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その当時においても、
鉱山仕事というのは、
たはずだ。ただ、遠藤さんの話を聞くと、
代人の想像などは全く及ばない世界だっ
が、人力で岩盤を砕く苦労たるや、我々現
婦などで協力して作業にあたったという
る。しかも灯りはろうそくのみ。師弟や夫
迫害されていた彼らもここでは山法を守
その良い例が隠れキリシタンで、里では
であっても鉱山では生きることができた。
え守っていれば、たとえ里を追われた者
く処罰された。その一方で、この山法さ
山の秩序を乱す行為は、この山法で厳し
設置した目印や封印を壊すといった、鉱
成された塊状鉱床(黒鉱)である。遠藤
によって、硫化物が塊状(イモ状)に形
は、海底火山活動とそれに伴う熱水活動
北鹿地域を代表する鉱山である小坂鉱山
するとよいのだという。ちなみに、同じ
管のごとく鉱脈が走っている状態を想像
できたもので、巨大な石の内部に毛細血
とはマグマが地下の亀裂に入り固まって
「これが、尾去沢鉱山特有の鉱脈型鉱床
の採掘跡です」と遠藤さん。鉱脈型鉱床
が上に向かって伸びている。
地の割れ目といわんばかりの大きな亀裂
れは坑道を自分の足で
吹 を 確 か に 聞 い た。 そ
の 闇 に、 鉱 夫 た ち の 息
岩盤を貫いて進む坑道
に 過 ぎ な い。 し か し、
のほんのわずか1・7㎞
見学できたのは無数
に張り巡らされた坑道
掘削されたとはいえ、人間の能力には目
マイトを使ったシュリンケージ採掘法で
暗闇に吸いこまれていく。いくらダイナ
こまでも深く、照明用の強力なライトも
いう。確かに岩盤に刻まれた採掘跡はど
態は全国でも類を見ないレベルにあると
いほどに強固な岩盤を持つため、保存状
いのだそうだ。尾去沢の場合は、恐ろし
盤が固ければ、採掘跡を埋める必要はな
れるのに対し、鉱脈型鉱床は、周囲の岩
りとなるため、採掘跡は埋め戻しが行わ
さんによると、一般の黒鉱採掘は露天掘
人が一人、鎚と鑿を振るうのが精一杯であ
その狭さに驚く。幅約
江戸時代の坑道は、本コースの横穴とい
う感じでいくつも存在しているが、まず、
時代の採掘跡へと向かった。
近代採掘の様子を詳細に再現したコー
スを見学した後、時代を遡るかたちで江戸
江戸時代の尾去沢鉱山
山の掟が律していた
隠れキリシタンは、坑道内でも礼拝を欠かさなかったという。
その証拠に、岩盤に十字架を彫った跡も残っている。
を見張るばかりだ。
のみ
㎝、高さ約
㎝。
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つち
藩政時代の採掘風景の再現。当時、鉱夫たちの技術は、徒
弟制度により引き継がれ、
「友子」と呼ばれる労働組織がつ
くられていた。
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頭上に延びる鉱脈型鉱床に、
特殊なものだったとのこと。それを証明す
り な が ら 生 活 す る こ と が で き た と い う。
歩いた者にしか聞こえ
鉱夫の息吹を聞く
るのが、鉱山の掟「山法」である。
労働は過酷を極めたが、鉱山には鉱山の
ない歴史の声である。
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自由も存在していたのだ。
平安仏教美術の極みともいえる中
尊寺金色堂。尾去沢鉱山の金が使
われたかどうかは、今もって謎とさ
れている。
当時の鉱山は治外法権におかれた特殊
な世界で、山法が鉱山内の生活を律して
尾去沢鉱山には史実とはまた違った顔も存在する。それが、伝説の金山
としての尾去沢鉱山だ。
そのはじまりは、
奈良時代の和同元年(708)と伝えられている。もちろん、
