・ Ⅰ "" 臣 " 。 ナ 11。 1lキ Ulll1>田 1。 11.申 >'ll>"サ "1。 1"円 >1>l@e 。 '1llll""+tll。 "" 国俊… 9 { 。 1"ll""+dll"""' 年間 筆者紹介 明治M4 年 6 月生れ。国後島には昭和l1@ 年に 檸年 4 月まで住む。 本年 6 月退職するまでの㏄ 年間を一貫して,さけ,ますのふ 化の仕事に注ぐ。 島 柴田幸 - 思い出を語る者が持そうであるよさに, 郎 る。 馬の心を知る事が奥義と 作 には沢山の苦労話があ 退職後は晴耕雨" の 生活でS8 年後の一休みという 流行語と言うものほ 時代により,それぞれ から, 「クナン リ 」と名付けられた 一説もあ 変ってくるのは世の常である。 最近「交通戦争」ど言う流行語に 続いで「 ュ 一ム」 , の 公害に加えて, ロ 」, あ ったろうか。 「農薬」…等 「光化学スモッバ」等の 新 しい公害の種類も 出てきたようであ ㎞も山奥にあり,熊笹や這松の 一面に生い繁 った中に所々に濯 木の林があり, ス幾拾年も る。 会 害,公害と言う 言葉 これ@c 並んで北方領土 と 我々の住む官舎 は その東沸の港から,約6 言う言葉が最近テレビに 新聞紙上に, 果て 経ったかと思えるトド 松の森林,上ったり 下 ったりの山路を 山一休に放牧されている 放牧 は 道路の標識にまで 見られる様になった。 こ 馬に出合ったり,その放牧馬を 時折り襲って の 北方領土返還をめぐって ,戦前の幾年かを は島民に被害を与える熊の月余の足跡に肝を この領土で過したことを 白い出して,ここに 回想録を記してみたいと 辿って行きつく 所に あ った , 私は昭和7 年, 時 冶も不景気の 真只中に学 窓を出て の後昭和叩 年 8 月, 今Tl ソ連領国後島にあ る 北海道さけ,ますふ 化場国俊文場に 赴任 のであった , 国後の東沸にあったふ化場は.場長に 道上 で 約 9 年の経験を積むべ テラ ソ の小田部景一 氏が起用され,定夫 左より市川, 一,筆者,小田部,道上文 場長,・, 板谷の各氏(/l)枠数Ⅱ氏提供) 一家を含めた,たった4 名で枯成されてい た 。 その当時,テコン 郷儂北見より妻をめと 昭和㌍年7 月, 日支事変が勃発し , 遂には の 召集令状と千歳文場転勤で 8 年 ワケ 月の国 第二次世界大戦にまで 波及した時,この 千島 後生活を閉じる頃 までには,すでに2 男 2 女 の放牧馬は冬は 前足で雪を掻き 掻き,その下 の 親になっていた。 の笹等を常食としていた 関係上,粗食に耐 国後島とはその 面積が 約九万甲 あ るところ 一 え,雨風にたたかれながらぬかみの 中を,強 l4 一 行軍する口木軍の 甲馬によく適し,中文あた 港まで,山路をのこのこ l 日がかり買物に 出 りに送られたようであ った。 たりもするが, これもlケ 月に],2 度程度,そ ふ化場はその仕事の性質から 湧水が必須条 の他は定夫が公用で山を下る 際に用を足して 件であり,また水の 落差も必要であるとこ 貞 うのである。 その定夫が場長さん 宅の米を ろからどうしても 川の上流に位胃される。従 勤務時間中にl 日がかりで㏄キロの 俵を背に って,周囲は 幾抱えもあるようなトド 松のう る。 して,山坂をかついで 運んでいたものであ っそうたる森林に 冊まれて,昼なお帖い丁度 これらを恩う時,ああ 千島ならではの 感ひ 抽鉢の底のような 所での叫け暮れであ った。 としおである。 それでも夏のうちは] ケ 月に 文字通り「Ⅲの 中の三軒屋」である。 時折り 船は2 , 5 日おきに入港して ,手紙.新聞 又 千島調査団とか ,役所に2, 5 日の出張で 訪 食用品,衣類等を 運んでくるが,Ⅱ月から翌 れる客人の他は 毎日誰一人訪れる 人もなく, 年 4 月末までの冬期間は 港が一面の流氷で 閉 電灯もない生活では ,今のようなテレビ やラ ざされるため,約6 ケ 月間の島民の生活必 ㍉ ジオ,映画館等の 娯楽機関何一つない。 世俗 品はすべて秋Ⅱ月のうちに根室から一括購入 的な文化生活にはおおよそ 縁が遠く,口 々の されて,4 月末港が開くまでは 新聞も手紙も 寂しさを慰めてくれるものは 家の近くを流れ ] ケ 月に l 度位 ドサッとまとまって 配達され るせせらぎ か,ポータブルの 蓄音機によるメ るので,そうゆう 越年の間は専らトッパ(.