15 イントロダクション 1.アートマ意識―――なぜ、どのように達するのか

第1章
命 の ゴール
長きにわたり
あちらへこちらへ
寺院へ教会へと
探し求め
ついにあなたは
戻ってきた
出発地点からぐるりとまわり
自らの魂へと
円を完結し
知りなさい
この世の果てまで探しつづけ
寺院で教会で
涙を流し祈りを捧げ
神秘の中の神秘と思いつづけ
覆いの中
もっとも近いところに隠されていた
神が
自らのセルフであることを
命と肉体と魂の
本質であることを
(サティア・サイ・スピークス4
192p)
イントロダクション
サイ・ババによれば、人の一生のゴールは、モクシャ、ニルヴァーナ、ムクティ、などの呼び名
で知られる霊的解脱にあります。霊的解脱はカルマにもとづく生と死の循環を終えることであり、
それはあらゆる欲望に終わりがきたとき達成されます。霊的解脱はいたるところに浸透するアート
マ、魂、セルフ(神意識)を認識したときにおこり、自らのセルフがたったひとつのアートマであ
ることを知ります。次に続くサティア・サイ・ババの言葉は、アートマ意識、つまり霊的解脱のプ
ロセスおよび段階、人の一生の最終目標とそこに到達することの重要性について述べています。
1.アートマ意識―――なぜ、どのように達するのか
あなた方はモクシャ(解脱)を求める人々、モクシャにいたった人々のことを聞いていることでしょう。多
くの人は、それが少数の人だけが手にする希有な名誉であるとか、天国もしくは神に選ばれた人々のいるよう
な領域だとか、英雄のような魂だけが昇りつめることのできるどこかの高みであると思いこんでいるかもしれ
ません。いいえ、モクシャはすべての人が到達しなければならないものであり、英雄であろうとなかろうと、
たとえモクシャを否定する人々でさえ、認識することで終えねばならないものです。なぜなら、歓び幸せを求
める人なら誰もが、まさにこの瞬間にもモクシャを求めているものであり、歓びや幸せを求めない人がいます
か?
モクシャとは永続する歓び、永続する平安を得たときのことです。はかない快楽や長続きしない平穏さ
に疲れ、人はついには永遠の歓びと平安の神秘、いわばモクシャという生と死の循環からの解放の神秘を知ろ
うと力をつくすことになります。
永続する歓びと平安への道を知りさえすれば、五感の快楽というわき道をとり乱してうろつくことはなくな
るでしょう。夢の中で感じた歓びが目が覚めれば消えてしまうのと同じように、目覚めている間に感じた歓び
も、ジュナーナと呼ばれるより高次の意識に目覚めたときには消失します。よってウパニシャッドはいうので
す「起きよ、立ちあがれ、目覚めよ」時は飛ぶように過ぎ去ります。一瞬一瞬をできうるかぎり最大限に活用
し、すべてに宿る神を知るために用いなさい。死のときには、ただ木やけものや虫けらのように死んでしまっ
てはいけません。自らがマーダヴァ(神)であることを認識したひとりの人間として迎えなさい。それが人の
姿で過ごす年月の終着点です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
◇
15
82p)
アートマにいたり
神のヴィジョンを得るべく
奮闘しなさい
たとえこの奮闘に失敗しても
その他俗事の成功よりも
崇高なこと
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
102p)
◇
学生たち、探求者たち、農民から教えを学びとりなさい。若い時期は精神と知性を耕す時期です。この時期
には強靱さと聡明さを養わねばなりません。いったん無駄に過ごしてしまえば二度と取りかえしがつかないか
らです。どんな困難や障害にもかかわらず、この時期を前進のために活用する決意をしなさい。そうです、障
害は乗りこえねばなりません。五感の要求を静かにさせ、飢えや渇きをコントロールし、眠りたい、休みたい
という衝動を抑えねばなりません。
ゴールに到達すること、それが目標です。貴重な日々をつまらぬ快楽や軽薄なゴシップ、饗宴やお祭りさわ
ぎ、怠惰さや睡眠についやせば、霊性の英知―――獲得すべき大切な結実―――を授かり保持するに適さぬ人
物になってしまいます。だからこそ、かつての時代、聖者たちは家や家族のもとを去り森の庵(いおり)に隠
遁し、神の恩寵に授かったのです。集中して努力することなしに成功を手にすることはありまえせん。怠惰さ
は人にとりつき衰弱させる悪魔です。この悪魔の兄弟が慢心です。二つが一緒になってナラ(人間)を支配す
れば、人はナーラカ(悪魔)に変えられてしまいます。人は悪魔にも神にも人間にもなりえます。…(略)…
人は一生のうちに三種のヴィジョンを得ます―――最初がアジュナーナ・ドリシュティで、無知の目を通じ
てみるヴィジョンです。自分の肉体とそれが要求するもの、親族と身内の資産、階級、カースト、共同体、ま
た信条やその価値、有効性だけをみています。二つめのヴィジョンはこれらのことがらを超え、人格や倫理観
に関心をよせます。個人的な関係のあるなしにかかわらず、すべての人々の中に善を見いだすこの視点はジュ
ナーナ・ドリシュティ、英知の目です。三つめがヴィジュナーナ・ドリシュティ、至高の普遍的英知、神の愛
の視点です。全宇宙を息づく神の御姿とみなします。この段階を超えたところに完全なる融合の段階がありま
す。
ランプにはいろいろあってもその光はひとつです。地面のどの水たまりにも太陽は映りますが、おおもとの
太陽はたったひとつです。唯一の太陽が何千という水がめや湖、井戸や池の水に映るように、唯一のパラムジ
ョーティ(至高の神の光)が、気づこうと気づくまいと、何千の心に英知の光となって輝いています。水がめ
や他の入れものの中の水が蒸発すれば、映っていた像は消えてしまいます。しかし太陽そのものは少しも影響
を受けません。同じように、アートマも欲望(水)の入った肉体(水がめ)の中に姿を顕します。肉体が自分
であるとみなすことをやめ、その結果欲望が干あがったときには、映し出されていたアートマの像が真のアー
トマとひとつに溶けあいます。これが永久不変の成就というものです。
これが今日のこの日、はじめなければならないサーダナ(霊性修行)です。様々な入れものに入ったアート
