ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築

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ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 (1)
――試論:
「自己と他者の関係」を支える生物学的な
〈有機体としての主体のイメージ〉と複数の主体によって
構築される芸術的・美的な文学作品――
ichi
髙橋 伸一 TAKAHASHI Shin’
佐々木 亮 SASAKI Ryo
はじめに――本論考の目的と作業イメージ
1. 試論①:
「自己と他者の関係」を支えるバフチンの生物学的な
〈有機体としての主体のイメージ〉
1-1 バフチン・テクストにおける言語主体のイメージの特徴
――イメージ構築の方法論的問題
1-2 バフチンの言語主体の主要なイメージ
1-2-1「自己と他者の関係」における〈複数主体のイメージ〉
1-2-2「自己と他者の関係」における〈唯一者としての主体のイメージ〉
1-3「外在性」から「相互作用」へ――バフチンの生物学的な主体のイメージ
1-3-1 変化・生成・創造に結びつく外在性と相互作用
1-3-2 バフチンの〈有機体としての主体のイメージ〉
2. 試論②:複数の主体によって構築される芸術的・美的な文学作品
2-1 文学作品を芸術的・美的に認識する主体
2-2 作者と観照者による創造と再創造
2-3 作品〈内 / 外〉を横断する〈主人公〉
2-4 複数の主体による「全体」としての文学作品
はじめに――本試論の発話的契機と目的
本論考は、ミハイル・バフチンの言語観の中核を成す「言語主体のイメージ」を、バフチン
の複数の学問領域への主体的で責任ある参与とそれによってバフチンが獲得した人文科学的な
学問的・対話的定位を配慮し、その結果、バフチン・テクストの中に立ち現われる数々の主体
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イメージとの連関において、解明することを目的とする。ただし、
「解明」とは言っても、本
論考の作業イメージは、
「解明」という語に含まれる「解体」のイメージのみを強調したもの
ではなく、反対の「構築」にも力点を置いた作業になる。バフチンの理論を援用する立場にあ
る論者の髙橋と佐々木にとって、今回の課題設定は、互いの援用先である対象――髙橋にとっ
ては、ことばの ( 詩学 ) 並びに言語教育、佐々木にとっては小説 ( 文学 )――とバフチン理論へ
の学問的参与から生じたものであり、言語主体のイメージの〈解明=構築〉が各研究対象の理
解の鍵になると考えたからである。
さて、本論文の構成であるが、1章 ( 試論① ) では、バフチン・テクストから立ち現れる言
語主体のイメージを、
バフチンの初期の活動 (1920 年代 ) に着目しながら、
もっとも明示的な「自
己と他者の関係」における言語主体のイメージを掘り下げ、原理的なイメージを探るという方
向で髙橋が考察する。一方、佐々木は、言語主体のイメージがバフチン・テクストにおいて、もっ
とも高次のレベルで展開される文学的な言語主体のイメージを 2 章 ( 試論② ) で探る。2つの
試論における諸イメージは、バフチンの言語主体のイメージ構築という大きなヴィジョンの下
では、その「始まり」と「終わり」に位置するイメージあり、一見すると両極端であるように
思われるが、この差異 ( 多様性・複数性 ) は、構築されたバフチンの諸イメージの全体像では、
有機的に統合される、という仮説のもと作業を進めた。なお、執筆分担は、
「はじめに」と1
章 ( 試論① ) が髙橋、2 章 ( 試論② ) が佐々木となっている。
1.試論①:
「自己と他者の関係」を支えるバフチンの生物学的な
〈有機体としての主体のイメージ〉
1-1 バフチン・テクストにおける言語主体のイメージの特徴
――イメージ構築の方法論的問題
バフチンの言語観の特質のひとつは、言語主体のイメージの特殊性、言い換えれば、そのイ
メージの多数性とその多数のイメージがバフチンの諸テクストにおいて互いに作用・浸透しな
がら内的に一体化した意味を形成している統一性にあると指摘できる。それらの幾つものイ
メージの在り方には、バフチンの学問的営為における2つの思考力が力学的に働いていると捉
えることが可能である。その1つの力とは、例えば、
「言語」という限定辞が付与された言語
主体という対象をより包括的な「主体 ( =人間主体 )」に統合させようとする学問的企図とそ
れに基づく学問的参与から生じる思考の求心力である。もう1つは、主体という対象を、多様
で複数の学問領域における対話的な定位から検討し、そこから立ち現れる、多様かつ個別的で、
互いに異なる主体の諸々のイメージを、それぞれ価値や意味を有するものとして承認しようと
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ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
する思考の遠心力である。これらの2つの力が作用する場で単独ではなく対話的に、即ち、交
差し、共鳴し、対立する等の形式で、主体に関する複数の諸イメージがバフチン・テクストに
おいては発現していると見なすことができる。
こうした特徴を有するバフチンの主体イメージ群の中から、言語主体というひとつのイメー
ジを切り取り、分析を加えることは可能であろうか。確かに、言語主体のイメージが、バフチ
ンの主体イメージ全体を機械的に構成している一部分であり、他のイメージも同様に機械的に
構成されているならば、ひとつのイメージとして取り出し検討を加えることは可能かもしれな
い。しかし、バフチン・テクストにおける主体の諸イメージの在り方はそのように機械的では
なく、各イメージが互いに影響を及ぼし合いながら密接に結びついた有機的なものである、と
言うことができる。言語主体のイメージは、言語 ( 学 ) 的な主体であると同時に、哲学的な主体、
生物学的な主体、心理学的な主体、文学的な主体、さらには社会的主体、文化的主体などを包
括する人間主体である。そうすると、可能なことは、言語主体のイメージをバフチンのテクス
ト全体から、有機的な関係にある他の主体イメージ群との連関において浮き出たせることのみ
のように思われる。それは1つを抽出し定義し完結させるような点的な作業でも、
2つのイメー
ジを結びつけ完了するような線的な作業でもない。それは全体的に見れば、時に交差・共鳴・
対立し、時に内包され、時に螺旋的・立体的に展開する、時空間を含めた四次元的なレベルま
で展開可能な複雑な作業になると仮定できる。こうしたイメージの在り方は、
「異言語混淆」
的であり、
「ポリフォニー」的であり、
「クロノトポス」的である。試論①では、複数性と多様
性を容認する対話的視座から、三次元的なアプローチ (「時間・歴史」という観点は含めず )
を採用し、バフチンの言語主体のイメージを構築するというヴィジョンの下、それに関連する
諸イメージの考察を目的にする。
1-2 バフチンの言語主体の主要なイメージ
1-2-1「自己と他者の関係」における〈複数主体のイメージ〉
バフチンの言語主体のイメージを複数の主体イメージを承認する対話的定位から検討するに
際して、まず出発点として取り上げたい像は、バフチンの対話理論のもっとも基本的な骨組を
成す「自己と他者の関係」を定位とし、そこに立ち現れる主体イメージである。それは、その
定位における「自己と他者」の不可分離性と相互作用を前提とする。また、そのイメージの認
識においては、ひとつの倫理的要請を条件とする。ここではそのイメージを仮に〈複数の主体
のイメージ〉と呼ぶことにする。
「自己と他者の関係」において捉えられるバフチンにとっての「自己 (the Bakhtinian self)」
とは、確かに「わたし」ではあるのだが、ここでの「わたし」は、
「自己/他者 (self/ other)」
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という二分法的な関係の中で「わたし ( 自我 )」の実在性のみが強調される極端に唯我論的な
1
主体ではない。 また、
「わたし」は、外的な結びつきのみによって「他者」と結合し、たとえ
並んで触れ合ってはいても、みずからは互いに無関係で、自己完結している孤立した「機械的
2
な」
主体でもない。 Clark & Holquist が指摘するように、
バフチンにとっての
「自己 ( =わたし )」
は「けっして一つの全体ではない」
。というのも、自己は「対話的にしか存在しえない」から
であり、
「独立した実体 (substance) でも本質 (essence) でもなく、他者的なものすべてとの、
3
3
3
3
3
3
