「根 岸友 山」

 壬生浪士組・新徴組を生きた草莽の志士
「根岸友山」
竹村 紘一
ね ぎ し ゆうざん
(はじめに)
新撰組については、八木邸に逗留した芹澤・近藤一派の十三名から話が始まることが多い。しかし
ながら、清河八郎提唱の浪士組から新選組の誕生までは、種々複雑な動きがあったことは余り知られ
ていない。ここでは、武蔵出身の根岸友山に焦点を当てつつ、新撰組のお家芸とも云うべき粛清の原
点とも思われる非業の最期を遂げた殿内義雄や家里次郎にも触れてみたい。
(本文)
幕末に勤王の志士として活躍した根岸友山は、文化六年(1809)
、武蔵大里 ( おおさと ) 郡吉見村
冑 ( かぶと ) 山の近隣に聞こえた豪農の家に生を享けた。生家根岸家は熊谷次郎直実の末裔と云われ、
村の六割近い土地を有し、さらに、河岸問屋株を手に入れ、荒川の舟運を通じて、物品の売買を行い
巨利を挙げ、裕福な家であった。
本名を伴七、諱は信輔 ( のぶすけ )。友山は、若くして文武に優れ、剣を千葉周作に、学問を山本北山、
( ほくざん ) 寺門静軒 ( てらかどせいけん ) に学び、自邸に振武所を設けて自身、剣と学問を教授し、
村の子弟達の育成に努めた。また、洪水のたびに、大きな被害を受けていた胄山の田畑を守るため、
荒川の改修工事や堤防工事に尽力した。恵まれた出自ではあったが、志も高く実行力も兼ね備えてい
た。
しかし、天保十年(1839)
、この堤防工事の取り決めが纏まらず、農民が川越藩主に直訴するとい
う「蓑負 ( みのおい ) 訴訟」の際、友山は事件の主唱者として江戸十里四方追放の身となる。
赦免後、御用を務める関係もあり、友山は長州藩と深く関わり、次第に尊王攘夷思想へと傾斜し、根
岸家には、江戸近在の尊攘派志士が訪れることが多く活動の場となる。当時の江戸の政治情勢は大変
悪く、いつ何時、何があってもおかしくない情勢であった。そこで長州藩は一大事が起こった時のた
めに、世子や婦女子を逃がすために、友山と物産交易を隠れ蓑にして助力を要請し友山もそれに応じ
たとされている。これは友山が尊王攘夷論者であったことや、その人柄が信頼に足る人物であると長
州藩が認めていたからである。
文久三年(1863)二月、出羽庄内の郷士で一代の策士と称されることになる清河八郎の献策によ
る幕府募集の浪士組に参加し、年齢や過去の閲歴から、一番隊の小頭に抜擢され、全浪士の先頭に立
ち上洛した。友山、五十五歳の時であった。最年長の浪士であった。
京へ着いた浪士組ではあったが、すぐに問題が起こる。組創設の黒幕と目されていた清河八郎は浪
士一同を壬生の新徳寺へ集め、浪士組の目的は、上洛する将軍徳川家茂の警護ではなく、朝廷の守護
と攘夷遂行にあると宣言した。腹心の同志をして学習院に書を奉り、尊皇攘夷の赤心を陳べた。清河
が選び抜いた六名の決死の奏上が嘉納され、学習院国事掛を通して攘夷の魁となるようにとの勅諚を
賜る。浪士組は一躍、天皇の親兵となったのである。八郎の変節とも云うべき行動に驚いた幕府は、
前年に起きた生麦事件に不満を示す外人の動きに備え横浜方面の治安確保のためと称して、浪士組取
扱役の鵜殿鳩翁 ( うどのきゅうおう )、高橋精一郎(伊勢守。後の泥舟)等に命じて八郎以下浪士組
二百名余りを江戸へ返すこととした。東帰命令は幕府による陰謀であったが、清河八郎に取っても望
むところであった。東帰を決意した清河は大勢の浪士と共に江戸へ戻ることになる。
この時、清河の意に反し東帰を不服とする少数の浪士が現れ、浪士組は江戸東帰組と京残留組に分
れた。友山は、殿内義雄 ( とのうちよしお )、家里次郎 ( いえさとつぐお ) 等と共に京へ残留を決意し
ていたが、同じく残留を決めていた芹澤鴨、近藤勇一派と主導権争いが生じたようである。浪士組が
江戸へ帰ることが決定される頃、鵜殿鳩翁は、残留希望の有志を募るよう殿内義雄、家里次郎に依頼
していた。殿内等は鵜殿の期待に応えて勧誘に廻り、友山等七名の同志を集めていたのである。殿内