マが、唯一の大いなる魂パラマートマであることを学び理解しなければなりません。しかし悲劇的なことに、
この唯一なるものが多種多様なものとして誤解されています。ちっぽけな自分のつまらぬ欲望をおおげさに扱
っているところに問題があります。自己に執着するものが、どうして高次のセルフにむかうことができましょ
う。無執着のみが人を不滅のセルフの認識へと導きます。それが報酬を手にするために払わなければならない
代償です。手放し、そして手に入れる、それが神の法則です。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
149-153p)
◇
どんな動きや騒乱のさなかにあっても、アートマは影響されないままです。純粋にして汚れなき意識なので
す。肉体とその付属物、装着物には生と死があり、成長しては衰えます。しかしアートマは変化することがあ
りません。
永遠なるもの
生も死もなく
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始まりも
間も
死せず生まれず
それが観照者
終わりもない
滅びることもない
セルフ
アートマ
このアートマの認識にいたろうと力を尽くす人は、授かった人生を真に生き抜く人です。しかしまったくの
無知から今日人々はそちらにむかおうともしなければ、その方向に進んでいこうともしません。歩みは着実で
もなければまっすぐでもありません。かつてシャンカラチャルヤは、三つの間違いを許してほしいと心の奥底
から一心に祈りました。「神よ、あなたが知力を超え想像力をも超えているのを知りながら、私はあなたを瞑
想するという間違いを犯しています。あなたのことを言葉ではいいつくせぬのを知りながら、あなたの栄光を
言葉にしようとしています。あなたが遍在であることを知りそれを説いてきたというのに、それでも私はカー
シーに巡礼にやってきました。私の行いは説いていることにそむいています」この世に蔓延するこの大いなる
過ち―――あることをいいながら反対のことをなしとげようと懸命になる―――には注意していなさい。
人は確実なものとの思いこみにつき動かされ、砂の上にもろい宿り場を築きあげます。とほうもない力が無
慈悲にもその期待をうち砕きます。急な嵐が開いた花の花びらをむしりとり地面にまき散らすのです。無知の
中に沈みこみ、人はこれら厄災の教えるものを学びません。哀れにも欲望や計画の数々にしがみつきます。そ
うして刈り取る結実は、描いていた計画とはまったくの逆になっています。計画していたものを手にすること
ができるのは、努力と行いの数々が望んだ結果とうまく一致していたときだけです。ヴェーダが宣言するよう
に「言葉、思考、想像力の範ちゅうを超えている」のです。
ヴェーダはこのゴールを表すのに二つの言葉を用いています。ニッティヤとスワガタです。ニッティヤとは、
過去・現在・未来において変化しないものの意味です。スワガタとは、変化することのないある定位置から、
意識(ジュナーナ)をあますことなく照らしだすものを意味します。たったひとつの太陽は、その位置する場
所からあらゆる方向へと光を放ちます。一カ所に置かれたランプは家全体に光をさしかけます。同じようにア
ートマもたったひとつのものでありながら、英知の光ですべてを目覚めさせるのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
不変なるアートマの体現者たちよ!
◇
◇
190-191p)
◇
人には純粋なる神性をそなえた人格に成長する力があります。しかし
無知と気まぐれに成長をはばまれています。低い理想にからめとられ、恐れと嘆きにはまりこんでいます。ウ
パニシャッドは、目覚め、自らの主(ぬし)になるよう人々をいましめています。「*ウッティシュッタ、ジャ
グラタ、プラピヤ
ヴァラン
ニボーダッタ」―――そう警告します。人は無知という眠りにうちのめされて
います。失いつつある貴重な文化遺産を知る年長者によって、呼びさまされ教えを授からねばなりません。こ
の眠りはエーシャナ、伴侶や子ども、富などへの執着に原因があります。もちろん簡素に暮らしていくに十分
なものは手に入れなければなりません。しかし適度なレベルを超えてためこまれた富は、人を酔わせ邪悪な欲
望や習慣を生じさせます。財産は、正しい暮らしや社会的責任をはたすといった有益な活動のために信託され
たものとして取り扱わねばなりません。(*Utthishtta, jagrata, prapya varan nibodhata)
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
29p)
◇
あなた方の誰もが、誕生と死の循環から解放される切符を手にしています。しかしほとんどの人がどの列車
に乗らなければならないのかを知りません。多くの人が途中の駅で下車してしまいます。そこが終着駅だと思
いこみ、哀れにも荒れ地に迷いこんだり、目にした風景に吸いよせられていってしまうのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
32p)
◇
覚醒とは何でしょう。自らに美しさを見いだし、他のことをすべて忘れるくらいその美に満たされた瞬間、
あなたはあらゆる束縛から自由になります。あなたはこの大宇宙というものの美のすべて栄華のすべてであり、
力のすべて偉大さのすべてであることを知りなさい。自然は神の栄華の微少のかけらにすぎません。にもかか
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わらず、あなた方は自然の与える喜び、自然について知り得たこと、自然の現す神秘に満足してしまうのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
238p)
◇
神に到達したいという抑えきれない衝動を抱き、霊性の道を歩みなさい。あらゆる重荷からの解放を渇望す
る気持ちを抱きなさい。
覚えておきなさい、頑丈な四つの柱―――ダルマ(正義)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モクシャ(解
