第1章 仏教心理学の精髄:心の三毒と、智恵と慈悲

第1章
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仏教心理学の精髄:心の三毒と、智恵と慈悲
心の三毒とは
仏教は、心理学の要素がある。そして、人の心の働きを論理的に分析し、すべての煩悩
と苦しみの原因として、
(心の)
「三毒」というものを説く。これは、すべての煩悩の根本
となるものであり、そのために、すべての苦しみの根本原因と考えられている。
とん
じん
ち
三毒とは、貪り・怒り・無智の三つの心の働きである。仏教用語では、貪・瞋・痴と表
現する。貪=貪り、瞋=怒り、痴=無智である。そして、この三つの中で、無智が根本で
あり、無智が原因となって、貪りと怒りが生じているとされる。
2 無智とは何か
無智とは何か。これは非常に奥が深い。これを理解することは、仏教の精髄を理解する
ことに等しい。仏陀とは、無智を超えて、智慧(智恵)を得た者とされる。よって、無智
と智慧は対極的な概念であり、この二つを理解することは、仏陀とは何か、その悟りとは
何かを理解することでもある。
無智を一言で説明することは難しい。一言で説明してしまうと、逆にそのエッセンスが
理解できない面がある。よって、本書では、無智を説明するために、様々な表現を使う。
しかし、その表現はすべて同じことを意味している。
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伝統仏教の無智の説明
まず、無智とは、物事をありのままに(正確に)認識することができないことをいう。
ではありのままに、正確に認識できないというのは、どういうことであろうか。
伝統的な仏教的な表現をすると、たとえば、無智とは、仏教の根本哲学である縁起の法
を理解できず、それに基づいて事物を理解できないことと表現できる。なお、縁起の法と
は、あらゆる事物が、他に依存し、相互に依存し合って存在しているというものである。
また、無智とは、同じく仏教の根本哲学である空の思想を理解できず、あらゆる事物が
空であることを理解できないこととも表現される。空とは、固定した実体がないこととい
う意味であり、仏教(特に大乗仏教)では、あらゆる事物は固定した実体がないと説かれ
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る。
この縁起と空の二つの思想は、本質的に一体であり、同じことを言っている。なぜなら
ば、縁起の法が説くように、あらゆる事物が他に依存し、相互に依存し合って存在してい
るならば、あらゆる事物は、他が変われば自分も変わり、自分が変われば他も変わるとい
う関係にあり、その結果、空の思想が説くように、あらゆる事物は、固定した実体がない
という結論となるからである。
逆に、仏陀の智慧とは、あらゆる事物が縁起(相互に依存)しており、空である(固定
した実体がない)ことを理解する強靱な認識力であると表現されることがある。
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簡明な無智の説明 (1)
自と他の区別
このように無智を説明したとしても、皆さんの日常生活に役立つ智恵にはならないだろ
う。そこで、上記の意味をより噛み砕いた形で、無智の意味を説明した表現を紹介したい
と思う。
そうした無智の説明としては、
「自と他の区別をする無智」というものがある。これは、
人が、自己と他者・外界、例えば、自分と他人が、本質的には繋がっているにもかかわら
ず、それを別のものだと錯覚することを意味している。本当は一体なのに、別のものだと
錯覚することを無智と言っているのである。
その当然の結果として、この無智の状態にある人は、他人よりも自分に執着する状態に
陥る。これが自我執着などと呼ばれている。具体的には、自分自身に加え、自分の物に執
着するのである。
なお、この応用編として、本当の自分は、自と他が繋がっていると認識しているのだが、
その本当の自分を見失ってしまっていることを「根本的な無智」という場合がある。これ
は、まず、本当の自分を見失う根本無智があって、そのため、次に、自と他を区別する無
智が生じるという理論である。
さて、この自と他を区別する無智は、自と他の幸福を区別する心に結びつく。わかりや
すく言えば、自分と他人の幸福は一体ではなく、別のものであるという意識である。自分
の事だけを考える、エゴの心の働きである。
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簡明な無智の説明 (2)
目先の楽へのとらわれ
また、別の無智の説明としては、「目先の楽を求める心の働き」という表現もある。こ
れは、実際には、目先の楽の後には苦しみがあるにもかかわらず、その楽の部分しか見え
ず、裏の苦しみの部分がわからない心の状態である。
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これは、仏教が説く、苦楽表裏という思想と繋がる。すなわち、楽の裏には苦しみがあ
