展示品解説 - 慶應義塾大学文学部古文書室

文学部古文書室展Ⅲ
[文学部創設 125 年記念企画]
幕末を記録する
二条家文書の世界
展示品解説
慶應義塾大学アート・スペース
2015 年 10 月 5 日(月)~10 月 23 日(金)
文学部古文書室展Ⅲ
一昨年、初めて開催した文学部古文書室展Ⅰでは、「野村兼太郎収集資料の世界」
として、本室所蔵史料の中心を占める農村関係文書主体の展示会を、そして昨年の文学
部古文書室展Ⅱでは、「「武」を記録する」として、武家関係文書を中心に展示会を行って
きました。本室所蔵の基本的な史料を紹介することを目的に据えた、展示品も 20 点に満た
ないごくささやかな試みに過ぎませんでしたが、幸い、学生、教職員、一般の方も含め、多く
の皆様にご来場いただくことができました。
今回は、五摂家の一角を占め、天皇の即位儀礼のひとつである即位灌頂の秘儀を
代々執行するとともに、幕末期には公武合体派公家として独特な役割を演じた二条家の
文書を中心に、展示会を開催することにいたしました。
本室所蔵の二条家文書は、家臣たちにより毎日書き継がれてきた役務上の日記・記録
類約 1,300 冊と、その他の一紙類約 1,000 点など都合 2,300 点ほどになり、時代的には文
化文政期以降、幕末から明治初頭のものが大部分を占めています。残念ながら、虫損な
どのために開くことすらままならないものや、一部が欠損している冊子類も少なくありませんが、
今回はその中から「幕末を記録する」というサブタイトルを付け、幕末期を象徴するいくつかの
出来事を選び、その関連史料を展示します。
孝明天皇の厚い信頼を受けつつ、将軍家茂や慶喜、京都守護職松平容保などと密
接な交流を持ち続けたことで知られる二条家当主斉敬をめぐる記録を通じて、広汎な公家
の活動のごく一部に過ぎませんが、二条家と朝廷や幕府、大名や百姓一揆の指導者との
関わりについて、実際の史料を御覧いただきながら想像していただければ幸いです。
慶應義塾大学文学部古文書室
スタッフ
柳田利夫・倉田敬子
重田麻紀・山本晶子・須藤遼・久光翔
外部協力者
浜中邦広・吉江崇
倉持隆・中村佳史・木野涼
慶應義塾大学文学部古文書室展Ⅲ 幕末を記録する―二条家文書の世界
展示資料一覧
資
料
名
法
量
年
代
1 御側日記
23.0×16.6cm
弘化 3(1846)年~安政 6(1859)年
2 雑日記
23.2×16.4cm
天保 15(1844)年~安政 4(1857)年
3 御用申送日記
24.3×17.2cm
文政 7(1824)年~天保 10(1839)年
4 日記
23.0×16.7cm
安政 7(1860)年 1 月~文久 3(1863)年 12 月
5 銅駝坊日次記・二条家記
24.0×16.6cm
明治 6(1873)年 1 月~明治 7(1874)年 12 月
6 剪紙届書留
23.3×16.6cm
安政 3(1856)年 1 月~安政 5(1858)年 12 月
7 御給禄調帳・御扶持方調帳(合冊)
24.2×17.2cm
嘉永 5(1852)年 1 月~万延元(1860)年 12 月
8 御進物御往来留
33.2×11.6cm
嘉永 7(1854)年 1 月~安政 4(1857)年 12 月
9 元方金銀出納帳
33.1×11.8cm
安政 4(1857)年 1 月~安政 6(1859)年 12 月
10 金銀引渡帳
17.3×12.2cm
安政 4(1857)年 7 月~安政 6(1859)年 12 月
11 銭出入勘定帳
23.1×16.7cm
安政 4(1857)年 1 月~安政 6(1859)年 12 月
12 御側日記(和宮内親王宣下)
22.8×16.4cm
文久元(1861)年 4 月 19 日
13 御側日記(和宮降嫁)
22.8×16.6cm
文久元(1861)年 10 月 18 日
14 元方金銀出納帳(和宮降嫁)
11.5×34.8cm
