梶原 敏宏 農薬は悪者か? 農薬とは、ズバリ、どのようなものですか

梶原 敏宏
かじわら・としひろ
大分県生まれ。九州大学農学部卒業後、1952∼77年、
大分県生まれ。九州大学農学部卒業後、1952∼77年、農林省農業技術研究所勤務、1962∼63年、西ドイツ・連邦農林生物研究
所留学。1977∼88年、熱帯農業研究センター勤務、1973∼75年、インドネシア中央農業研究所にて研究協力。退官後、国際ば
所留学。1977∼88年、熱帯農業研究センター勤務、1
れいしょセンター理事、日本植物防疫協会理事長等を経
れいしょセンター理事、日本植物防疫協会理事長等を経て、現在、(社)日本植物防疫協会顧問、(社)緑の安全推進協会会長。
農学博士。主な編著書に『作物病害虫ハンドブック』『
農学博士。主な編著書に『作物病害虫ハンドブック』『原色作物病害図説』(ともに養賢堂刊)ほか。
農薬は悪者か?
農薬とは、ズバリ、どのようなものですか。
農作物を病害虫から守ったり、緑の保全のために使われたり
するもので、化学合成されたものと、害虫の天敵となる昆虫
やカビ・菌などの微生物による生物農薬との2種類がありま
す。農薬を使うと病害虫の被害が軽減され、農作物の単位面
積あたりの収量を増やすことができます。
また、農作業の省力化にも役立ちます。たとえば、昔から
もっともきつい農作業といわれてきた田んぼの草取りは、除
草剤が使われていなかった1949年には、年間50.6時間かかっ
ていたのが、除草剤の利用で、2002年には1.7時間にまで短
縮されています(左グラフ参照)。
農薬は危険だというイメージが先行しているようですが、毎
年、品質のよい農作物を、適正な価格で安定して供給できる
のは、農家の努力と農薬のおかげといってもいいのではない
でしょうか。
水田での除草剤利用による労力の軽減
(農林水産省「米生産費調査」より作成)
もし農薬がなかったら、どうなるのでしょうか。
病害虫の被害をおさえる手段がなくなってしまいます。害虫は発生後の対処
でも間に合いますが、病気のほうは予防が基本なんですよ。人間の場合も予
防医学が大事といわれていますよね。
これまでの研究で、どの作物に、どの農薬を、いつ、どのくらい使っておけ
ば大丈夫ということがわかっていますが、それをしないと、大幅な減収にな
ります。被害がもっとも大きいのは果実、とくにリンゴです。農薬を使わな
いと、平均97%の減収、つまりほとんど収穫が望めないのです。キャベツは
約63%、水稲も約30%もの減収になります(日本植物防疫協会「農薬を使用
しないで栽培した場合の病害虫等の被害に関する調査報告」(1993年)よ
り)。
また、農薬をかけていない農産物なら安全、とは言い切れないのです。たと
えば、赤カビ病にかかったコムギの粒は、病原菌が作る毒素(マイコトキシ
ン)に汚染されます。このカビで人間が中毒を起こしたり、発癌の原因にも
なります。
赤カビ病にかかったムギの穂。白
い菌糸が見える
農薬は「危ない」ばかりではないのですね。
ええ。ぼくは、農薬は農業に不可欠なものと考えています。
日本は高温多湿で、狭い国土に多くの農作物を栽培していま
す。病害虫の種類も多く、雑草も生えやすく、被害が発生し
やすい。しかも現在の農作物は、味や見ばえを優先して品種
改良を進めた結果、病害虫に弱くなっていますしね。
これまでの人類の長い歴史は、食料生産の歴史で、それはま
た病害虫との闘いの歴史でした。江戸時代には「虫追い」と
いって、神頼みのような農村行事があったくらいです。戦
後、パラチオン(有機リン剤殺虫剤)などの効果の高い農薬
が使用されるようになって、昭和50年代の中ごろには自給が
できるまでにコメの生産量が上がったのです。
江戸時代に行われた「虫追い」。夕方から松明を灯
し、ほら貝を吹いたりして田の畦をまわる(『徐蝗
録(じょこうろく)』より)
なぜ農薬は危険だと思われるようになったのでしょうか。
古くは、使い方の問題があります。たとえば戦後、アメリカから入ってきた有機リン剤は、イネのニカメイ
古くは、使い方の問題があります。たとえば戦後
チュウの画期的な防除法でした。増産につながった反面、使用時の不注意や不慣れのため中毒者が出て、農薬
チュウの画期的な防除法でした。増産につながっ
は怖いものだとされてしまったのですね。ちなみに、これらの残留性や急性毒性が高い農薬は、すでに使用禁
は怖いものだとされてしまったのですね。ちなみ
止になっています。
公害と結びついたことも、イメージを悪くしました。1960年前後、水俣病が大きな社会問題となりましたが、
公害と結びついたことも、イメージを悪くしまし
