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新徴組始末記
竹村 紘一
新徴組は江戸時代末期に清河八郎の献策によって幕府が新たに徴募した浪士組の後身であ
る。文久三年(一八六三)二月、幕府は上洛する将軍家茂を警護するため、浪士組二百三十四
名を先発させ京都郊外の壬生村に駐屯させた。しかし、壬生の新徳寺に浪士組を集めた浪士組
創設陰の立役者である清河八郎は、突如、幕府に無断で学習院に浪士組一同として乾坤一擲
の上書を奉呈したのである。その趣旨は、
「我々は幕府の御召に応じて参加したが、別に禄位をいただいている訳ではない。我々はただ、
尊攘の大義を貫く者である。万一皇命を妨げ、私意を企てる者は、例え有司の者であっても容赦
なく斬り捨てる」であった。紆余曲折はあったが、上書は嘉納された上に勅諚を賜り、鷹司関白か
らは攘夷の達文が浪士組に下された。一介の浪士が朝廷に上書しそれに対し勅諚が下されると
云うことは前代未聞、驚天動地の事であったであろう。清河一党の感激は押して知るべしである。
清河は、さらに、関東において攘夷の先鋒を勤めたき旨の上書を提出し、三月三日、関白より東
帰の命が浪士組に出された。東帰の命は、浪士組の暴走を懸念した幕府首脳がこのまま浪士組
を京へ滞在させることの危険を感じ、前年に起きた生麦事件後の横浜の治安維持に備えるとして
朝廷に工作して出させたものではあったが、幕府の意図はともかく、清河自身も関東での攘夷実
行を望み東帰を願ったと伝えられる。
東帰の命令が下ると、清河は浪士一同を前にして全員の同意を求めた。これに対し、芹沢鴨、
近藤勇ら十三名は、本来の役目は将軍家の護衛にあるとして、これに従わず浪士組の責任者で
ある鵜殿鳩翁に京への残留願いを出すと共に、伝を頼って、会津藩に残留の意思を明らかにし
その庇護を求めたのであった。老中板倉周防守勝静は会津藩主松平容保に残留組を差配する
ように依頼し、会津藩はこれを受け入れ、芹澤、近藤等は壬生浪士組として会津藩の御預かりと
なって京へ残り、八月十八日の政変の際に、会津藩の要請で御所警護に出動し、功を賞せられ
て新撰組の隊名を授かったのである。
浪士組の大多数は将軍警護の任を解かれ、新たに任命された高橋伊勢守(後の泥舟)を頭とす
る幕府の取締役に率いられて三月江戸に戻った。幕府は四月十三日、危険分子と見た清河を暗
殺、同調する幹部を逮捕し、残った浪士組をもって新たに新微組を編成した。清河一党は幕府に
攘夷の意思無しと見抜いていたので独力で横浜の外人居留地を焼き討ちする計画を練っており
実行日が五月十五日であった。二日前に幕府は清河を暗殺し、攘夷行動を未然に防いだことに
なる。浪士組は清河派を一掃して大幅に改組され、その人数は百六十九名となり、当時江戸府内
取り締まりに任じていた佐幕派の譜代庄内藩(酒井家)に預け、その指揮のもとに江戸市中の巡
回警備にあたらせた。
翌、元治元年(一八六四)十二月新微組士は幕命により庄内藩の家臣となる。組の構成は脱退
者もあり、慶応元年(一八六五)に改編されて一番組から六番組までとし、幹部も含め総数百六十
名となった。尚、従来は五藩で分担していた府内取締は幕命によりこの年から庄内藩が一手引受
となったのである。
幕末の庄内藩の動向と新徴組
藩祖は徳川四天王の筆頭酒井忠次である。幕末は幕府の藩屏として佐幕派で終始した。文久
三年(一八六三)四月、旧浪士組が改組されて幕府寄りの組織となり新徴組と改名し庄内藩預りと
なり、指揮、命令等全権を委任された。元治元年、京都での禁門の変勃発により新徴組を含む庄
内藩兵が江戸長州藩中屋敷に出動し、藩邸を没収した。 慶応三年 (一八六八) 十二月二十五
日、世にいう薩摩藩三田屋敷焼き討ち事件が勃発した。同屋敷が、薩摩藩に通じる草莽の志士
