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 水兵リーベ、
ボクの船
高校の化学で習うだろう元素の周期表。
これを暗記するの
に使うのが例の「水兵リーベ、僕の船……」
という語呂あわせ
だ。周期表の冒頭にある
「H(水素)
、He(ヘリウム)
、Li(リ
チウム)
、Be(ベリリウム)
、B(ホウ素)
、C(炭素)
、N(窒
素)
、O(酸素)
、F(フッ素)
、Ne(ネオン)……」の頭文字
を取って、半ば強引に語呂合わせしたものだ。
リーベというの
はドイツ語で「愛する
(英語のラブ)
」
という意味。
この周期表を
日本で最初に暗記しようと努力した明治時代の旧制高校の生
徒たちは、当時の科学先進国であるドイツ語を必須科目にしていたので、
自然にリーベな
どという言葉を当てはめたのだろう。
ところで、
この周期表を作った人はご存知、帝政ロシアの化学者、
ドミトリー・メンデ
レーエフ。彼は元素の性質を研究するうち、原子量の順に元素を並べていくと、同じ性質
を持った元素が定期的に現れるという法則を発見し、それを表にした。
これが周期表であ
る。彼がこの周期表を発案したのが1869年のこと。
これはわが国の明治元年(から2年)に
あたる。つまり、明治の学生たちにとり、周期表はまさに最新の科学の成果だったのだ。
……このメンデレーエフには若くして無くなった息子(長男・ウラジミール)がいるのだ
が、彼は父と同じ道を歩まず、海軍の船乗りになった。
まさに、「水兵」になったのである。
そして、1894(明治24)年のロシア皇太子来日に際して、ニコライの随員として日本にやっ
てきている。そして、不思議な因縁だが、そこで出会った日本女性と恋(リーベ)に落ち、
フ
ジと名付けた女の子までもうけているのである。「水兵リーベ」
という暗記法を考えた明
治の学生がそこまで知っていたわけではないだろうが、偶然にしてもちょっと、
メンデレー
エフと、
その周期表の暗記法としては出来すぎていると言わざるを得ないだろう。なお、
そ
の時生まれた子供には、早世したウラジミールに代わり、
メンデレーエフが養育費を送っ
ていたようだ。
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国家へと改造してしまったのである。
小室直樹は『新戦争論〜平和主義者が戦争を起こす』(光文社)の中で、
「戦争は個人
の心の持ちようではない。個人の命題が社会(国家)にも成立するという並行主義(パラレ
ズム)は必ずしも成立しない。ひとりひとりが平和を願えば世界に平和がもたらされると
いう奇妙な念力主義に陥っているのである。
日本の平和主義者は戦前の神州不滅主義と
なんら変らないのである。
」と述べている。
戦争を本当に引き起こすまいと思えば、必要なことは現実に沿って世界状況を分析し、
自国と他国の間の経済・政治・そして軍事バランスを平行に保ち、突出してそのバラン
スを崩すことのないよう、常に周囲に目を見張ることであって、いざという場合の軍備を
整えることであり、
これが最も確実にして唯一の方法である。決して、けなげな少年の写真
の前で涙を流して平和を唱えることではない。
ロリ歌
百人一首十二番「天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
作者は僧正遍昭。出家前の名は良岑宗貞
(よしみねのむね
さだ)
。あの小野小町の元に百夜通ったとされる深草少将のモ
デルだという。 坊主めくりなどという遊びもあって、坊主札は
ババ抜きのババみたいな感じで嫌われているし、遍昭の絵も
どのカルタでもパッとしないが、
もとは色男だったのである。
……もっとも、伝説では少将は雨の日も風の日も小町の元
に通って、99日目に大雪に見舞われて凍死したとされている
わけで、実際に死んでいては出家も出来ないし歌も詠めないから、
これはフィクションで
ある。
とはいえ、似たような話はあったのであろう。そして、手ひどくふられたという事実は
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あったのかもしれないと思われる。