とくに他の自己たち (other selves) との、
伸縮性のある関係のなかにしか存在しない」
(傍点髙橋)
3
からである。
こうした他者の外在性(他者性)と「関係」の伸縮という点での多数性を前提とし、
「自己
と他者」の定位から「自己」を位置付けるバフチンの視角では、主体としての自己は、具体的
には、自己の〈わたし〉(self) とひとりの他者の〈わたし〉(other self) を最小の関係単位とし、
自己の〈わたし〉(self) と複数の他者の〈わたしたち〉(other selves) という「伸縮」可能で、
多数の具体的な「自己−他者」の関係の中に存在することになる。このように、自己を中心と
する多数の「自己−他者」の具体的な諸関係で、自己と他者との不可分離性と相互作用を前提
3
3
3
3
3
3
として、自己の〈わたし〉とひとり以上の他者〈わたし・わたしたち〉が共に存在する状態の
イメージが、本試論で言うところの〈複数主体のイメージ〉である(傍点髙橋)
。それは、
「統
4
一的な意味 (unified meaning)」 がそれぞれアプリオリに保証された自己と他者の像ではなく、
5
他者との「対話」に参与することによって「内的に統一ある意味」や「内的なむすびつき」
を獲得する主体が複数存在するイメージと言い換えることもできる。そして、そのイメージは、
6
認識主体が「他者の〈われ〉を客体ではなくもうひとつの主体として承認する」 という倫理
的要請を前提にした際に、発現可能になる。
バフチンのこのような〈複数主体のイメージ〉が「言語主体」の明確で具体的な像 ( 例えば、
言語的文脈における「話者」と「聴き手」
、
「書き手」と「読み手」
、文学的文脈における「作者」
と「読者」
、芸術的文脈における「作者」や「観照者」といったイメージ ) と結びつくには、
幾つかの段階が必要になる。考察側の立場からすれば、
〈複数主体のイメージ〉を幾つかの段
階を経て、種々の「言語主体」のイメージまで構築していかなければならない、ということで
ある。その作業は、先述したように、バフチン・テクストにおける主体の諸イメージを抽出・
並列化し、それらに考察者のアクセントを付与しながら統合していく性格の行為になる。こう
した構築の仕方では、アプローチによっては違う進路が多数存在することが当然予想される。
髙橋が試論①で提示するのはその中のひとつであり、また、本試論そのものは構築作業全体の
「基礎」的な工程に相当する、ということをここでは予め断っておきたい。
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ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
1-2-2「自己と他者の関係」における〈唯一者としての主体のイメージ〉
それでは、次に〈複数主体のイメージ〉の個々の主体に力点を置いた場合に立ち現れる主体
の像について考察してみたい。
このイメージを検討するに当たっては、バフチンの「行為の哲学によせて (1920-24 年 )」に
おける以下の部分が参考になるだろう。
わたしもまた、一回かぎりの繰り返しのきかない仕方で存在に参与しているのであり、唯
一の存在のうちに、一回かぎりの繰り返しのきかない、代替不可能な、他人にはうかがい
知れない〔?〕位置を占めているのである。わたしが現在いるこの唯一の地点には、唯一
の存在がもつ唯一の時間と空間のなかの他の何人も、存在していなかったのである。そし
てこの唯一の地点のまわりには、唯一の存在がそっくり、一回限りの繰り返しのきかない
仕方で配置されているのである。わたしによって遂行されるはずのことは、
他の何人によっ
ても決して遂行されえないものなのである。この、現にある存在の唯一性は、有無をいわ
7
さぬ義務的なものなのである。
「自己と他者の関係」で捉えられるバフチンにとっての〈自己=わたし〉は、先述のとおり、
その関係性の中にしか存在し得ない。つまり、自己は他者を必要としている。それでは、その
自己は、他の自己たちと一体どのような関係形態で存在しているのであろうか。上記の引用で
バフチンが描出しているのは、
〈自己=わたし〉の「存在」への参与によって立ち上がる、
〈他
者=わたし〉とは空間的 ( 位置的 ) にも時間的 ( 歴史的 ) にも「代替不可能な」位置を占める唯
8
9
一な自己 ( 主体 ) であり、他者と「一致」したり 、
「他者のなかで本当に自己を喪失」 した
りすることのない唯一者としての自己 ( 主体 ) である。バフチンはこのような主体の性格を、
「存
10
在におけるわたしの言いわけ無用さ」(「不在証明を立証できないこと」
〔non-alibi〕) と言っ
て表現している。
このように自己と他者の外在性を前提とし、それぞれの存在 ( いま−ここ ) への義務的な参
加から生じる唯一性を強調した像が、
〈唯一者としての主体のイメージ〉である。ところで、
このイメージは、自己と他者との間に明確な境界線を認めるイメージでもある。それ故、この
イメージにおいて、自己の唯一性のみが極端に強調されると、
「機械的な」主体として捉えら
れる危険性を伴う。バフチンは、あたかもこの危険性を回避するかのように、
「出来事」とい
う概念 (「行為の哲学によせて」におけるキー概念のひとつ ) を導入することによって、
〈唯一
者としての主体のイメージ〉を先にみた相互作用に重点を置く〈複数主体のイメージ〉へと結
びつけている。ロシア語の「出来事」に相当する“sobytie”という語は、語源的には“so”
「と
もに」と“bytie”
「存在」から構成される語であり、
「出来事」という語自体が「ともに在るこ
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と」という語源的意味を秘めている。 つまり、唯一者としての主体と主体は、
「出来事」に
おいて相互作用性を回復し、対話的な関係に入り、
〈複数主体のイメージ〉として再び捉えら
れることが可能になる。
以上、
2つの主体のイメージ (〈複数主体のイメージ〉と〈唯一者としての主体のイメージ〉)
を検討してきたが、現時点において、ここから向かうべき次なる進路は、2つに分かれている。
ひとつは、二重に強調された「外在性」を踏まえたイメージに向かうか、あるいは、唯一者と
唯一者との差異に焦点化した主体の「意識」のイメージに向かうかである。本試論においては、
前者の方向に舵を切り、バフチンの主体のイメージについて更なる検討を加えていきたい。
1-3「外在性」から「相互作用」へ――バフチンの生物学的な主体のイメージ
1-3-1 変化・生成・創造に結びつく外在性と相互作用
「外在性」という術語は、
「出来事」と同様に、バフチンの言語観におけるキーワードのひと
つである。外在性とは、そもそも「あるものの外にあること」を意味する。1-2-1 でも、
「他者」
について自己の外側に存在することを「他者性」なる言葉で表現したが、これも外在性という
意味を内包している。
バフチンがこの概念を重要視するのは、この概念から「あるもの」と「その外にある」もの
との「間」に、
「出来事」という概念と同様に、
「相互作用」という力学原理を導出することが
できるからであり、その「相互作用」を通して「変化」
「生成」
「創造」という概念を導入する
ことが可能になるからだと推測できる。例えば、
1-2-2 で考察した「自己」の存在の唯一性も、
「他
の自己たち」の存在の唯一性も、その在り方のスタンドアローンな状態のみが強調されるなら
ば、主体は何らの変化・生成・創造にも与することはない。
ここで重要なことは、バフチンが人間主体の前提として、主体どうしの相互作用性を人間的
要請として受け入れている点であろう。つまり、人間は人間の外にあるものとの相互作用が働
く関係において、人間たりうるという命題を自明なものとしているということである。別な見
方をすれば、その命題を二元論 ( 精神と身体 ) 的に翻訳したと見なすことができる、アリスト
テレスのあの有名な定式「人間は社会的動物である」を承認しているということでもある。興
味深いのは、バフチンの人間観にかかわる、それゆえに主体のイメージや言語観にも直接影響
を与える、こうした考え方を、バフチンは一見、人間の「社会性」とは無関係に思える生物学・
生理学的な知見と関連させ、ひとつのイメージとして定着させている点である。( 二元論的に
言えば、
バフチンが「身体性」
「動物性」にアクセントを置いたということになる。) そのイメー
ジとは、
〈有機体としての主体のイメージ〉である。試論①の残りの部分では、バフチンの生
物学的な主体の像として、
〈有機体としての主体のイメージ〉を取り上げ、それを今まで検討
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ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