り、苦しみの裏には楽がある、という思想である。この視点からは、無智とは、苦しみを
伴わない楽があるという錯覚(および、楽を伴わない苦しみがあるという錯覚)のことを
言うのである。わかりやすく言えば、(人生は)楽があるから苦があって、苦があるから
楽があるということである。
以上の二つの簡明な無智の説明は、両方とも縁起の法と合致する。自と他を区別する無
智は、自と他が相互依存の関係であることを理解しない状態である。楽があるから苦があ
り、苦があるから楽があることを理解しない無智は、楽と苦が相互依存の関係であること
を理解しない状態である。
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簡明な無智の説明 (3)
今の自分さえよければいい
さて、さらに噛み砕いた無智の説明をしたいと思う。それは、「今の自分さえよければ
いい」という心の働きである。
前項で述べたとおり、自と他を区別する無智は、他よりも自分に執着する自我執着をも
たらし、自分と他人の幸福を区別することにつながる。これをわかりやすく言えば、「自
分さえよければいい」という意識である。
次に、目先の楽にとらわれる無智とは、わかりやすく言えば、「今さえよければいい」
ということである。よって、この二つの無智の説明を組み合わせて、わかりやすく表現す
れば、無智とは、「今の自分さえよければいい」という心の働きと表現できる。
このように無智を理解することは、人の様々な心の問題・煩悩・苦しみの根本原因を理
解する上で非常に役立つので、ぜひ頭に入れておいていただきたい。
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簡明な智慧の説明
それでは、無智の簡明な説明に基づいて、仏陀の智慧(智恵)というものを簡明に説明
するとどうなるか。それは、「今だけではなく、長期的に(全体的に)、自分だけでなく、
他と共に、幸福になることが、真の(自分の)幸福である」と理解している意識というこ
とになる。
これを噛み砕いて表現すると、第一に、目先の楽だけではなく、後先を見渡した長期的・
全体的な幸福が重要だと理解していること。第二に、本当の(自分の)幸福とは、他人と
共に幸福になることで、自と他の幸福は、本当は一体であると理解していることである。
しかし、我々は、なかなかこのように思えないし、仮に頭ではわかっていたとしても、
実際には、なかなか、このようには行動できないものである。そして、それは、無智が心
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を覆っているからだと仏教は説くのである。
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智慧と慈悲の一体性
そして、智慧が生じるならば、慈悲が生じる。なぜならば、智慧とは、自と他の存在を
一体と見て、自と他の幸福を一体と見る意識状態であるから、自ずと万物への愛が生じる
のである。
さらに、目先の楽にとらわれず、長期的な幸福を考えるため、他と共に幸福になる道を
コツコツと地道に歩んでいこうとする。仏陀・菩薩は、すべての人々・生きものを救うた
めに、延々と利他の実践に励もうとすると説かれているが、それは仏陀・菩薩の智慧から
生じた慈悲であり、別の言葉では、菩提心と呼ばれている。
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無智から生じる貪り
では次に、無智から生じる貪りについて説明したい。これは、自分にとって好ましいと
感じるものを求める心の働きである。
一見して、これは問題がないように思えるかもしれない。しかし、なぜ問題かというと、
先ほど述べたように、目先の楽の後には苦しみがあり、自分にとって好ましいと思っても、
それにとらわれて求め過ぎると、苦しみを招くからである。
よって、より正確に言えば、貪りとは、単に自分に好ましいと感じるものを求めること
ではなく、それにとらわれて、生きていくに必要以上に貪り求める状態ということができ
る。そして、実際に、人は、この貪りの状態に非常に陥りやすい。
たとえば、財や富、名誉や地位といったものへの欲求は際限がない。いくら得ても、も
っと欲しくなる。そのため、求めて得られない場合の苦しみ、得たものを失う苦しみや不
安・恐怖、さらに、他人と奪い合うことによる怒り・憎しみ・妬み・不安・恐怖といった
ものが生じる。これらの苦しみは、得れば得るほど逆に大きくなるのである。
よって、仏教では、苦楽表裏と言う。得れば得るほど苦しみも増える。すなわち、楽の
裏には苦しみがある。すなわち、多くを得た者の重たさ・苦しみである。逆に、それほど
得なければ、そうした苦しみは生じない。すなわち、得ていない者の気楽さである。
こうして、貪りは苦しみを招くものとされる。
