1942 年日本銀行法と日銀改革論議 東北学院大学 井手英策 課題と研究史の整理 本報告では、1930 年設置「日本銀行制度改善に関する大蔵省及日本銀行共同調査会(以 下、共同調査会)」の議論を敷衍しながら、42 年日本銀行法における同行の金融調節をめ ぐる制度設計を考察する。 42 年日銀法の制定はこれまでセントラルバンキングに対する「国家権力の浸透」を決定 付ける契機として把握されてきた(吉野俊彦〔1962:403〕)。ここで述べられる「国家権力」 とは、「国会の優位を認めず行政権を優越のものとする体制」と「ファッシズム」との連鎖 によって形成されたものを想定しており、39 年ドイツライヒスバンク法との類似性が強調 される(同〔1962:399〕)。一方、日本銀行百年史は、「中央銀行制度の整備という観点」 から同行法の再評価を試みた(日本銀行〔1984:490〕)が、「ナチス・ドイツの経済思想を 反映したもの」であり、「それは戦時という特殊な時代相が生んだ産物であった」(日本銀 行〔1984:489f.〕)とする点において吉野説を踏襲する論理構成をとる。 本報告の視点 井手英策〔2001〕では、日銀引受の開始に先立って設けられた「共同調査会」において、 日銀が金融調節上のメリット(民間金融機関への影響力の拡大、金融調節上の政策手段の 確保)を踏まえながら、日銀条例の対政府信用規程の緩和を容認したことが明らかにされ た。安易な対政府信用という中央銀行としては批判されるべき政策対応も、実は日銀の金 融調節機能強化と整合的な形で実現されている側面を有していたのである。こうした視点 から 42 年法を再検討する。 結論の要約 1942 年法を「国家権力の浸透」過程として 39 年法と一括し、「ナチス的統制経済思想」 を両者の基礎に見出す理解は問題を過度に一般化するのもの(→日独における大蔵省と中 央銀行との権限配分の決定的相違を無視)。日銀の政策意図と大蔵省との合意の関係に注目 すると、①大蔵省自体が企画院を中心とする政治的な圧力にさらされた結果、日銀との政 策運営上の一体性を強調せざるを得ず日銀の主張に妥協的に接近していった経緯、②42 年 法は過去数度にわたる日銀改革論議の延長線上に位置するものであり、日銀が金融機関・ 市場への影響力を拡大するための政策手段が同法において実現されていた側面が指摘可能。 「財政に対する金融の従属」が強調された結果、日銀の金融調節力強化を同時に可能とし た機制は捨象されることとなった。
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