箴 言 2015年 1期 京都、びわ湖、伊賀上野 第3課 生きるか死ぬかの問題 羅ヨンボン 1月17 日 はじめに どの社会や組織であってもそれぞれの規則(法)を持っています。どんなに小さな団体であってもルール があり、それを破るとそれにあたる罰が与えられるはずです。しかしそのルールを破ったとしても、もしば れなければ何の罰をも受けずに済むこともこの世ではありうる事です。箴言は私たちがとるすべての行動 は永遠の生死とつながる重要な要素だと示しています。 日曜日 私たちの生活における律法(箴 6:21、7:3) 箴言の教師は律法を私たちの心に書き記すように教えています(6:21、7:3)。これは単なる知的同意で はなく実際的な従順であることを強調するために「首」に巻きつけ、 「指」に結ぶように勧めています。昔 も今も同じく首と指は高い宝石を飾るところです。しかし箴言の教師は宝石よりもっと大切な神の御言葉 (戒め、律法)で首と指に飾るように勧めています。人の命に直結する「首」に律法を巻きつけることは律 法と私たちの命はつながっていることを意味すると同時に、律法を私たちの身近なものにすることをも意 味します。また律法を指に結ぶと言うことは、律法を私たちのすべての行動と選択の基準にすることです。 月曜日 光と命(箴 6:23、7:2) 箴言 6:23 では神の御言葉は「光」で表現されています。可視的世界で光が私たちの歩く道を照らすよう に、霊的世界では神の律法が私たちの歩むべき人生の道を照らしてくれます。箴言の教師はまた、神の御言 葉は「命」だと示しています(6:23,7:2) 。神の御言葉は罪人に命の道は「キリストへの信仰のみだ」と さし示しています。神の御言葉(律法)は、命への道はキリストであることを頻りに照らしています(ヨハ ネ 5:39) 。 火曜日 誘惑と戦う(箴 6:24) 神の律法が私たちを命へ導く光であることを箴言 6:24 ではもっと実際的に示しています。信仰生活を送 っている人にやってくる誘惑は「悪い女の滑らかな舌」のように来ます。信仰に対する真正面からの反対で なく、自分が犯してしまったちっぽけな過ちを正当化することから始まります。時として聖書の言葉を引っ 張り出してその罪の言い訳をしたくなる時もあるかもしれません。しかし神の御言葉を通して私たちは罪 を正当化するのではなく、罪に気づいて悔い改めるようになります。誘惑に立ち向かうことは律法によって 可能になります。 水曜日 「盗んではならない」(箴 6:24~35) 箴言 6:24~35 で箴言の著者は姦淫と盗みの罪について警告しています。神の律法は状況と立場次第で適 用の仕方が変わることはありません。間違った愛として姦淫が美化されるこの世であっても、姦淫は罪です。 刑法では盗んだ金額によって刑罰の重さが変わりますが、聖書はすべて同じく罪と見なしています。聖書に 登場する信仰の先祖たちが犯してしまった罪が私たちの罪の言い訳にはなりません。どんな状況であって も盗みの罪を正当化してはいけないし、特に性的姦淫は他のもので弁償することの出来ない深刻な罪です。 木曜日 死の脅威(箴 7:22,23,26,27) 罪は罪人の思考力を鈍くする力があります。自分が犯した罪がもたらす結果を考えず、一瞬の満足と楽し みだけに没頭させてしまいます。自分の人格と意志を失ったまま女に従う人のことを“屠り場に行く雄牛” と“罠にかかる鳥”にたとえました(7:22,23) 。しかしその女の正体を箴言 7:26,27 では単なる売春婦 ではなく、知恵と正反対の立場にいるあらゆる形の悪として示しています。“結局、重要なのは、姦淫であ れ何であれ、罪は、神がイエス・キリストを通じて私たちに与えたいと望んでおられる永遠の命とは正反対 のもの、つまり滅びをもたらします。 ” (SS ガイド、23p)
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