相楽総三等による関東方面攪乱やゲリラ活動の根源たる証拠に基づいて犯人引渡しを求めたも
のであったが、薩摩ではこれに応じず、押し問答の末の攻撃であった。このことが鳥羽・伏見の直
接的な原因とされた。当時、京では、土佐や越前ら諸藩の公議政体派の巻き返しで薩摩、長州の
武力討幕派が孤立しかかっていた。この難局を打開せんがため薩摩の西郷隆盛が幕府を挑発し
て先に手を出させて大義名分を得んとした苦肉の策謀であったと云われている。西郷の命を受け
た、藩士益満休之助や伊牟田尚平等が幕府を挑発すべく、相楽総三等の尊王攘夷派の浪士を
集めて薩摩三田屋敷を本拠として府内に騒乱を起こさせたものであった。果せるかな、庄内藩に
よる薩摩三田屋敷襲撃により、薩長は徳川家を朝敵とみなして錦旗を翻し討幕の兵を挙げたので
あった。相楽等の活躍が、当時、孤立しかかっていた討幕強硬派であった西郷、大久保、岩倉の
危機を救ったのであった。幕末最大の西郷の陰謀と云えるのではなかろうか。
慶応四年二月、庄内藩は江戸を引き払い国許に引き上げ、新徴組も同月には庄内へ家族を
伴い向かった。三月二十三日、仙台入りしていた奥羽鎮撫総督府に謝罪の使者を送るが村山郡
内の天領問題で朝廷に弓引く叛逆の臣と決め付けられた。慶応四年三月帰藩した時に村山郡寒
河江の幕領七万四千石余を預けられ藩兵五十名を駐屯させたのであるが、仙台の奥羽鎮撫府
はこの行為を抗戦の意思と見て天童藩をはじめ諸藩に庄内征伐を命じたのであった。これにより
藩論は硬化し会津藩と急接近し「会庄攻守同盟」が結ばれ、庄内追討を久保田藩が受け、北より
領内に攻め入ると見た庄内藩は清川口・大綱口・羽黒山・吹浦口に守備兵を配し、新しく新徴組
の編成替え、藩兵の軍制も改める。
四月二十四日、清川村に薩長兵と新庄藩兵が攻撃してきたが、これを撃退、天童をも陥落させ、
会津と共に奥羽列藩の同盟を画策し、遂に奥羽と越の列藩大同盟がなる。
しかし、同盟側の白河敗北、磐城平、二本松の敗北、出羽でも久保田、本荘、新庄藩が同盟
離脱と戦局は不利へと傾く中、庄内軍は新庄へ攻め込み、これを陥落させ、矢島も攻略、本荘藩
も自城に火を放ち久保田領内に敗走、庄内藩兵は久保田領内へ攻め込み、各地で勝利したが、
現秋田市長浜で敗れ進撃を阻止され、これ以上進撃できず、九月十八日撤退開始となる。庄内
軍は久保田領三分の一を征したほど目覚ましく奮戦した。
しかし、兵力や武器に勝る朝廷軍の勢いは防ぎ難く米沢、仙台も九月に入って降伏し、降伏し
た米沢藩が庄内征討軍を命ぜられる至り、藩内でも降伏か抗戦かが論議され、九月二十五日に
降伏が決定した。
三田薩摩藩邸焼き討ちの仕返しもなく、五万石削られて、十二万万石にて酒井忠篤弟、忠宝に
家名存続が許された。西郷隆盛の格別の計らいがあったとも伝えられている。西郷にも後ろめた
いものがあったのであろうか。庄内藩は会津藩と共に第一級の朝敵とされたが、戦後処分は、案
外軽いものとなり、会津藩と明暗を分けた。
悲劇の新徴組隊士
明治に入って後、旧庄内藩士は、地元の庄内において開墾事業に着手することになり、新徴組
もまた、その開墾事業への参加を余儀なくされた。
元来、新徴組の面々は関東周辺の出身者がその多数を占めていたため、慣れない東北地方で
の開墾生活は、彼らにとって苦痛以外の何物でもなかった。そのため、新徴組の組士達は次々に
庄内から脱走を試み、それにより切腹させられた者や討ち取られた者などが多数出たという。実に
悲惨な結末が待っていたのである。明治一四年七月当時、開墾事業に着手していた人員名簿の
中には、元新徴組の組士はわずか十一名しか記載されていない。往時は二〇〇名近い組士が
いた新徴組であったが、その最期は悲劇的であった。新選組に比べると、新徴組は知られることも
なく歴史の彼方に埋没しているが、江戸市中警護に活躍し、江戸市民に感謝された存在であっ
たことを忘れてはなるまい。
(完)