文久元(1861)年 10 月 18 日
15 御側日記(家茂二条邸訪問)
23.1×16.6cm
元治元(1864)年 3 月 28 日
16 御側日記(蛤御門の変)
23.0×16.6cm
元治元(1864)年 7 月 19 日
17 御側日記(条約勅許)
23.1×16.2cm
慶應元(1865)年 9 月 25 日
18 御用申送日記(命助御家来列召加)
24.3×17.2cm
安政 4(1857)年閏 5 月 17 日
23.8×17.1cm
安政 4(1857)年閏 5 月 16/17 日
20 雑日記(命助永御暇)
23.0×16.7cm
安政 5(1858)年 5 月 15 日
21 元禄京師大絵図
201.5X305.5cm
元禄 14(1701)年頃
22 中古京師内外地図(写)
102.5X117.0cm
原本:寛延 3(1750)年初夏
23 増補再板京大絵図(乾)北山ヨリ南三条迠
93.0X125.0cm
寛保元(1741)年(延享 3(1746)年)
24 雲上明覧(下)
15.8×11.1cm
安政 3(1856)年
19
御家来列御館入御出入等願書親類書申
渡御請書等留(命助親類書)
展示資料 1
御側日記
弘化3(1846)年~文政 7(1860)年
御側席の家臣が作成した日記。安政期(1854-1860)には、10 人強から 20 人弱の御側席のうち、毎
日 3 人から 5 人の当番が御側に詰めていた。当番以外の者が臨時に加勢する加番、全員が詰める
惣詰なども見られる。記載内容は、来客にかかわる記録が中心で、御役所からの廻達の写、御側席
の役や給禄付与、御側席による寺社への代参などに関する記録などである。当主と来客の接見は、
邸内の「西湖の間」で行われたが、御側席が来客との会話に加わることはなく、「御側日記」から会談
の内容について知ることはできない。
展示資料 2
雑日記
天保 15(1844)年~安政 4(1857)年
勘定所で作成された日記。勘定所は家政組織のひとつで、主に二条家知行地からの年貢の管理、
連絡事務等を担っていた。安政 7(1860)年の例では、侍(岩佐主税)・御側席(関口監物)・御使番席
(上田正親)のうち 1 名が当番として「雑日記」の作成にあたっていたようである。
「雑日記」には、知行地諸村からの雑収入や献上品、庄屋・年寄からの願書の写しなどが書き留
められている。また、御役所からの廻達や触の写し、勘定所が直接処理にかかわった事項についての
記録などが記載されている。
展示資料 3
御用申送日記
文政 7(1824)年~天保 10(1839)年
二条家の家政を統括する役割を担っていた御役所の当番が、日々の勤務における申し送り事項を
記した日記。御役所は、侍席・御用人・叙位御医師・御用人格などの上位家臣により構成されている。
嘉永 4(1851)年の例では、毎日当番は 1 人で、日により臨時の加番の例も見られる。
「御用申送日記」には、御家来列召加えなどにかかわる事項、摂家に対する進物の情報など種々
の記録が見られる。なお、他の日記類とは異なり、竪帳で作成された時期と、横半帳で作成された時
期とが存在する。
展示資料 4
日記
安政 7(1860)年 1 月~文久 3(1863)年 12 月
二条家の家政を統括する役割を担っていた御役所作成の日記。御役所は、侍席・御用人・叙位
御医師・御用人格の上位家臣により構成される。安政 7(1860)年の「日記」では、毎日当番 1 名と加
番数人で勤務し、日によっては宿番も加わったようである。二条家当主と家臣との接見、家臣が季節
行事や神事へ参加し寺社に献上をしている様子などが記録されている。維新後の二条家東京移住
以降も、「御別邸役所日記」として書き継がれている。
文久 3(1863)年 7 月 7 日条には、七夕の次第や調進物等が絵入りで記されている。七夕は宮中行
事として平安時代頃から始まったとされる。展示部分に「梶の葉七枚」「芋の露」などとあるが、宮中で
