PDF文書「記憶と未来」早見 堯

記憶と未来
早見 堯
現在(2015 年 3 月 9 日)
、柳井嗣雄は自分のこれまでの作品を選んで提示する「Art Challenge on Facebook」を
展開中だ。そこには、柳井が版画の支持体としての紙から、紙の物としてのあり方へと興味を集中し始めたころからの
作品が提示されている。
柳井が版画というアート・メディア(アートの媒体)の領域を飛び越えて、アーティストとして最初の跳躍を成
し遂げたのは 1987 年だということがわかる。
1987 年に銀座の画廊で発表された自分で漉いた紙をつかった「誘発 No.0307」を振り返ってみたい。
天井から床に垂らされた紙の上に石が置かれている。紙が天井から床に垂れ下がっているだけなら重力に従う自
然状態だ。
石に押さえられることで重力にさからって軽やかに緊張した紙と石との関係が生まれている。
しかも、
紙も石も、その場で見ている者と同じ床を共有しているので、非現実的なアートの造形としてよりも、見る者と
地続きの現実の出来事として感じられる。長方形の紙と不定形な石とか、柔らかい紙と堅い石といった造形的な
見方が脱臼され、ずらされるのだ。
同じ年の「誘発 No.0114」では、10 メートルある長い麻紙が中央部分でしなやかに折り束ねられて 5 メートルに
縮小され、折り束ねられた紙の部分の左右には二つの石が置かれている。二つの石が麻紙を左右から中央に向か
って圧縮したかのようだ。床でなければこうならないので、床という現実の場所での紙と石の出会いによる因果
関係、すなわち物同士の自動的な出来事だと感じられる。
二つとも、作り手である作者の関わりが希薄になっている。だから、作者の意図や造形的な感覚の介入を感じさ
せないのだ。作者の個人的なオリジナリティから解放されて、物や場所が自動的にある状態をつくりだしたかの
ように感じさせる。物と物、物とそれが置かれている場との関係がある出来事をつくり、その結果、見る者に空
間を意識させたり、空間を変質させたりしているのだ。
柳井は、こうしたインスタレーション作品を「もの」シリーズと名づけている。柳井自身が述べているように、
「もの派」のセンスに似ている。
「もの派」は絵画や版画、彫刻といったアート・メディアから逸脱し、メディア
を越えて物と物との関係を作品にしたのだった。
柳井嗣雄が「もの派」的なセンスで制作していたのはそれほど長くない。
「もの」シリーズの時期に柳井が体得した重要なことがらは次のものだ。作者という個人の感覚のオリジナリテ
ィといった従来のアートの価値観を転倒させて、個人的なものを越えたもっと根源的でしかも広い領域に柳井の
関心を向けたことだ。
この「もの派」的ポジショニングから次の方向に再び跳躍しなかったら、いまの柳井嗣雄の作品は生みだされる
ことはなかっただろう。色や形の組み合わせに固執する造形的な絵画や版画というアート・メディアから、そう
いうアート・メディアを成り立たせてきた物(材料)
、そしてそれを生みだしている植物や水、光、空気、土とい
った自然そのものへと柳井は関心を集中させる。
自然はそこで人が育まれ、人間の営みが続けられてきた場所でもある。したがって、以後の作品には人間の営み
がメタファー(隠喩)のようにダブルイメージで浮き彫りにされることが多くなる。
1990 年に始まる「樹木」シリーズのなかの秀作「水と植物の領域」には、柳井嗣雄の新たな飛躍が鮮やかに刻印
されている。紙漉きの現場で、長い間、植物と向きあった結果うみだされた作品だ。
柳井はこのあたりのことを的確に述べている。
「紙は樹木や植物の繊維の集合体であるという原点に立ち戻った時、いろんなものが見えてきた。人類が初めて
植物繊維という新素材を手にした時、まだ紙という存在がなかったころこの素材は未知なる可能性を秘めていた
はずだ。紙の構造や組成に興味を持つようになり、人体の毛細血管のような植物繊維は再び「樹木」という元々
あった姿に還って行くことになる。」
個人的な意図や感覚から離れて、紙によりそい、紙の原料である樹木や植物の内部に入り込むことによって「樹
木」シリーズへの飛躍は開始された。
紙の原料である樹木は空から光を降下させ、大地から水を吸い上げ、光と水とを結合させることで自らを成り立
たせている。「水と植物の領域」では、樹木を内側からいったん解体されて植物繊維がとりだされている。それ
