平安末期、六郷川下流に翻る河内源氏の白旗 最初の一歩は六郷より

平安末期、六郷川下流に翻る河内源氏の白旗
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平安末期、六郷川下流に翻る河内源氏の白旗
最初の一歩は六郷より始まる、天喜五年(1052)、源頼義・義家親子は六郷の大杉に源氏白旗を掲
げ、兵を集め、戦勝祈願を行い奥州追討に向かった。平安末期頃は朝廷から追討に綸旨を受けると私
兵(家人)を率い、各地で兵を集め奥州に向かう、この時の兵力は多く見積もっても3000人ほどであった
と言う。(『六郷神社史』六郷神社)
わずかの兵力で追討に向かった源頼義・義家親子は「前九年の役」(1051∼1062年)、「後三年の役」
(1083∼1088)を経て「武士の長者」・「武士の棟梁」と祭り上げられ、初めての武家政権を開いた源頼
朝は、河内源氏正統を名乗り板東武士を糾合して平家を滅ぼしました。
● 平安末期の東国はどのようであったか
現在の茨城(常陸國)、千葉(上総國)、鎌倉(相模の国)の状況は。蝦夷の國(出羽・陸奥の国)への
対抗軍事力として桓武平氏が配置された。下級貴族である軍事貴族は、活躍する場を求め東国にやっ
て来た。そこには当時の「招婿婚(しょうせいこん)」と言われる貴族の婚姻制度が大きく作用したようで
ある。
「招婿婚」とは男の入り婿の一種である、地方(例えば東国)の娘と結びつき、子供が生まれた場合に
は母方の家で育てられ、父方に扶養の義務はない、また娘には館とそこに付随する領地や郎党が付い
てくる。男の子が生まれると父親の姓を名乗ることが許される。地方の開発領主にとって平氏や源氏を
名乗ることが出来る上に、中央の貴種との繋がりから庇護を受けることも出来るなどメリットもある。下
級の軍事貴族の男に官位は譲られたが財産は譲られなかったようであり、必然的に都から地方へ所領
を求め進出した。平氏は東国に領地が出来るなど互いにメリットがあった。これが平安末期の東国であ
る。
ここに割り込んできたのが河内源氏である。始まりは河内源氏の祖・源頼信の息子と平氏・平直方の
娘の婚姻である。高望王に始まる武家平氏(軍事貴族)の平直方は、常陸国「平忠常の反乱」(万寿五
年・1028年)を収めよと朝廷から追討使を命じられたが失敗する。このため軍事貴族の面目を失い昇進
の望みが絶たれる。
平直方の次に追悼使を任命されたのが源頼信である。見事に反乱を収めた頼信に、平直方は娘の
婿に源頼信の息子頼義を選び、相模の領地を譲る。平氏と源氏の結びつきであり、河内源氏は東国に
足がかりを得る。生まれたのが源義家である。生まれながらの「武士の長者」としての条件を持ってい
た。河内源氏の祖・源頼信は交渉事の得意な武士であったようだ。
● 俘囚の豪族安倍頼良を討伐せよ、『前九年の役』
頼 義 ・ 義 家 親 子 が 武 士 の 棟 梁 へ 駆 け 上 っ た 「 前 九 年 の 役 」 永 承 6 年 ( 1051 年 ) ∼ 康 平 5 年
(1062年)、11 世紀半ばに起きた陸奥の豪族安倍頼良氏と源頼義の戦いである。安倍頼良は衣川関
へ、奥六郡(胆沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手)の南あたりまで勢力を伸ばし、朝廷にも税も雑役の人
間を送ることも拒否した。朝廷は陸奥守藤原登任(なりとう)に討伐を命じるが「鬼切部の戦い」で大敗
する、そのため源頼義に奥州平定を命じる(永承6年・1051年)。
朝廷の綸旨を受け陸奥守となった頼義・義家親子は東海道を下り、鎌倉で兵士を集めます。これに応
呼したのが相模の国の平氏達であったと考えます。冒頭のように六郷でも源氏の旗を掲げ兵士を集め
ます。この時、六郷に居住していたのは行方弾正ではなく、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏の一
