第 21 回 へ た や ま 山陽道エピソード 山陽道を歩こう会 西村 修一 たいこうみち ≪戸田山の太閤道≫ いわ 太閤秀吉さんの九州西下に伴って、太閤さんは山陽道に様々な謂れの伝わるものを残し ています。太閤さんに親しみを込めて、 「太閤」の名を冠しています。戦勝祈願して手を洗っ ちな くまの ちょうず かつま て身を清めたことに因んで名づけられた熊野神社近くの手水川(勝間)。太閤さんに飲ま たいこうみず れた水をとてもおいしかったと褒められたので太閤水(福川・富田)。立ち寄られたとき 植えられた松を太閤松。福川の辺りは道が悪く、多くの兵士や食糧を運ぶのが困難だった ので、毛利公に頼んで道を造ってもらったので太閤道と呼ばれました。 とのみ 椿峠から旧徳山藩の富海へ少し行った戸田山にも「太閤道」と地元に伝わる古道があり ます。近く国交省による国道の拡張工事で失われると聞いてとても残念です。 勝栄寺の太閤松(富田) 昭和初期 ふくがわ 太閤水(福川) 昭和 40 年代 右の道でなくて左の山道 (戸田山太閤道) かしわや ≪福川の柏屋≫ バイパス(現国道2号線)ができる以前、福川駅を降りると正面に「龍の門」(開かずの 門)を持つ大きなお屋敷が見えました。福川本陣(福田家)の分家である「柏屋」です。 つくりざかや ひゃくじゅう えんでん かいさく 造酒屋から始め、福川銀行 ( 百 十 銀行→山口銀行 )、塩田事業、柏屋開作経営と幅広く 事業展開するに至りました。明治時代に貴族院議員 ( 二代目 )、衆議院議員 ( 四代目、五代目 ) し ん ぷ く じ まこと と戦前までに国会議員を三名も出しました。福川小学校に図書館を建てたり、“真 福寺は真 たつお に福田の寺”と言われるほど大旦那であったり、社格を持った辰尾神社の創立に尽力したり、 地元にも大いに貢献した。柏屋の土地を通らずして福川の町を歩けない、と言われるほどの は 大地主となって、戦後の農地改革以前は、山口県下一の資産家として名を馳せました。 山陽道に面していた柏屋(昭和初期) 柏屋別荘にて福田一家(戦前) 福川塩田(大正末) 次回は「イカリ石追跡」「久米の子供神輿」です。お楽しみに。 [6]
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