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無智から生じる怒り
さて、無智から生じる怒りとは、ある意味で、貪りとは正反対のものである。すなわち、
これは、自分にとって好ましくないと感じるものに対する心の働きである。まとめれば、
好ましいと思う(錯覚する)ものに対する心の働きが貪りであり、好ましくないと錯覚す
る者に対する心の働きが怒りである。
なお、この怒りは、よりわかりやすく言えば、嫌悪と言った方がよいかもしれない。好
ましくないと感じるものに対する嫌悪である。ただ、伝統仏教の表現では、瞋=怒りと訳
されることの方が多い。
この怒りも、一見して問題がないように見える。好ましくないもの、苦しみだと感じる
ものに対して嫌悪する、怒るのは当然ではないかと思うかもしれない。
しかし、貪りの問題と同じように、好ましくない、苦しみだと感じるものの裏側に、好
ましい要素、喜びの要素があるのである。よって、怒り・嫌悪が強いということは、苦し
みの裏側にある喜びには気づかないということなのである。
ここで、「仮に、苦しみの裏側に喜びがあっても、苦しみもある以上は、それは要らな
いから、苦しみをもたらすものに対しては、私はやはり怒るのだ」と考えるかもしれない。
しかし、実際には、それでは苦しみが消えない場合が多いのである。
たとえば、逃げ切れない苦しみである。どんなに怒り・嫌悪しても、それから逃げられ
ない苦しみがある。たとえば、人間関係の苦しみのほとんどは、家族や、学校・会社の友
人・知人など、嫌だからといっても簡単に離れられない人との間に生じる。
さらに、この怒りは、貪りの対象と共に生じることが多い。そのため、貪りを捨てなけ
れば、どんなに怒っても苦しみは続くのである。先ほど述べたように、何かにとらわれ、
貪り求めれば、求めても得られない場合や、得た者を失う場合や、他と奪い合う場合に、
苦しみが生じる。そして、この苦しみと共に怒りが生じるが、この苦しみは、どんなに怒
っても、貪りを和らげなければ解消しない。
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苦の裏の楽に気付いて怒りを超える
そこで、仏教は、こうした苦しみには、悪いことばかりではなく、良い面があると説く
のである。
例えば、こうした苦しみの経験によって、人は、過剰なとらわれ・貪りを解消する方向
に導かれるという。それが解消できたならば、より自由な幸福な心の状態になるのである。
また、こうした苦しみによって、人は、貪り奪い合うのではなく、他と分かち合うこと
こそが、真の幸福であると悟る時が来るという。
こうして、苦しみの裏側には、自分にとって好ましい面、喜びがあると気づくならば、
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苦しみと怒りが和らぐことになる。
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仏陀・菩薩の広い心、平等心
一方、無智を超えて、智慧を有する仏陀・菩薩とは、特定のものに対する過剰な貪りや、
特定のものに対する過剰な怒りを超えて、万物への愛(大慈悲・菩提心・博愛)を有して
いる者である。
この心の働きは、万物を分け隔てなく愛することができるという意味で、平等心と呼ば
れることもある(仏教用語では捨の心ともいう)。言い換えれば、非常に広い心、究極的
には、世界・宇宙全体に広がった、広大無辺な心である。
ほうしょう
びょう ど う しょう ち
この象徴として、仏教には、宝生如来という仏がいる。平 等 性 智という智慧を持ってい
るとされる仏で、万物の平等性を悟っているとされる。また、阿弥陀如来にもそのイメー
ジがある。南無阿弥陀仏の念仏や、世界遺産の宇治平等院で祭られていることで有名だ。
その念仏を唱えるならば、悪人さえも救うといわれる。
阿弥陀如来の化身とされる有名な観音菩薩も同様である。観音菩薩は、別名を観自在菩
薩といわれる。そして、千の手を持つ観音菩薩は千手観音といわれるが、その千の手には
千の目があり、すべての生き物を見守っているという。
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目覚めた人・仏陀
こうした仏陀・菩薩は、まさに仏典の物語に出てくる(おそらく架空の)超人的な存在
であって、私たち人間の手の届く境地ではないだろう。しかしながら、私たちも、自分だ
けのことばかり考える心の働きを乗り越えるならば、自分の身の回りの人から、友人・知
人、さらには、その他の多くの人や生き物の苦しみを思うことは可能である。
特に、情報通信技術が飛躍的に発達した現代では、昔の人から見るならば、私たちは、
千の目を持っている存在といえるかもしれない。問題は、それを持ちながらも、毎日、自
分のことしか考えていなければ、目が開いておらず、眠っているのと同様である。
仏陀という言葉は、覚者とも訳されるが、サンスクリット語で「目覚めた人」という意