族であると考えます。彼らは水運が得意な一族であると思われ、東京湾江戸湊から六浦にかけて水運
で活躍していたと考えられます。六郷は多摩川河口の重要な場所でありました。
都から東国板東に来た武家平氏(軍事貴族)は、板東平氏から源氏へと変わっていました。源頼朝に
旗揚げに参加した千葉・畑山・三浦・和田・大庭などの一族です、彼らは頼義の父頼信に名簿を捧げて
主従となった板東平氏達です。(「平安時代の南陸奥と板東」)
陸奥守となり討伐に向かう兵力は3000人ほどと言われています。 源頼義が陸奥守として奥州に行くと
安倍氏は頼義の武名を恐れ、朝廷の上東門院彰子(じょうとうもん いんしょうし)大赦もあった事から許
され戦わずに停戦が結ばれた、安倍頼良は、頼義と呼称が同じ事を遠慮して改名し頼時とする。頼義
の陸奥守任期の終わり天喜4年(1056)に安倍頼良の長男貞任(さだとう)が殺傷事件を起こしたことに
より再び反乱を起こす。
● 「前九年の役の戦い」に苦戦する源頼義・義家軍
天喜五年(1057)、安倍頼良の死もあったが、後を継いだ安倍貞任(あべ さだとう)・宗任(むねとう)と
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の戦いは続いた。寡兵のため非常な苦戦で独力では勝利出来なくなり、黄海(きのみ・現在の一関市あ
たり)で大敗する、頼義・義家以下7名で離脱したという。伝承では若武者義家の活躍がなければ脱出
できなかったと言う。
寡兵で連戦連敗の頼義は出羽国の俘囚(ふしゅう・朝廷に従う蝦夷)の豪族淸原光頼(みつより)と武
則(たけのり)に参陣を強く要請する。名簿(家来となる)を捧げたと言われるような屈辱的な要請であっ
たという。
康平五年(1063)これに応じた淸原氏は10.000人の軍勢を派遣する。形勢は一気に逆転して嫗戸柵
(うばとのさく)(盛岡市安倍館町、厨川柵(くりやがわのさく)(岩手県盛岡市天昌寺町あたり)、の戦い
で勝利して安倍氏は滅亡した。斬首された安倍氏の兵は15000人とも言われている(柵とは砦のことで
ある)。別の見方をすると清原氏と安倍氏の俘囚同士の戦いであり勝った清原氏が奥州全部を手に入
れた。
辛うじて勝利した源頼義は陸奥守でなく、正四位下伊予守となる。目指した奥州に介入する事は出来
なかった。淸原氏は戦功を評価され従五位下鎮守府将軍に補任されて奥州六郡を与えられた。また、
安倍頼時の妻は淸原武貞の妻と成り、安倍経清の遺児は淸原氏に引き取られる。後に藤原清衡にな
る子供である。これが「後三年の役」の伏線となる。
共に戦った武士達との結びつきは強くなり、武士の棟梁として進み始める。この時代には、鎌倉幕府の
ような「本領安堵」や「新恩給与」ではなく「従者への官職推薦権」が大きな比重を占めていた。
忠節に対する代償として、主人たる者は従者達への給養や恩賞のために奔走することが求められた、
事実、頼義も「子息等および従者」の恩賞を要求している。(前陸奥守頼俊申文『平安遺文』)(武士の
誕生)
● 淸原氏の内乱に介入した源義家、「後三年の役」
源義家は、永保三年(1083)に陸奥守となり奥州に戻ってきた。義家は武士の長者を目指し、奥州の
豊かな馬・鉄・アザラシの皮・鷲羽を狙っていたと思われる、この機会を捉えたのが「後三年の役」であ
る。淸原氏の内乱が勃発した。淸原真衡(さねひら)と家衡(いえひら)・清衡(きよひら)が争ったのであ
る。源義家は清原真衡からの要請により救援、家衡・清衡の軍を破り降伏させた、しかし真衛が病死し
たため、奥六郡を家衡と清衡に二分した。しかし清原氏の正統を自認する家衡は清衡を攻めた。義家
は家衡に激怒して清衡と共に攻めるが雪に阻まれて撤退する。
翌年寛治元年(1087)9月、家衡の本拠地・金沢柵を攻める。ここに義家の弟・義光が参戦する、彼は
新羅三郎(しんらさぶろう)と言われた甲斐源氏の祖である。義家らは、家衡と彼に味方する武衡を兵