脱)―――に支えられた家に住むことです。ダルマがアルタを支え、カーマつまり欲望がモクシャのみを欲す
るように。
どんなに富や強さを手にしても、アーナンダ(至福)の泉のふたを開けないかぎり、平安も永続する充足感
も得られません。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
219p)
◇
人類が創造の頂点に立つことを真に理解する人はめったにいません。生まれながらの栄華に気づいている人
もめったにいません。もしも人が無類の存在であることをたえず意識していたなら、人の一生はより輝き、よ
り有益で、歓びのきわみに満ちあふれていたことでしょう。そして人は主観世界、客観世界の両者を抱きつつ、
意識のより高いレベルへ、さらに高いレベルへとたどりつくくべく、たゆまぬ努力を続けていくのです。今や
こうして知性を用いることで服従させ制御できている獣性という低次のレベルに、自らをおとしめることもな
いでしょう。
84ラーク(1ラーク=10万)種におよぶ生き物の中、人類は最終的でたいへん重要な種です。人は自分
たちのみならず、その創造者、支配主を知る能力、また自分たちに潜在する可能性ぱかりでなく、神の威力を
も知る能力をそなえた唯一の動物です。他の生きものたちは命を守りぬくことに懸命です。人には、理想を追
求し人生を捧げ差し出すようにとの呼びかけに答える準備ができています。
人間だけが過去生の数々に慰めを見いだしたり、後の転生への導きを考慮することができます。未来ばかり
でなく過去をもかいま見、役立てることができるのです。向上するか堕落するかを選択する力、神にも動物に
も悪魔にもなれる力をそなえています。人は人特有の知性や言葉に秘められてきた記憶を、視野を広げ、自然
や社会に順応し、他の人の知識と経験を役立てるために活用することができます。社会が人にたいして働きか
けるのと同じくらい、社会にたいして働きかけることができるのです。
人は意識的に設定した道すじにそって、自らの性質をつくりかえていくことのできる唯一の動物です。動物
は死ぬまで愚かで残酷ですが、人は霊的に努力し神とともに歩むことで、問題のある自分にとりくみ、想いや
行いを修正していくことができます。ダコイトだったヴァールミーキや、のちに熱心な仏教徒になった追いは
ぎのアングラマーラらは、そういった人の特質を例証しています。教えと信仰を通じて、罪人にも聖人にもな
れるのです。
さらには人だけがクンダリーニ・シャクティとして内に眠る、蛇にも似た生命エネルギーを目覚めさせ、各
チャクラ(高次の意識の場)を通じ、頭頂の千にあるスポークをもつ車輪状のチャクラにまで上昇させること
ができます。これがウルドワ・ガティ(上昇の道すじ)です。このヨガ・サーダナは人間が実践できるもので
す。直立した肉体をもち、胴体と頭をまっすぐ垂直にして座ることができるからです。人間以外の四足獣、二
足獣には決定的に不利であり、彼らはクンダリーニ・シャクティをひきだすことができません。
人を表すサンスクリット語「マーナヴァ」はマ(~でない)、ナヴァ(新しい)のことです。つまり、人は
いく度もの誕生と死をへており、やっかいな善と悪の遺産を重苦しく背負っていることを暗示しています。こ
の地上に降りたったのははじめてのことではないのです。この重荷を処分し、自由になることが人の課題です。
またマーダヴァの別の意味にも目をむけなければなりません。マが「無知、幻惑、誤認」、ナが「~のない」、
ヴァが「ヴァルダナ(行為)」を意味します。人は本質的なもののかわりにうわべに惑わされてしまうことな
く、行い、話し、考えなければならないのです。人は唯一なる実在アートマ(神聖なる魂)に気づかずに、ち
らちらと人をあざむくマーヤー(幻惑の力)にとりつかれるがままです。
(サティア・サイ・スピークス16
18
84-86p)
◇
◇
◇
◇
バガヴァンは主要な7つの特質をそなえています。アイシュワリヤ(繁栄)、キールティ(栄華)
ジュナーナ(英知)、ヴァイラーギヤ(無執着)、スリシュティ(創造)、スティティ(維持)、ラーヤ(消
失)です。この7つをそなえるものは内に神性を宿すと考えることができます。この7つはアヴァターが必ず
そなえる特質であり、外見上マーヤー・シャクティ(幻惑の力)によって様々に変わるようでありながら、一
貫して存在しつづけるマハー・シャクティ(至高の力)の特質です。これらが見いだされたときには神とみな
すことができます。
あなた方もマハー・シャクティをそなえたアートマと同じ性質の存在です。しかし泥棒の隠れ家に転がりこ
み、そこで育てられた王子のように、アートマが真の自分を認識できずにいる、それだけのことです。本人は
知らなくとも、宮殿にいようと森にいようと泥棒のすみかにいようと、王子は王子です。しばしば王子は本当
の自分の姿を内からほのめかす直感や、継承すべき遺産であるアーナンダへの渇望、そこから脱し真の自分に
なるようにとの意識の奥底からの呼びかけを受けとります。これが魂の飢え、永続する歓びを求める渇きです。
あなた方は自分の名前を忘れてしまったようなものです。心の飢えはジュナーナを手に入れることによっての
み癒されます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
200-201p)
◇
見せかけのものと本質的なものをより分けなさい。できごとの核心、意味を見いだしなさい。つねに自らの
アートマの実在性に想いをはせなさい。あなた方は純粋で侵すことのできぬ存在です。人生の上り下りに影響
されず、真理、永遠、普遍のブラーフマン、これらのすべてである存在です。たった5分間の問いかけで、あ
なたが肉体でもなく、五感でも心でも知性でもなく、名や姿でもなく、アートマそのものであること、この多
様な世界のすべてを顕しているのと同じアートマであることが分かるでしょう。一度この真理をかいま見たな
ら、しっかりとつかんでいなさい。逃してしまってはいけません。永遠にあなたのものにしておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