味だ。仏陀でない普通の人は、夢者とも表現される。自分のことばかりにとらわれていれ
ば、体の目は持っていても、実際には世界のほんの一部しか見ることはないから、事実上、
眠っているのとほとんど同じであろう。体の目に加え、心の目が開かれてこそ、真に目覚
めた人になるのではないだろうか。
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仏陀・菩薩の息の長い努力
前に述べたように、目先の楽に偏らず、苦と楽が表裏であることを理解する仏陀の智慧
は、息の長い努力をする特性がある。
目先の楽の裏側には苦しみがあり、苦しみの裏側には喜びがある。ということは、真の
幸福は、さほど簡単に得られるものではなくて、コツコツとした地道な長期的な努力によ
って得られることを示している。
そして、仏陀の智慧とは、
「今の自分さえよければいい」という無智を乗り越えて、
「長
期的に、他と共に幸福になることが、本当の幸福である」と理解している。非常に広い心
を持って、皆と共に、息の長い努力によって、幸福になろうとする心構えである。
伝説の弥勒菩薩などは、地球のすべての人々を救済するために、何十億年も修行すると
いわれている(一説に 56 億 7000 万年)。あえて身近な格言で表現すれば、これでは足り
ないかもしれないが、
「ローマは一日にして成らず」ということだろうか。
しかし、我々には、
「すぐに幸福になりたい、成功したい」
、という気持ちが起こりやす
い。言い換えれば、「楽して幸福になりたい、努力はなるべくしたくない、怠けたい」と
いう心の働きである。格言で言えば、
「急いては事をし損じる」である。
巷には、すぐにでも幸福になれる、誰もが成功するなどと宣伝し、多額の料金を取るも
のもあるが、これらは、目先の楽に飛びつく私たちの無智の煩悩を利用している商売のよ
うにも思える。
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真の力は、破壊力ではなく継続力
そして、長期的な地道な努力こそが、真の力ではないかと思う。つまり、忍耐力・継続
力である。よく「継続は力なり」といわれる。
一方、力には、いろいろな種類があって、人によっては、怒りの力とか、攻撃力・破壊
力の方を重視するかもしれない。
怒りにもいろいろあり、すべてを否定するつもりはないが、悪い意味での怒りは、忍耐
力・継続力と対極にあるものだ。怒りを乗り越える力が忍耐力であり、怒りでキレずに辛
抱強く努力し続けてこそ、継続力に繋がる。
そして、前に述べたように、悪い意味での怒りは、苦しみに対して、その裏側に喜びが
あることを理解できずに生じる心の働きである。
逆に、その裏側の喜びを理解すれば、今の苦しみに忍耐することができる。そして、地
道な継続的な努力によって、苦しみの裏側の喜びを引き出していくことができる。無執着
や慈悲といった悟りの境地は、そうした努力によって実現されるものだろう。
これは、世俗の世界にも通じる真理ではないかと思う。たとえば、戦国の覇者でいえば、
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織田信長は、破壊力に長けていたと思う。今川を破った衝撃的な桶狭間の急襲、武田を滅
ぼした革新的な三千丁の鉄砲隊。
しかし、最後に天下を手中に収めたのは、辛抱強さ・息の長い努力に優れていた徳川家
康だった。気性が激しいといわれる織田信長らは、その性格からか、家臣の謀反で絶命し
た。信長を引き継いで天下を統一した秀吉も、寿命が足りず、自分の子孫は続かなかった。
一方、家康は、その名の通り、健康によく留意し、辛抱を続けた。そして、49 歳で没し
た信長や 62 歳の秀吉と異なって、76 歳の天寿を全うし、徳川幕府は世界史で他に類を見
ない、260 年の長き太平の世を実現した。その寿命の違い、忍耐力・継続力の違いが、三
人の命運を分けたのではないだろうか。
怒りの力と関係する破壊力・攻撃力は、ある意味で、瞬間の力、一瞬の力である。一方、
忍耐力・継続力と関係するのは、「時」というものの力である。時と共にすべては移り変
わり、大器は晩成するという。その意味でも、それは大きな力ではないかと思う。
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広く長い心:時空間に広がる仏陀の心
こうして見ると、仏陀の智慧・慈悲とは、世界・宇宙全体(の生きもの)に広がった心
を持って、一生の間(ないしは未来永劫ともいうべき)息の長い努力を続けようとする心
の働きということができると思う。短くいえば、空間と時間全体に広がった心、時空間一
杯に広がった心である。
私たちがこの境地に到達することは到底できないだろうが、できるだけ広い心を持って、
一生の間努力し続ける心構えは重要である。それは、怠惰や焦りから解放された、広くて、
どっしりとした心の状態であろう。
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