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第296回 平成27年2月 月例会 ① 薩英戦争勃発の発端・経緯・結末について 竹村 紘一 はじめに 薩英戦争は、有名な生麦事件から端を発した薩摩藩とイギリスと
の戦いである。この戦いは、いずれが勝利したのかは必ずしも明確ではないが、
その後の幕末史に与えた影響は極めて大きなものがあった。 発端となった生麦事件 生麦事件の詳細は別稿に譲ることとして、ここで
は、薩英戦争の発端となった生麦事件について簡単にその概要に触れて置きた
い。 文久二年(一八六二)、薩摩藩主忠義の藩父島津久光は幕府に幕政改革案(文
久の改革)を伝えた後、東海道を通り京へ向かっていた。そして武蔵国生麦村
において、島津久光一行の行列と、イギリス商人リチャードソンら一行(男三
人、女一人)が出会ったのである。この時、リチャードソンら一行が大名行列
に出会った時の作法を知っていたかどうかは判らないが、道路は狭く、行列も
千人程の大規模なものであったため、薩摩藩士奈良原喜左衛門と海江田信義の
二人が切りつけ、リチャードソンが殺害され、他の男二人も負傷し、無事に外
国人居留地まで帰れたのは女性だけであった。これが生麦事件である。薩摩藩
は攘夷を主張してはいたが、開国にも一定の理解を示していた藩であり、事前
に幕府に対して、外国人に大名行列と接触した場合の作法を守る事を伝達して
ほしいと申請しており、事実、リチャードソン一行の前に島津久光の行列と出
会ったアメリカ人ヴァンリードは礼儀作法を弁えていたこともあり無事に通過
している。つまりこれはリチャードソン側には不幸な偶発的事件(日本の慣習
を学ぼうとしなかった傲慢で軽率な振る舞いとも思われ、直接攘夷運動とは関
係なかったが)であったのだが、日本国内の世論もイギリスの世論も、この事
件を薩摩藩の「攘夷行動」と受けとめたのであった。 イギリスの対応 生麦事件に対し、横浜の外国居留民は、悪質な攘夷行動で
あると激昂しており、横浜で発行されていた外国新聞の一つ『ジャパン=ヘラ
ルド』紙の記事はリチャードソンの検死を巡る陪審員の評決が、武装した日本
人によって「凶悪に、故意に、予謀の悪意をもって殺害され、謀殺された。」と
報じられている。このように、生麦事件を「攘夷行動」と判断したイギリスは、
幕府に対して賠償金十万ポンド(当時の額で約二十七万両)と謝罪書を、薩摩
藩に対し慰謝料二万五千ポンド(当時の額で約七万両)と犯人の処罰を要求し
ており、また時を同じくして、生麦事件の起こった日の午後、イギリス東洋艦
隊指令長官オーガスタ・レオポルド・キューパー海軍少将が、文久元年(一八
六一)年五月に起こった東禅寺事件(松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス公使を襲
撃しようと東禅寺に侵入し、発見した水兵二人を殺害し、自らも自害した事件)
解決のため、旗艦「ユーリアラス」号と「リングダウ」号を従えて香港から横
浜に入港した。イギリス側が強圧的態度で幕府に迫ると、交渉を遅らせていた
幕府も遂にそれに屈し、老中小笠原長行が、翌年の五月九日、十一万ポンド(一
万ポンドは東禅寺事件の賠償金)を支払った。長行の独断と云われているが幕
閣の了解があったようである。 薩摩藩の対応 生麦事件の後、イギリスは薩摩藩に対し賠償金二万五千ポン
ドと犯人の引き渡しを求めているが、薩摩は資金が無いとして賠償金の支払い
を拒み、架空の犯人を作り上げてしかもそれが逃亡中であるとして誠意ある対
応を示さなかった。業を煮やしたイギリス代理公使ニールは鹿児島での直接談
判を決意、幕府役人の同行を求めた。幕府はニールの強硬姿勢に驚き、その行
動を止めようとするが、それに構わずニールは旗艦ユーリアラス号以下七隻の
艦隊で六月二十二日に横浜を出航し同二十八日には鹿児島城前面の前ノ浜に投
錨したのである。 ここに薩摩藩は、当時世界最大の海軍力を有するイギリスと対立することに
なる。当時、薩摩藩には、先代島津斉彬の建設した西洋式工場集成館があった。
この集成館の目的は軍事事業育成による軍事力の強化にあり、大砲の生産も可
能であったため、多数の砲を保有していた。これらの理由から、薩摩藩はイギ
リスに対し、態度を硬化させたものと思われる。 ところで、こうした西洋的外圧の中にあれば、普通、西洋式の実力をもって
これに対処するべきである。ところが、この時の薩摩藩の風潮は「西洋人と戦
うのに、西洋のやり方で戦っては勝てない。日本人のやり方で戦わなければな
らない」という古式武道の風潮であった。なぜそうなってしまったのかは分か
らないが、これにより結局、高島流砲術の歩兵調練ではなく和流の天山流砲術