は元結城藩士で昌平坂学問所に学んだこともあり中々に学識のある人物であったので、鵜殿から浪士
組目付役を命ぜられていた期待の星であった。それが縁で鵜殿から残留組を纏めるように指示された
のであろう。殿内は上洛の道中で何か落ち度があったのか理由は不明であるが、目付役を外され、友
山の一番隊に配属された。友山に声を掛けたのは同じ隊の誼もあったかも知れないが、互いに、学問
好きであり相通ずるものがあったと思われる。家里も、一説には江戸に居た頃に友山の家を訪ね暫く
逗留したことがあると云う。それが縁で、家里は友山の一番隊に属して上洛したものと思われる。友
山と殿内、家里はこれにより残留組として結束したものと思われる。しかし、殿内や家里が鵜殿の指
示とは云え、残留組の上位に立つことを不満に思う芹澤、近藤一派により、次第に追いつめられて行
くのであった。主導権争いというのは組織内では必ずと言ってよいほど起こるもので、厳しく酷いも
のである。この背後には、残留組に対する幕府の影響力を排除し、御しやすい芹澤や近藤を私兵にせ
んとする会津藩の思惑もあったのではないかとする説も囁かれている。
後年の芹沢鴨の暗殺も水戸天狗党、ひいては水戸藩の影響力を排除して使い易い近藤一派を立てて
私兵化せんとする会津藩の意図が見え隠れするのである。芹沢が大酒呑みの酒乱で乱暴無類で京洛の
地を騒がし、京都市民の反発を買い新撰組や会津藩の評判を落としたというのは粛清を正当化するた
めに後から作られた可能性も否定出来ないのである。
文久三年三月に四条大橋で殿内が芹澤・近藤一派により斬殺され、それを知った友山は、身の危険
を感じたのかその後、遠藤丈庵、清水五一、鈴木長蔵等の同志と共に「伊勢参詣」を理由に壬生浪士
組を脱走して江戸に戻る。明治元年(1868)
、勤王論を説く著書『吐血論』を刊行。著書中で、当時、
官軍により板橋での処刑に対して同情を集めていた近藤勇を徹底的に批判している。
友山一派が去った後も一人残っていた家里も、強引に詰め腹を切らされ、芹澤、近藤一派以外の残留
組は消滅したのであった。友山はその後、江戸へ戻り、東帰していた浪士組本隊の後身である新徴組
に入るが、僅か数ヶ月で脱退し故郷へ帰った。清河暗殺後の浪士組は骨抜きとなり、幕府寄りに改編
され、徳川譜代の酒井家庄内藩の指揮下に入ったことが原因であろう。明らかな格下げに納得が出来
なかったのであろう。
京残留組は一時、壬生浪士組と云われて総勢二十四名であったとされるが、これにより、京で加盟
した斎藤一 ( はじめ )、佐伯又三郎の二名を加えて十五名となり、これが後の新撰組の発足母体とな
るのである。友山はその著書『自伝草稿』の中で、芹澤・近藤・新見について、
「芹澤・新見両人、
此組中ニ在テ何事ヲモ我侭ニ行ヒ威ヲ振イタル也。近藤勇ト云ウ者思慮モナキ痴人ナリ」と痛烈に罵
倒している。友山は終生、彼等三人に対する評価を変えていない。年齢も二廻り以上異なり、知識・
教養面で格段に秀でていた友山から見れば、彼等三人の傍若無人な振る舞いは腹に据えかねていたの
であろう。
友山は帰郷後も独自に討幕活動を続け、慶応三年(1867)五月、江戸薩摩藩邸に尊王志士が結集
した際、これらと通謀した嫌疑により捕らえられたが、明治政府により赦免された。過去の経歴や長
州藩との関係が良好であったことも勘案されたのであろう。友山は帰郷後は村政に力を注ぐと共に世
の中の政治思想に対しても自己の主張を積極的に発言した。中でも「吐血論」は友山の尊王攘夷論を
纏めた書物として写本が広まり、世の喝采を浴びた。また、明治新政府にも献策を行い、廃藩置県に
関する建白書や、関東の治水事業を献策した「治水表」など、多くの提言を行った。また、治水や困
窮者の救済などに尽力する一方で、詩文や著述に親しむ晩年を送り、当時の志士としては珍しく、明
治二十三年(1890)
、畳の上で波瀾に富んだ八十二歳の長寿を全うしたのである。墓は県史跡として
指定保存されている。