してきた〈複数主体のイメージ〉と〈唯一者としての主体のイメージ〉と関連させながら、考
察していきたい。
1-3-2 バフチンの〈有機体としての主体のイメージ〉
バフチンの〈有機体としての主体のイメージ〉が端的に表現されているのは、次のような文
章の一節においてである。
[前略]それはちょうど、生きた有機体とそれを取り巻く環境とのあいだで、たえず物
質の交換がおこなわれるのと同じである。有機体が生きているかぎり、有機体がこの環境
と一体化しそれと融合することはない。けれども、有機体をこの環境から隔離するならば、
12
有機体は死滅する。
[後略]
この一節は、
「小説における時間と時空間の諸形式̶̶歴史詩学概説」(1937-38) で、バフチ
ンが、
「テクストのうちに描き出された世界」と「テクストを創り出す世界」( =実在の世界 )
13
との関係を論じている部分である。 「描き出された世界」は、その外にある「描き出す世界」
とは「原則的なはっきりとした境界によって切り離されている」が、
「作品の創出者としての
作者」の責任ある〈書くという行為〉によって、又時空をまたがる可能性を含む別の側面では、
「
〔テクストを〕復活させ新たにするさまざまな ( 多くの ) 時代の聴き手・読者」の責任ある〈読
むという行為〉によって、そのそれぞれの人格において「互いにわかちがたくむすびつき、た
えず相互に作用し」あい、
「両界のあいだには、たえず交換がおこなわれる」
。ここでバフチン
は「作品の独自な生」のあり方についての説明を、
〈有機体としての主体のイメージ〉をモデ
14
ルとして織り込むことによって補強し、より明確で具体的なものにしている。
さて、このようなバフチンの〈有機体としての主体のイメージ〉の特徴を挙げるならば、3
つの点が指摘できるであろう。1つめは、
「主体」とその外にある「環境」との間に明確な境
界を認めながらも、
「主体」と「環境」との関係を不可分なものとしていることである。つまり、
「環境」の外在性を重視している点である。2つめは、
〈複数主体のイメージ〉における「自己」
と「他者」の関係のように、
「有機体」とその外にある「環境」との間に関係を措定し、そこ
に「対話」と同質の「交換」という相互作用を認めている点である。3点目は、その「交換」
という相互作用によって、
「有機体」もその外にある「環境」も、
「唯一」な存在としてそれぞ
れ変化し不断の「生成」過程に入ることが暗示されている点である。生物学的な観点からすれ
ば、
「交換」という相互作用は、生きた有機体が能動的にせよ受動的にせよ環境に対して及ぼ
す「反応」と環境が有機体に及ぼす「刺激」という2つの作用に翻訳可能である。ところでこ
こで注目したいのは、
〈複数主体のイメージ〉と〈有機体としての主体のイメージ〉との間に
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あるイメージの類縁性である。ちなみに、その類縁性は、先の引用における一連の生物学的な
用語、すなわち、
「有機体」
、
「環境」
、
「物質」を、
「対話」という出来事に相当する用語――「自
己」
、
「他者」
、
「ことば」――に置き換えてみるとよく理解できる。
それはちょうど、生きた「自己 / 有機体」とそれを取り巻く「他者たち / 環境」とのあい
だで、たえず「ことば / 物質」の交換が行われているのと同じである。
「自己 / 有機体」
が生きているかぎり、
「自己 / 有機体」がこの「他者たち / 環境」と一体化しそれと融合
することはない。けれども、
「自己 / 有機体」をこの「他者たち / 環境」から隔離するな
らば、
「自己 / 有機体」は死滅する。
もちろん、最後の「自己」の死滅とは、後ほど触れることになる人間の「社会的環境」に
おける「死」と解釈でき、実質的には「自己は対話的にしか存在しえない」と同義であろう。
ところで、この 2 つの文脈の相性の良さとも呼べる類縁性はどこから来るのであろうか。そ
の要因を、
Clark & Holquist の指摘に求めるならば、
バフチンの〈複数主体のイメージ〉は〈有
15
機体としての主体のイメージ〉をモデルにしているからである、と説明することができる。
16
それゆえに「バフチンの私/他者という対象は自然界に反映される」 のであり、つまり、
両者のイメージは重なるのである。
次に検討しなければならないのは、
バフチンがどのようにして〈有機体としての主体のイメー
ジ〉を構築したかという点である。この点については先に説明を加えておかなければならない
ことがある。それは、バフチンはこのイメージを1つだけ取り上げ単独に構築したわけではな
い、ということである。バフチンの初期の活動の全体的な構想
17
の中で、
「有機的なもの」へ
の関心がより生物学的な関心へと結びついたと考えるのが妥当であろう。しかし、こうした背
景は、バフチンの〈有機体としての主体のイメージ〉の明確な像を探り出すという作業に、あ
る種の困難さ――このテーマに限定されたバフチン自身の明確にまとまった言説を見つけ出す
ことのむずかしさ――を生じさせる。それは、論述におけるバフチン特有のポリフォニックな
文体的手法から生じる困難さでもある。それ故にここでは手続きとして、バフチンはいつから
「有機体」に対する関心を抱いたのか、という作業的な問いを立て、考察を進めていくことに
したい。
まず、バフチンの「有機体」への関心の萌芽は、バフチンの著作活動の出発点となったエッ
セイ「芸術と責任」(1919) の冒頭において読み取ることができる。
全体は、その個々の要素がただ空間と時間のなかで外的なむすびつきのみによって結合さ
れ、内的に統一ある意味に貫かれていないばあい、機械的なものと呼ばれる。そうした全
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ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
体の部分同士は、たとえ並んで触れあってはいても、みずからは互いに無関係なのである。
人間の文化の三つの領域――学問、芸術、生活――が統一を獲得するのはただ、それら
を自身の統一のうちに参加させる人格においてである。けれどもこのむすびつきは、機械
18
的な外的なものとなりうる。
ここでバフチンは、
「有機体」という用語を直接使用しているわけではないが、
「有機体」を
対象とする思考と緊密な関係にある「有機的なもの」への思考を、
「機械的なもの」へのそれ
と対立させている。機械的なものへの思考では、各部分あるいは各存在は、それぞれが内側に
閉じられており、あらかじめ決められた「外的なむすびつき」
(例えば、物理化学の法則など)
のみによって結合される。たとえば、ロボットの各要素は、事後的に変更の余地のないプログ
ラムによって、各種の作業を実行できるが、ロボット全体の各部分同士は、たとえ並んで触れ
あってはいても、それらは互いに「無関係」であり、部分と部分の間で相互作用を及ぼすこと
や、相互浸透することはない。一方、有機的なものへの思考では、各部分、つまり、学問と芸
術と生活の諸領域は、客観的には明確に区分されるものの、その全体的な定位のもとそれらの
複数の諸領域に主体自身を参加させる人格においては、それぞれが外に開き、学問と芸術と生
活は、相互浸透し合うだけでなく、内的に統一ある意味に貫かれ、
「有機的なもの」になる。
こうした「有機的なもの」に対する関心が、より生物学的な意味での「有機体」への関心へ
19
と展開を見せるのは 、1926 年に生物学者カナーエフ (Ivan Ivanovoch Kanaev: 1893-1984) 名
20
義で出された「現代生気論」( 英訳版:
“Contemporary Vitalism”) と翌 1927 年に音楽・文学
研究者ヴォローシノフ (Valentin Nikolaevich Voloshinov: 1895-1936) 名義で出されたとされてい
21
る「フロイト主義̶̶批判的概観」 など、バフチン・サークルでの著作においてであろう。
ちなみに「現代生気論」は、
「生命とは何か。生命と非生命を、有機体 ( 生物 ) と無生物を区
別するものは何か。
」という問いから始まる大衆科学雑誌 Chelovek i Priroda (Man and Nature )
に掲載された論文である。この論文の最初の部分で、バフチンは「この問いに関して現代の生
物学に相談したならば、3つの異なった回答を受け取ることができる」とした上で、それぞれ
の異なった生物学的な考え方 ( 回答 ) を、間接話法を用いて仮想の「代表者たち」に語らせる。
その3つの立場とは、機械論的立場と生気論的立場、そして折衷派の立場である。まず、機械
論的生物学者は次のように答える。
「生きた有機体は、もっとも複雑な現象であり、有機体と