は芋の露ですった墨で梶の葉に和歌を書き供えたという。七夕が広く庶民に広まるのは江戸時代に五
節供のひとつとして定められて以降のことであるが、短冊に願い事を書き笹竹に結びつけるという風習
は、こうした公家の慣例に由来する。
展示資料 5
銅駝坊日次記・二条家記
明治 6(1873)年 1 月~明治 7(1874)年 12 月
二条家の東京移住以降に書かれた日記。京都の二条家別邸では展示資料 4 で紹介した「日記」
が「御別邸役所日記」として書き継がれているが、「銅駝坊日次記(二条家記)」は東京の牛込津久
戸前町(現:東京都新宿区)の屋敷で作成されたものである。当主や家族の行動、旧公家層の動向、
来客記録などが主な記載内容である。
明治 6(1873)年 4 月 7 日条には、九条尚忠(1798−1871)の 8 男で二条斉敬(1816−1878)の養子とな
っていた二条基弘(1859−1928)の中学校入校証書が書き写されている。前年 8 月に学制が発布され、
近代的な学校教育制度が動き始めた時期でもあった。初代文部卿として有名な大木喬任(1832−
1899)の名も見ることができる。
展示資料 6
剪紙届書留
安政 3(1856)年 1 月~安政 5(1858)年 12 月
二条家を含む公家諸家とその家臣、寺社などに対する位階の叙任・叙法印の宣旨を、年次毎にま
とめて書き留めた記録。
安政 5 年 10 月 24 日条には、徳川慶福(1846-1866)が正二位に叙されたことが記されている。翌 25
日に慶福は名を家茂と改め、内大臣に任ぜられ、第 14 代将軍に就任した。これらについての記載もま
た、本資料中に見る事ができる。なお、江戸での将軍宣下のための使節として東向したのは、当時まだ
強硬な攘夷論者で、大老井伊直弼から接見を拒否され、安政の大獄で 10 日の「慎」を命じられること
になる二条家当主斉敬(1816-1878)であった。
展示資料 7
御給禄調帳・御扶持方調帳(合冊)
嘉永 5(1852)年 1 月~万延元(1860)年 12 月
御役所により作成・管理されていた、諸大夫以下家臣の給禄および扶持の台帳。年間 4 冊(盆暮
の給禄、正月から 6 月、7 月から 12 月までの扶持)作成され、数年分が合冊されている。給禄(扶持)
高・家臣名の記載の上部に二条家の印である「銅」の印が捺され、受領した際には、家臣本人による
受領印が下部に捺された。本人が受領できない場合には、代理で受け取った家臣等の名前・印が捺
されるか、後日受取証文が役所に対して提出され、本資料にその証文が挟み込まれた。
嘉永 7(1854)年盆の給禄帳の例では、展示資料 18~20 で紹介する命助(1820-1864)を二条家家
臣に加える際に吹挙人となった御使番席・関口監物はじめ 8 名の家臣名と給禄が記されている。この
うち、関口を含む 5 名については本人による受領印が捺されているが、御使番席・高嶋右衛門の左下
には「代 弾正」と記され、御側席の入江此面と倉橋斎宮については本人の捺印も代理印も見られな
い。
展示資料 8
御進物御往来留
嘉永 7(1854)年 1 月~安政 4(1857)年 12 月
御役所における進物の出入り記録で、冊子の前半に出、後半に入がまとめて記載されている。出
入りともに、宛先(受領先)・品目・数・事由が日付順に列記されており、出は、御所への年頭献上、
武家からの年頭献上に対する返礼、所司代への御見舞いなど、入は、年頭献上、寺社からの札や
お守りの献上、御館入り許可に対する御礼などがある。取り交わされた品目は、年中行事に付随する
儀礼的・形式的なものから、花や菓子、四季折々の産物まで多種多様で、二条家と公家・武家・家
臣・寺社・商人・家領の村々などとの間で、広範な進物のやりとりが行われていた。
年末 12 月 27 日条には、歳末御祝儀として、空也堂極楽院から王服茶筅が 5 つ上納されている。
