主イエスのまなざしの中で生きる

先週講壇
たはイエスという方を誰だと思っているのか、
主イエスのまなざしの中で生きる
ということです。
2015年11月8日夕礼拝
Ⅱ.自分の義さがイエスを殺す
関伸子副牧師
私たちの毎日の生活、毎日の何気ない言葉、
創世記12章1~9節
ヨハネによる福音書8章48~59節
何気ないしぐさ、私たちの小さなわざにおいて
Ⅰ.イエスという方を誰だと思っているか
今日与えられているみ言葉は、ヨハネによる
福音書8章の最後の部分です。これは、7章の
初めから続いている部分がここでようやく終
わる、と読むことができるところです。7章に
明記されていますが、仮庵祭、当時のユダヤの
人びとの祭りの中では最も大きな祭りとも言
われる祭りが行われました。その時に主イエス
がエルサレムにお入りになり、「ユダヤ人」と
ここで呼ばれている、31節では、主イエスの
言葉を聞いて「イエスを信じた人々」と語り合
っておられる、その部分の結びです。しかもこ
の結びは、このような文章で終わります。「す
ると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエス
に投げつけようとした。しかし、イエスは身を
隠して、神殿の境内から出て行かれた。
」
私たち信仰者がいつも問わなければならない
こと、またここで、いったいキリストを信じる
とはどういうことなのかと問い続けておられ
る方たちが、明確にわきまえなければならない
こと、それは主イエスが十字架につけられて殺
されたのはなぜであったかということです。
この人がなぜ殺されたか、それが頻繁に問わ
れるのは推理ドラマの世界でしょう。それと同
じように、ここでそのことを私たちは明確に、
しかも推理小説よりももっと厳しい形で問わ
なければなりません。なぜ殺されたかが大きな
も、私たちがイエスについてどんな判断を下し
ているか、どんな裁きをしているか。そのこと
が絶えず問われるのです。イエスを殺すという
ことは自分が正しいということを意味し、その
自分の義さはイエスを殺さなければ貫かれな
いような正しさだとわきまえるということで
す。主イエスを殺した人びと、殺意を抱いた人
びとは悪人ではありませんでした。むしろ逆で
あったと言ってもよいと思います。48節に、
「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪
霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然
ではないか』と言い返すと」とあります。ここ
に既にユダヤ人たちの判決の基礎が現れてき
ます。主イエスは排除して構わない。われわれ
の仲間から除け者にしてもかまわない。これは
むしろ当然の正しいことだ。なぜかというと、
このイエスという男は、まず第一にサマリア人
である。サマリア人はもともと同じ神の国イス
ラエルに属していましたけれども、長い歴史の
中で民族が分裂し、その民族の分裂に、信仰の
対立が混じり込み、また民族の純潔を汚した、
汚さないという罪の問題まで入り込み、サマリ
ア人とユダヤ人との間に抜き差しならない対
立が生じました。兄弟がここでは憎しみ合って
います。この憎しみを超える愛を、主イエスは、
ルカによる福音書10章の、「善いサマリア人」
の譬えを語ってお求めになりました。
Ⅲ.「わたしはある」
問いです。手に石を持ったということは、〈裁
さまざまな事柄を飛ばして最後に進んで、な
きのしるし〉です。裁くというのは判断すると
ぜユダヤ人たちが石を最後に取り上げたかと
いうことです。ユダヤ人たちが繰り返して問わ
いう直後のきっかけになったのは、58節の主
なければならなかったのは、たとえば53節の
イエスの言葉と思われます。「はっきり言って
最後の言葉で言うと、「あなたは自分を何者だ
おく。アブラハムが生まれる前から、『わたし
と思っているのか」とあるように、いったいイ
はある。
』
」この「わたしはある」という言葉は、
エスという男は誰かということでした。私たち
仮庵祭が神の民イスラエルのエジプト脱出の
も絶えず信仰において問われているのは、あな