糧攻めにして破る。
「後三年の役」の後に朝廷はこの戦いを義家の私戦として、戦いの費用や恩賞を認めなかった。寛治
二年(1088)に義家は陸奥守を下ろされ藤原基家が陸奥守になる。義家は「天下第一の武勇」と賞賛さ
れ認められたが、戦いの間に朝廷への黄金未納(陸奥国)などを咎められ官職に就けなくなった。
義家は共に戦った将士に私財をもって恩賞を出した。この行為が恩賞の多寡にかかわらず賞賛さ
れ、武士の棟梁と認められる事に繋がり、後年の義家伝承の始まりとなる。
義家が困窮するのと違い、得をしたのは清原清衡である。奥州六郡全てを手に入れ官位も手に入れ
た、実父経清の姓である藤原氏を名乗り、後の「藤原三代の栄華」を生む。またも頼義・義家親子の奥
州介入は夢と散ったのである。この夢の達成が河内源氏相伝の宿意となり、源頼朝が奥州討伐を起こ
す要因となる
● 義家の晩年と死後
義家は「武士の棟梁」と認められ、地方の開発領主(在地領主)が庇護を求め土地の寄進が始まっ
た。貴族や寺の荘園の侍(側に控える武士の意味)が割り込むように自分たちの支配する土地を持ち
始めた。武士の荘園領主の誕生である。
義家は後三年の役から10年後の承徳二年(1098)に、白河上皇の強引な意向で受領の要件を満たし
たとして、翌年承徳三年(1099)に正四位下に昇進して昇殿を許される。これは僧兵の横暴をおそれた
白河上皇が警護に義家の武力(武名)を頼った事による。義家は1106年(嘉承元年)七月15日に68 才
で没する。
義家の死後、弟の義親の不祥事などに白河上皇は源氏を見限り、平氏・平正盛に義親の追討を命じ
る、天仁元年(1108)に討ち取られた義親の首級を掲げた凱旋パレードが行われ、源氏から平氏への
軍事貴族交代が行われた。源氏の没落と平氏の栄華が始まる。
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● 平氏の謳歌する世の中になっても、東国から奥州にかけて武士の長者「八幡太郎義家の伝
承」は語り継がれた。
1. 平安末期に広く貴族や庶民に謡われた(今様)
「鷲の棲む深山には、なべての鳥は棲むものか、同じ源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」(梁塵秘
抄)
2.源義家が読む。
「吹く風をなこその関と思えども道もせに散る山桜かな」(千載和歌集)
3. 足利尊氏も八幡太郎義家のイメージを利用した。
足利氏に伝わる伝承としては、「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」という八幡殿(義
家)の置文(遺言書)が足利家に伝わったとされます。義家から七代目にあたる足利家時は、自分の代
では達成できないため、三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害したと『難太平
記』(今川了俊 1402年(応永9年)成立)に記載されている。また義家が着用した鎧も伝わると言う。
4.徳川家康も義家の子である義国の新田系河内源氏と称し、六郷神社に寄進や鎌倉の鶴岡八幡宮を
保護した。
5.歌川広重が描く、晩年の傑作「名所江戸百景」では『八景坂鎧掛松』が取り上げられている。現在の
大森駅前天祖神社にあった茶屋である。
6.明治維新により新しい政権が出来たが、国家総動員の強力な武家政権に移行しただけである。国家
に忠誠を尽くす兵隊をつくるために、尋常小学校教科書や唱歌に八幡太郎義家の伝承を利用した。
● 源頼朝の挙兵の成功には東国の頼義・義家親子の人気があった。
約100年後、板東の地で平氏追討の狼煙を挙げた源頼朝は、自分が源氏の正統である河内源氏源
頼義・義家親子の正統な後継者であるとし兵を集めた。頼朝は頼義・義家のイメージをフルに活用し
た。
『源頼朝は1189(文治五)年の奥州合戦に際し、旗の寸法から合戦の日程まで前九年の役における