無生物の世界の現象とを区別するものは、この複雑さである。しかし、原則として、生命体と
自然の無機体との間にはいかなる違いも存在しない。同一の物理化学的諸力がすべての自然を
支配しているからであり、有機体の発現のすべては、もっぱら自然現象の物理化学的諸力の作
用の観点から理解することができる。科学の主たる仕事は、無機的な諸力の作用にすべての有
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機的過程を帰することである。
」二番目の回答者である生気論者たちは、こう答える。
「生命は、
その途方もない複雑さからのみ不活性な自然と区別できるわけではない。生命は本質的にそれ
とはまったく異なるものである。生命は自律的な現象であり、すなわち、生命はそれ自身の基
本的な法則に従う。生命には生命以外の自然には存在しない独特の生命力が働いている。仮に
生命が物理化学的な法則を侵さないとしても、それらの法則の点から生命は完全には説明でき
ない。生きた有機体の内には、常にある残渣が存在するのであり、それは本質的には物理化学
的な法則に帰することはできない。この残渣は生命の独特の本質であり、生物学が説明しなけ
ればならないものである。物理学も化学もこの生命の本質に関しては何もすることができな
22
い。
」折衷派の回答についてはここでは省略する。
「現代生気論」では、その後、3つの立場の考えをその主張に寄り添いそれぞれ明らかにする。
その一方でバフチンはそれらに批判的検討を加えながら、自らの考えをバフチン独特の文体で
暗示的にテクストに織り込んでいく。
批判の中心になるのは、
生気論者ハンス・ドリーシュ (Hans
Driesch:1867-1941) の学説である。
ところで、ここでバフチンが生気論者と機械論者の考えを批判する根拠のひとつを、誤解を
恐れずに書くならば、それは、2つの立場とも、生命主体とその外にある環境との間に、相互
依存と相互作用の関係を認めていない点にあると言える。バフチンは「人間の身体と物質的世
23
界との交換 (interchange) における刺激と反応との間の対話 (dialogue)」 を重視している。機
械論的生物学では、
「抽象的な生物学的個体」として有機体は内側に閉じられ孤立させられる。
そして、すべての有機体の発現 ( 環境の刺激に対する有機体の反応 ) は、物理化学的諸力の作
用の観点から決定論的に規定された過程に帰される。こうした考え方では、有機体と有機体と
の間にも、有機体と環境の間にもいかなる「交換」もあり得ない。また、このような発想の下
では、相互作用を前提とする有機体と環境のそれぞれの主体に「変化」や「生成」といった概
念は生まれない。
一方、生気論では、有機体の内部には、すべての自然を支配している機械論的な物理化学的
法則とは異なるそれ特有の法則が働いているとする。それをつかさどるのは、ドリーシュが言
うところの、
「エンテレケイア (entelechy)」( この語はアリストテレスによって提示された用語
24
で、ギリシア語の直訳だと「それ自体の内に目的をもっていること」の意味 ) であり、この
有機体特有の要因によって、有機体のあらゆる自己発現は自律的な現象として理解される。こ
うした考え方では、有機体の環境に対する反応のすべては、有機体内部の合目的性に基づく環
境への「適応」ということになる。そして、ここにも機械論的な考え方と同様に、有機体と有
機体、有機体と環境との間には、いかなる「交換」もそれぞれの主体の「生成」もあり得ない。
バフチンにとって重要なことは、有機体と環境との間で物質の交換によって行われる相互作用
― 118 ―
ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
であり、そしてそれによってそれぞれの主体に生じる「変化」と「生成」の過程なのである。
「フロイト主義」には、バフチンが生気論に対して批判的な態度を示す別の理由が示されて
いる。それは「生物学という個別科学の課題と方法」に「哲学を従属させようとする志向」が
存在することである。そのようなモノローグ的な志向の下では、人間主体の生は、
「生物学的
に解釈された」
「孤立させられた有機的統一体」としての生と捉えられる。そしてバフチンは
そうした志向の中に、
「文化創造における意識の役割を最小限にしようとする」志向や「すべ
ての客観的、社会―経済的カテゴリー」を「生物学的カテゴリーで取ってかえようとする」志
向、さらには「経済学を避け、歴史と文化を、直接、自然から理解しようとする志向」を読み
取る。かくして、バフチンは、生気論を含めた学問的諸立場の人間理解に対する次のような批
判的文脈の中で、自らの有機体としての人間主体の理解あるいは自らの思想に欠かせない2つ
の要因、すなわち、ひとつは社会的存在としての人間主体ともうひとつはその外にある「社会」
25
( =社会的環境 ) を、独特のレトリックで織り込むのである。
現代のイデオロギーのアルファにしてオーメガとなったあの生物学的な個体というよ
うな、抽象的生物学的人格は全然存在しない。社会を離れた、したがって客観的、社会―
経済的条件を離れた人間などは存在しない。それは悪しき抽象である。社会的全体の一部
としてのみ、階級において階級を通してのみ、人間的人格は歴史的にみて現実的な、文化
的にいたって生産的なものとなる。歴史のなかに入っていくためには、生理的に誕生する
だけでは不十分である。動物はそのようにして生まれるが、それは歴史の中に入っていく
ことはできない。いわば、第二の、社会的誕生が必要である。
〔中略〕この第二の誕生、
社会的誕生を回避し、生体の存在の生物学的前提からすべてを導き出そうとする試みは、
すべて、空しく、始めから失敗の運命にある。
〔中略〕生物学の専門的な問題も、研究対
象である人間という有機体の社会的位置を十分に考慮しないならば、完全に解決すること
26
は不可能であろう。
上の引用で注意しなければならないのは、バフチンが決して人間の生物学的な生を否定して
いるわけではないということである。ただ、
生物学的な生だけでは人間の生を理解するには「不
十分」であると主張しているのであり、人間の生を「生物学的な生」と「社会的な生」さらに
はここには記述されていないが「文化的な生」という複数の対話的な定位から捉えることの必
要性を、
別な言葉で言えば、
対話的な学問的「出来事」への参与の必要性を説いているのである。
ところでバフチンはテクストの中で自らの思想をモノローグ的には語らない。
〈有機体とし
ての主体のイメージ〉についても、生物学的、社会学的、文化的な複数の観点からの多様な考
えをポリフォニックに響かせ、そこに自らの主張を巧みに参加させることによって論文を展開
京都精華大学紀要 第四十七号
― 119 ―
している。こうしたバフチンの文体的特徴が、逆に、
〈有機体としての主体のイメージ〉の明
確化を阻んでいるのだが、バフチンの主体に関するイメージ群のメカニズムを検討するにあ
たっては、どうしてもこのイメージを構造的に明らかにしなければならない。この点に関して、
Clark & Holquist は、明確な構造化は避けながらも、ある一定の文言において、バフチンの生
物学的なこのイメージを浮き彫りにするのに成功している。それはあたかも、バフチンが「現
代生気論」において、
「生命とは何か」という問いに対して、機械論者や生気論者を主人公化し、
その答えを彼らの声としてテクストに響かせたように、Clark & Holquist は、バフチンを主人
公に見立てながら、その主要な問いに対する仮想のバフチンの返答を声としてテクストの中で
響かせている。少し長くなるが、ここでその「声 ( 意識 )」を引用してみたい。
微細な生命形態を研究している科学者は、その微小な形態の一つ一つが死んだ物質なのか
生命組織なのかという、時にはむずかしい決定を下すのに、単純な基準を用いる。もしそ
の物質に、光のような刺激にたいして反応する能力があるならば、それは生きているとさ
れる。環境が変化してもそれが変わらなければ、それは生命をもたないと見なされる。い
いかえれば、この原始的なレベルにおいては、環境に反応する能力あるいは環境とたがい
に作用しあう能力が、生命をもつか否かの指標である。ある人間がいかなる刺激にたいし
ても反応しなければ、その人間は「生命の徴候」を示さないと言われ、死んでいるとみな
されるが、ちょうどそれと同じことだ。原生動物は環境から栄養が供給されないかぎり、
長く生き続けることはできない。原生動物は、その生命とみなされる内的な反応能力を持
続させるためには、その外形全体を覆っている半透膜の外にあるものを必要とするのだ。
環境に反応すること、環境に応答できること、それが生命そのものなのだ。未進化のヒド
ラが光から逃げるといった反応であれ、ある特定の状況において生命体のある特定の反応