竹串で茶筅を差し立てた藁のツトが描かれた挿し絵が添えられているが、かつては京都の年末風物詩
の一つであった瓢箪叩きの空也堂念仏者による茶筅売りの様子を髣髴とさせる。王(皇)服茶筅と名
付けられ、禁裏御所へ献上ともあり、被差別諸芸能者と朝廷・公家との関わりの一端をうかがわせる。
展示資料 9
元方金銀出納(出入)帳
安政 4(1857)年 1 月~安政 6(1859)年 12 月
御役所により作成された、御役所における金銀の出入りを記した台帳である。冊子の前半に入、後
半に出がそれぞれ日付順に記載されている。収入は、武家・家臣・家領の村からの祝儀・御礼、家
臣・寺社・郷士・町人・農民からの勅許・諸免許・館入家臣列認可などに対する礼金、商人・家臣等
からの借入金などである。支出については、家政運営上の諸掛、給金、借金の返済などである。展
示資料 10 の「金銀引渡帳」と全体の記載内容は一致するが、「金銀引渡帳」が実際の出入りの場に
おいて作成されたものであるのに対して、こちらはそれをもとに、出入りに分けて改めてまとめられたものと
考えられる。
家茂将軍宣下の使いとして二条斉敬が京を出発する安政 5(1858)年 11 月 15 日前後には、そのた
めの資金の借入れや餞別などによる入金記事が並んでいる。8 日条には、江戸にも支店を持っていた
京都の両替商・伊勢屋藤兵衛から、江戸での返済を条件に 1,000 両もの大金の借り入れをした記録
を見る事ができる。
展示資料 10
金銀引渡帳
安政 4(1857)年 7 月~安政 6(1859)年 12 月
御役所における毎日の金銀出入りを記録した台帳。毎日冒頭に、元方から当番宛の出金額が記
された後、実際の金銀出入り額が事由とともに列記されている。出金の項目には勘定所に渡された必
要経費もみられる。内容は、実質的に展示資料 9 の「元方金銀出納(出入)帳」と同じであり、実際の
金銀出入り事務が執り行われた現場で作成され、これをもとに 9 がまとめられたと考えられる。
井伊直弼が大老職に就いて間もない、安政 5(1858)年 5 月 15 日条には、直弼の懐刀と呼ばれ安
政の大獄を差配したといわれる長野義言(主膳)を仲介に、長野が開いた江州志賀谷村(現:滋賀県
米原市志賀谷)の国学塾高尚館の門人達 8 名が二条家の御門入認可の礼金として 4 両を納め、
そのうち 2 両が御役所に入金された記録が見られる。長野自身もこの日、二条家に御肴料と
して金 2 分を献上している。勅願寺や俳諧師匠、諸物売り捌き御用に対する認可などはごくありふれ
たことであったが、高尚館の例は、二条家にとって初めての古学(国学)御門入許可であったという。
展示資料 11
銭出入勘定帳
安政 4(1857)年 1 月~安政 6(1859)年 12 月
勘定所における毎日の収支管理の記録。安政 5(1858)年の記録によると、御役所より数日ごとに必
要経費が渡されていたことや、御神酒代、初穂料といった様々な支出が詳細に記されている。収入に
ついても知行地諸村からの献上金や、下賜した扇子の代金などまで克明に記されており、勘定所はこ
れら収入の多くを御役所経由で受け取っていた。
「銭出入勘定帳」は、虫喰い・フケ・カビなどにより全体的に保存状態が悪く、板状になり開披できな
いものも少なくない。展示資料も、ごく一部を除いて開披・閲覧することができない状態である。
展示資料 12
和宮内親王宣下(御側日記)
文久元(1861)年 4 月 19 日
孝明天皇(1831-1867)の妹和宮(1846-1877)は、6 歳になる嘉永 4(1851)年に有栖川宮熾仁親
王(1835-1895)と婚約した。婚礼は万延元(1860)年と予定され、和宮は生家を出て桂宮邸に移
居するなど着々と準備が進められていた。
和宮は、仁孝天皇(1800-1846)の 15 子であったが、天皇の子女であっても、正式に内親王
