平成27年度 かごしま近代文学館企画展 概要 1 企画展名 第 30 回国民文化祭・かごしま 2015 開催記念 かごしま近代文学館企画展「向田邦子と久世光彦~面白半分、真剣半分」 2 趣旨 脚本家・向田邦子と演出家・久世光彦。本展は、ドラマ「寺内貫太郎一家」 「時間です よ」など数々の名作ドラマを手掛けた 2 人の足跡をたどる企画展。 向田と久世の生涯をたどりながら、それぞれのドラマや小説、エッセイを直筆原稿や 台本などの資料で紹介する。 3 会期 平成 27 年 10 月 28 日(水)~11 月 30 日(月)※予定 4 休館日 火曜日(11 月 3 日は開館、翌日は休館) 5 開館時間 9時30分~18時(入館は17時30分まで) 6 会場 かごしま近代文学館 常設展示室2階、 「向田邦子の世界」展示室 7 観覧料 大人 300(240)円、小・中学生 150 円(120 円) ※( )内は 20 名以上の団体料金。常設展示もご覧いただけます。 ※年間パスポートもご利用いただけます。 8 構成案、主な展示作品 下記、括弧内のとおり 【1.出会いまで】 脚本家・向田邦子(昭和 4 年)と演出家・久世光彦(昭和 10 年) 。二人とも東京生ま れで、父の仕事の関係で転校を繰り返しました。ここでは、幼少期から二人が仕事で出 会うまでをそれぞれ紹介します。 「昭和初期の東京生まれで、お互いに映画と本が大好きな少年少女でしたし、父親が買 い込んできた本を読みあさったり、小学校を四、五回も転校したりとか。だからでしょ うか、あの人とは説明不要の共有した皮膚感覚といったものが、確かにあったような気 がします。嗅いだ匂いや聞いた音楽、共通の感覚的な記憶があったというだけで、なに かいい気持ちになれました。 」 (久世光彦「いきいき」1996 年 9 月) 向田邦子(1929.11.28~1981.8.22) ●幼少期から編集者まで 父・敏雄と母・せいの間に長女として生まれました。父親の仕事の関係で関東近辺、 鹿児島、高松、仙台と様々な地を巡った向田。最終的には、東京の地に落ち着きます。 目黒高等女学校から実践女子専門学校(現・実践女子大学)を卒業。卒業後は、財政 文化社の社長秘書を務め、その後、雄鶏社に入社します。雑誌「映画ストーリー」編 集部として活躍。それから、フリーライターの道を歩み始め、ラジオ脚本、ドラマ脚 本を手掛けます。 〈展示資料〉 ・幼少期からフリーライターまでの写真(家族写真) ・小学校時代の賞状など。 久世光彦(1935.4.19~2006.3.2) ●幼少期から演出家デビューまで 久世は、1935(昭和 10)年に職業軍人だった父・弥三吉と母・ナヲの間に三男とし て生まれました。父の転勤、学童強制疎開のため、札幌や富山に住まいを移します。 札幌時代は、小学校だけでも、5 回転校を繰り返しました。富山南部高校(現・富山高 校)から予備校を経て東京大学に進学します。学生時代は、演劇サークルを立ち上げ ました。大学卒業後、KRテレビ(現 TBS)に入社します。 〈展示資料〉 ・幼少期からTBS入社までの写真(家族写真) ・東京大学受験に失敗した際「遺書にかえて」と書かれた手帖 ・ 「泥棒たちの舞踏会」パンフ など 【2.交錯(1964 年~1970 年)】 1964(昭和 39)年、向田邦子 35 歳、久世光彦 29 歳。初めて仕事で共演したのは、ドラ マ「七人の孫」でした。俳優・森繁久彌が脚本家の一人に加えてほしいと向田を紹介しま す。 「向田さんとはじめて会ったのは、昭和三十九年の秋だった。 「七人の孫」のリハーサル室 へ、森繁さんに連れられてやってきた。転校生みたいに、ちょっと構えて、思いつめた顔 だった。森繁さんが冗談を言っても、ニコリともしない。三十四歳の頭のいいインテリだ と森繁さんは言う。私の苦手なタイプである。 」(久世光彦「夏の命日」 『大遺言書』) この時、向田は、すでにラジオ台本といくつかのテレビ台本を手掛けていました。しかし、 久世に見せた「七人の孫」の台本は、不思議な本でした。 「-私は呆気にとられた。それから腕組みして考えた。何しろ敵はインテリである。もし やこれは<アヴァンギャルド>ではあるまいか?」 (久世光彦「夏の命日」『大遺言書』) 奇妙な台本を目の前に、久世は向田の担当として台本の書き方を教えます。そして、担 当した第 6 回「無断駐車お断り」が放映されました。