これはチッソ製造工場の排水中に含まれる有機水銀が原因でした。当時、イネのいもち病対策に有機水銀剤を
これはチッソ製造工場の排水中に含まれる有機水
使っていたため、農薬も同じではないかと思われてしまったのです。
使っていたため、農薬も同じではないかと思われ
また、1962年にアメリカで出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』と、1974∼75年にかけて朝日新
また、1962年にアメリカで出版されたレイチェ
聞に連載された有吉佐和子の小説『複合汚染』の影響もあって、一気に農薬悪者説が広がってしまいました。
聞に連載された有吉佐和子の小説『複合汚染』の
今の農薬は、そのころと比べて、どんな点が変わっているのでしょうか。
まず、より安全・安心への配慮がなされています。
農薬取締法に基づき、非常に厳しい検査を経て登録されたもの以外は、製
造・輸入・販売・使用が禁止されています。農産物ごとに残留農薬基準も
決められ、これを超えたものは輸入も流通も禁止されています。
機能も上がっています。少量でも効果が高いもの、毒性の低いもの、そし
て使用後に分解される期間が短いものが増えています。使用された農薬は
光、水、土の中の微生物などによって分解されるのですが、その半減期
(農薬の量が半減する期間)が10日前後の農薬がほとんどです。土壌中
の半減期が1年以上のものは、農薬として登録されません。
また、対象となる病害虫や雑草だけに作用して、ほかには影響を与えない
ような働き(選択性)の高いものも増えています。選択性というのは、対
象となる病害虫や雑草にのみ作用し、ほかには影響を与えないような働き
をすることをいいます。たとえばハウス栽培のイチゴでは、受粉のために使われるマルハナバチに影響の少な
をすることをいいます。たとえばハウ
い(選択性のある)農薬が使用されています。
い(選択性のある)農薬が使用されて
農薬の必要性、安全性を消費者に理解してもらうために、どんな対策がされているのでしょうか。
消費者の目が厳しくなっていることや、環境問題への関心の広がりを背
景に、農水省も「消費・安全局」を設置して、食の安全、安心に関する
情報の提供や、消費者との交流を積極的に進めていますし、農薬メー
カーや関連団体もインターネットで情報を公開、発信したり、「農薬よ
ろず相談」を受けたり、講演会を開催するなど、広報活動に力を入れて
います。全国の農業試験場やJAなどの生産者組合なども、情報公開や研
修会を通して、農薬の使用上のルール、安全な使用法の徹底を図ってい
ます。
(社)緑の安全推進協会のHP。「農薬
よろず相談」を受け付けるなど、広報活
動をおこなっている
農薬は、決められたルールを守って安全に使うことで、使う側にも一般
の人たちにも利益をもたらしますし、経済的にも効果があります。なに
ごとにも、リスク(危険)とベネフィット(利便)の両面があります。
農薬を一方的に悪者扱いせずに、バランスの取れた理解をしてほしいと
思っています。
偶然選んだ研究者の道
小さい時から植物に興味があって、研究者を目指されたのですか。
いやー、なんとなく、です。家は農家でしたが、父親は軍人でした。ぼ
くも軍人になろうと軍関係の学校に進んだものの、戦争に負けて、学校
は閉鎖。故郷の大分に帰ってきて、さあ、これからどうしようかという
時に、友だちが、宮崎県に農林専門学校があると。とにかく、食べるも
のがなかった時代ですから、単純に農業にひかれて、途中から入学した
んです。
ところが、もとからの生徒と違って、途中から入ったぼくらは植物の名
前も知らない。それでまず植物の名前をおぼえようと植物採集をはじめ
たのですが、植物の分類を教えてくれた先生の専門が植物病理でした。
それがきっかけで、大学の農学部に進み、植物病理を専攻したんですよ。
大学卒業後は、農林省農業技術研究所でムギ類や野菜の病害の研究をし
ましたが、これも、当時は研究室が作物別に分かれていて、たまたまム
ギの病害の研究室に配属されたからなんです。
ギの病害の研究室に配属されたからな
ドイツに留学されたのも、ムギの病気の研究を深めるためですか。
ええ。1960年代はじめ、連邦農林生物研究所でムギ類の黄サビ病の研究をしました。実は、アメリカ留学とい
う選択肢もあったんです。でも、アメリカは土地の規模が大きすぎると思いました。ドイツは日本と同じ敗戦
国ですし、国の大きさもほぼ同じなので、ドイツの研究者の考え方を知ることは、将来、何かと役に立つので
はと考えたんですね。
気持ちが固まってからは、それまで以上にねじり鉢巻でドイツ語を勉強しましたよ。身銭を切って、ドイツェ
