堀辰雄文学記念館の前に、なぜ本陣の門が?

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堀辰雄文学記念館の前に、なぜ本陣の門が?
長年探して、
ようやく見つけた歴史的な門
う か ら、 こ れ を 避 け て 館 内 や 庭 の 写 真
を 使 っ て い る。 同 館 長 の 話 で は、 見 学
者から堀辰雄とどのような関係がある
が、あの場所なら門をくぐって行ける。
門なのかと聞かれることも多いとい
あの場所以外に門を置く場所はありま
堀 さ ん の 説 明 を 要 約 す る と、
追分宿の歴史を調べている人たち
は 、本 陣 の 門 が 御 代 田 町 の 塩 野 地 区 に
う。当時の教育長・井出和年さんは「堀
あ る ら し い と 聞 き、 ず っ と 探 し て い
せ ん。 最 終 的 に 場 所 は 教 育 委 員 会 と 追
内
た 。西 部 小 学 校 に 塩 野 の 教 諭 が い る こ
分の人たちで協議して決めました」と
は堀辰雄の家や書庫をそのまま見学
人 が 軽 井 沢 町 に 寄 贈 し た も の で、 町
く な る ま で 過 ご し て い た。 多 恵 子 夫
作家の堀辰雄が晩年
こうして平成
ら 反 対 の 声 は あ が ら な か っ た と い う。
と が 理 由 だ っ た。 夫 人 の 多 恵 子 さ ん か
留 ま る 」「 町 の 土 地 で あ る 」 と い う こ
し て い る 」「 地 元 の 人 も 観 光 客 も 目 に
そ こ で 白 羽 の 矢 が 立 っ た の が「 堀 辰
雄 文 学 記 念 館 」 だ っ た。「 中 山 道 に 面
決まらなかった。
か 」 と 意 見 が 分 か れ、 な か な か 場 所 は
くぐってもその先に何もないのはどう
の 意 見 に 対 し て、 教 育 委 員 会 は「 門 を
ボリックなものにしたい」という地元
見 え る 所 に 置 い て、 ま ち づ く り の シ ン
様 々 な 事 情 が あ り 断 っ た。「 中 山 道 の
っ て い た が、 本 陣 の 土 地 の 所 有 者 は
の人たちは本陣の跡地に置くものと思
移築はとんとん拍子に進むものと思
わ れ た が、 難 し い 状 況 に な っ た。 追 分
とを了承した。
年、 本 陣 の 門 が 堀 辰 雄
の な ら 寄 付 し ま し ょ う 」と 移 築 す る こ
「軽井沢町にとって歴史的な大切なも
を 守 っ て き た の で 親 戚 に も 相 談 し、
しれない」と内堀さん。
は別の場所に移したほうがいいのかも
は 記 念 館 の 入 口 に あ る け れ ど、 い ず れ
心 に 気 づ か な け れ ば い け な か っ た。 今
振り返る。「あのとき、多恵子夫人の本
たいという強い気持ちだったと当時を
安 が あ っ た 」。 と に か く、 追 分 に 戻 し
場所が決まらないなら移築するのは止
前 述 の 内 堀 次 雄 さ ん は「 あ っ ち も ダ
メ、こっちもダメとなると、これ以上、
がふさわしいのでは」と首を傾げる。
ものなら追分宿郷土館の所にあるほう
追分の別荘で 年以上暮らす南沢直
子 さ ん は「 文 学 と 関 係 な く、 歴 史 的 な
声を聞いている。
の場所に建ててほしくなかったという
子 さ ん か ら、 堀 と 関 係 な い 門 な の で あ
言 え な か っ た け ど、 本 当 は 嫌 が っ て い
ているということがあるからはっきり
は、「 堀 さ ん は、 町 が 記 念 館 を 運 営 し
辰雄と関係ないと言えば確かにそうだ
と を 知 り、 そ の 門 に つ い て 尋 ね る と、
話す。
次のようになる。
う 。 そ の 家 は 1 0 0 年 の 間 、大 切 に 門
「それなら私の家にありますよ」と言
堀多恵子さんと親しかった大久保保
さん(軽井沢ナショナルトラスト会長)
で き る よ う に 残 し、 入 口 近 く に 展 示
文 学 記 念 館 の 入 口 に 移 築 さ れ た。 移 築
ぜ、ここに本陣の門が?」
濃 追 分 に あ る こ の 場 所 に は、
堀辰雄とこの門の関係は…
信
歳で亡
信濃追分の名所になっている。
入 口 に あ る 本 陣 の 門 は な ぜ、 こ こ
に 建 っ て い る の だ ろ う か。 説 明 板 に
ガイドブックから消えた
記念館の入口の写真
め よ う、 と な る の で は な い か と い う 不
ていたことは知らなかった」と驚いた
様子で、「移築したほうがいいという声
の 裏 門 で あ り、 御 代 田 町 に あ っ た も
大きな宿の一つであった追分宿本陣
マツ並木や浅間石の門柱が写っていた
写 真。 看 板 と 共 に 堀 辰 雄 が 愛 し た カ ラ
ドブックに載っていた入口の
の 門 が で き る 前 ま で は、 ガ イ
て 良 い こ と な の か ど う か、 考 え て み る
を 置 く こ と が、 本 当 に 信 濃 追 分 に と っ
軽井沢の作家を代表する堀辰雄の文
学 記 念 館 に、 文 学 と 何 の 関 係 も な い 門
だね」とうなずいた。
も あ り ま す が 」 と い う 意 見 に は「 そ う
の を 移 築 し た の だ と い う。 当 時 か ら
が、 今 は ほ と ん ど の ガ イ ド ブ ッ ク に 載
は、 こ の 門 の 由 来 が 記 さ れ て い る。
追 分 在 住 の 町 議 会 議 員 で、 移 築 に 至
(広川小夜子)
ことが必要な時期なのかもしれない。
堀辰雄とは関係のない門が写ってしま
らなくなってしまった。弊社の場合も、
町議会議長)に話を伺った。
った経緯に詳しい内堀次雄さん(現・
こ
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ま し た 」。 実 際、 筆 者( 広 川 ) も 多 恵
館 等 を 建 築 し た。 軽 井 沢 文 学 を 代 表
の費用は約1700万円であった。
毎年多くの文学ファンが訪れる「堀
辰 雄 文 学 記 念 館 」。 訪 れ る た び、 入 口
す る 作 家・ 堀 辰 雄 を 紹 介 す る こ の 文
当 時 の 町 長・ 佐 藤 雅 義 さ ん に、 取 材
した内容を伝えると、「堀さんが嫌がっ
に あ る 大 き な 門 を 見 上 げ て 思 う。「 な
学 記 念 館 に は 年 間 約 1 万 人 が 訪 れ、
堀辰雄文学記念館の入口。ここにある追分宿本陣の門は裏門。
表門は今も探しているが見つかっていない。
そ れ に よ る と、 こ の 門 は 中 山 道 で も
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