を生み出すものが、その生命の中心である。それが、人間のようなもっと高度で複雑な生
命では、自己とよばれるものである。こんなふうに捉えるならば、自己は形而上学的な抽
象物というよりはむしろ生の根本的事実である。自己はまた「それ自体では」なんの意味
ももたない。というのも、その反応能力に働きかけて試す環境がなければ、それは生命存
27
在をもたないだろう。
Clark & Holquist が描き出す仮想のバフチンの生命観は、とても明解である。それに従えば、
原生動物のような単純な生命体でも人間のようなもっと高度で複雑な生命体でも「生命をもつ
か否かの指標」は、
「環境に反応すること、環境に応答すること」にある。それゆえに、有機
体としての主体は、その外にある「環境」がなければ、生命存在をもち得ない。自己はそれ自
体では何の意味ももたない。自己は、
「反射のような、脳が単純な刺激に反応するというレベ
― 120 ―
ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
ルから、社会的交流のなかで精神が他の自己たちに応答するというレベル」において、
「環境」
28
からの刺激を必要とするのである。
バフチンの有機体と環境との関係は、有機体そのものの合目的性によった環境への「適応」
でもなく、有機体とその外にある環境を支配する物理化学的な法則によって規定される関係で
もない。有機体と環境との間には、自己と他者との関係において認めた相互依存と相互作用が
基礎にある。その相互作用は、生物学的な側面では、物質の交換という形態で行われるが、社
会的な側面や文化的な側面では、広義の意味でのことばの交換、つまり記号の交換として対話
という形態で行われる。つまり、人間は身体において身体とその外にある物質的環境との間の
交換を刺激と反応という対話の下で行っているが、同様に、自己と他者(社会的環境)との間
でも、記号という客観的媒介物を用いて、刺激と反応という対話を行っているのである。そし
て、こうした「
〈私〉の活動」
(
“I”activities)と「
〈私の中の私でないもの〉すべて」
(all that
is“not-I-in-me”
)
、つまりは他者との絶えざる交換(=対話)を調整し成形するのは、
「人間の
29
意識」(human consciousness) である。
以上、K. Clark と M. Holquist の著作と論文に依拠しながらではあったが、バフチンの〈有
機体としての主体のイメージ〉を浮き彫りにできたのではないかと思う。それは、バフチンの
生物学的な知への関心とその展開を背景としながら形成されたイメージであり、外在性、相互
作用、交換(対話)といった「自己と他者」の関係を定位とする言語主体のイメージの基礎と
なる重要なイメージである、と結論づけることができよう。さて、今回検討した3つの言語主
体のイメージを考察の視座に加えながら、バフチンの言語主体の諸イメージの構築に向けた次
なるステップは、本試論 1-2-2 の末尾で保留にしておいた「意識」へ結びつく言語主体のイメー
ジであろう。それは、
「交換(対話)
」の原理にかかわる≪〈複数主体〉の複数意識のイメージ
≫と仮に呼ぶことができるが、その検討については別稿に委ねることにしたい。
2.試論②:複数の主体によって構築される芸術的・美的な文学作品
2-1 文学作品を芸術的・美的に認識する主体
小説や詩などの文学作品を芸術的・美的であると認識するのは、その作品を鑑賞する我々読
者である。しかし、我々は一体どのような準拠を指針としてこのような価値判断を下すのであ
ろうか。ロシアの思想家ミハイル・バフチンはこの問題設定に対して、文学作品を考察主眼に
した際に立ち現れてくる複数の主体のイメージを認識することで、文学作品が芸術的・美的で
あることの本質を捉えようとし、
「全体」としての文学作品のイメージを提唱しようと試みた。
本章では以下考察を進めていく中で、この文学作品における複数の主体について検討してい
京都精華大学紀要 第四十七号
― 121 ―
くことを目的とする。また、本章で対象となる文学ジャンルは論者の研究領域である小説に限
ることにする。したがって、以下本章で扱う〈文学作品〉という言葉はすべて〈小説〉に置き
換えて認識することを前提とする。
文学作品における複数の主体とは具体的にどのような存在であるのか。複数という観点を除
くと通常、このような思考においては、文学作品を創造する〈作者〉という主体のみが想起さ
れる。つまり、作品を主眼にした際の主体は〈作者〉しか立ち現われてこない。後に検討する
読者という存在も主体としてではなく、客体としてしか立ち現われてこない。この認識方法で
はどこまで進路を進めても複数の主体は見えてはこず、
〈作者〉という唯一の主体のみが作品
に対して主体的関係を結び続けることになる。しかし、このような認識方法では作品を芸術的・
美的に認識することが困難であり、
「全体」としての文学作品を捉えることが不可能であると
30
バフチンは指摘する。
本節では、バフチンが思考した文学作品における複数の主体の存在を具体化する前に、ある
作業仮説を挟むことにしたい。それは上記の〈作者〉単一の主体性と関連するものとして、非
バフチン的、換言するなら今日の文学研究において主流となっている 2 つの認識方法について
の検討である。この 2 つの認識方法の概観に触れることで、本章での考察と対照化することが
可能となる。
バフチンは、今日文学作品を研究する上での認識方法は既に述べたように大きく分けて 2 つ
存在していることを指摘する。その 2 つとは次のものである。
①作品 ( テクスト ) 重視、素材重視、つまり作品内的考察。
②作者や観照者 ( 読者 ) 重視、考察対象の心理学的分析、つまり作品外的考察。
まず第 1 の認識方法は、眼前に存在する物質としての作品を考察の際の最も重要且つ唯一の
対象として捉えているという特徴がある。この認識方法には、作品外のいかなる要素も入るこ
とはなく、考察全体は作品内で完結している。また、この第 1 の認識方法は考察の主眼として、
作品内からのみ認識可能な所与の文体、そして文体を構成している素材を扱う。
第 2 の認識方法は、物質的な作品のように眼前に存在するものではなく、あくまで作品から
多少なりとも距離を知覚させるような、作品外に位置する作者や観照者 ( 読者 ) を考察対象と
する。このような性格を有することから、第 2 の認識方法はまた、作品を考察の起点となる 1
次的資料として扱うものの、考察の主眼が作品外に位置していることから副次的資料、つまり
作者の自伝や作者の創作上の心理状況を把握する為の社会評論的資料などを自らの一番近い手
元に置く。
以上、2 つの認識方法を挙げたが、両認識方法とも本質的に文学作品を芸術的・美的なもの
として捉えることは出来ないとバフチンは述べる。その理由は次のような批判である。
ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
― 122 ―
31
まず第 1 の認識方法について、作品内に留まるその考察倫理を「芸術作品の物神崇拝」 と
して批判する。また第 2 の認識方法については、作品を起点としているにも関わらず、作品か
32
ら〈作者〉や〈観照者〉を「孤立させて取り出した」 として批判する。
そして、両認識方法の共通点として次のように述べることで、バフチン独自の認識方法への
道程を提示しようとする。それは先にも触れた、文学作品における複数の主体の存在の認識で
あり、
「全体としての〈芸術的なもの〉
」という像である。
結局のところ、どちらの立場も部分の中に全体を見出そうとする共通の欠点がある。こ
れらの立場によって全体から抽象的に分離されたある部分の構造を、全体の構造であるか
33
のように詐称しているのである。
両認識方法とも、文学作品という芸術的・美的なものの「全体」を捉えることが出来ず、部
分のみを分析することに終始し、それを「全体」であると偽っていると言ってのけるバフチン
だが、それでは彼の思考する認識方法とはどのようなものか。上の引用の少し後に次のような
箇所がある。
しかし、全体としての〈芸術的なもの〉は、物の中にあるのではなく、孤立させて取り
出した作家の内にあるのでもなく、また観照者の心理の内にあるのでもない。
〈芸術的な
もの〉は、これら 3 つの要因をすべて含んでいるのである。それは芸術作品の中に固定さ
34
れた創造者と観照者の相互関係の独特な形式なのである。
先に論者が漠としたイメージで挙げた、文学作品における非バフチン的な主体の存在、つま
り〈作者〉という唯一の主体のイメージとこの引用での主張は大きくその内容が異なる。先に
論者が述べたところでは、作品における主体は〈作者〉のみであったが、引用でのバフチンは
そこに〈観照者〉という存在も含意させる。この時点で、作品における主体はその数を単一で
はなく、複数知覚させることになる。