頼義の故実を踏襲している。』(『日本史リブレット人『源義家 天下第一の武勇士』野口 実著 山川出
版社 2012年』
頼朝は義経を匿う藤原氏を討つとしたが、本当は先祖の源頼義・義家親子の奥州を支配するという
夢を実現する目的(河内源氏の宿意)があった。奥州征伐を後白河法皇に奏上したが拒否された、しか
し「奥州藤原氏は源氏の家人であるから勅許は不要である」との大庭景義の進言を入れ奥州討伐を進
めた。全国66カ国に動員をかけ28万を越える兵を集め奥州討伐(合戦)に向かった。
参陣を見合わせた領主はのちに所領を没収された。頼朝はこの戦いに参陣すれば、「平家合戦に源
氏に反抗した武家でも罪を許す」と宣告した。 ● 『吾妻鏡』より
『吾妻鏡』より 文治
文治55年(
年(1189
1189))7 月 17
17日 奥州追討軍の部署を定める記述である。
日 奥州追討軍の部署を定める記述である。
『 いわゆる東海道の大将軍は千葉介常胤・八田右衛門尉知家、おのおの一族等ならびに常陸・下総
国の両国の勇士等を相具し、宇田・行方を經(へ)、岩城・岩崎を廻り、阿武隈河の湊を渡りて参会すべ
きなり、北陸道の大将軍比企藤四朗能員・宇佐見平次實政等は、下道を經、上野国高山・小林・大胡
(おほご)・佐貫(さぬき)等の住人を相催し、越後國より出羽國念珠(ねんず)が關に出でて、合戦を遂
げるべし。二品(ほんい)は大手として、中路より御下向あるべし。先陣は畠山次郎重忠たるべきの由、
これを召し仰す。 略』・
(吾妻鏡)
上記のように記載があり、後で第三代執権北条泰時(1224∼1242年)が整備した「下道」があったと確
認できる記述である。仁治二年(1241)、泰時は朝比奈切通を抜け金沢海岸道に出る下道を整備した。
これにより安房や江戸湊からの物資を六浦から鎌倉に運びやすくなった。また海岸線から弘明寺につ
ながる「下道」も歩きやすくなった。
● 大田区の行方弾正は鎌倉時代から六郷に住む
奥州合戦に勝利した源頼朝は奥州を幕府直轄領として葛西清重(きよしげ)を奥州惣奉行とした。常
陸国の水運は重要な要素であり、行方一族は奥州支配には必要な御家人である。
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1193年(建久三年)に多気義幹が讒言により大掾職を失い多気氏は滅びる。頼朝はより支配を安定さ
せるため、大掾の役職を吉田資幹(すけとも)に与えた。彼は、水戸に水戸城を築き名前も馬塲氏を名
乗り1214年(健保2年)には府中の地頭職となる。
奥州の多気致幹(むねとみ)の弟・清幹(吉田次郎)の子供は、吉田太郎盛幹・行方次郎忠幹・鹿島三
郎成幹で吉田・行方・鹿島の祖になった。六郷の地に住み着いたのは行方氏の一族である。 また、頼朝の死後、彼の近習であった第二代執権北条義時(三代泰時の説もあり)が奥州への「下道」
を整備する。朝比奈切道から金沢文庫へ弘明寺、平間の渡しから山王、南品川へ、高輪から隅田川河
畔の国技館あたりから奥州道へ行く「下ノ道」を拡充整備した。また、同時に「上ノ道」・「中ノ道」(現在
の中原街道)も整備したのではないか。
今は廃れて面影はないが「下ノ道」(旧池上バス通り)は奥州経営の重要な道として、渡しには管理警
備するため常駐の兵が置かれた、この役割は武蔵国の御家人(行方弾正・池上氏など)が努めた。奥
州に行く人、来る人の往来で賑わっていたのではないでしょうか。奥州からの馬を休めるため、泉が湧
く谷は重要であり馬篭(馬籠)が生まれ、谷を「やと」と呼ぶ言い方も鎌倉時代の名残かも知れない。
● 頼朝が命じた六郷神社建立
源氏の白旗を掲げた大杉に戦勝を祈願したという、1191年(建久二年)、家臣の梶原景時に命じて社
殿を造営させた。頼朝自身も手水石を寄進した、梶原景時も太鼓橋を寄進した。源頼朝伝承の八幡様
は関東各地にあるが、六郷神社伝承は源頼義・義家の伝承もあり、確かな史実である。六郷神社の建