31p)
◇
人生の目的、目標、行きつく先とは何でしょう。バガヴァータ、バガヴァット・ギータはそれを明らかにし
ています。私たちの行きつく先とは、私たちが生じた源です。プラクリティ(現象界)にとらわれているかぎ
り、人の心は落ちつかず不安定です。命が宿っている間、肉体はシヴァム(神聖なるもの)です。しかしいっ
たん命が抜け出てしまえば何でもないものです。ヴェーダはこういいます。「ソーハム(「神は私」)は呼吸
のとき、息を吸うことで表現される」息を吐いて「アハム」と言うときには「私」を手放しています。「ソー
ハム」は人と神が同一であると宣言するものです。物質世界にからめとられているかぎり、この同一性は理解
されえません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
28-29)
◇
あなたの真の姿はアートマであり、パラマートマ(至高の実在)のひとつの波です。人間として存在するこ
との唯一の目的が、この真理、このアートマ、この大海と波との関係を認識することです。その他の行いはみ
なとるにたらないものであり、鳥や動物もすることです。しかしこれは人特有の特権です。この高貴な一生を
授かるため、人は獣性のレベルをひとつひとつはいあがり、進化のはしごを一段一段のぼってきました。動物
のように、生と死の間の年月を食物と住みか、安楽と快楽を探しまわることで無駄についやせば、人はさらな
る生まれ変わりの判決を自らに科しているといえましょう。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
◇
19
114p)
カーマ(欲望)が誕生の原因であり、カーラ(時間)が死の原因であり、ラーマ(神)が人生の守り主です。
欲望から誕生が生じます。やむことなく流れ、誰をも特別扱いすることのない「時」により、命の糸が切られ
ます。たえず神の御名を唱えることで一生が価値あるものになります。人生は闘いです。闘いは勝利するまで
続きます。勝利とはアートマが王位につくこと、真の自由が君主となることです。ヴェーダンタ哲学によって
しかれたプロセスをへることで、到達し獲得されるものです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
44p)
◇
つねに生きる意義と目的を視野にとらえていなさい。そしてその意義と目的を体験しなさい。汝は神なり、
それが真理です。あなたと遍在なる者はひとつ、あなたと絶対なる者はひとつ、あなたと永遠なる者はひとつ
です。あなたは「個」でも「特定」の何かでも「はかない者」でもありません。それを感じなさい、知りなさ
い。それにしたがった行いをしなさい。ある人がラマーナ・マハリシのところにきてこう尋ねました。「スワ
ミ!
この18年というもの、私は熱心にディヤーナ(瞑想)を続けてきました。しかしディヤーナの際、集
中している神の姿を悟ることができません。あと何年これを続けなければならないのでしょう」ラマーナは答
えます。「それは年数の問題ではない。ディヤーナをしているという意識が消失するまでディヤーナを続けな
ければならない」エゴを忘れなさい。意識のあらゆる層の中に溶かしこんでしまいなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
22p)
◇
「ヴェーダンタ」とは知識の集積の末、最終的に生み出されたもの―――解放―――の意味です。ミルクは
最終的にギーになります。温め、凝固させ、攪拌してできたバターを純化することでギーになり、それ以上他
の何かに変わることがありません。これが最終的な形です。ヴェーダンタはジュナーナ、明らかにする知識で
あり、心のもつれをほどいて外界の対象物との束縛をゆるめ、瞬時にしてこの多種多様な創造のすべての真理
である一体性をあらわにします。それだけがシャンティ(平安)とスカ(幸福)を与えます。人は果てしない
ものの内にあるとき、より偉大なる力、荘厳なるものに満ちあふれたときにのみ、幸せになることができます。
人々は平野部の夏の暑さをのがれようと、ナイニタールやコダイカナル、ムッソーリへと避暑に出かけます。
それと同じで、「個別化」された命の息苦しさからのがれようと、人は果てしないものを追い求めます。はか
ないものでも何か特定のものでもない、永遠で絶対なるものを求めるのです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
172p)
◇
あなたは神からやってきました。あなたは神の栄華のきらめきです。至福の大海のひと波です。ふたたび神
に溶けこんで、はじめて平安にいたることでしょう。迷子の子どものように、ふたたび母親と一緒になれた歓
びを得るのです。大海のしずくは蒸気となって上昇し、雲と呼ばれる集合体になり、地上に落ち、谷間を流れ、
最後には海にたどりつきます。見失ってしまった海にたどりつきなさい。この旅路に出発し、速やかに、軽快
に、旅をしなさい。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
154p)
◇
人生とは、でこぼこ道やいばらの道に足をとられる巡礼の旅です。唇に神の御名をのせていれば、渇きをお
ぼえることはありません。心に神の御姿を抱いていれば、疲れを感じることはありません。神聖なるものとと
もにいることで、旅路に希望と信仰が吹きこまれます。神がいつでも声の届くところにいる、つねに近くにい
るという確信は、手足に力を与え目には勇気を与えてくれます。
あなたは一歩一歩神に近づいていること、そして神のほうでもあなたが一歩歩みを進めるごとに、10歩あ
なたに近づいていることを覚えておきなさい。この巡礼の旅にどどまる場所はありません。やむことなく続く
旅です。昼が過ぎ夜が過ぎ、谷を抜け砂漠を抜け、涙の数々と笑顔の数々をへて、生と死を、墓場と子宮を通
20
りすぎます。
道に終わりがやってきたとき、ゴールにたどりつきます。この巡礼の旅が自分から自分にいたる旅にすぎな
かったこと、道は長く孤独であっても導きを与えていた神がつねに自らの内に、まわりに、ともに、となりに