シューレ(ドイツ語学校)に入って、仕事が終わるや、駆けつけてと。
ドイツはさすが、研究大国です。研究の基本的な考え方や研究システムは、ずいぶん参考になりました。
国際協力事業団(JICA)の専門家として、インドネシアに滞在もされていますね。
左:水田の耕起、右:苗取りの風景(Bogor 中央農研にて)
1973∼75年の2年間、食料作物保護に関するプロジェクトで、インドネシア中央農業研究所で研究協力に携わ
りました。穀類全体の生産を安定させ、増産に結びつけるにはどうしたらよいか、現地の研究者と一緒に考え
ながら、仕事を進めたのです。当時のインドネシアは研究体制がほとんど整っていなかったので、日本から機
材を持ち込み、その使い方や試験のやり方を教えたりするのも大事な仕事でした。
今、振り返っても、インドネシアの農業研究のレベルアップにかなりの貢献をしたのではと思いますね。こう
したプロジェクト形式の研究協力は、その後、数多く企画、実践されるようになりますから、まさにそのさき
がけでした。
研究協力でもっとも難しかったのは、どんなことでしたか。
研究の基本を理解してもらうのに苦労しま
したね。国によって課題は違っても、研究
方法は万国共通です。データを集め、分析
して問題を見出し、解決法を考え、実際の
生産に結びつける。この一連の流れが、な
かなか飲み込んでもらえない。
というのも、インドネシアは、戦前のオラ
ンダ統治時代、オランダ人研究者がヨー
ロッパ的な研究体制の中でリードしてい
て、研究者といえども、労働力の提供のよ
うなことしかしていなかったんですね。
それと、国民性もあるでしょうね。とにか
く、のんびりしている。彼らと仕事するな
鎌を持つインドネシアの
かで、ぼくは、国民性を形づくるもっとも
少年 Bali で
重要な要素は、四季の有無ではないかと思
うようになりましたよ。つまり、春夏秋冬
がある国は、実りのない冬でも飢えないために知恵を働かせて、食料をリザーブ(貯蔵)します。ところが、
がある国は、実りのない冬でも飢えないために知恵を働かせて、食
一年中暖かい国では、そんな必要がない。したがって、万事、のんびりしてくると。
一年中暖かい国では、そんな必要がない。したがって、万事、のん
もっとも、そういう国は概して人柄がよく、親切ですね。帰国後も2、3回インドネシアを訪れましたが、会っ
もっとも、そういう国は概して人柄がよく、親切ですね。帰国後も
て一緒に食事したり、話し合ったり。今でも何人かと交流が続いています。
て一緒に食事したり、話し合ったり。今でも何人かと交流が続いて
稲の収穫
滞在中、日本食が恋しくなったりはしませんでしたか。
外国暮らしで日本食を食べたがっていては、ノイローゼになってしまいますよ。ぼくはどこの国へ行っても、
平気です。40年以上前のドイツ留学で、現地のものを優先して食べることが、体に染みついています。なにし
ろ、日本食品を売る店も日本食レストランもなかった時代ですから。
それに、インドネシアには、ビーフンを焼きソバにしたようなビーフンゴレンや、八宝菜に似たチャプチャイ
など、食べやすい料理がけっこうあります。米はインディカ米主体で、多少パサパサしますが、ご飯のうえか
らチャプチャイをザーッとかけて食べるとおいしいですよ。日本から来た研究者にも教えてあげたら、「ネコ
飯か」と言われましたが(笑)。
海外との関わりと世界の食料問題
シリアや南米、ガーナなどへ行かれたのは、同じく研究協力のためですか。
ええ。ただし、現役の研究者としてではなく、研究協力に際して行うMOU(Memorandum of
Understanding=覚書)調印に出席するとか、研究協力を念頭に置いた事前調査などで行くことが多かったで
すね。また、退官後は(社)国際農林業協力協会技術参与や国際ばれいしょセンター(CIP)理事などを務めた
ので、こちらの関係でもいろいろな国に行きました。
各国の農業生産の現場を見て、どんな感想をもたれましたか。
フィリピンのバナウェの棚田。食料を供給す
る母艦のように思われる
雲南の段々畑
ネパールの棚田
世界の農業の多くは、条件の厳しい場所で行なわれていますね。ぼくはカメラが趣味なので、行く先々で写真
を撮りましたが、最近、それを整理していて、棚田や段々畑がとりわけ多いことにあらためて気づきました。
日本はもちろんですが、中国・雲南省の昆明も、山のてっぺんまで棚田です。ネパールの山も、棚田と猫の額
ほどの畑で、まさに縞模様ですよ。フィリピンのバナウェの棚田は、「世界の七つの見事な驚異的なもの(7 Wonderful)」の1つで、急峻な山がまるごと棚田です。コメ作りや収穫物や資材の運搬を考えただけでも、
