7 堀辰雄文学記念館の前に、なぜ本陣の門が? 長年探して、 ようやく見つけた歴史的な門 う か ら、 こ れ を 避 け て 館 内 や 庭 の 写 真 を 使 っ て い る。 同 館 長 の 話 で は、 見 学 者から堀辰雄とどのような関係がある が、あの場所なら門をくぐって行ける。 門なのかと聞かれることも多いとい あの場所以外に門を置く場所はありま 堀 さ ん の 説 明 を 要 約 す る と、 追分宿の歴史を調べている人たち は 、本 陣 の 門 が 御 代 田 町 の 塩 野 地 区 に う。当時の教育長・井出和年さんは「堀 あ る ら し い と 聞 き、 ず っ と 探 し て い せ ん。 最 終 的 に 場 所 は 教 育 委 員 会 と 追 内 た 。西 部 小 学 校 に 塩 野 の 教 諭 が い る こ 分の人たちで協議して決めました」と は堀辰雄の家や書庫をそのまま見学 人 が 軽 井 沢 町 に 寄 贈 し た も の で、 町 く な る ま で 過 ご し て い た。 多 恵 子 夫 作家の堀辰雄が晩年 こうして平成 ら 反 対 の 声 は あ が ら な か っ た と い う。 と が 理 由 だ っ た。 夫 人 の 多 恵 子 さ ん か 留 ま る 」「 町 の 土 地 で あ る 」 と い う こ し て い る 」「 地 元 の 人 も 観 光 客 も 目 に そ こ で 白 羽 の 矢 が 立 っ た の が「 堀 辰 雄 文 学 記 念 館 」 だ っ た。「 中 山 道 に 面 決まらなかった。 か 」 と 意 見 が 分 か れ、 な か な か 場 所 は くぐってもその先に何もないのはどう の 意 見 に 対 し て、 教 育 委 員 会 は「 門 を ボリックなものにしたい」という地元 見 え る 所 に 置 い て、 ま ち づ く り の シ ン 様 々 な 事 情 が あ り 断 っ た。「 中 山 道 の っ て い た が、 本 陣 の 土 地 の 所 有 者 は の人たちは本陣の跡地に置くものと思 移築はとんとん拍子に進むものと思 わ れ た が、 難 し い 状 況 に な っ た。 追 分 とを了承した。 年、 本 陣 の 門 が 堀 辰 雄 の な ら 寄 付 し ま し ょ う 」と 移 築 す る こ 「軽井沢町にとって歴史的な大切なも を 守 っ て き た の で 親 戚 に も 相 談 し、 しれない」と内堀さん。 は別の場所に移したほうがいいのかも は 記 念 館 の 入 口 に あ る け れ ど、 い ず れ 心 に 気 づ か な け れ ば い け な か っ た。 今 振り返る。「あのとき、多恵子夫人の本 たいという強い気持ちだったと当時を 安 が あ っ た 」。 と に か く、 追 分 に 戻 し 場所が決まらないなら移築するのは止 前 述 の 内 堀 次 雄 さ ん は「 あ っ ち も ダ メ、こっちもダメとなると、これ以上、 がふさわしいのでは」と首を傾げる。 ものなら追分宿郷土館の所にあるほう 追分の別荘で 年以上暮らす南沢直 子 さ ん は「 文 学 と 関 係 な く、 歴 史 的 な 声を聞いている。 の場所に建ててほしくなかったという 子 さ ん か ら、 堀 と 関 係 な い 門 な の で あ 言 え な か っ た け ど、 本 当 は 嫌 が っ て い ているということがあるからはっきり は、「 堀 さ ん は、 町 が 記 念 館 を 運 営 し 辰雄と関係ないと言えば確かにそうだ と を 知 り、 そ の 門 に つ い て 尋 ね る と、 話す。 次のようになる。 う 。 そ の 家 は 1 0 0 年 の 間 、大 切 に 門 「それなら私の家にありますよ」と言 堀多恵子さんと親しかった大久保保 さん(軽井沢ナショナルトラスト会長) で き る よ う に 残 し、 入 口 近 く に 展 示 文 学 記 念 館 の 入 口 に 移 築 さ れ た。 移 築 ぜ、ここに本陣の門が?」 濃 追 分 に あ る こ の 場 所 に は、 堀辰雄とこの門の関係は… 信 歳で亡 信濃追分の名所になっている。 入 口 に あ る 本 陣 の 門 は な ぜ、 こ こ に 建 っ て い る の だ ろ う か。 説 明 板 に ガイドブックから消えた 記念館の入口の写真 め よ う、 と な る の で は な い か と い う 不 ていたことは知らなかった」と驚いた 様子で、「移築したほうがいいという声 の 裏 門 で あ り、 御 代 田 町 に あ っ た も 大きな宿の一つであった追分宿本陣 マツ並木や浅間石の門柱が写っていた 写 真。 看 板 と 共 に 堀 辰 雄 が 愛 し た カ ラ ドブックに載っていた入口の の 門 が で き る 前 ま で は、 ガ イ て 良 い こ と な の か ど う か、 考 え て み る を 置 く こ と が、 本 当 に 信 濃 追 分 に と っ 軽井沢の作家を代表する堀辰雄の文 学 記 念 館 に、 文 学 と 何 の 関 係 も な い 門 だね」とうなずいた。 も あ り ま す が 」 と い う 意 見 に は「 そ う の を 移 築 し た の だ と い う。 当 時 か ら が、 今 は ほ と ん ど の ガ イ ド ブ ッ ク に 載 は、 こ の 門 の 由 来 が 記 さ れ て い る。 追 分 在 住 の 町 議 会 議 員 で、 移 築 に 至 (広川小夜子) ことが必要な時期なのかもしれない。 堀辰雄とは関係のない門が写ってしま らなくなってしまった。弊社の場合も、 町議会議長)に話を伺った。 った経緯に詳しい内堀次雄さん(現・ こ 40 ま し た 」。 実 際、 筆 者( 広 川 ) も 多 恵 館 等 を 建 築 し た。 軽 井 沢 文 学 を 代 表 の費用は約1700万円であった。 毎年多くの文学ファンが訪れる「堀 辰 雄 文 学 記 念 館 」。 訪 れ る た び、 入 口 す る 作 家・ 堀 辰 雄 を 紹 介 す る こ の 文 当 時 の 町 長・ 佐 藤 雅 義 さ ん に、 取 材 した内容を伝えると、「堀さんが嫌がっ に あ る 大 き な 門 を 見 上 げ て 思 う。「 な 学 記 念 館 に は 年 間 約 1 万 人 が 訪 れ、 堀辰雄文学記念館の入口。ここにある追分宿本陣の門は裏門。 表門は今も探しているが見つかっていない。 そ れ に よ る と、 こ の 門 は 中 山 道 で も 17 48
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