しかし、まだこの段階では複数の主体の存在を具体的に認識しているとは言い難い。
〈作者〉
という存在は文学作品を主眼にした際には明確に想起することが出来るのにもかかわらず、
〈観
照者〉という主体はその像を抽象的なレベルに押しとどめている。この観点を明確化するのが、
バフチンの引用部に限らず、論者が使用している〈観照者〉という言葉である。
〈観照者〉という言葉は〈読者〉と同義ではない。
「観照」という言葉には 2 つ意味がある。
一義的には、主観を交えずに冷静な観察と思索から物事の本質を認識しようとする、という意
味があり、二義的には美を直感的に捉えること、という意味である。同一の言葉から全く異な
る意味が存在するという事実にも驚嘆するが、本章での使用法は当然二義的意味である。ここ
京都精華大学紀要 第四十七号
― 123 ―
には明確な主体性がある。しかし、単純に二義的意味のみを採用する訳にもいかない。何故な
ら一義的意味である「物事の本質を認識しようとする」という意味が、
バフチンが使用する「観
照者」には内包されているからである。したがって、本章では「観照」という言葉を一義的意
味と二義的意味の両面を有する多義的な言葉として使用する。
〈観照者〉という言葉が、美的な対象を主体性という直感で捉えていること、という意味を
認識した上で、
〈読者〉という言葉を捉えると、そこには明確な差異が存在することが判明する。
つまり、主体性の有無や主体性の度合いである。
〈読者〉には〈作者〉が創造した作品を賜物
として受け取るという意味が内包されるが、
〈観照者〉にはそれよりも、自ら能動的に作品に
参与するという意味が内包されているのである。
ここまで、本節では文学作品を芸術的・美的に認識する上での複数の主体について、その概
観を検討してきた。それは〈作者〉という主体のみで成立しているのではなく、
〈観照者〉と
いう存在も含めた「相互関係の独特な形式」であった。本節で検討したのは、具体的な像とし
ての〈作者〉と〈観照者〉であり、その内的意味作用についてはまだ検討していない。次節で
はこの観点を見ていくことにする。
2-2 作者と観照者による創造と再創造
前節で検討した文学作品を芸術的・美的に認識する際の 2 つの主体、つまり〈作者〉と〈観
照者〉はどのような領域に位置している存在であるのか。まずはこの観点を明らかにすること
から本節は始めることにする。
まず非バフチン的な観点でその概観を把握するなら、芸術的・美的な対象である文学作品の
主体として存在する創造者としての〈作者〉は、その創造行為が行われる領域、換言すれば芸
術内的領域に位置している。一方、
〈観照者〉は前節で確認した主体性という意味を除けば、
芸術外的領域に位置している。そしてこの認識方法は文学作品を認識の主眼に位置付けた際に
立ち現われるものであるということを述べておく。そして繰り返すが、この各自の所与の領域
が二元論的なものとなっている認識方法は非バフチン的認識方法である。それでは、バフチン
はこの両者の位置関係をどのように捉えたのか。
〈作者〉も〈観照者〉もメタフィクションのような例外を除き、両者は実在している。この
実在としての両者の関係性をバフチンは、同一平面的に捉えようとする。さて、この同一平面
的という形容辞であるが、本来的に言って真に両者の位置関係を同一平面的に捉えようとす
ると、両者に跨る時空間の関係がある以上、厳密に両者の位置関係を重ね合わせることは出
来ない。ここで使用する同一平面とは、時空間の問題を内包しつつも、文学作品という「出
35
来事」
を通して交わされる、前節での引用にあったような「相互関係の独特な形式」の意
ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
― 124 ―
味で使用する。
この「相互関係の独特な形式」をバフチンは、
「美的交流」という言葉でさらに明確化しよ
うとする。
すなわち、美的交流は芸術作品の創造とその絶え間ない共同創造的な観照における再創
36
造によって完了する〔後略〕
。
芸術作品 ( 文学作品 ) を主眼にした際の、引用のような創造・共同創造・再創造のプロセス
は具体的にどのようなプロセスを経て行われるのであろうか。
通常、創造行為は〈作者〉という主体のみで行われるものであると我々は認識している。そ
こに「共同創造」という観点は無い。それゆえ、
「再創造」も起こりえない。だが、文学作品
を主眼にした際の〈作者〉と〈観照者〉という複数の主体を認識し、尚且つその主体性が作用
するような環境を知覚することで、引用のような一連の動的創造行為が発現する。
もう少し明確に、それぞれが位置する領域という観点で捉えるならば、
〈作者〉が位置して
いる芸術内的領域と〈観照者〉が位置している芸術外的領域は、その境界を接している。
互いの境界が分離しているのではなく、接していることで相互交流が生じ、そのことによっ
て、創造と再創造という連続性が生まれるのである。
ここまで本節では〈作者〉と〈観照者〉という 2 つの主体について、両者は文学作品を主眼
にした際に創造と再創造という「美的交流」を行うということ、そしてその営為が行われるの
は両者が位置している領域の相互関係によるということを検討してきた。次に検討していくの
は、具体的に文学作品を主眼にした際の 2 つの主体が関与する創造と再創造はどのような内容
であるのかという観点である。
文学作品を「完了」させる創造と再創造という一連の動的運動において、複数の主体を認識
する上で特に重要なものは、
〈観照者〉が参与することによって行われる再創造である。
〈作者〉
は自ら作品を創造する際に、自らのみで作品を創造しているのではない。絶えず、自らが位置
している領域外の外在者 ( 観照者 ) の像を意識しているのである。バフチンはこの〈観照者〉が、
文学作品に対して位置する外在性という観点を文学作品が芸術的・美的に組織される上での最
も重要な要因であると述べる。
すべての美的形式において組織する力となるのは、他者という価値カテゴリー、他者へ
の関係であって、それは外在的な完結をもたらす見る眼の価値的余裕によって豊かにされ
37
るのである。
〈作者〉において〈観照者〉は常に他者関係に位置している存在である。バフチンは〈作者〉
京都精華大学紀要 第四十七号
― 125 ―
と〈観照者〉という芸術的・美的営為に関係する存在のみではなく、自己と他者という人間存
在という大きなカテゴリーの中でもこの外在性、つまり他者の存在が自己認識の根底にあると
述べる。
作者は自分自身に対して他者になり、他者の眼で自分を見なければならないのである。た
しかに、実生活でもわれわれは絶えずそうしており、他者の観点から自分を評価し、他者
38
を通して、みずからの意識を超えた要因を理解し、考慮しようと努める。
実生活において他者の認識が自己認識の根底にあることを述べるバフチンは、実生活の領域、
つまり芸術外的領域と境界を接する芸術内的領域においても、他者の存在という観点が欠かす
ことの出来ない観点であることを強調する。
〈作者〉と〈観照者〉の関係に戻るならば、
〈作者〉
という芸術内的領域での創造者は、他者である〈観照者〉の存在を認識しないことには自己認
識、つまり〈作者〉という主体による文学作品の構築が「完了」しないということになる。
主体による他者の認識という観点を踏まえた上での〈作者〉による創造行為を整理すると次
のようになる。文学作品を実際に創造するのは〈作者〉という主体のみであるが、その後景に
は常に〈観照者〉という他者が存在し、関与しているということである。そして、この時点で
〈作者〉単体による創造行為というものは純粋な意味においては存在し得ないことになる。つ
まりこの時点で、文学作品の創造行為は〈観照者〉も参与している「共同創造行為」が行われ
ているのである。
そしてこの「共同創造行為」の後にあるのは、文学作品の「完了」
、換言するなら「全体」
としての文学作品の像 ( イメージ ) である。ここまで到達することで文学作品における〈作者〉
と〈観照者〉による再創造の道程が見えてくる。ここでひとつ確認しなければならないことは、
〈観照者〉をも交えた創造行為の際にもその執筆の主導権は〈作者〉にあるということである。
あくまで〈作者〉が他者を認識することで、この一連の創造行為は成立している。したがって、
〈観照者〉が作品創造行為における第 2 の主体に成りはしても、
〈作者〉に替わって前景に位置
することはない。
〈観照者〉単独では全面的に文学作品を構築する力は有していないのである。
しかし、
〈作者〉による〈観照者〉という像は作品創造行為に具体的に影響を与える。それ
は〈主人公〉という文学作品を芸術的・美的に認識する際の 3 つめの主体である。次節ではこ
の〈主人公〉という主体についての考察を行い、文学作品を主眼にした際の複数の主体の全体
関係を捉える。
2-3 作品〈内 / 外〉を横断する〈主人公〉