いたことを知るでしょう。自らがいつでも神だったのです。神に溶けこみたいという切望は、海が大海にむか
って呼びかけていたにすぎません。人は愛します。神が愛だからです。人は旋律とハーモニーを熱望します。
人が神でできており、神なしには生きられないからです。
もしも道すじとゴールを知ったなら、自分が前進しているかどうかが分かるでしょう。それが分からずにど
うしますか。ゴールとは、神が愛、慈しみ、恩寵をふりそそいできたように、自らの視野、思いやり、愛を広
げていくことです。自らの内にもっともっと神をとりこむ努力をしているかどうか、いつも心にとめておきな
さい。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
39p)
◇
人間として誕生することはたいへんな幸運です。なぜなら人間のみが自分という存在の真の姿を認識し、神
に到達することができるからです。ここまで高い認識にいたることは、けものや鳥には決してできません。し
かしこの貴重な機会を活用することなく年月を無駄にし、光を見ることもなく死にゆくとは、ほんの1分考え
てみただけでも、人がどれだけゴールからほど遠いところにいるのかが分かるでしょう。人は絵でも像でもあ
りません。どちらも命がなく向上心のないものです。人には活力があり能力があり、拡張することへの渇望、
不変不滅のものへの渇望があります。しかし一生を神に捧げることもなく、安楽で快適な暮らしをむなしく追
求することにからめとられてしまっています。自分をバーラタ・マータ(母なるインド)の子どもと称しなが
ら、ひどく愚かなふるまいをしているとはたいへん恥ずかしいことです。よく晴れた月明かりの夜空を漆黒の
暗闇にしてしまっているだけです。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
84p)
◇
心(マインド)は体系だった努力によって打ちこわすことができ、あなたは自分自身の主になれます。はし
ごは昇りたいと思う分だけ高くなければならない、違いますか?
マインドを制御するための霊性修行はサク
シャトカラム(覚醒)に到達するそのときまで、一歩一歩進めていかねばなりません。なべの米は十分に火を
いれることで、やわらかく甘くなります。そうなるまで火を燃やしつづけなければなりません。「肉体」とい
う入れものの中で、いわば「五感」という水とともにマインドを火にかけ、やわらかにしなさい。火とはサー
ダナ(霊性修行)のことです。あかあかと明るく燃やしなさい。最後にはジーヴァ(個々の魂)がデーヴァに
なるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス4
107p)
目に見えるものの背後に、目には見えない崇高なるものの存在があります。見えるものと見えないものとは
唯一者を二分するもの、さらにいえば唯一者の二つの側面です。完全なるものからずべてが生じ、かつ完全な
るものは完全なままです。唯一者の顕す創造は唯一者と同じく完全です。それを経験するものも、経験される
ものと同じく完全です。砂の一粒は夜空のひとつの星と同じく完全です。唯一にして完全なる者パラマートマ
が、この完全なるものを分かちあう存在として人類を意思しました。人は半分は努力という恩寵、半分は内に
宿る神性の恩寵によって、自らの能力を十分に発揮しなければなりません。不完全であるという幻想からのが
れ、この完全性に気づくこと、それが人の一生のたどりつくべきゴール、最終地点です。創造主を悟り体験し
たときには、人も創造主と同じように力強く、雄大で、ものごとを知った存在になります。究極的な起源は、
じかに目で見ることのできる対象でも、論理的に推論して見いだされるものでもありません。神聖なる言葉、
サブダ、ヴェーダの言葉を頼りに、それらのしいた道すじをたどっていかねばなりません。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
◇
21
26p)
人は神にならねばなりません。人は神から生まれてきました。ですから世俗への執着をへらさなければなり
ません。世俗から自分を切りはなすことによってではありません。神の手の内にあるひとつの道具として世俗
の中にいること、内側で頭をもたげエゴにむかおうとするあらゆる傾向を服従させること、ダルマと呼ばれる
神の指示に一心に集中することによってです。科学者エジソンは頭を悩ませていた問題にあまりにも集中して
いたため、研究室に差しいれられた食べもの、飲みものにも口をつけなかったくらいです。あなた方もサーダ
ナ(霊性修行)をするときには、同様の集中力を発揮しなければなりません。
最善のサーダナとは、自分がアートマという存在であり、あらゆる人とアートマにもとづいた家族であると
認識することです。それを達成するまでは肉体の手入れが必要です。肉体の目的とはまさにそのためです。軽
快に、活発にしておきなさい。肉体は幻想の海、偽りの多様性という海を越えるボートです。物質やその他に
執着して重量を増やしてしまってはいけません。旅の間に沈んでしまうおそれがあります。
ナマスマラナ(神の御名の念唱)はもっとも効果的なサーダナです。唱えるごとに御名の背後に輝く神の栄
華を想いなさい。怒り、嫉妬、憎しみ、悪意、貪欲の手からのがれなさい。他人の欠点を探ったり、笑っては
いけません。他の人から欠点を指摘されたときには感謝しなさい。さなくば、仏陀がそうであったように沈黙
を守っていなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
245p)
◇
あなたは完全、無限、すべてです。肉体、心、魂としてのあなたは夢幻にすぎず、真のあなたは存在、知性、
至福です。大宇宙の神です。あなたがこの宇宙のすべてを創りだし、描きだしているのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
154p)
◇
完全なる自由とは、地上の誰かから与えられるものではありません。欲望をへらせばへらすほど自由になり
ます。完全なる自由とは、完全に無欲であるということです。