を名乗るには宣下を要するという慣例があった。そのため、文久元年 4 月 19 日、内親王宣
下が執り行われ、名を親子(ちかこ)と賜り、皇女としての格式を有し降嫁の日を迎える
ことになった。この日、二条家当主、内大臣兼左大将の斉敬(1816-1878)は、3 名の諸大夫を
筆頭に 55 人もの家人を伴い参内している。のちに和宮に随行し、江戸に下ることになる隠岐肥後守も
斉敬に従った。
本学三田メディアセンター所蔵の「内々番所日記」にも、二月に予定されていた内親王宣下が一度
延引したことなど、和宮関連の記事を見る事ができる。
展示資料 13
和宮降嫁(御側日記)
文久元(1861)年 10 月 18 日
万延元(1860)年 10 月、和宮親子内親王(1846-1877)降嫁の勅許が出され、翌文久元年 20 日
和宮一行は京都を出立し、25 日の行程で中山道を通り江戸へと下向した。二条家からも最
上位の家臣である諸大夫の隠岐肥後守が、和宮の輿の前を進む 10 人の前駆諸大夫の 1 人と
して随行した。この行列を題材にした「絲毛御車行列並御役人付」などの刷物も多く出され、前駆諸
大夫の中に隠岐肥後守の名前を見る事ができる。
「御側日記」には、出立の 2 日前に、二条家当主斉敬(1816-1878)から隠岐肥後守が盃を賜
ったことが記録されている。その日は、諸大夫の 1 人である北大路大蔵権大輔も立ち会い、斉敬のもと
で陪膳を賜ったのち、衣類などが記載された餞別の目録が隠岐肥後守に渡されている。
和宮一行は、11 月 15 日に江戸へ到着し、12 月 11 日に江戸城本丸へ入輿、翌年 2 月 11 日
に和宮と 14 代将軍徳川家茂(1846-1866)の婚儀が執り行われた。
展示資料 14
和宮降嫁(元方金銀出納帳)
文久元(1861)年 10 月 18 日
和宮親子内親王(1846-1877)降嫁の一行には、二条家からも諸大夫である隠岐肥後守が随
行した。展示資料 13 には、二条家当主斉敬(1816-1878)から盃を賜ったことが記録されてい
るが、二条家の御役所が作成した本記録には、肥後守に対して餞別として金 1 分が贈られ
ていたことも記されている。関東への年頭の挨拶を兼ねる旨の記載もあり、恒例であった
二条家から江戸に向けた年頭使を兼務させていたことを知る事ができる。例えば、嘉永
4(1851)年の出納帳には、1 月晦日に、関東へ年頭の御使として出向く諸大夫の北小路摂津守
に対して盃と餞別が贈られ、費用として金 1 分が計上されている。
また、本資料 10 月 10 日条には、江戸より和宮を迎えるため上京している上臈の花園の表使である
村瀬ら女中たちへ渡した色紙などの代金なども計上されている。この他、大奥の天璋院への贈答品
の記録なども散見され、将軍家と二条家の関係をうかがうことができる。
展示資料 15
家茂二条邸訪問(御側日記)
元治元(1864)年 3 月 28 日
関白二条斉敬(1916-1878)の屋敷を 14 代将軍徳川家茂(1846-1866)が訪問したことを伝える
二条家「御側日記」である。文久 4(1864)年(2 月 20 日元治と改元)正月、徳川家茂は島津久
光(1817-1887)、松平春嶽(1828-1890)、伊達宗城(1818-1892)、徳川慶喜(1837-1913)、山内豊信
(1827-1872)、松平容保(1836-1893)により構成された参予会議を後援し、公武合体を推進する
ために上洛した。しかし、参予会議は横浜鎖港問題をめぐって紛糾、解散となった。朝廷
における公武合体派の中心人物であった二条斉敬邸を家茂が訪れたのは、折しもその時期
であった。五摂家とはいえ、一公家の屋敷を将軍が訪問するのは異例のことであり、幕府・
朝廷双方の政治的な思惑があったことは想像に難くない。日記中の「大樹(公)
」は征夷大
将軍の異称で徳川家茂を、
「御所様」は二条斉敬を指している。家茂は斉敬に導かれて松御