ふられて宗貞はどうしたか。小町のような美女に懲り懲りして、ロリコンに目覚めたので
はないか、
と私は思う。
まず、
この歌であるが、元は古今集和歌巻十七(雑上)に「五節のまひひめを見てよめ
る」
とある歌である。五節(ごせち)の舞姫とは何かというと、大嘗祭や新嘗祭という宮中の
儀式の際に、数人の乙女(未婚の女性)によって舞われる舞のことである。汚れのない未
婚の女性(つまり、処女)のみに、神に仕える資格があるというのは古来からの思想で、現
在でも神社の巫女というのは全員処女というタテマエになっている。
まあ、現在では誰も
そんなこと信じもしないだろうが、
この時代は、それが当然のことだった。五節の舞の舞手
に選ばれるということは名誉なことだったから、各家競ってそのような少女を舞手にすべ
く努力した。
問題はその少女たちの年齢だ。“結婚前の女性”とあるからには、その時代、いったい
女性はいくつで結婚していたかを調べねばならない。各資料によれば、法令による平安時
代の結婚下限年齢は男性17 〜 8歳、女性13歳であったというが、
これはあくまでタテマエ
で、実際はそれよりずっと若く、男女とも10歳くらいで実質上の結婚をしていた例もあり、
それは身分の高い家であればあるほど顕著であったという。五節の舞の舞手を出すよう
な高貴な家柄であればそれも当然であり、で、あれば、
この舞手における未婚という条件
を満たすためには、それより下の年齢、高くとも10歳未満、建前でいっても13歳未満であ
ることが通例となる、
と見ていいだろう。
ただし、留意しなければならないのはこれはあくまで、当時の基本である“家と家”の結
びつきの結婚であり、
この時代であっても、恋の相手というのは思春期を過ぎた男女で
あった、
ということである。
まあ、
アタリマエの話ではあるが、女性の美しさというのはやは
り第二次性徴が現れて本来の結婚適齢期になって以降の評価であって、幼女の美しさを
取り分けて特別に愛でるのは、当時としてもちょっと特異な嗜好であった。
さて、
この歌の大意は、五節の舞で舞う少女たちの美しさを天女に例え、彼女たち天女
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が天に帰る通い道となっている雲の中の切れ目を風よ吹き閉じておくれ、
そうすれば帰れ
なくなった彼女たちの美しい姿をまだしばらく見ていられるから、
というものである。かな
りベタベタに露骨な少女美礼賛の歌であり、天皇家の行事で舞う身分ある家の少女たち
への官人としてのゴマスリとしてもいささか生々しい。10歳未満も混じる少女たちにここ
までの率直な賛美を送る遍昭こと宗貞はかなり重度のロリコンのケがあった、
と見ていい
のではなかろうか。
歌人としての遍昭は六歌仙、三十六歌仙にも選出され、
日本を代表する歌人としての名
声を確立している。
とはいえ、古今和歌集の編纂者(の、ひとり)
である紀貫之は、遍昭の歌
をあまり認めていなかったらしく、
その仮名序においてこう、彼の歌をdis って
いる。
「うたのさまはえたれども、
まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづら
に心をうごかすがごとし」(歌は大変スタイリッシュであるが、現実のリアリティに欠ける。
例えていうと、絵に描かれた女性にやたらに萌え〜、
とか言って悶えているようなものであ
る)
……ほーら、二次萌えのオタクだったとズバリ指摘されているではないか(笑)
。彼がロ
リに走ったのも故なしとしないのである。
笑え、
畜生
DVDで『JAWS』(1975。25周年コレクターズ・エディション)を見る。……いやあ、
やはり面白い。スピルバーグの天才性を十二分、十三分に見せつけた最高傑作、なんだ
が、字幕が高瀬鎮夫版でないのがやはりイカン。最初の被害者の死体を見たブロディ署長
(ロイ・シャイダー)が、署に帰って部下に
「水泳禁止の立札は?」
と詰め寄ると部下が
「ありません」
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