立は、頼朝の奥州討伐の戦後処理の一つとして行われた。
頼朝は奥州討伐の後、鎌倉に戻り鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺(ようふくじ)の三つの寺を建立し
た。勝長寿院は父義朝の菩提を弔うため、永福寺は奥州討伐で死んだ全ての兵士の霊を弔うためで
あった。この寺は平泉の中尊寺二階大寺を模したものである。建久二年(1192)11月25日 本堂が完成
し、落慶法要が行われた。
● 13
13世紀半ば、宝治二年(
世紀半ば、宝治二年(1248
1248)二月五日の記事
)二月五日の記事
『永福寺(ようふくじ)修理の話』
永福寺の言われを述べた中で、『陸奥・出羽を知行すべき旨、勅諚(ちょくじょう)を蒙った。これはひと
えに奥州が泰衡管領の地によっている。そこで関東長久の先々の事まで思い巡らして、この人達を慰
めようとして、この建立(こんりゅう)を思い立ったものである。義顕(義経)も泰衡も特に朝敵といあった
ものではない。これは頼朝の私の代々の遺恨から討ち滅ぼしたものだから、その恨みを思う魂を慰め
ようとして思い立ったものである。(私の宿意)』永福寺は平泉諸寺を模した寺である。
このように奥州合戦は明確に河内源氏の宿意による戦いであると公式に述べている。
● 江戸時代の六郷
鎌倉幕府滅亡後、六郷に大きな変化が起きたのは江戸幕府開府後である。徳川家康は海岸沿いに
東海道を新設した。六郷川には、六郷渡しが造られた。発展する江戸に必要な材木を青梅から運ぶた
め、筏を組んで六郷まで運んだ。多摩川は急流であるため、材木が橋桁にぶつかり、橋の破損が激しく
船渡しになった。
徳川幕府260年余りのなかで、船橋になったのはわずか二回である。一回目は八代将軍吉宗に象を上
覧させるため、舟を並べ、板を渡して船橋を造った。二回目は幕末の明治天皇の江戸入城の行列であ
る。どちらも大きな話題と成り錦絵が残されている。
●明治の鉄道、文明開化の足音
明治の鉄道、文明開化の足音
明治になり六郷川には鉄道の木造橋脚が造られた。明治5年(1872)の東海道鉄道開設、わずか二
年で木造橋脚は振動が激しく鉄橋に架け替えることになった。鉄道はイギリスに資金面から技術まで依
存していたので明治7∼8年にかけてイギリスの100名を越える鉄道技術者が来日して工事あたった。
横浜以外で多くの外人を見ることは六郷以外になかったであろう。
技術者達は休息を大森辺りに求め、明治9年には新しく大森駅が開設された。山王辺りは温和な気候
で、眺めも良く好まれた。
〈参考図書〉
『源氏と坂東武士』野口 実著 (株)吉川弘文館 2007年
『武門源氏の血脈̶為義から義経̶』野口 実著 中央公論社 2012年
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平安末期、六郷川下流に翻る河内源氏の白旗
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『源義家』安田元久著 日本歴史学会編 (株)吉川弘文館 昭和41年
『武士の成長と院政』下向井龍彦著 (株)講談社 2001年
『平泉の世紀 古代と中世の間』高橋富雄著 日本放送出版会 1999年
『日本史リブレット022 源 義家 天下第一の武勇の士』野口 実著 (株)山川出版社 2012年
『武蔵武士と戦乱の時代 中世の北武蔵』田代 脩著 (株)さきたま出版会 2009年
『山形県の歴史』『山形県の歴史』『福島県の歴史』『秋田県の歴史』『東京都の歴史』『千葉県の歴史』
(株)山川出版社
『日本家系・系図大事典』奥富敬之著 (株)東京堂出版 2008年
『尊卑分脈』国立国会図書館、大田区刊行物、『六郷神社史』六郷神社 『日本鉄道史』川上幸義著 鉄
道省 1921年 その他。
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