殿に赴き、饗応を受けた。松御殿には大老酒井忠績(1827-1895)、老中水野忠精(1833-1884)ら
の幕閣が従った。
展示資料 16
蛤御門の変(御側日記)
元治元(1864)年 7 月 19 日
元治元年 7 月 19 日早朝、尊王攘夷派の勢力挽回を図った長州軍と、京都を守る薩摩・会
津藩を中心とする公武合体派との軍事衝突である蛤御門の変(禁門の変)が勃発した。
「御
側日記」は、事件の一報を受けた一橋中納言(禁裏守衛総督一橋慶喜)(1837-1913)が一騎で
馳せ参じる場面から始まる。非常の事態に備え二条家においても警護が固められていく中、
ついに中立売御門・蛤御門などの宮門を突破した「防長之賊軍」
(長州軍)が「砲発」
。対
する「薩会之両軍」
(薩摩・会津の藩兵)が「賊徒ヲキル」とあり、激戦の展開が描かれる。
最終的には一橋中納言の命令で長州軍が立て籠っていた「鷹司殿」
(鷹司邸)に火が放たれ、
長州軍は「京極之街ニ敗走」する。戦いは 1 日で終わったが、京都の火災は 21 日まで続い
たという。なお、本日記 7 月 24 日条には、いわゆる長州征伐の朝命が、8 月 1 日条には、
伝奏衆からの長州残党差し出しの命令が、それぞれ二条家内で廻達されていたことが記録
されている。
展示資料 17
条約勅許・兵庫開港問題(御側日記)
慶應元(1865)年 9 月 25 日
安政 5(1858)年に日本と結んだ修好通商条約の勅許と兵庫の先期開港を求め、慶應元年 9
月 16 日、英・米・仏・蘭連合艦隊が兵庫沖に来航した。幕府は条約勅許と兵庫開港を朝廷
に奏請、朝廷内の議論は紛糾したが、禁裏守衛総督徳川慶喜(一橋中納言)(1837-1913)、京
都守護職松平容保(会津藩主、松平肥後守)(1836-1893)、京都所司代松平定敬(桑名藩主、
松平越中守)(1847-1908)が関白二条斉敬(1816-1878)らと協議した結果、条約のみ勅許という
判断が下された。
「御側日記」は、この条約勅許の前後、慶喜・容保・定敬がたびたび二条
邸を訪れる様子を伝えている。
「西湖之間」で対面、用談がなされ、終了すると酒肴が出さ
れるのが常であった。この日は用談中に黒川嘉兵衛が用談に加わる様子が記されている。
黒川は幕臣で、嘉永 7(1854)年アメリカ使節ペリーと事務折衝にあたった人物である。外国
交渉の経験者を交え、公武合体を主導した幕府・朝廷の中心人物が密接に語り合う様子がうかが
える史料である。
展示資料 18
三浦命助御家来列召加(御用申送日記)
安政 4(1857)年閏 5 月 16・17 日
南部三閉伊一揆主導者の一人と目されていた命助(1820-1864)は、仙台領での逃亡生活の
後、安政 3(1856)年末の京都滞在に続き、この年、二度目の上京を果たした。本資料閏 5
月 16 日条によれば、奥州仙台藤(遠)田郡南小牛田村住三浦命助と名乗った命助は、親
類書を添えた御家臣列差加願書を、吹挙人である御側席・御勘定役・関口監物を介して御
役所詰めの諸大夫野間左衛門尉に提出したこと、命助の願書は野間から内々番所の諸大夫
津幡陸奥守に差し出され程なく聞き届けられたこと、命助に対して翌日巳刻に御家臣列仰
付がなされる旨伝達されたこと、などを知る事ができる。展示した 17 日条では、二条邸
に出頭した命助に対して、諸大夫松波大炊頭が野間左衛門尉同席のもと御家来列召加を仰
せ渡したこと、同時に、小田原提灯・差絵符・人馬帳が下付され、命助は上納金 10 両を
支払ったことが記録されている。
命助の御家来列召し加えについては、
「御側日記」17 日条、御勘定所「雑日記」17 日
条、
「御家来御立入等願人名前帳」16 日条、本学三田メディアセンター所蔵「内々番所日
記」17 日条などにもそれぞれ記録が見られ、安政 4 年の「御家臣名前記」には未勤寄合
席に三浦命助の名前を確認することができる。また、
「元方金銀出納帳」17 日条、
「金銀
