現代日本のエッセイ 日本のルネッサンス人 花田清輝 ≪ワイド大活字版≫ 講談社オンデマンドブックス 目 次 眼下の眺め 本阿弥系図 琵琶湖の鮒 カラスとサギ 小京都 悪女伝 ナマズ考 古沼抄 利休好み まま子の問題 陵王の曲 曲玉転々 石山怪談 舞の本 6 162 152 142 132 122 112 104 94 78 68 58 48 19 金銭記 赤ん坊屋敷 非人志願 金いろの雲 206 193 180 171 日本のルネッサンス人 眼下の眺め いく た らく ちゆう らく がい ず 室町末期から安土桃山時代にかけて制作された幾多の洛中洛外図にみいだされる画家た のき ちの「視点」とは、いったい、いかなるものであろうか。そこには、焼け跡から不死鳥の き せん ろう にやく のう さい ようによみがえった京都の戦後風俗が ―― 社寺や公武の建物、軒をつらねた町屋や四条河 つか おう か 原の芝居小屋などが、そのなかで生活している貴賤老若のすがたと共に、克明に濃彩をも ってとらえられ、一見、画家たちは、回復された束の間の平和を、手ばなしで謳歌してい るかのようだ。しかし、はたしてそうか。人びとが、どんな着物をきて、なにを食べ、い きゆう し かなる場所に住んでいるかにたいする画家たちの飽くなき興味は、内乱の渦中をくぐり抜 け、辛うじて九死に一生を得たかれらが、いまだにさんたんたる窮乏の境涯を脱していな こ きやく かったためであろうか。それとも、たえず転落の不安を感じながらも、いちおう、現状に 満足していたためであろうか。あるいはまた、単に顧客の注文に応じ、京都のめざましい 復興ぶりをいち早く伝えること以外に他意はなかったためであろうか。 しよう こく じ 現在、残っている町田家蔵(三条家旧蔵)の洛中洛外図の代表作の一つは、応永六年(一 三九九)に制作され、文明二年(一四七〇)に雷火のために焼失した相国寺の七重の塔を、 6 眼下の眺め ふ かん 実在するものと想像して、そのてっぺんから、京都の町々を俯瞰した景色であろうといわ れている。これは、その図のなかの建物などを手がかりにして永正・大永(一五〇四―二八) 年間の作品にちがいないと推定されているが、いずれにせよ、いまはほろびさった、地上 れい らく 百メートルにそびえ立つ日本一の高い塔から見おろした景観である以上、わたしには、そ の画家の「視点」が、塔によって規定され、応仁の乱によって、すっかり、零落してしま くだ ちよう った貴族や僧侶のそれと、大したへだたりはなかったようにおもわれる。もう一つの代表 かん ず 作である上杉家蔵の洛中洛外図もまた、制作年代は、やや下るにしても、前者と同様、鳥 瞰図であるということも手伝って、画家の「視点」にめざましい転換があったとはおもわ れない。この図が、天正二年(一五七四)、織田信長によって上杉謙信に贈られたという言 だい り ご しよ ぶつ かく い伝えを信ずれば、いくらか変った景観を期待したくなるであろうが、そこでは、依然と して内裏や御所や神社仏閣が大きくとりあげられている。なるほど、室町時代の「銀」に 代って、 「金」がふんだんに使われているのが目立つ。しかし、画家の「視点」は、相い変 らず、古代の遺制によってがんじがらめにしばられていたようである。にもかかわらず、 右の初期の洛中洛外図からも、事、志に反して ―― といったような気がわたしにはするが ―― 画家たちの視線が、もっぱら京都の市民たちのさまざまな生態にそそがれているかの ような印象をうけるのは、すでにそのころから日本のルネッサンスははじまっていたとい ったような先入観に、こちらが支配されているためであろうか。そこには、まるでオモチ 7 おく ャ箱を、ひっくり返しでもしたかのように、商人や農民や工人はむろんのこと、遊女や河 原者や乞食や猿廻しのような、それまで人生の裏街道を、おめず臆せずあるき続けてきた え ような連中までが、あますところなく、びっしりと描きこまれているのだ。 かれらは、かつての四季絵や名所絵のなかのつつましやかな点景人物とは異なり、中世 すみ ずみ 社会のどん底から、不意に日の当る場所へ溢れだした群衆であって、木の香もあたらしい やまと え から え 京都の町々、そのあらゆる隅々を、わが物顔に占領しているのだ。したがって、それまで せい ひつ の大和絵や漢画を見なれた人びとの目には、それらの洛中洛外図は、騒々しく、下品であ せん ぱく って、様式化された大和絵の優美さもなく、深遠な漢画の静謐さもない ―― つまり、芸術 こう はく ぶ じん あや やつこ ほお ひげ すみ そう きん けい せい が、 「丈山、尺樹、寸馬、分人」といった式の漢画のそれであったであろうことは、「洛中 じよう ざん 一人は、べつだん、西洋流の遠近法を知っていたわけではない。かれの頭にあった遠近法 部にして、遠人の格式なるべし。 」と。といったところで、この画家でもあった蕉門十哲の れ其遠近を知らざるもの也。たとい丹青を塗るとも、洛中洛外の景色は、まったく山水の 青あざやかに彩り、黄白細微に文をなす。奴の頬髭に墨を点じ、傾城の唇に丹を含む。こ いろど かで、つぎのようにいっている。「世上に洛中洛外図の絵とて、切箔、惣金置き散らし、丹 きり はく うものを知らないのである。たとえば森川許六(一六五六―一七一五)は、『風俗文選』のな もり かわ きよ ろく そればかりではない。洛中洛外図の画家たちは、かれらが無学なため、まるで遠近法とい 的でもなければ、思想的でもない、ひどく浅薄な、ただの風俗画のようにみえたであろう。 8 眼下の眺め 洛外の景色は、まったく山水の部にして、遠人の格式なるべし。」という右の文中の一句に よってもわかる。「遠人」とは「遠人には目鼻をかかず。」というばあいの、あの山水画の 「遠人」である。しかし、はたしてそうか。 おもうに、森川許六の問題にしている洛中洛外図は、江戸時代にはいって制作された後 期のものであって、いささか類型化した、ただ、けばけばしいだけの作品だったかもしれ ない。だが、あえて、漢画流の遠近法にこだわらず、ロング・ショットと共に、クローズ・ アップを多用したところに、あらゆる洛中洛外図の独創性があるのではなかろうか。そこ ちまた では、画家の「視点」は、地上百メートルの高い塔の上に固定され、洛中洛外を遠望して いただけではなく、市井雑踏の巷におりて行き、 「奴の頬髭」や「傾城の唇」をちゃんとと らえている。この自由自在な画家の「視点」の移動が素晴らしいのである。森川許六は、 きゆう とう だ は 中橋狩野の家元になった狩野安信(一六一三―八五)の晩年の弟子だったということである が、たとえば上杉家蔵の初期の洛中洛外図が、狩野派の先祖の大胆不敵な旧套打破の精神 によって制作されたものであるにもかかわらず、許六の眼中には、中国流の山水画しかな く、そこから抜けだしてつくりあげられた、いまだかつて中国にも日本にもなかったスケ ールの大きい、前人未踏の風俗画を、山水画の遠近法が無視されているといって非難して いるのだ。たぶん、徳川幕府の奥絵師となり、漢画の技法に通じていた、かれの先生であ る安信などもまた、遠近法さえ知らなかった、曽祖父にあたる「古永徳」の教養のなさを 9
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