。
ヴィシュヌ神の姿です。王様の顔と同じ、つまり王様
は即、
ヴィシュヌ神なのです。
外に掘られた浮き彫りは、
天空から舞い降りてくる神々を歓迎する意味もあります。
女神たちは夕日に輝き、手作りなのでどのお顔も一つと
して同じものはありません。美しい女神像のモデルは、
王宮の舞姫たちだと考えられています。
浮き彫りは 1 辺が 1.8 ㎞の壁に彫られています。夕日
があたると踊りだすようです。
テカテカ光っているのは、
カンボジアの人たちが手でなでたからです。日本でもお
地蔵さんなどに触ると痛みが消えるというような話を聞
いたことがあるでしょう。
王宮内の様子を「ナショナルジオグラフィック」に載
った想像図で紹介します。王は神様で、額縁状のところ
に鎮座ましまして、臣下は王に報告をしてお言葉をいた
だく、それが法律になっていきます。王様は建築の指揮
もとりました。これは「ニュートン」に出た図ですが、
アンコールはできた当時は金ぴかだったのです。
今でも、
村の人たちが寄進するパゴダは黄金です。アンコールと
同じ時代にできた日本の中尊寺の金色堂も金ぴかでした。
のちに金閣寺や銀閣寺ができますが、信仰と金・銀とは
つながりが深いようです。
1294 年、元のフビライはカンボジアを攻めました。カ
回廊の浮き彫り
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ンボジアの王様は利口にも、使いに貢物を持たせて帰し
たのです。すると中国から 1296 年に答礼の使節がやっ
てきて王様に拝謁したという記録が中国側に残っていま
す。その報告をもとにその場面を想像してみました。
現場ではゾウが石をひっぱっています。人間ではとて
も動きません。それに暑いのです。カンボジアは 3 月が
いちばん暑く、40 度から 50 度になります。私は寒暖計
を持って仕事をします。午前中はいいのですが、午後に
なると石の輻射熱で日本の寒暖計は飛んでしまいます。
50 度を越えることがあるのです。さすがに頭がボーッと
します。日本のように根をつめて仕事をするのは不可能
です。日本人は東南アジアの人を見て、ダラダラ歩いて
いるなと思うかもしれませんが、そうではないのです。
あんな暑いところで日本流に歩いていたら死んでしまい
ます。気候風土にあった歩き方、生活の仕方をしていま
す。昼寝をしないと体がもたないし、あまり太っている
人がいません。それだけ自然が厳しいということです。
私たちはバンテアイ・クデイというところで考古学・
建築学の研修をしています。村のお父さんやお兄さんを
雇って、倒れそうな石垣に暫定的な筋交いを入れます。
落ちると下の石も割れてしまうから、
まず落下防止です。
近くの木を切ってきて三角又を作り、石をジャッキで動
かします。
考古学調査では、穴を掘り、出てきたものを水洗いし
て写真に撮り、目録に載せていきます。写真に写ってい
る女性は今ではプノンペン市の観光局の副局長になって
います。日本人の専門家は助言はしますが、よほどの誤
りがないかぎり彼らの作業を見守っています。
これは私が遺跡で講義をしているところです。質問が
あればすぐ現場を見て答えられます。緑陰講座ではあり
ませんが、大きな木の下で午前中 2 時間講義をします。
石工さんの訓練です。8 年たち、10 年たつと、いっぱ
しの石工さんになっていきます。アンコールを作った当
遺跡での講義
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時は電気ノコギリやカンナはなかったわけですし、遺跡
のあるところはだいたい辺鄙なところで電気はありませ
ん。最終的には手で覚えることになります。
日本の石工さんは、
日本の矩尺や炭壷を使っています。
写真の研修生は裸足ですが、今では地下足袋をはかせて
います。
掘った破片を組み合わせて接着剤でつけています。そ
のまま残る破片もあります。こういう作業も彼らが自分
たちでやります。
こういうことを 11 年間続けた後に、地下からたいへ
んな仏像が出てきました。縦にトレンチ=穴を掘って発
掘をしています。掘っているのはカンボジア人、つまり
自前発掘です。石が出てきたというので行って見てみた
ら、続々と 274 体もの仏像が出てきました。どうしてこ
