「主の方に向き直れば」 片岡宝子牧師

「主の方に向き直れば」
創 世 記 3:6~ 13
マ タ イ に よ る 福 音 書 14:22~ 33
片岡宝子牧師
わ た し た ち は 神 に 対 し て 祈 り 、求 め ま す 。天 を 仰 ぎ 「あ な た が 御 心 に 留 め て く だ さ る と は 、
人 間 は 何 者 な の で し ょ う 」(詩 8 編 ) と 歌 い ま す 。 聖 書 に あ る 信 仰 者 の 姿 で す 。
信 仰 者 で あ る わ た し た ち は 、主 イ エ ス ・キ リ ス ト に お い て あ ら わ さ れ た 神 の 御 業 を 聞 き 、
御 力 を 示 さ れ て い る 存 在 で す 。 主 イ エ ス に 対 す る 「信 仰 」 を 通 し て 主 に 結 ば れ て い ま す 。
それは狭き門から広い道に至っているということでもあります。
狭き門とは、神に背く罪の問題があるために語られるものです。創世記のアダムとエバ
が 神 の 命 令 に 背 い て 「善 悪 の 知 識 の 木 」(創 2 : 1 7 ) の 実 を 食 べ た と い う 物 語 は 、 人 間 に
入 り こ ん だ 罪 、 人 が 祖 先 か ら 性 質 と し て 受 け 継 い だ 「原 罪 」 を 説 明 し て い ま す 。 そ の 物 語
の 中 で ア ダ ム と エ バ は 「目 が 開 け た 」(創 3 :7 )の で す が 、神 が 司 る 真 の 知 識 に 近 づ い た 結
果、神に背いて罪を犯してしまった自分たちの姿にも気づきます。
マタイによる福音書14章には、そんな人間が神に応答し、道を進む姿が描かれていま
す。主イエスの弟子たちが主に命じられて舟に乗り込みます。しかし逆風に遭って進めま
せん。そこに主イエスが向かってきてくださるのですが、弟子たちは恐れ、疑います。
主 は 「恐 れ る こ と は な い 」、 「信 仰 の 薄 い 者 よ 、 な ぜ 疑 っ た の か 」 と 言 わ れ ま す 。 す る と 風
はやみ、神の示される伝道地、祝福された対岸にたどり着くのです。
この舟は教会でもあります。神に遣わされた者たちが神の言葉を告げ、わたしたちは信
じ て 救 い を 求 め 、舟 に 新 た に 乗 り 込 む 者 と な り ま す 。目 の 前 に 困 難 が あ る と う ま く 進 め ず 、
自らの力に頼って主の導きから離れて沈みかけます。しかし、そんな私たちであったので
神が近づいてくださったのです。
目が開け、神に対して向き直れば主の霊が臨んでくださいます。更に主に手をつかまれて
結ばれ、わたしたちは神の示される場所を仰ぎ、目指すのです。
2011年 10月 30日