による武術訓練が行われたのである。 二つの砲術の違いを極めて簡単に説明する。高島流砲術は、日本初の洋式兵
学として、長崎の町年寄の高島秋帆が考案したもので、オランダ陸軍の歩兵操
典がその土台となっていた。江川太郎左衛門は秋帆の有名な弟子である。また、
天山流砲術は、信州高遠の砲術家坂本天山が考案したもので、大砲を中心に銃
隊を編成するという、当時の和流砲術としては画期的なものであった。しかし、
天山流砲術も、所詮は和流砲術であった。高島流砲術と他の和流砲術との決定
的な違いは鉄砲の運用法にある。和流砲術では鉄砲の命中精度の向上が終局的
な目標でありそのため、使用火器は使用者によってバラバラであり、一つの規
格にあった銃を大量に運用するようなことはなく、日本人の一騎打ち的思想を
見ることができる。これに対し、高島流砲術ではヨーロッパの規格化された鉄
砲を大量に運用し、一斉射撃により弾幕を張るというヨーロッパ式の戦術を唱
えた。 しかし、天山流砲術も決して悪い砲術ではなく、当時の和流砲術の中で、唯
一外国と戦う事が出来た砲術であったことは間違いないようである。また、砲
術とは当時の洋学の一つであるが、その内容は単に鉄砲の使用法、運用法の解
説書ではなく、むしろ戦術レベルの軍隊運用法を記していた物であったことも
注目される。 薩英戦争勃発 文久三年(一八六三)六月二十二日、イギリス側は交渉を打
ち切り、ユーリアラス号(四十七門の大砲を装備し兵員六百人を誇る世界最高
水準の戦艦であった)を旗艦とする七隻のイギリス軍艦が横浜を出港した。行
き先は薩摩であった。この艦隊には、イギリス東洋艦隊司令官キューパー少将
の他、イギリス代理公使ニール陸軍中佐や、シーボルトの息子や当時まだ通訳
生だったアーネスト・サトウも乗り込んでいた。イギリス艦隊は東洋艦隊の主
力艦七隻により編成されていたが、これは、薩摩藩を攻撃するためというより
も、むしろその武威を示すことで、イギリス側の要求を通そうと考えていた。
ペリーの黒船来航以来、日本の統治機関であった幕府が、これまで幾度となく
外国の圧力に屈してきたことから、地方小国にすぎない薩摩藩が、よもや世界
最強を自負するイギリス艦隊に勝負を挑むなど考えられなかったのだろう。イ
ギリスのこの楽観的姿勢は、ニールがイギリス本国のラッセル外相にあてた報
告書や、艦隊が積んでいた石炭など補給物資が少ないことからも窺われる。一
度、艦隊が錦江湾にその雄姿を見せれば薩摩は戦わずに屈すると見ていたので
ある。 ニールは薩摩藩の使者に対して、犯人の処刑と賠償金(扶助料)の支払を要
求し二十四時間以内の回答を求めた。薩摩藩側は藩主が霧島温泉に湯治中であ
り期限内の回答は無理であるとして六時間の猶予を求めた。その後、薩摩藩は
犯人(架空の人物を薩摩は犯人としていた)の捜索・逮捕は困難である、大名
行列の作法が条約に記載されていないのは幕府の失態であり、本件は幕府の立
ち会いの元に決すべきであり賠償金の問題はその後に議論すべきものと回答し
たのである。これにニールは不満を募らせ七月一日には「最早、一戦を交えた
後でなければ薩摩との交渉には応じられない」と決意したと伝えられる。 その間の薩摩藩の行動は次ぎのようなものであった。六月二十七日、午後二
時すぎ、イギリス艦隊は鹿児島湾に到着し薩摩藩でもイギリス艦隊発見の急報
に対し総動員をかけ、各砲台に人員を配置し、食料、弾薬等を補給したが、こ
の時点ではまだ両軍ともに砲火を交えることはなく、六月二十九日に、薩軍に
よる英艦奇襲未遂事件(決死隊八十四人を商人に変装させて英艦に乗り込ませ、
陸上からの合図で英艦隊に切り込みをかけ敵艦隊の首脳を討ち取る計画であっ
たが、武士であることを見抜かれたため、一挙に乗り込めぬことになった。そ
れを悟った陸上からの合図で引き上げ命令が下されたため、作戦は中止となっ
たと云う。世に「スイカ売り決死隊」と呼ばれたという面白いエピソードが遺
されている)があった。決死隊のメンバーには、後年、戊辰戦争や西南戦争で
勇名を馳せた人物が多い。決死隊が不成功に終れば薩摩の有為な人材の多くは
失われ、討幕は実現出来なかったであろうと思わせる程の有力武士が参加して
いた。何が幸いするか判らない典型であった。 この事件以外は書簡のやり取りがなされるだけで平穏に過ぎているやに見え
たが、七月二日の払暁、突然イギリス側は沖に停泊していた薩摩藩の汽船三隻
を拿捕しようとした。薩摩藩との数度の書簡による交渉に満足しなかったため、
強硬手段を用いれば満足すべき回答が得られると考えたのである。すぐに三隻
の汽船が拿捕されたが、すぐにそれに気づいた薩摩藩が砲撃を加え、これによ
り薩英戦争の火蓋が切られたのである。 ここで両軍の戦力を比較する。まず薩摩だが、十の砲台に合計八十三門の砲
を配置していた。その砲は、六ポンド、八ポンド、十二ポンド、十八ポンド、