(サティア・サイ・スピークス5
200p)
2.肉体としてのアートマの顕現
次に続くサティア・サイ・ババの言葉は、霊的解脱に到達し、自らの主となった人の状態を説明
しています。
神は真理、真理は善、善は美です。真・善・美、サティアム・シヴァム・スンダラム、それがあなた、真の
あなたになりなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
227p)
人は本来神性です。ですから、愛、正義、真理、平安という神の資質を顕現すればするほど、自然にアーナ
ンダ(至福)を享受し分け与えることができます。少ししか顕現できずにいればいるほど恥じいることになっ
てしまいます。授かった資質にそむいた生き方をしているためです。
一生という木には根に水を与えなければなりません。しかし今日、生活水準を向上させようと、人々は枝や
葉、花びらに水をまいています。根とは美徳です。美徳を培うことで、行い、言葉、想いの花が香り高く花開
き、セヴァ(奉仕)の果実、アーナンダの甘い果汁たっぷりの実を結ぶようでなければなりません。衣食住を
整えるのは、肉体という荷車の健康を促すためにすぎません。それを引く心という馬も整えなさい。衣食住そ
の他の物質を「エゴから脱し普遍性に達する」という高い目的に活用するよう、心を整えなさい。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
◇
22
104p)
よくいわれるように、この世に創造された生きものには84ラーク(1ラーク=10万)の種があり、人は
進化のプロセス上一番最後に位置します。しかしなぜその数は840万で止まったのでしょう。人類がその頂
点であり、完成形だからです。人々はその真理を無視し、人間はただ人間であるとかたくなに信じてきました
が、事実人はマーダヴァなのです。人にはマナス(心)、ブッディ(知性)、チッタ(思考力)、アハムカー
ラ(エゴ)、この4つが人格の中に円満にそなえられている一方、鳥や動物その他のほとんどにはアハムカー
ラ(エゴ)しかありません。人間以外の生きものの一生は、アハムカーラとその欲望、要求が中心です。しか
し人はサティア(真理)、ダルマ(正義)、シャンティ(平安)、プレマ(神の愛)に従う能力があります。
人にだけその能力があるのです。その能力を発揮し、培っていかないのであれば、人はヴァナラ(猿)やダー
ナヴァ(悪魔)と同様悪い生きものです。人が創造されたとき、創造されうるそれ以上に高度な生きものは何
も残っていなかったのです。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
81p)
◇
新年はヴィシュワヴァスと呼ばれますが、それをヴィシュワサ(信仰)を強める呼び声ととらえなさい。愛、
不滅のものへの渇望、無執着、美徳の賛美、自然が喚起する畏怖や神秘、これらの姿をとり顕現する自らのア
ートマ、自らの神性への信仰です。しかし人はこの最高の機会、自らの崇高さを知る機会をなおざりにしてい
ます。白檀の木を燃やし、炭にして売ろうとしています。その木の価値を知らないからです。神であるのにた
んなる人間と思いこみ、スカ(幸福)とシャンティ(平安)を目の前の目標として設定してきました。理にか
なったことではありましょう。しかし何歩か進んでは立ち止まり、偽物と本物を取りちがえるのです。これが
悲劇というものです。一日に二度おなかいっぱいの食事を食べ、身につける数メートルの布地と頭の上の屋根
といくらかの雑貨が手に入れば、それで目的に達したのだと信じこみます。しかしそこから得られる歓びはと
るにたらないもの、嘆きの入りまじったものであり、いともたやすく痛みにかわり、他を傷つけ、プライド、
羨望、悪意、貪欲、その他の有害なものに満ちています。数時間で新鮮さを失う食物で維持される肉体が、ど
うしてそう長い間新鮮でいられるでしょう。まさにこのことから、作り出されるもの、そこなわれるものが真
理になることはありえません。真理は作られるものでも、そこなわれるものでもないからです。真理とは、今
も以前もこれからも、決して変わることがありません。
人にあるもので永遠のものとは何でしょう。積み重ねてきた財産ですか?
建てた家ですか?
いいえ、人
がしてきたこと、作りあげ、手に入れてきたものはみな滅びます。すべては時が破壊するにまかせるしかあり
ません。たとえ一握りの土でさえ、どんなに愛した土でさえ、もっていくことはできないのです。もしも死者
がそれぞれ一握りの土をもっていけるのだとしたら、今のうちからひとりひとりに割り当てておかねばならな
いほどの土不足がおこっていたでしょう。永遠不滅の「私」を見いだし、それが自らの内に宿る神のきらめき
であることを知りなさい。壮大にして無限なる至高者とともに生きなさい。あなたが壮大さ、無限さ、そのも
のになることでしょう。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
150-151)
◇
人々はこの世に食べて寝るために生まれてきたのではありません。修練を通じて内なる神性を顕わにするた
めにやってきました。そこから人は、内に宿るシャクティ(能力)―――人の原動力である神性エネルギー―
――をヴャクタ(明らかに)する者、ヴャクティ(個)と呼ばれるのです。
その目的のために肉体を授けられ、その肉体を制御し活動に役立つ手段として用いるために知性が授けられ
て、人はこの世に生まれてきました。ダルマ・ニシュタ、カルマ・ニシュタ、道徳と善行をたえず追求し、こ
の目的を達成しなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
◇
すべては過ぎゆくショーにすぎず、あなたが中心人物であり、唯一にして全登場人物であるも
・
・
のと思いなさい。タット・トワム・アシ「汝が それなり」それがこのことです。外界は根
23
165p)
本的には「ひとつ」であり、ブラーフマンそのものが多様に見えているのです。トワムとは、あなた、あなた
自身のことです。聖人たちの経験が伝えるところとは何ですか?
