国定教科書(修身)に載った郷土の偉人 藤 冠峰 (漢詩人)伊 シリー ズ ① 国定教科書に取り上げられた出来事は次のこと がらです。 ある時、冠峰の友人が江戸で塾を開いたのです が、火事にあい、 たいそう貧しくて名古屋に残して きた妻子を江戸へ呼ぶことができません。妻や子 どもの切ない気持ちを思った冠峰は、 自分の田畑 を売り、家 屋 敷を質 入れして、江 戸 への旅 費を つくって友人の妻子にあげました。友人はこの友情 をたいそう喜び、後日、お金を返そうとしましたが、 冠峰は「あなたと私は親友ではありませんか」 と、 ついにお金を受け 取りませんでした。 友 人が災 難に あったのを知った ら、進んで助ける 心掛けを学びたい 伊藤冠峰の石碑(中央公民館) ものですね。 詳しくは、町ホームページ (「モラルセンス一覧」 で検索< No.5>) をご覧ください。 伊藤 冠峰は、 江戸 時代の漢詩人です。 冠 峰 は 、1 7 1 7 年 (享保2年) に三重郡 菰野村(現在の三重 県三重郡菰野町)に 絹物商の次男として 生まれ、子どものうち から、ぜいたくな暮ら しをしないで、物を大 切にするよう育てられました。性格も素直で努力 家でしたし、本を読むことが何より好きな少年で した。 29歳の時、店を兄弟に任せて名古屋で儒学と 医術を学び、 1756年 (宝暦6年) に名古屋から笠松 村に移り住みました。屋敷に竹を植えて「緑竹園」 と名付け、病気の人を治したり、学問を教えたり、 百姓仕事をしたりして、村人から大変親しまれてい ました。 (中央公民館横に石碑があります) ぽう かん とう い 笠松の偉人 せい がん じ もん ぜん いち 誓願寺の門前市② かた きゅう あつ わす 灸 の熱 さ を 忘 れ ま す や きゅう あつ この灸 は 、肩つま りや頭や き ろ 。﹂ きゅう めに、よ う 効いた 。そりゃ、熱 きん ざい たの ﹁ あ り がと う ご ぜ え ま す 。 いな ば い灸やけど、近 くの人 は もと かず わり ほ ん な ら よ ろ しゅう 頼 ん お より 、尾 張や稲 葉の近 在から あたま ます。﹂ 門の仏 様に、ふかぶかと頭 ほとけ さま 来る人の数は、一日に六百 人 にもなった。 をさげると、おとみは、急いで かえ ﹁おはようごぜえます。﹂ 帰った 。 おもて ど 庫 裡の表 戸をあけて、おと 家につくとす ぐ 、だ んご作 り みが入ると、 り を は じめた 。毎 日やってい く ﹁ あ あ 、お は よ う 。おとみさ る 仕 事でも 、きょう はお 寺へ ごと はいつも はやいな あ 。﹂ 店 を 出 すことが決まったこと ねが し ﹁ お し ょ う さ ま 。き ょ う は で、 心が明るかった 。その手は さま まる き お 願いが あって き ま し た 。 早 く 、五 、六 個のだ んごが 一 ろっ こ お しょう 様 んとこの門 で 、 ぺんに丸めら れ た 。 や ご 焼 き だ ん ご を 売 ら せて も だ ん ごは 、 いつも よ り二か じ もん ぜん きゅうがえ ら えませ んやろか。﹂ せい がん ごも 多 く 作った 。 誓 願 寺の門 前は、灸 帰 りの ﹁ふうん、ええことを思いつき な さった な あ 。そ りゃえ え ︵つづく︶ 人でにぎ わった 。 あじ こっち ゃ 。ど う ぞ 売 り な や さい。焼 き だ ん ごの味 でお 19 平成27年4月1日■第1055号
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