から、植物繊維を再び天空の光に向かって立ち上がる樹木として再構築されている。物の骨組みを内側から解体
してバラバラにし、それまでの物とは異なる物として組み立て直しているのだ。内側からの解体と再構築。ジャ
ック・デリダ的な脱構築ということになるのかもしれない。
「水と植物の領域」で樹木にされている植物繊維は、水を含んだ樹木を水で煮沸したり水に浸したりすることで
取り出されたものだ。作品にされた植物繊維は水を抜かれ乾燥させられている。光を浴びながら立ちすくんでい
るように見える。でも、むしろ、光を求めて神々しいと同時に、むなしく立ち上がっている樹木に擬せられた植
物繊維。そこには、かつて文字通り瑞々しかった生きた樹木だったころの水の記憶をアルケー(根源)として宿
らせていることがはっきりと感じられる。
樹木は光や水といった自然の生態系とつながっていて、その生態系の場では生と死とが静かにせめぎあっている
のだということがわかる。大地から立ち上がり、大地に戻っていくわたしたち人間の姿がメタファーとなって重
なって見えてこないだろうか。わたしという個人の意図や感覚を越えたところで大きな生の営みが繰り返されて
いるのだ。
1999 年、練馬区立美術館での「和紙のかたち」展で展示された「風化した世紀」は、亡くなった 20 世紀の偉人
を植物繊維で立体肖像にした「遺物」
、その中央に立ち上がっているロダンの「地獄門」を彷彿とさせる「朽ちた
大樹」で構成されていた。生と死、二つのうちのどちらかでしかないわたしたちの現実に、生と死とが共存する
ことができる場所があるのではないかと思わせられたのを憶えている。
「樹木」シリーズと対になるのが「根茎」シリーズだ。
光を求めて上へ、空へと向かう樹木の幹や枝に対して、水を求めて大地の奥や横へと文字通り縦横に伸び広がっ
ていくのが根茎だ。光のない闇を肥大化した情念が這いずりまわる妖しくも混沌とした生のエネルギー。
「樹木」
で水が潜在させられ封じ込められていたのと同じように、
「根茎」では光が精神的な傷痕のように抑圧され閉じ込
められているようだ。光への渇望をビジュアル化したのが「根茎」シリーズの「光のゆくえ」にちがいない。
このように、簡単に概観しただけで、柳井嗣雄の方法が鮮明に浮かび上がってくる。物のアルケーに侵入して、
内側から物を解体し再び組み立て直すという脱構築的な解体と再構築が制作の基本的な方法なのだ。
一つは、アルケーへと肉薄することによって個人的な意図や感覚といった「作者性」から解放されるということ
が重要だ。もう一つは、内側からの解体と再構築によって物と世界の埋もれていた記憶、抑圧されて潜在化せざ
るをえなくなっていた情念とを発掘することができるようになったのだということがわかる。
そのことによって、柳井は、わたしたちに物と世界を認識するあらたな枠組みを提示することが可能になったの
だ。
物のアルケーに侵入し、内側から物を解体し再構築する方法は、昨年末(2014 年)には、東京、仙川プラザギャ
ラリーでの「Dark Cloud」へと展開されていた。
樹木の表皮に和紙を貼付けて、樹木の鋳型(雌型)を採った作品が典型的だ。ここでは物の文字通りの内側では
なく、外側の表皮が写しとられていた。樹木の表皮は、反対から考えると、樹木がそのなかにいる、あるいは、
樹木を取り囲んでいる大気の表面でもある。樹木の鋳型で写し採られたのは、樹木なのか空気なのか。樹木が光
と水とを結合させたときに生まれるのは大気だったということを想いおこしておきたい。
もし、大気だとすると、そこには果てしない大気の宇宙が雌型として刻印されていることになる。実際、樹木と
同じように大気のなかで生活しているわたしたちも、また、宇宙に接して生きているのだ。わたしたちは、つね
に、すでに、ここに在るのに、いまは、まだ認識できない物や世界に触れ合って生きているのだ。
いまは、まだ認識できない物や世界、それが未来だ。柳井嗣雄は潜在している未来の予兆を植物繊維に痕跡化し
ているのかもしれない。生と死が共存しうるように、記憶と未来も共存できるのかもしれない。植物繊維を解体
し織り上げながら、そこに光と水、大気と大地などを組み込んで、多数多様な星座を練り上げていく。柳井は感
覚できる物質を精神的な非物質に変容させる錬金術師、そして、作品は死の淵から帰還するオルフェウスやイザ
ナギを連想させないだろうか。
(はやみ たかし 美術評論)