れた深遠なる発見とは何ですか?
・
ヴェーダの英知に記さ
・
タット( それ)がトワム(あなた)であり、トワム(
あなた)
・
・
がタット( それ)であるということです。二つでなく「ひとつ」です。
自らの本質にそむいて行い、想い、話せば、自らをおとしめることになります。自分で自分の本質を否定す
ることになります。ブラフマタトワム(ブラーフマン原理)とは、ヴィマラム(純粋)、アチャラム(不動)
です。純粋、そして不動でありなさい。トリグナ・ラヒタム、3つの資質、鈍性・激性・調和をのがれた純粋
なる意識です。あなたも感情や怠惰、ものぐさの霧にかき乱されてはいけません。操り人形のようにあなたの
役割を演じなさい。目に見えぬ神という監督が、神の意思したドラマを展開するのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
168p)
◇
真理の発見―――それが人の特別な使命です。人はマーヤーとマーダヴァの混じりあいです。マーヤー(幻
想)はマーダヴァ(神)を隠す霧を発生させます。しかし前世の肉体の行いから受けついだ健全な動機による
行い、今生の肉体による修行の数々、また神の恩寵を通じて、マーヤーは消失します。太陽を前にすれば消え
てしまう霧にすぎません。そしてナラ(人)がナーラーヤナ(神)に姿を変え、ブーロカ(この地)がプラシ
ャンティ・ニラヤム(平安の地)へと高められるのです。
(サティア・サイ・スピークス2
3.霊性の英知と解放への道
―――
175p)
礼拝・献身・自己探求・瞑想・臆念
ほんの一歩前に踏みだすのにも、内側からの促し、意図、刺激が必要です。欲望が人の意志を動かします。
ですから人はより高い目標、より神聖な目的を望むよう努力しなければなりません。人の心は欲望の束です。
欲望ひとつひとつの要求に、あちらへむいてはこちらをむき、割り当てられた時間と授かった能力を無駄にし
ています。正しい行いをしていると思いこみ、良心を奴隷にしてしまっています。
時間が貴重であることを理解しなさい。一秒の何分の一といえども無駄にしてはいけません。つねに自らに
課せられた真理の探究と責務に従事していなさい。命は一滴、また一滴とその入れものからもれだしています。
時間は鋭い剣のようにひとりひとりの頭の上につりさげられ、死の一撃を加える用意をしています。それなの
に、人はつねにそこにある危機に何の注意もはらっていません。
皮肉屋は「人類は創造の頂点である」という言葉がたんなる教科書通りのきまり文句だと主張します。しか
し事実人の命は高尚、崇高、神聖、つねに新しくつねに新鮮です。ウパニシャッドはこの真理に気づくよう、
人々をゆり起こし目覚めさせようとするものです。人は無知の眠りをむさぼり、エゴと欲望にくるまれている
からです。「目を覚まし、神なる太陽を崇めその光に照らされて、自らの本質を知れ」それがウパニシャッド
から響きわたる呼び声です。しかし人はこの呼び声に耳をかそうとしません。
3つのエーシャナ(強い欲望)が人をとどまらせています。人は富、妻、子どもにわれを忘れています。こ
れらが足を踏みだすのを妨げ、霊性の前進の障害になっています。もちろん生きる過程で金銭は必要ですし、
そのために働くことはさけられません。しかし限度をこえた富は心を汚し、傲慢さの原因になります。財産は
徳や健康を促し、ダルマ(倫理)を養い、神の道にそった責務をはたすといった善い目的のために使わねばな
りません。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
◇
人生の目的とは何でしょう。泥沼にはまりもがくことですか?
進むことですか?