花 ロデ一位のものであ った。Ⅱ 合と占っても 甘 札) やホホ引で過す 習慣が島民の間に伝わっ 漁人達の番屋を 改造したもので ,幾年も衛生 ていたようである。 全く雪の中の穴熊同然の 検査もしていないとみえて ,夏など- 晩に68 徒食を余儀なくされたわけであ る。 匹も蚤が肌にかけた 毛布にささり 込み,蚕演 また,人跡未踏に 近いこの地には 秋鮭がそ しるして一夜が.Ⅲけたこともあ った。今は楽 立てても倒れな 上してくる頃になると,棒を しい臥い出の 一つとなっている。 い 位川口に密集してくるし , 鮭稚伍の善用と 島の交通機関と 言えば,今では 車も走って して捕獲される アメ マスもおひただしく棲息 いようが,当時は 専ら徒歩であった。役所の ウ ラ し,一夜の雨で 出張で少し遠方に 行かれは ならない時は 上. イ がこわれて背上流に 逃 る。 アメマスは げてしまう程 とれたものであ 手,下手にかかわらず ,度は裸馬にまたが 刺身にしてよし,乾してトバにして 酒のつま みにしてよし,かまぼこにしたり ,家の周囲 り,冬はスキ - を利用しては駅逓,駅逓に辿 りつくのであ った。また官舎の生活は 存から の山菜のわらび ,ふき,こじやく ,あぎ み, 秋までの半年間は 合宅から ㎞離れた東沸の る あ ずきな,ぼりぼり ,しめじ葺,たも木きの えぱおおむねこれで 賄われ,しばし ば 我が家 中 / さ丹駅逓所 (小林氏提供) l5 一 は 狐 とりの常宿になったものであ る。 山女魚 のらしい。 は人にすれていないので ,来客があると私の 秋日月頃になると姫鯵(公魚地方名 )が東沸 妻等は子供を左手にツボ ・・・ ロ で50 分も釣ると タ の川中一杯に銀色になってくるのを 部落総出 飯の膳には結構間に 合う 位釣れた。都会の釣 で渡り,これを一斗樽で 量り,一度に何杯も マニアには少々池が 出る様な話である。 獲れる程資源@c も恵まれていた。 これは古釜 ふ化場より約8 キロ西に古 丹消 という硫黄 布に缶詰工場がる, 4 ケ所あり, 泊湾の併呑 泉があったが,年にl , 2 度島覚からの珍客 草は戦時中寒天の 材料として重宝がられたこ を招いて案内したものであ った。ここの古村 とからもその 一端がうかがわれる。 消温泉を,曽てオリンピックで 優勝した猪ケ 俗手杵さんのお 父さんがこよなく愛され, 4 , 5 年位滞Ⅱされたと思う。ソ一ズンにな ると,当時5 才の千在 さんはスキ一の 砧訓練 をさせられ,又父上は余暇にはスキー 靴や千 袋の研究に余念がなかったとか。 島の産業は主としで 漁業,畜産それに 林業 ど,うところで , 東沸にある 自 j, といえば " 察,学校,営林区 署派出所にふ化場の4 つ位 のものであった。営林区署の監守が 官札を払 姫鱒捕獲場と姫鮭漁業組合 (東沸Ⅰの (小林氏提供) い下げ,人に 手渡し,木材は 切り放題といっ た一面もまた離島に住む者の 利権の一つのよ 漁業経営はすべてと 言ってよい程仕込であ うであった。 り , 米,味噌類,衣類の果てまで 仕込まれ, 代りに水揚げほ 全部仕込親方に出荷するもの で,そこで清算される。 一面,日々の衣食に は事欠かない呑気さはあったが,甘い 目は l 人占めされるこの 方式が漁家の独立と発展を 障げる要因ともなった。 次から次へと国後の憤い 出は尽きないが 端的に言って過酷な自然の条件と戦う,忍従 の生活であった。一面には自然の 風物と資源 的に息まれた平和な単調さもあるが,仮借な ほたて貝加工場 (槽内) き 不自由と戦う 生活の歴史ど弄いたい。 学窓を出たぱかりの 仏には見るもの,聞く 北方領土返還の 声の叫ばれているこの 頃, もの, 侍呆然とさせられるばかりであ った。 国後を憶う切なるものがあ る。 返還を待っ 役所の周囲,小学校の 門には馬の馬栓棒と て,強力な国策の 下に漁業に,畜産に ,林業 パラ線でⅠ」 :切られていたのも 珍 らしい光景で @e鉱業@c積極的な開発の手が延びることを 期 あ った。これは放牧凡が入らぬようにしたも 待したい。 ・ 一 l6 一
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