〈作者〉
、
〈観照者〉に次ぐ第 3 の主体は〈主人公〉である。この〈主人公〉は非実在の人物
― 126 ―
ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
であるという点で前者 2 人と比較してその性質を大きく異にしている。ここでは〈主人公〉に
対して、実在のモデルとなる人物が存在するという議論を持ち出す訳にはいかない。この議論
39
には異化 ( 非日常化 ) という観点が抜けている。芸術的・美的な文学作品、本章では小説の
ことを示すが、このジャンルにおいて、純粋に〈主人公〉に対して実在の人物のその「全体」
を移植することはあり得ない。異化 ( 非日常化 ) という方法を除く文学ジャンル
3
40
を認識した
3
としても、それはあくまで文学作品 ( 傍点佐々木 ) なのであって、写真のようにその確然たる
事実を捉えている訳ではない。ここには必ず〈作者〉の他者の意識を内包した意識が存在する
のであって、それは自伝的作品でも変わることはない。
つまり、我々は〈主人公〉の「全体」を「観照」という意識に基づいて捉えたとき、必ず〈作
者〉という他者とその後景に控える別の他者をも認識しているのである。ここで述べる「別の
他者」とは当然、実在の人物であるが、それでも前述のように確然とした他者ではなく、
〈作者〉
41
の手によって彫逐された「絵画的」 他者を認識する。
この「絵画的」他者が位置する領域は芸術内的・外的領域の境界であり、まるで半身を芸術
内的領域に、半身を芸術外的領域に浸しているかのようである。だが、このようにしてあたか
も彫逐された他者について、厳密にその位置する領域を半身の喩えのようにして区分すること
はできない。なぜなら〈作者〉に応じて「絵画的」な他者の像は大きく異なるからであり、時
には写実性が強まり、また時には異化性が強まることがあるので、定式的に区分することはで
きないのである。
前述のように、この「絵画的」他者なる存在は〈主人公〉という存在であり、また作品内の
別の登場人物でもある。本章では後者、つまり〈主人公〉以外の登場人物について、
「絵画的」
他者という意味作用を適用することは紙幅の関係上述べることはできない。本章では〈主人公〉
という存在が〈作者〉と〈観照者〉による「共同創造行為」において、最もその影響を受ける
存在であるとの論者の認識の基に以下、検討を行っていく。
〈主人公〉という存在は、既に「絵画的」他者という言葉で述べたように、
〈作者〉単体で創
造されるのではなく〈作者〉にとっての外在者、他者の像を反 映している。そして、この他
者という枠の中には当然、
〈観照者〉も含まれている。しかも、この〈主人公〉の像は単に他
者の総体を反 映されているだけでなく、換言するなら静的な状態にではなく、動的な相互関
係によって構成されている。この〈作者〉と〈観照者〉による動的な相互関係の過程において、
〈主人公〉は両者から見て単なる客体としてではない、主体となる。もう少し詳細に述べるな
らば、
〈作者〉と〈観照者〉相互の主体性が〈主人公〉に動的に反 映されることで、
〈主人公〉
は主体性を有する主体となるのである。
ここまでの流れで〈主人公〉が「全体」としての文学作品、すなわち芸術的・美的な文学作
京都精華大学紀要 第四十七号
― 127 ―
品を構成する第 3 の主体となったことが判明したが、この〈主人公〉は「絵画的」であるがゆ
えに、また領域的に認識するならば非半身的であるがゆえに、その創造の重心は〈作者〉か〈観
照者〉のどちらかが握っていることになる。しかし、この問題もすぐに解決可能なものである。
それは次のとおりである。
〈作者〉は自己単体のみで〈主人公〉を創造しているのではない、という観点から、
〈主人公〉
創造の重心は〈観照者〉の手にあることが認識されることになる。先に文学ジャンルにおける
自伝的作品さえも、つまり〈作者〉自身を〈主人公〉にした作品でさえも純粋に自己単体で成
立しているのではないことを仄めかした訳だが、
〈主人公〉を創造する際には〈作者〉は常に〈観
42
3
3
照者〉( 他者 ) の存在を自らの視覚の「余裕」 、もしくは視覚の「余剰」に位置する主体 ( 傍
点佐々木 ) として認識している。バフチンはこの能動的な主体性を有する他者、つまり外在者
が〈作者〉と〈主人公〉に対して果たす機能について、次のように述べる。
主人公を、連帯保証、共犯、共同の責任から引き出し、主人公自身がみずからの力では
決して生まれることのできない存在の新たな平面に、彼を新たな人間として生み出すので
ある。主人公自身には本質的でない、また存在しない、新たな肉体をもたらすのである。
それは、主人公に対する作者の〔原文判読不能〕な外在の位置、主人公の生の場からの作
者の入念な自己排除、主人公とその存在のための生の場全体の浄化であり、現実認識や倫
理において第三者である傍観者の、主人公の生のできごとへの関与的な理解とその完結な
43
のである。
文学作品において、
〈主人公〉が単体で存在することはないことを指摘し、
〈作者〉の自己充
足的意識からも〈主人公〉が存在することはないと述べる。そして、
〈主人公〉が存在するに
は第 3 者、つまり〈観照者〉
、他者が〈主人公〉に生を吹き込む機能を果たしていると述べる
ことで、
〈主人公〉創造の重心が〈観照者〉にあることを指摘する。
〈作者〉にとって視覚の「余裕」に位置していながら主体性を有している〈観照者〉の存在
は〈主人公〉創造には欠かすことのできない要素であることが判明したが、では一体外在者で
ある〈観照者〉は何を〈作者〉の創造行為に影響を与え、
〈主人公〉に表出させるのであろうか。
〈作者〉は〈主人公〉を創造する際に視覚の「余裕」を認識する以上、他者の眼でもって自
己を認識する他ない。この他者は芸術外的領域に自らの領域の大半を位置付けている存在であ
る。したがって、
〈作者〉は芸術外的領域の内部で発現している内容を引き受けなければなら
ない。この領域の内部では広義の意味での「生活の言葉」が充溢している。文学作品を創造す
る〈作者〉はこの「生活の言葉」を芸術的・美的に彫逐することにより、
〈主人公〉は「新た
な肉体」を受肉することになるのである。
― 128 ―
ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
〈観照者〉は〈作者〉に対して、自ら参与することによって完結する文学作品の再創造へと
至る道程を〈主人公〉という第 3 の主体にして自らの意識と声の代弁者を創造するよう要請す
るのである。そして〈作者〉はこの要請を無下にせず能動的に自らの創造行為に適用させよう
とする。したがって〈作者〉の創造の源泉はミューズの降臨によって行われるものではなく、
〈観
照者〉という主体からの要請、作用を受けることにより立ち現れる価値ある源泉なのである。
2-4 複数の主体による「全体」としての文学作品
本節まで本章ではバフチンが提唱した文学作品を芸術的・美的に認識する上での複数の主体
と、その諸主体の関係性についての考察を行ってきた。ここまでの考察をまとめるならば次の
ようにまとめることができよう。
Ⅰ文学作品を芸術的・美的に認識する上での複数の主体
①作者
②観照者
③主人公
Ⅱ諸主体の関係性
①作者=観照者=主人公 ( 主体性という力学を基に捉えたとき )
②作者≒観照者≒主人公 ( 諸主体が厳密に相互関係を構築していると捉えたとき )
③作者≒観照者=主人公 ( 主人公を作者と観照者の相互関係により創造された存在である
と捉えたとき )
ⅠとⅡが芸術的・美的且つ「全体」としての文学作品を認識する上での基本的構造であり、
この基本的構造の①から③はその部分的構造である。そしてこれら基本的構造と部分的構造が
織りなしているのが、文学作品を芸術的・美的に認識する「全体」としての文学作品の正体で
ある。このように捉えると、第 1 節で挙げた今日的で非バフチン的な 2 つの代表的考察方法に
ついてバフチンが述べるところの同じ過ちは犯していないように感じる。文学作品を芸術的・
美的に認識する上での認識方法は当然これ以外にもあり、バフチン同様、概念の体系化を嫌っ
44
たアランの複数の「芸術論」 なども比較的バフチンに近似したものとしてそのひとつに挙げ
ることができよう。
しかし言語主体という観点に則し、複数の主体という観点を導出してそこから芸術的・美的
な「全体」像を捉えようとした思想家はバフチンの他にはいない。しかし、我々 ( 観照者 ) は
本章での考察を除いた場においても、本章で考察した認識方法を無意識的に使用しているとい
う事実が存在する。それは第 3 節で考察した〈主人公〉についてである。
我々 ( 観照者 ) は文学作品を観照する際に、時として作品内の〈主人公〉や登場人物に共感
京都精華大学紀要 第四十七号
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を覚えたり、自己と重ね合わせ、時には自己との大きな違いに困惑、反駁したりすることがあ