二十四ポンド、三十六ポンド、八十ポンドの各砲や百五十ポンドの榴弾砲、そ
のほか臼砲等多種揃えていたが、旧式砲の寄せ集めでしかなかった。また、先
に触れた三隻の汽船もあったが、すぐに拿捕、焼却されたため、戦力にはなら
なかった。さらに、三つの水雷が敷設されていたが、そこを英艦が通過しなか
ったため、戦果を挙げるに至らなかった。 対するイギリス側では、七隻の軍艦に合計百一門の砲を装備し、そのうちの
二十二門は最新式のアームストロング砲であった。 戦闘の経過を見てみると、はじめは薩摩藩が、暴風雨の中、砲撃を開始した。
この先制攻撃はイギリス艦隊にとって予想外であったらしく、パーシュース号
などは初弾数発が命中し、錨を上げる暇もなく、錨鎖を切断して逃れる有り様
であった。また、旗艦ユーリアラス号も初弾を発射するのに二時間近くかかっ
ているが、これは幕府からの賠償金の千両箱が弾薬庫のドア開閉の邪魔になっ
ていたためであり、イギリス側は全く不意を突かれた形となった。これを見て
もイギリス側には本格的な戦闘になるとの意識が希薄であったと云えよう。特
にこの二隻は、横山砲台の真下にあったため激しい砲撃を受けているが艦の損
害は軽微であった。このように、最初は英艦も混乱していたが、徐々に混乱も
収まると、隊列を組んで反撃に出た。 英艦隊は一度北上した後反転して南下し、また、天候の回復により、正確な
砲撃で集成館、祇園州砲台を全滅させ、続いて弁天波止砲台を攻撃した。この
際に旗艦「ユーリアラス」号が偶然、薩軍の射程内に入ってきたため、弁天波
止場砲台の八十ポンド、百五十ポンド榴弾砲により激しく砲撃され、甲板に直
撃弾を受け、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐、他数名が戦死、
負傷している。しかし、結局はそれのみが薩摩藩側の特筆すべき戦果であった。
これに対し、薩摩藩側ではこの日だけで砲台を八割近く破壊され、また、集成
館と市街地約一割(約五百戸)を焼失した。 次の日の朝、英艦隊は戦死者を水葬すると、午後には抜錨して、未だ健在だ
った沖小島砲台等を攻撃しながら退却していった。 両軍の損害を見てみると、薩摩藩側は砲台を殆ど失い、開戦初頭に汽船三隻
を喪失、これ以上英艦隊の攻撃を防ぐ術がなく、また、集成館も焼失してしま
い、自力での軍備の再編は不可能となった。また、市街地も一割ほど(五百戸
程)焼失してしまったが、これだけの被害を受けながら、戦死者五名、負傷者
十四名と案外少ない。これに対しイギリス側では、薩軍の先制攻撃に不意を突
かれ数艦が命中弾を受けておりコケット号にいたっては自力航行不能となって
しまったが、それ以外の艦は健在であった。だが、先に述べたとおり、もとも
と戦争をすることが目的でなかったため、石炭や食料の備蓄が十分でなく、こ
れ以上の戦闘は困難な状況にあった。また、戦死者十一名、負傷者三十九名を
数え、薩摩藩のそれと比較すると人的損害は大きく、しかもその中にはジョス
リング大佐やウィルモット中佐のような上級将校も含まれていた。 結末 イギリスは強力な大砲を持っているので有利であり終始薩摩を圧倒し
たが薩摩も奮戦した。 しかし、イギリスは鹿児島市街も攻撃してしまい藩士以外にも住民にも被害を
出した。これが、各国の宗教団体や平和団体の知るところとなりイギリスは非
難されるという予想外の展開となり強硬姿勢を崩すしかなかった。薩摩藩に取
っては僥倖であった。九月末、幕府の仲介により横浜で薩摩、イギリスとの会
談が行われた。 当初は薩摩の強硬姿勢で解決の糸口がつかめなかったが、 l
薩摩が幕府から借金して賠償金を払う。 l
リチャードソン殺害犯人の探索を続ける という二点で合意した。 薩摩は関ヶ原直後の徳川家との交渉もそうであったが、強硬かつ粘り強い交
渉術でなかなかに巧みであった。イギリス艦隊が鹿児島を去って四ヶ月後薩摩
藩は二万五千ポンドの賠償金を支払った。この和議に際して、幕府は薩摩藩に
賠償金の大部分に当たる七万両を貸し出して、イギリスとの友好を努めた。薩
摩藩の負担は殆どなく、しかも、討幕・維新後の廃藩置県により藩が消滅した
ため、幕府に弁済することはなかった。しかも、その後は、イギリスと友好関
係を築いた薩摩藩は、皮肉にも、長州藩と共に倒幕の中心となったのである。
これにより、一連の事件に終止符が打たれたのである。 この薩英戦争の歴史的影響力を見てみると、一番重要な点は薩摩藩とイギリ
スが結びついたことで、倒幕運動の旗頭的な存在となった事である。また、藩
内においてはこの戦争以後、下級武士の勢力が台頭し始め、倒幕への大きな原
動力となった。また、この戦いでは、西郷従道、山本権兵衛を始めとする後の
日本海軍の将帥となる人物も数多く参加していたが、彼らに海軍力の重要さを