気が遠くなります。棚田の中に農家が点在する光景は、ぼくの目にはまるで、棚田が食料を供給する母艦のよ
うに見えましたね。
ペルーやボリビアでは、富士山より高いところ、標高3500mあたりのアンデス山地でジャガイモを作っていま
す。ペルーのマチュピチュ遺跡にも、段々畑があります。昔、スペイン人に滅ぼされたインカ帝国の民が4000
人ほど隠れ住んでいたらしいですが、食料の全部をその段々畑でまかなっていたんでしょう。
こうした努力もあって、どの民族も発展してきたのです。どの地域も、そこに住む人達が生きるために苦労し
て作り上げた財産、それが耕地ではないでしょうか。
そうした歴史をもつ農業生産ですが、今後も順調と考えてよいのでしょうか。
いえ、ぼくは心配なんですよ。農業生産高は、途上国を含めて、多くの
国で頭打ちです。コメを例にとると、世界全体で将来年間7億トンほど
必要といわれていますが、近年は生産量に頭打ちの傾向が出ています
し、収穫面積も増えていません。
反面、世界の総人口は増え続けています。現在の約60億人が、2030年
には約80億人になると予想されています。
またお隣の中国が、台風の目になっています。原因は工業化。とくに上
海などの大都市近郊で、耕地が工業用地、住宅地に変わっているので
す。このままでは、いずれ食料輸入国になるでしょう。すると、世界の
食料地図が塗り変わって、将来は日本も含め、国同士で食料の買いつけ
競争が起こる可能性もあります。
飽食の時代などと言っていられなくなりますね。
ぼくらの世代は戦後の食料難を経験していますから、食料問題には常に関心がありますが、若い人はピンとこ
ぼくらの世代は戦後の食料難を経験し
ないようですね。日本中に食べ物があふれていて、いつでも、どこでも、好きなものを食べられますから。
ないようですね。日本中に食べ物があ
でも、いざ外国から食べ物が入ってこなくなったら? 今、日本の食料自給率は40%。先進国の中では目立っ
でも、いざ外国から食べ物が入ってこ
て低い数字です。日本は、農業生産にしっかり取り組んで、自給率を上げる必要がありますね。
て低い数字です。日本は、農業生産に
もし世界中で農薬を使わなかったら、生産量はどのくらい減るのですか。
1967年の報告によると、農薬を使わなかった場合、穀類の世界全体の損失量は34.5%になります(『世界の農
1967年の報告によると、農薬を使わ
産物の生産量と病害虫による損失量』より、Cramer博士)。
産物の生産量と病害虫による損失量』
1994年の報告では、病害虫による実被害は42.1%です(『病害虫による作物の被害』より、Oerke博士ら)。
1994年の報告では、病害虫による実
約30年の間に、損失量は逆に増えていることがわかりますね。
約30年の間に、損失量は逆に増えてい
理由は、途上国です。先進国では病害虫の被害は減っていますが、途上国では、各国の援助で生産現場に新品
理由は、途上国です。先進国では病害
種や肥料が導入されている反面、病害虫対策が追いつかない。それで被害が大きくなっているんですよ。
種や肥料が導入されている反面、病害
21世紀の世界全体の食料確保を考えても、農薬を過剰に危険視して使わないというのは、リスクが大きすぎる
21世紀の世界全体の食料確保を考えて
のではないでしょうか。農業生産における病害虫の被害と農薬の役割とを、もう一度考え直す時だと思います。
のではないでしょうか。農業生産にお
最後に、これからの時代をになう若い人たちに、どんなことを期待されますか。
なにごともですが、とくに食料問題においては、世界の中での日本の位
置というものを常に意識してほしいですね。そして、農学部に進みた
い、農に関連した研究をしたいという若者には、太陽、水、土といった
自然エネルギーを大切に、有効に使いながら食料生産するための意義あ
る研究をしてほしい。バイオテクノロジーや農薬などに対しても、リス
ク&ベネフィットを把握して、正しい評価をしながら研究してほしいと
願っています。
また、語学力は、従来以上に大切ですね。ぼくは、ドイツ語や英語の勉
強に膨大な時間を費やしましたが、国際会議などで細かい部分の論争を
したり、喧嘩してまくしたてるところまではいかない。
その点、今の若手研究者は、語学の大切さを心得て早くから勉強してい
ますし、国際交流も多く、インターネットの発達で情報収集も手軽にで
き、各国の研究者と電子メールもどんどんやり取りしている。すばらしいことです。研究がさらに進歩するこ
き、各国の研究者と電子メールもどん
とを期待しています。