る。これは、眼前には存在しない〈作者〉への要請が我々に立ち返った際に表出するものであ
り、第 3 節で考察した論考と何らその本質を異にはしていない。我々は〈主人公〉や登場人物
たちに共感したり反駁したりするという、まさにこの認識上に文学作品を芸術的・美的に認識
しているのである。このように捉えている時点で、我々は文学作品を「出来事」が結実する領
域として捉え、
〈作者〉との「共同創造的」な行為、再創造へ向かっているのである。よって、
文学作品を芸術的・美的に認識するには、
〈作者〉のみならず我々 ( 観照者 ) の主体性、能動的
参与が重要な意味を帯びることになる。
また、繰り返しになるが、本章で使用した文学作品とはあくまで文学ジャンルのひとつであ
る小説に限ったことである。詩や叙事詩といった他のジャンルについては本章で行った考察は
適用することが適わないであろう。
文学作品を芸術的・美的に認識するという本章での観点は、前章で髙橋が行った言語主体が
有機体的に存在している、という原理的考察を引き継ぎながらも、分岐した路線上に位置する
ものである。本章は言語主体という原理的観点から高次、
〈文化〉の領域にその主体を移行さ
せて考察を行った。その意味で本章は本稿冒頭で髙橋が述べたようにバフチン思想営為の「終
わり」にあたる考察である。
また、本章で展開した文学作品を主眼にした際の 3 者による主体的な「出来事」も原理的側
面での考察と同様に時空間の問題を内包している。そのため、その点を詳細に検討することで
より明確な考察が行えるであろう。そして最後に、本章での考察はバフチンが初期の論考で提
示した全体の内の一部であり、紙幅の関係上今回は述べることができなかった多くの問題はま
た別の機会に委ねることを予告して本章を終えたい。
注
1 Mikhail Bakhtin , Clark, K. and Holquist, M., 1984, Cambridge: Harvard University Press, p.65. ( 邦訳 )
『ミハイール・バフチーンの世界』川端香男里・鈴木晶訳 1990 せりか書房 p.91。
2 「芸術と責任 (1919 年 )」(佐々木寛訳 )『
[行為の哲学によせて]
[美的活動における作者と主人公]他』
ミハイル・バフチン 1999「ミハイル・バフチン全著作第一巻」水声社 p.13。
3 前掲 1 p.65. ( 邦訳 ) pp.91-92。
4 同上 p.65. ( 邦訳 ) p.92。
5 前掲 2 pp.13-14。
6 『ドストエフスキーの創作の問題』ミハイル・バフチン 桑野隆訳 2013「平凡社ライブラリー」平凡
社 p.27。
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ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 ⑴
7 「行為の哲学によせて (1920-24 年 )」( 佐々木寛訳 )『
[行為の哲学によせて]
[美的活動における作
者と主人公]他』ミハイル・バフチン 1999「ミハイル・バフチン全著作第一巻」水声社 p.66。
8 同上 p.36。
9 同上 p.37。
10 同上 p.66。
11 『バフチン』桑野隆 2011「平凡社新書」平凡社 pp.32-33。
12 「小説における時間と時空間の諸形式――歴史詩学概説 (1937-38, 1973 年 )」( 北岡誠司訳 )『
[小説
における時間と時空間の諸形式]他』ミハイル・バフチン 2001「ミハイル・バフチン全著作第五巻」
水声社 p.403。
13 同上 p.403。強調部原著。
14 同上 p.403。
15 前掲 1 p.175. ( 邦訳 ) p.224。Clark & Holquist は、
ロシアの脳生理学者 A. A. ウフトムスキー (Aleksey
Alekseevich Ukhtomsky:1875-1942) の理論のバフチンへの影響という文脈で次のように述べてい
る。
“The body’s relation to its physical environment provided a powerful conceptual metaphor
for modeling the relation of individual persons to their social environment.”(p.175)。また、Michael
Holquist は“Answering as Authoring: Mikhail Bakhtin’
s Trans-Linguistics.”( in Bakhtin: Essays
and Dialogues on His Work . Gary Saul Morson(ed.), Chicago: The University of Chicago Press, 1986,
pp.59-71.) の中で、ウフトムスキーの皮質に関するドミナント (dominanta) の学説のバフチン理論
への影響をより詳しく検討している。
16 同上 p.66. ( 邦訳 ) p.92。
17 同 上 p.63. ( 邦 訳 ) p.89。Clark & Holquist が「 応 答 責 任 の 構 築 学 (The Architectonics of
Answerability)」と呼ぶところの 1918 年から 1924 年にかけてのバフチンの一連の著作活動。
18 前掲 2 p.13。
19 “Answering as Authoring: Mikhail Bakhtin’
s Trans-Linguistics,”Michael Holquist, Bakhtin: Essays
and Dialogues on His Work , Gary Saul Morson(ed.), Chicago: The University of Chicago Press, 1986,
p.68.
20 “Contemporary Vitalism,”Mikhail Bakhtin, Charles Byrd(trans.) , The Crisis in Modernism ,
Frederick Burwick and Paul Douglass(eds.), Cambridge: Cambridge University Press, 1992, pp.76-97.
21 「フロイト主義――批判的概観 (1927 年 )」V. N. ヴォローシノフ ( 磯谷孝訳 )『
[フロイト主義]
[文
芸学の形式的方法]他』V. N. ヴォローシノフ他 2004「ミハイル・バフチン全著作第二巻」水声社
pp.47-215。
22 前掲 20 pp.76-77。
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23 前掲 19 p.67。
24 前掲 20 p.88。
25 前掲 21 pp.59-61。
26 同上 pp.62-63。強調部原著。
27 前掲 1 p.66. ( 邦訳 ) p.93。
28 同上 p.66. ( 邦訳 ) p.94。
29 同上 p.65. ( 邦訳 ) p.91。
30 「生活の言葉と詩の言葉」V. N. ヴォローシノフ ( 斎藤俊雄訳 )『フロイト主義・生活の言葉と詩の
言葉』
「ミハイル・バフチン著作集①」1979 新時代社。なお、このヴォローシノフの指摘は本論
考だけでなく、他の論考でも明示されており、バフチンを中心とする「バフチン・サークル」の
文学に対する基本的定位であると見なすことができる。
31 同上 p.220。強調部原著。
32 同上 p.222。強調部原著。
33 同上。
34 同上 pp.222-223。強調部原著。
35 『小説の言葉』ミハイル・バフチン 伊東一郎訳 1996「平凡社ライブラリー」平凡社 p.109。
36 前掲 30 p.224。強調部原著。
37 前掲 7「美的活動における作者と主人公」( 佐々木寛訳 ) p.346。強調部原著。
38 同上 pp.135-136。強調部原著。
39 「方法としての芸術」ヴィクトル・シクロフスキー 水野忠夫訳『散文の理論』1971 せりか書房 p.15。
40 このようなジャンルに属するものとして「ルポルタージュ」のようなものを挙げることができる。
41 『マルクス主義と言語哲学――言語学における社会学的方法の基本的問題』( 改訳版 ) ミハイル・
バフチン (V. N. ヴォローシノフ ) 桑野隆訳 1989 未來社 p.184。強調部原著。
42 前掲 37 p.132。
43 同上 pp.134-135。
44 アラン Alain (1868 − 1951) はフランスの評論家。本名はエミール・オーギュスト・シャルティエ。
主著に『芸術の体系』や『幸福論』等がある。