引渡帳」17 日条には、命助の上納金 10 両とその分配についての記録も残されている。
展示資料 19
三浦命助親類書
(御家来列御館入御出入等願書親類書申渡御請書等留)
安政 4(1857)年閏 5 月 16・17 日
本資料には、命助(1820-1864)から二条家御役人中へ提出された御家来列召加願書および
親類書とともに、命助への申し渡し、下げ渡し品等が一括して書き留められている。展示
資料 20 にあるように、翌安政 5(1858)年 5 月 15 日に永御暇となった旨が朱で追記され、本資
料の命助に関する記事全体が朱線で囲まれている。
なお、御勘定所「雑日記」の 18 日条には、二条家家来三浦命助が親類の大槌通栗林村百姓佐
馬之介方に逗留する旨の大村弾正(御使番席)・関口監物・大塚要人・入江伊織(以上御側席)4
名連署による森(盛)岡御城内御用人中宛て添え状が白木状箱に入れ与えられたことが記されている
が、横川良介が「内史略」で、「此箱の中何なるや不聞」と注記した、命助持参の封印された状箱の
中味はこの添状であったと考えてほぼ間違いないであろう。
また、「駄賃帳並船切手渡留」17 日条には、命助に下付された駄賃帳の割り印や、「帰国用意」
との注記を見る事ができる。逃亡の身であった命助が、二条家家来三浦命助として何よりもまず望んだ
ことは、故郷への帰村・逗留であった。二条家家紋下り藤の入った小田原提灯、二条家御用絵符は
それを保証してくれるものであるはずであった。
展示資料 20
三浦命助永御暇(雑日記)
安政 5(1858)年 5 月 15 日
7 月14 日、二条家御用の絵符を立て、二条家家臣と名乗り大小を差し、家来を引き連
れて堂々と平田の番所前を通過して盛岡藩領に入った命助(1820-1864)は、その晩宿で捕縛
される。三閉伊一揆の主導者で逃亡中の百姓命助を捕らえた南部盛岡藩は、一方で、盛岡
城中御用人宛の添状まで持参していた二条家家臣三浦命助を捕縛してしまったことになっ
た。所持品から、命助が確かに京都二条家の家来となっていたことを知った盛岡藩はその
処遇に困惑したものと思われる。本資料には、捕縛から 10 ヶ月ほど後、盛岡藩側の働きかけ
によって、命助が二条家から永の御暇を命ぜられるに至る経緯が記録されている。
上京した盛岡藩大坂留守居今渕定蔵(生没年不詳)は、命助の吹挙人であった関口監物を訪
ね、命助が盛岡藩領の者であり、犯罪者であることを訴えた。関口監物はその旨を内々番所に届け
出、その結果、「二條殿を相偽候段不埒之到」として、命助に対する永御暇が仰せつけられることにな
った。この日、二条邸に赴いた今渕定蔵に対し、命助へ永御暇を申し渡す旨の切紙が手交され、その
趣旨が関口監物より口頭で伝えられたと記録されている。
命助の永御暇については、「御側日記」15 日条、安政 5 年「御家臣名前記」、本学三田メディアセ
ンター所蔵「内々番所日記」安政 5 年 5 月 15 日条などにも記録をみることができる。
「獄中記」の言葉通り、「京との御家来にしかと罷成り相下」った命助は、盛岡藩からその後何等明
確な沙汰のないまま、7 年近くの獄中生活の後、文久 4(1864)年 2 月、栗林村百姓命助として牢死し
ている。
展示資料 21
元禄京師大絵図
元禄 14(1701)年頃
京都の町と周囲の山々を描いた彩色大絵図。江戸期京都の最盛期ともいわれる元禄期(16881704)の華美と精緻さが見て取れる。印記、墨記、原装袋はないが、幕府の畿内大工頭中井家で作
製、所蔵されていたと推定される。その後、中野家、野村兼太郎と所有者が変わったがその経緯につ
いての詳細は不明である。中央には京都市街地を主とする洛中を平面図で、周囲には山々と田畑を
主とする洛外を鳥瞰図で描いており、江戸時代の京都の都市化の進展と自然景観の変化を知るため
の資料としても注目されている。
慶長 16(1611)年、内裏改造にともない新在家町に与えられた代替地に移った二条邸は、万治