出来事でしたが、そのときの指導者になったモ
ーセが神に呼び出された時、神がモーセにお告
という言葉です。これは「見守る」という意味
げになった神ご自身の名前でもあります。「わ
の言葉です。大事にする、そういう意味で見守
たしはある」と主イエスが言われることは、直
るのです。わたしの言葉にじっと目を注ぐ。こ
ちにユダヤ人に、この主なる神の名を思い起こ
れを重んじて目を注ぐ者は「決して」、これも
させるものでした。だからこのガリラヤ出身の
あえて言うならば「永遠に」ということです。
イエスという男が「わたしは神だ」と言い張っ
永遠に死を見ないということです。
たと聞き取ったことは間違いないことです。ユ
ここでの「見る」という言葉は重い意味があ
ダヤ人は信仰について熱心でした。だからこの
ります。「見る」という言葉が軽く使われるこ
イエスという男の存在を許すことができなか
ともあります。ただ見ているだけ、ただ眺めて
った。しかし、まさにここに私たちの信仰の急
いるだけでは駄目だということが語られるこ
所があります。私たちの信仰はまさに、この主
ともあります。けれども〈見る〉ということが
イエスにおいて神を見る。この主イエスこそ神
重い意味を持つこともあります。英語で人に会
だとよぶことができるようになる。そこに信仰
った時の挨拶に nice to meet you という言
が成り立ちます。
葉がありますが、それを nice to see you と
ある人がこのところについてこういうことを
いう言葉でも言います。「あなたを見ることは
言いました。「主イエスはここで神の審きの座
すてきなことだ」と言う。他の国の言葉にも同
の前に立つ。このイエスを人びとが裁いて死に
じような表現があります。
定めている」。簡潔な言葉ですけれども、私は
主はアブラハムについてお語りになりました。
ここに主イエスにおいて何が起こったかとい
人びとはあっけにとられました。アブラハムと
うことをよく言い表している言葉があると思
親しそうなことを言い、アブラハムがあなたの
います。しかも54、55節を読むとこう記さ
日を見た、と言うけれどもアブラハムはとっく
れています。「あなたたちはこの方について、
に死んでここにいないではないか。それともア
『我々の神だ』と言っている。あなたたちはそ
ブラハムが、何千年も前に彼が地上に生きたと
の方を知らないが、わたしは知っている。~
きにあなたに遭ったというのか。それにしては
わたしはその方を知っており、その言葉を守っ
あなたはまだ50歳にもなっていないではな
ている。」言い換えれば、神の前に立っている
いか。どうしてそんなことが可能なのかと問う
主イエスを、人びとが神の名において裁いてい
時に、イエスが先ほどの言葉を言われたのです。
る。しかしこれは偽りによる裁きだ、と言うの
「アブラハムが生まれる前から、『わたしはあ
です。
る。』
」アブラハムと共に在り、アブラハムに救
Ⅳ.主を仰ぎ見る
このことと合わせてもうひとつ大切だと思
うことがあります。48節から59節までに
「見る」という意味の言葉が、数えていくと三
種類ありますけれども、原文のギリシア語では、
何度も繰り返して出て来ることです。たとえば
51節、「わたしの言葉を守るなら、その人は
決して死ぬことがない。」口語訳の聖書は今の
言葉の後半を「いつまでも死を見ることがな
い」と訳していました。「死ぬことがない」と
いうのは、原文では「死を見ない」という言葉
です。それだけではなくて、その前の「わたし
の言葉を守る」という言葉も、やはり「見る」
いの約束を成就してくださった神と共に主イ
エスは既に働いておられる。そして忘れてはな
らない、この〈まなざし〉の中で私たちも捕ら
えられている。私たちももう主イエスにお会い
している。アブラハムの時代にアブラハムに会
ってくださったイエスは、今ここで私たちに会
っていてくださる。主イエスのまなざしの中で
愛する者を葬る。この事のゆえにのみ、私たち
は平安の内に兄弟姉妹たちの葬儀を執行する
ことができるし、私たちもまた自分たちの最後
を見ながら、私たちも主を仰ぎ見ながら、死を
味わうことはないと、平安の内に日々を生きる
ことができるのです。お祈りをいたします。