そして、この出会いがきっかけとな り、記憶に残るドラマを次々に生み出していくことになります。 〈展示資料〉 ・ドラマ「七人の孫」新聞切抜記事 ・原稿「日曜八時笑っていただきます」など 【3. おもちゃ箱の中身】 「テレビの世界で一緒に遊んだだけなんですよ。半ズボンの男の子と可愛らしいスカート をはいた幼なじみの近所の邦子ちゃん、といった感じかな。だから仕事していても楽しか ったですね。気心は知れているし、どこか自分が手がけて弟子みたいなところがありま したから。まあ、あっという間に追い越されて、先生になっちゃったけれど。」 (久世光彦「向田邦子と『もう一度、話したい』」 「向田邦子と旅する」 ) 「悪い意味じゃなく、僕たちにとってテレビはおもちゃ箱だった。僕も向田さんも、テー マとか何とか言う前にそこで遊んでいたんです。」 (久世光彦「向田ドラマは終らない」「放送文化」2001 年) 1970 年から 73 年にかけて放送されたドラマ「時間ですよ」。銭湯屋が舞台という今では なじみが薄い設定で、当時の時代を感じることができます。久世は、演出を担当。向田は 9 本の脚本を執筆します。そして、1974(昭和 49)年には、ドラマ「寺内貫太郎一家」が人 気となり、平均30%という人気ドラマとなりました。翌年にはパート 2 も制作されます。 現在よりも、放送に対する規制がゆるやかな時代に作られ、向田と久世は楽しみながら 作っていました。 1974(昭和 49)年、ドラマ「寺内貫太郎一家」が終了した 7 日後には「時間ですよ 昭 和元年」の放送が始まります。本作は、向田の熱意がこめられたものでした。 「寺内貫太郎一家パート2」の最終回近く、向田は乳がんになります。彼女は、入院・ 手術が必要となり、最終回の台本を久世に託しました。久世は、林紫乃というペンネーム で、台本を執筆します。 〈展示資料〉 ・台本「時間ですよ」シリーズ ・台本「時間ですよ 昭和元年」 、企画書など 【4.古典に挑む】 1979(昭和 54)年に久世はTBSを退社し、カノックスを設立。設立第一作は、脚本を 向田が、演出を久世が担当した「源氏物語」でした。大作の古典を3時間内に収めました。 向田は、谷崎源氏を底本として脚本を書きます。この 2 人がコンビを組んだ最後の作品と なります。 〈展示資料〉 ・ドラマ「源氏物語」台本、原稿、ビデオテープ、谷崎源氏本、制作現場写真 など 【5.向田、久世それぞれの活躍】 向田は、ドラマ「寺内貫太郎一家」のようなコメディタッチな内容からシリアスな落ち 着いたドラマへと移行します。「家族熱」、「冬の運動会」、「阿修羅のごとく」、「あ・うん」 「幸福」と家族の抱える闇の深淵を描き出しました。 「テレビ(ドラマ)は、せりふは役者に、ト書きはディレクターにあげるもの、そうし た要案の掛け算で、ライターはしょせんその掛け算の数字の一つに過ぎない。そのための もどかしさも感じますよ、それは。 」 (1979(昭和54年)3月6日 日本経済新聞) ドラマは一人で作るものではなく、多くの人々との共同作品となります。そのため、向 田は複雑の心境を抱えていました。 一方、久世は、ドラマ「寺内貫太郎一家」以降、 「悪魔のようなあいつ」 、 「さくらの唄」、 「ムー」 、 「ムー一族」、 「源氏物語」 、「虹子の冒険」、「春が来た」、「時間ですよふたたび」 などを制作します。 また、二人は、それぞれ小説、エッセイも手掛けるようになります。小説において、向 田は丁寧な構想メモは残さず、逆に久世は、緻密な創作メモを作っていました。また、両 者に共通するのは、現在は失われつつある日本語にこだわり、言葉に対して意識しながら 書いていたことがわかります。 「文章を書く場合もそうですが、テレビの会話を考えるときも、日常の会話をそのまま書 けばリアリティは出ますが、言葉とは、もっと肌理細かなもののはずです。 (中略)今は使 わなくなってしまった昔の言い回しを、大切にできる人でした。」(久世光彦「いきいき」 1996 年 9 月) 〈展示資料〉 ・それぞれの原稿 ・創作ノート、創作メモ ・それぞれの作品紹介(作家、ドラマ) ・直木賞受賞おめでとうの手紙(カノックス) など 【6.母・せいへ】 向田は、1981(昭和 56)年、台湾旅行中に飛行機事故で亡くなります。彼女が亡くなっ た後、久世は新春スペシャルを作ることを決意します。