④法性寺縁起

猿畠山
法性寺
逗子市久木9-1-33
[日蓮大聖人松葉ケ谷焼打法難御避難霊場]
文応元年(1260年)7月16日、日蓮大聖人御年39才の時、国難を救う為、鎌倉幕府前
執権最明寺入道時頼に、立正安国論を上奏しました。しかし、かえって幕府の怒りをかう結果
となり、日頃から大聖人のはげしい、念仏批判に恨みを抱いていた諸大寺の僧や信徒達は、こ
の機に乗じて大聖人を暗殺しようと、同年8月27日夜、数百人の暴徒をもって松葉ケ谷御草
庵を襲撃しました。
しかし、不思議にも大聖人はその時すでに、白猿に導かれるままに御草庵を出られ、現在の
祖師堂横の岩窟に難を避け、その後しばらくの間、猿達の供する野山の幸を受けながら身を隠
していられたと伝えられています。大聖人は、これを山頂にある山王権現の加護なりと確信さ
れ、正法弘通の後、この地に一寺を建立して報恩すべき旨を、弟子の日朗聖人に託されました。
そして、日朗聖人の弟子である朗慶聖人が志を受け継いで元亨元年(1321年)、この地に
一寺を建立し、今に至ります。
[師孝第一、給仕第一、
日朗聖人御墳墓]
日朗聖人は千葉県の生まれで、幼名を吉祥磨と言い、10才の頃、おじにあたる日昭聖人の
勧めにより、鎌倉松葉ケ谷の日蓮聖人の御草庵で出家して弟子となり、名を日朗と改めました。
以来、いつも師匠に随侍し、「日蓮の行くところ、常に日朗あり。師孝第一、給仕第一」と言
われました。
弘安5年10月、日蓮聖人が池上において御入滅の際、本弟子六老僧の一人に数えられまし
た。晩年は池上に隠居され、元応2年(1320年)1月21日、76才で御入滅されました。
その折、日蓮聖人にお仕えした松葉ケ谷、また、子供の頃過ごした懐かしい御猿畠の山に戻
りたいとの御遺言により、弟子朗慶聖人の手で、鎌倉松葉ケ谷で荼毘にふされ、緑深い当山の
山頂に納められました。(祖師堂前の四面堂内)
[総門]
山境内入口にあり、昭和39年建立。中央上部には池上79世日定聖人筆による「猿畠山」
の山号額が二匹の猿によって掲げられています。
[拝殿]
山境内なかほど、客殿の隣に位置しています。大正11年建立。一塔両尊、大聖人尊像、六
老僧各尊像及び、比企谷妙本寺格護の臨滅度時御本尊の原寸大の大曼荼羅が木版に顕刻安置さ
れています。
[祖師堂・日蓮岩屋]
山境内山上にあり、大正13年建立。中央に勧持本を両手にされた大聖人等身大座像、左に
日朗聖人像、右に山王権現像、天照大神三体像が安置されています。堂左手の岩屋内には朗慶
聖人作の五輪題目塔が安置されています。
[山王権現社]
山境内頂上にあり、当山の鎮守。比叡山の日枝山王社を本社とし、平安時代~江戸時代に全
国の山に祀られた末社の一つ。
日蓮聖人は鎌倉に出入りされる度に、この社を拝し、名越の切り通しを通られました。猿は
山王の使いとされている為、古来より、このあたりを御猿畠と称しました。
法華経に曰く、「悪、刀、杖、瓦石を加えんとすれば、変化の物を使わして、これが為に衛
護となさん。」大聖人と白猿の伝えは正にこの経文のごとくであります。
[両山奥の院]
日蓮宗最初のお寺である鎌倉比企谷、長興山妙本寺と大聖人の亡くなられた東京池上、長栄
山本門寺この2つの本山は、大聖人の滅後、日朗聖人が最初の住職となりました。
以来、昭和16年まで両方の寺を一人の住職が護る決まりがありました。(両山一主と言い
ます)江戸に幕府が移るまでは鎌倉妙本寺が日蓮宗の中心拠点として、また、江戸時代以降は、
池上本門寺が中心拠点として発展し、今日に至ります。
[大切岸と名越切通し(おおきりぎし・なごえきりどおし)]
鎌倉時代に三浦軍から鎌倉を守る為に造られた。山を尾根沿いに垂直に切り、城壁のように
しました。その途中に数ヶ所通路を開き、鎌倉への出入り口としました。当山背後、現在も1
キロメートルに渡り残っています。当時は鎌倉中を囲むようにめぐり、切通しも7ヶ所ありま
した。