痛感させ、日本海軍創設の一端となる等、幕末における重要な転換点となった。
維新後は「薩の海軍」と称されることになる基となった。また、若き日の東郷
平八郎もこの戦が初陣であった。 総括 この戦争の勝敗を決めるのは難しい。人的損害はイギリス側に圧倒的に
多い。しかし、それは局地的に考えた場合のみでの結果であり、両軍の戦力、
天候、戦術などを含めて総合的に考えてみると英軍の人的損害は出会い頭の不
運なものであり、やはり勝敗はイギリス軍に軍配が上がると見るのが妥当と考
えられる。そしてこの薩摩藩の敗戦は、政治的には薩摩藩とイギリスが結びつ
き、やがて倒幕への道を辿る出発点となり、軍事的には日本への洋式の軍制・
兵器の導入の契機となった。西南雄藩が攘夷の不可なることを痛感し、近代化
に目覚めたのである。幕末から明治維新までの歴史を見て行くと、長州藩の四
国戦争とこの薩英戦争が幕末の重要な転換点の一つとなったことは間違いない
ところであろう。 余談であるが、四国戦争(下関戦争)とは、幕末に長州藩と、イギリス・フ
ランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、文久三年(1863)
と元治元年(1864)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件で、
薩英戦争と並び幕末画期となる事件であった。 孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久三年(1863)五月十日を
もっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を即軍事行動とはみなしていなかっ
たが、長州藩は馬関海峡(現在の関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施
した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、米英仏蘭に対する損
害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。 文久三年(1863)五月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船
に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の六月、報復として米仏軍艦が馬関
海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、
長州は粘り強く砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな
砲台を築き、海峡封鎖を続行した。 元治元年=文久四年(1864)七月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損
失を受けていた英国は長州に対して懲戒的報復措置を取ることを決定。仏蘭米
の三国に参加を呼びかけ、都合艦船十七隻で連合艦隊を編成した。八月四日、
四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁はようやく海峡通航を保障する止
戦方針を決め、伊藤俊輔を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊
は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。下関を守る長州藩の兵力は奇兵
隊(高杉晋作は前年に解任されており総管は赤根武人)など二千人、砲約百二
十門であり、禁門の変のため主力部隊を京都へ派遣していたこともあって弱体
であった。大砲の数が足りず、木製の砲を作りダミーとすることもしていた。 同艦隊は、八月五日から七日にかけて馬関と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各
国の陸戦隊が前田砲台等を占拠・破壊した。長州藩の完敗であった。 馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後
列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、
軍備軍制を近代化して行くことになる。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲
介により、慶応二年(1866)一月二十一日(三月七日)に同様な近代化路
線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことにな
る。(了)