1985(昭和 60)年、「お母さんに 喜んで貰えるドラマを一生懸命、みんなで作る所存です。楽しみにしていて下さい。」と向 田の母・せいに手紙を送り、原作使用の許可を得ます。久世を中心に新春スペシャルシリ ーズの制作が始まります。16 年の間に、向田原作のドラマを 30 本作りました。 「残された作品は限られているが、向田さんの魂というか志だけは忘れないようにしよう と、心がけています」 「向田ドラマが本来持っていた明るい部分をどう出すかが毎年の課題です。どんな暗い話 を書いても、向田ドラマの会話のやりとりはおもしろい。明るいからより悲しい。それが 向田ドラマだと思います。 」 ( 『向田邦子テレビドラマ全仕事 完全版 向田邦子』) 〈展示資料〉 ・向田せい宛 手紙 ・台本、最後の演出台本など 【7.恋文の相談】 「ちょうど、久世光彦さんから「NHKでドキュメンタリーをやるんだけど、何か新し いものはないですか」と言われて調べていた時でした。三年、五年で向田がこのまま作家 として消えてしまっていたら、公表しなかった。でも十年経って、まだ読まれたりしてい るということは、生きざまとして、本人が望むとか望まないではなく、どういう形であれ、 捨ててこなかったことに意味があるのかなと私は思ったんです。こういう生き様があるか ら、こういうものを書いたということも、何か一つのきっかけになるかもしれない。どう していいかわからなくなって、久世さんに「こういうものがあるんですが、物を書く立場 としてはいかがでしょうか」と伺うと、「やっぱり、公表するべきだと、僕は思いますよ」 と言われました。 (講演 向田和子×出久根達郎 『向田邦子の恋文』・・・・・妹の力) 向田の恋文が見つかり、妹・和子から相談を受けた久世。 「公表すべき」と助言し、その 恋文をもとにドキュメンタリーを制作。これまで明かされなかった向田の恋に焦点が当て られました。そして、その恋文を題材にしたドラマも作られます。 〈展示資料〉 ・ドラマ「向田邦子の恋文」台本など 【8.突然の別れ】 久世は、2006年(平成18年)3月2日、世田谷区内の自宅にて享年70歳で亡く なります。あまりにも突然の別れでした。 〈展示資料〉 ・連載していた原稿など 【9.記憶】 戦前、戦中、戦後を生きた向田と久世。二人の作品は、現在、 「昭和」という言葉と共に 語られることが多いです。しかし、昭和を身近に感じる者と遠くに感じる者が混在する今、 「失われた時」は多様になっています。 「ごくたまに、三年前に描いたドラマのシーンやセリフを忘れない方がおいでになった としたら、これは奇跡と思った方がいい。」(「胃袋」『女の人差し指』) 多くのドラマは瞬く間に人々の記憶から消えていきます。向田の死後、終戦シリーズを 作り続けた久世も、自分たちが愛し続けた世界が過去になることを知っていました。 「 (中略)-ともすれば、ノスタルジーだけに見られがちだが、私たちがこのシリーズで 描きたかったのは、そうした暗さと寒さの中で、精一杯燃えようとした《人の気持ち》だ ったのである。 明治でもなく、大正でもなく、歴史の上では曖昧な昭和十年代の《あのころ》が再現さ れることは、もうないかもしれない。新しい世紀がやってきて、 《あのころ》は急速に遠退 いていくようである。そうしてやがて、 《あのころ》に愛着を抱く世代も少なくなっていく。 -誰か、 《あのころ》を語り継いでくれる人はいないものか。」 (久世光彦 「《向田ドラマ》の十六年」 『歳月なんてものは』) めまぐるしく変化する時代に、二人の愛した郷愁の世界を探すことは容易ではないのか もしれません。 9 関連イベント (1) 講演会「テレビの未来~向田と久世の遊び心から」 (仮) 講 師 中園ミホ(脚本家 第 31 回向田邦子賞受賞者) 日 時 11 月 23 日(月)14 時~(仮) 場 所 かごしま近代文学館 文学ホール 定 員 200 名(超えたら抽選) 申込み 往復はがきかメールに住所、氏名、年齢、電話番号、参加人数を書いて 下記にお申込みください。 〒892-0853 鹿児島市城山町 5-1 かごしま近代文学館「中園ミホ講演会」係まで。 メールアドレス [email protected]
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