んな地下に埋まっているのか疑問でした。当時、ヒンド
ゥー教と仏教が争い、ヒンドゥー教の王様が仏像を土の
中に埋めてしまったのです。歴史上ではこの事件はあま
り知られていませんでしたが、私たちが掘ったものをよ
くよく見るとこの歴史が分かったのです。こんな発掘は
想像もしていませんでした。それまで年に 3 回、10 年で
すから、30 回も掘ってきました。遺跡の中のほとんどの
ところを掘ったので、外に出て掘ってみたら、大当たり
したわけです。
砂が入っていて硬いところは竹ヘラでは歯がたたない
ので、硬い道具で掘っていきます。掘ったあとの写真を
とります。4 体だけは完全でしたが、あとは首だけとか、
台座だけとかでした。遺跡を掘るということは、遺跡を
破壊するということでもあるので、1 時間ごとに写真を
撮っていきます。
コブラ(蛇)がとぐろを巻いた形の台座の上に仏が座
し、七つの頭のコブラが仏を守護するという故事来歴に
基づいた像です。
大きな石柱に仏様が 1008 つ掘られています。この数
は 108 つの煩悩の数に 0 を一つたしたもので、これを拝
274 体の仏像が出た「自前発掘」の現場
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むと 1008 つのご利益があるというわけです。
とても綺麗な仏様で、800 年ぶりでお首がつけられま
した。化仏という小さな仏様のついた像もあります。こ
れは観世音菩薩で、大船に観音様がありますがそれに通
じるものです。でもこちらは海のシルクロード経由、日
本のは中国経由なので似ても似つかないものになってい
ます。
ヴィシュヌ神がとんがり帽子をかぶっています。ここ
から、アンコール時代もヴィシュヌ神信仰は流行してい
たが、多くの住民たちは仏教徒であったということも分
かってきます。
アンコール時代の仏様です。
典型的なカンボジア人で、
唇が厚く、だんご鼻で、目がギョロッとしていて、エラ
が張っている、これがカンボジア人のモデルです。
この像は細面で、御髪がきちっとしていて、目をつぶ
っておられますが、口が細く少し開いています。すーっ
と息をしている感じです。
次は参道の修復です。もう 10 年になる仕事で、フラ
ンスが以前に半分修復した残りの半分を上智が修復して
います。1952 年に崩れてしまった部分を修復します。石
を一枚ずつ剥ぎ取り、仮の土手を作って水が入らないよ
うにし、土壁を積みなおします。その上でクレーン車を
入れて石柱をはずします。この石柱は、遠くからこの参
道を見たとき浮き橋のように見えるようにするために壁
の外側に立てられたものです。
石工さんが石を剥がし、また積んでいきますが、5 年、
10 年という年季がかかります。30 数名おりますが、だ
んだん一人前になりつつあります。
10 年近くかかってやっと側壁ができ、すでに修復され
た部分と高さをあわせながら石を敷き、完成します。と
にかく時間がかかります。人を訓練しながらなのでなか
なか進みません。でも、ここで技術を習得した人たちが
これからアンコール遺跡全体の保存・修復をしていくの
参道の修復
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です。
ただし、これは上智大学が自前でやっているのだから
どんどんやればよい、というわけにはいきません。ユネ
スコの専門委員会の指導を受ける必要があります。その
視察が 6 月にありました。日本人のコンサベーターはこ
ちらに来て 8 年にもなるので色が真っ黒になり、カンボ
ジア人と間違えられるほどになっています。もう一人は
大学院生で、民俗学の調査をやりながらアルバイトとし
て事務的な仕事を手伝っています。そこにイギリス人、
フランス人、チュニジア人、日本人の 4 人の委員と数名
の事務局の人がやってきて調査をし、上智大学の修復が
いいか悪いかの判定を下すのです。とりあえずいい判定
をもらいました。
国際社会ですから、自分たちだけがいいといっている
だけではだめなのです。多くの中立的な立場の人が判断
する必要があります。彼らはユネスコに帰って報告書を
書くはずです。その結果で正式な判定がいただけること
になります。