この起源を語るのは伝説であり、史実として認められてはいない。ところが、
こうした伝説を信じてしまいたくなるほどに、金の山、尾去沢に関する言い
伝えは饒舌だ。
たとえば、ある伝記では、尾去沢の金が奈良東大寺の大仏鋳造の際の鍍
金に用いられたと伝え、またある伝説は、平安末期、奥州藤原氏によって
築かれた平泉の黄金文化に多くの金をもたらしたと伝える。
実際、平泉文化を支えた金の出所、産出量は現在も謎の部分が多い。伝
説とわかっていつつも、藤原氏が陸奥を広く治めた時代背景や、奥大道と
の位置関係(奥州藤原時代、平泉と青森の外ヶ浜を結ぶ交易ルート奥大道
は、尾去沢のある鹿角を通っていたと考えられている。
)を考慮すると、尾
去沢と平泉を結ぶ金の道が存在していたと想像できなくもない。
また、尾去沢鉱山のはじまりを伝える光る怪鳥の伝説や、山芋についた
砂金から白根金山(現在の小真木鉱山)を発見したという伝説も残されて
いる。これらの伝説はどちらも、約 400 ~ 500 年前と、奥州藤原氏と尾
去沢鉱山を結びつけるもので
はないが、
金の山、
尾去沢には、
多くの謎が隠されているのか
もしれない。
むろん、当の尾去沢鉱山は
黙して語ることはない。
しかし、
その巨大な山容が金色に彩ら
れて見えるのは旅人の幻想だ
ろうか。
いた。尾去沢鉱山の場合、この山法にあ
●伝説が物語る起源は奈良時代の和同元年
江戸時代の採掘跡を見終わると、やが
て坑道が尽き、エスカレーターで外界へ
秋田県北東部、かつての北鹿(ほくろく)地域は、日本最大の鉱山地帯
として長く隆盛を誇った。この地域で本格的な鉱山開発が行われたのは江
戸時代からで、開発年代はそれぞれ異なるが、合計で約 20 ヵ所にも及ぶ
鉱山が開かれ、銀や銅の採掘が進められたとされている。
こうしたなか、尾去沢鉱山が史実のなかに登場するのは、徳川家康が関ヶ
原合戦に勝利する 1 年前の 1599 年である。この時代の前後が鹿角地方の
ゴールドラッシュで、次々に金山が発見されている。尾去沢鉱山もそのひと
つで、南部藩統治のもと、金鉱脈の採掘が進められた。
しかし、
70 年間で金を掘り尽くし、
尾去沢は産銅へと転換の時期を迎える。
延宝 2 年(1674)以降は、山師阿部小平治の働きによって、銅山開発が
本格化。最盛期には、その多くが長崎に送られ、御用銅として貿易決済に
用いられた。とはいえ、鉱山の歴史は栄枯盛衰が常。18 世紀後半の尾去
沢鉱山の産銅は大きく落ち込み、閉山寸前に追い込まれた。
こうした状況を文字通り打破したのが、幕末に登場したダイナマイトであ
る。鉱夫による手掘から、西洋式採掘への転換。この技術革新によって、
尾去沢鉱山は再び活気づいたのである。
以後、尾去沢鉱山は多くの経営者を迎えながら、軍需産業で沸いた大正
期、昭和の太平洋戦争と戦後復興期など、日本の経済産業のターニングポ
イントを産銅によって支え続けた。しかし、輝かしいほどの尾去沢鉱山の歴
史にもついに幕が下ろされる。銅価格の低迷、鉱量の枯渇などで経営困難
に陥り、昭和 53 年に閉山。約 4 世紀にも及ぶ歴史にピリオドが打たれた。
た る の が「 御 式 内 二 十 七 ヶ 条 」 だ っ た。
●尾去沢鉱山が歩んだ歴史
と運ばれた。
尾去沢鉱山、ふたつの素顔
他の鉱夫の持ち場を勝手に掘る、役人が
史 実 が語り、伝説が彩る
❶
❸
❷
①頭上の大きな亀裂が鉱脈型鉱床の採掘跡。岩盤が強固だったため、崩落はほとんどなかったと考えられている。
②③当時の最新の技術が用いられた近代採掘。太平洋戦争のただなかにあった昭和 18 年に月産 10 万トンの産
銅を記録し、これが尾去沢鉱山のピークとされている。
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