4(1661)年 1 月 15 日に邸内から出火し焼失。その後今出川通りの北、東福門院下屋敷を替え地とし
て与えられることになった。本図から、元禄期の今出川邸周辺の様子を見ることができる。
現在、同志社女子大学のキャンパスとなっている二条家今出川邸跡(常盤井殿町遺跡)では、平
成 19(2007)年 3 月から、同志社大学歴史資料館を中心に発掘作業が進められており、二条家家紋
(下り藤)の入った磁器や瓦などとともに、三つ葉葵紋の瓦や、二条家との関係が知られている尾形
乾山の銘がある陶器片などが発見されている。
展示資料 22
白州緒餘撰部 中古京師内外地図(写)
原本:寛延 3(1750)年初夏
展示資料の原本の作者森幸安(1701-?)は、京都高辻京極西茶磨屋町(現:京都市下京区)に生
まれ 20 歳ほどで伯父の香具屋を継ぎ御所にも出入りした。療養のため 10 年ほどで隠居した後は各地
を探訪し、そこで得た知見や既存の地誌を基に多くの地誌を作成した。寛延 2(1749)年頃から本格的
に地図の制作を開始している。
本図は古代から近世までの京都を表した多数の京都歴史地図(原本国立公文書館所蔵)のなか
の「皇州餘撰部 中古京師内外地図」の写本であり、中世から戦国末までの様子が描かれている。
展示資料は、歌人で国学者の小沢蘆庵(1723-1801)所蔵写本をもとに、妙法院宮御蔵本で校訂した
ものである。
二条家の祖良実(1216-1271)時代の二条富小路殿が「定家卿代々住ス二条地也」、鎌倉後期に
移った押小路烏丸殿が後に御池通りの名の起源となった龍躍池とともに「二条トノ下亭」として、更に、
二条東洞院には、「二条関白家後二条内裏」などの記載が見られる。その後二条邸は、法恩寺屋敷、
新在家町と移転し、江戸時代初頭に今出川邸に移り、そのまま幕末維新を迎えることになる。
展示資料 23
増補再板京大絵図(乾)北山ヨリ南三条迠
寛保元(1741)年(延享 3(1746)年)
林氏吉永は、江戸時代半ば京都洛中洛外を南北に二分した乾坤二舗からなる本図を刊行した。
展示資料はこのうちの乾図であり、三条通を境界とし京の町の北半分を描いている。坤図には「寛保
元年」とあるが、二条城の北にある京都所司代に寛保 2(1742)年 6 月に同職に任命される「牧野備後
守」の名が見られるなど齟齬があり、地図研究家の湯口誠一氏は本図と同じものを寛保 2・3 年板と比
定している。
「新撰増補京大絵図」(1686 年初版)など従前の林氏図は観光情報に力点が置かれ、縮尺の乱
れが激しかったが、本図ではそれらは修正されており、観光情報を充実させつつ実際の街並みに近付
けた精度の高い都市図となっている。
展示資料 24
雲上明覧大全(下)
安政 3(1856)年
「雲上明覧大全」は天保 8(1837)年に西本願寺の光徳府竹原好兵衛により刊行され、慶應 4(1868)
年まで補訂・刊行された朝廷・公家に関する名鑑(公家鏡)の代表的なものである。上・下 2 巻からな
り、皇族・公卿・門跡などの系譜や紋所・家禄・居所・菩提所などが記載されている。本資料には二
条家家紋(下り藤)とともに、家禄は「千七百八石余」、居所は「今出川北門一町東」(現同志社女子
大学今出川キャンパス)とある。また二条家当主斉敬(1816-1878)について「正二位 前将軍家斉公
御猶子」とあり、元服時に 11 代将軍徳川家斉(1773-1841)の偏諱を受け斉敬と称したことを示している。
これは系図に見られる二条満基(学者・連歌の大成者としても著名な二条良基(1320-1388)の
孫)(1383-1411)が室町幕府第 3 代将軍足利義満(1358-1408)より諱を一字受けて以来、室町時代・
江戸時代を通じ代々足利・徳川将軍より偏諱を受けることが二条家の慣例となったためである。諸大
夫・侍名も列記されており、後に和宮(1846-1877)に随行することになる隠岐肥後守の名も見られる。