これらの発掘品は、来年の 11 月には近く完成する博
物館に収められます。イオンという会社が利益の1%を
社会貢献に使うというファンドを持っていて、そこから
お金をいただいて博物館を作ります。その建設が始まっ
ていて、大きな広い敷地に塀が作られています。24 時間
態勢でガードマンがつきます。それは、砂利や材料、機
械部品、車などの盗難を防ぐためです。作業員が泊まる
現地の飯場もできています。今はボーリングをやり、パ
イルを打ち込んでいます。
上智大学は現地に「アジア人材養成センター」を持っ
ています。ここで講義を受けると大学と同じに扱われ、
日本から来た学生には「フィールド・スタディーズ」の
単位が認められます。ここではカンボジアの人たちも講
義を受けられます。上智大学に留学すればそれも単位に
なりますから、日本に来て取る単位数も少なくてすみま
す。
皆さん、シェムリアップに来たらソフィア・ミッショ
ンを訪ねてください。1980 年から入っていて、土地の人
もたくさん働いていますから、現地では誰でも知ってい
ます。
国際貢献というと言葉の響きはとてもいいのです。私
たちも国際貢献をしていますと手をあげますが、10 年、
20 年というのはかなりきついことです。なぜかというと、
カンボジアの法律の下にやるのですから、いろいろな規
制がありそれを一つ一つクリアしなければいけない。税
金問題、労働争議の問題、働く人々の個人的問題まで、
神経を使いながらカンボジアの人たちと仲よくやってい
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ます。私たちが標語にしている、自前発掘・自前修復・
自国研究がうまくいくように援助するのが国際貢献だと
思います。日本は金があって、技術者もいて、建築技術
も進んでいるからやってやるんだ、
というのではなくて、
地元の人に働いてもらう、頑張ってもらうために仕事を
するのが、
本当の意味での国際貢献ではないでしょうか。
いろいろな NGO の人たちが働いている姿を見て、偉
いなと思います。それをしたからといってたくさんお金
がもらえるわけではない、しかし困っている人を助けよ
うというのが、私たちの建学の精神にも合うことです。
上智大学はもともと、1913 年にイギリス人、ドイツ人、
フランス人の 3 人の神父さんが来日してできました。そ
して今、
まがりなりにも大学が動いています。
ですから、
今度は私たちがアジアに寄与しようという趣旨で、私は
始めました。それ以前にも、ピタウ神父さんがカンボジ
アで難民が出た時に新宿の街頭に立って募金をするとか、
小さなことから自前発掘まで、細々と続けてきました。
これは宣伝することではありません。心をこめてやるこ
とです。これもある意味ではカトリックの私たちの精神
かと思っています。
皆さんもいろいろな機会に国際貢献に参加してくださ
れば幸いです。私は上智大学の学生によく言います。
「上
智大学には外国人、
外人はいません。
みんな地球人です。
ソフィアンです。
」地球世界人として、外国人、外人など
という区別をなくす時代が来ているのです。
10 年、20 年とやっていると、当時は洟垂れ小僧だっ
た子供がいい青年になって働いてくれます。遺跡を修復
するのは住民と力を合わせなければなりません。
なぜか。
住民は遺跡のくわしい内容は分からないけれど、遺跡は
自分達の遠い祖先が作ったものだ、祖先はそういう偉い
ことをしたのだということから、自分達の自負、誇りを
持っています。ですから、そういう村の人たちを巻き込
みながら仕事をしています。
すると農民たちはいまだに、今日うちの庭でとれたと
いってカゴいっぱいのマンゴーを持ってきてくれたり、
プニューというちょっとすっぱめの土地の果物を持って
きてくれたりします。私たちには何かをしてやったとい
う気持ちはなく、長いつきあいの中でカンボジア人と同
じように扱われています。私たちのやってきたことが、
ささやかですが地元の人に喜んでいただけたのかな、と
思っています。
私たちのやっていることは、今日お見せした写真もふ
くめホームページに載っていますので、どうぞご覧くだ
さい。では、時間も時間ですからこれで終わりにしまし
ょう。聞いてくださって、ありがとうございました。