33-34p)
それとも永遠なるものにむかってまっすぐ
何が楽しいことかをいえる人は何千といても、そのうちひとりでも、あなたにとって何が
善いことかをいえる人はなかなか得られるものではありません。真理とはたやすいものではありませんが価値
あるものです。何があろうと真理から離れずにいなさい、というのはうれしいアドバイスではないでしょう。
24
しかし真理のみが最終的な充足を与えます。
ほんの少しの間静かに座り、何が残り何が残らないかを、自分の内にむかって問いかけてごらんなさい。あ
なた方は世界のできごとや、この世のあらゆるところで起きている人々や情勢の幸不幸の移り変わりを知ろう
とはしても、あなたの最奥の核心、不変のアートマという永遠なるものを背景に、あなたの内なる世界で起き
ている状態、混乱について知りたいという渇きがありません。それを知ればすべてはおのずと明かされます。
それだけで他のどんな行いも必要ありません。それさえ手に入れればすべてがあなたのものになります。
人の内には多様の背後にある「ひとつ」を知りたいという奥深くからの衝動があります。科学者はエネルギ
ーのすべて、物質とその状態のすべてを説明する法則を見いだそうとします。あなたもそれさえ知れば他のす
べてが明かされる、というものを知ることができます。アートマの至福に浸りきることです。ひきうすの土台
は固定され動きません。上の石が動きます。しかしどちらも石でできています。それと同じで、チャラ(固定
されたもの)とアチャラ(変化するもの)、土台と上部構造、どちらもブラーフマンです。プラクリティ(客
観世界)には動きがあり、ブラーフマン(至高の実在)は不変です。どちらも互いに切りはなせず、一方は一
方と相互に結びついており、アヴィナバーヴァ・サムバンダ(相互依存関係)にあります。
ものごとを決めるときのよりどころは神でなければなりません。そのとき人生はスムーズに進みます。物質
世界、精神世界、客観世界―――これらは神を中心に展開しているのであり、神との密接な関係性を理解した
とき、あなたは光のもとに導かれます。カナヅチで何度もたたくことで金に形と美しさが与えられるように、
アートマは多種多様なカルマの影響により、誕生から誕生へと続く名と姿を得ています。アカーラム(形)が
アートマをヴィカーラム(ゆがんだ形)にしてしまっています。形のゆがみはアディヤトの実践―――霊性修
行―――によって正されねばなりません。
今日、この種の鍛錬に何の努力もなされていません。国の教育機関は何も教えていません。時間がないとい
うのは違います。時間が障害になることは決してありません。時間ではなく、あなた自身がじゃましているの
です。口の小さいツボからにぎりこぶしをだせなくなった猿は、ツボかツボの作り手に文句をつけます。しか
し手の中につかんだピーナツを放しさえすれば、手は簡単に出るのです。原因は原因そのものの中にあるもの
です。時間の不足も人の貪欲さに問題があります。手をツボの中に入れるよう強制する人は誰もいません。猿
にピーナツをつかむようしいた人は誰もいないのです。自分で自分の貪欲さの犠牲となった、それだけのこと
です。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
259-261p)
◇
自分が神性であることに気づかずに低次元の仲間と浮かれさわぎ、不名誉に陥るようないやしい衝動の奴隷
になって苦労し汗しています。真のあなた、王者になりなさい。湖の底の泥の中で芽を出し、まっすぐな意志
の力で太陽を見るため水面まで上り、その光で花開く蓮の花のようでありなさい。蓮の花は水の中で生まれ育
っても、水との接触を断ちきります。あなたもあなたをかりたてる初歩的な衝動に執着するのは避けねばなり
ません。いつまで道化役、汚れ役に満足して座りつづけているのですか?
たに意志はないのですか?
恥ずかしくはないですか?
なぜ自分でつけた仮面の下に真の自分の姿を隠すのですか?
あな
どれも役まわりと
しては無(ゼロ)に等しいものです。あなたの権利である英雄(ヒーロー)の役を演じなさい。輝きなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
47p)
◇
あなた方は人(ナラーカラム)の姿をとった姿のないもの(ニラーカラム)、有限の役を演じる無限なるも
の、有形の微少のものとして顕れた無形の無限なるもの、相対性をよそおった絶対なるもの、肉体としてふる
まうアートマ、具象のふりをした抽象なるものです。不変のアートマ(セルフ)があらゆる生きものの根本で
す。空の下に建物がたてられる前にも空はありました。その間空は建物に浸透しいきわたります。やがて建物
はくずれおち、がれきの山になります。しかし空はいっさい影響されません。それと同じでアートマも肉体に
いきわたり、肉体がちりになっても残りつづけます。
説明しがたく目に見えない同じ電流が、電球、ファン、コンロ、冷蔵庫、噴霧器に流れ、それぞれを働かせ
たり同時に働かせたりすることができます。同様に*イシュワラ サルヴァ ブータナム、神性原理が万物を動か
しています。それが内なる核、神性の火花、微少のものより微少にして最大のものより最大なるものです。微
25
少のものを見るには顕微鏡が必要であり、遠く離れたものを見るには望遠鏡の助けをかります。これらはヤン
トラ(物質的道具)です。このようにふしぎにも相矛盾する属性があり、核心を認識する助けになる道具がマ
ントラ―――瞑想することであなたを救う言葉―――です。その実際的な側面が強調されるときにはタントラ
(儀式・供儀)とも呼ばれます。科学者にとってヤントラの効力や手順の正しさを信じ、より深く知ろうと探
求を続けている物質というものの存在性を信じることが不可欠であるように、この偉大なる冒険に成功するに
はこの「核心」が存在することばかりでなく、これらマントラの効力を信じ、決められた手順の有効性を信じ
ることが必要です。(*Ishwara sarva bhootanam)
この課題には最初から誠実にとりくまなければなりません。無知は知性によってのみ取りのぞかれ、闇は光
によってのみうち砕かれます。どんなに議論しようと脅そうと説得しようと、闇を追いはらうことはできませ
ん。一瞬の閃光、それで十分、闇は消えさります。この一瞬の光のときにむけて準備をしなさい。光はすでに
そこに、あなたの内にあります。しかしそれを抑えこむ要因が重くのしかかり、姿をあらわにすることができ
ずにいます。光があらわになったときにおこる「闇からの解放」、それがモクシャと呼ばれます。たとえ今そ
れにむけて努力をしていようといまいと、誰もがみなそこに到達しなければなりません。この奮闘の避けるこ
とのできない結末であり、あらゆる人がむかっているゴールです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
44-46p)
◇
人生とは理想を抱き、ゴールにむかって前進し、たゆまず進みゆくものでなければなりません。人生のたっ
たひとつの目的は、人を神にしていくこと、私たちが自分するところの「人」から私たちの真の姿である「神」
へと姿を変えていくことです。グルという言葉の「グ」とはグナティータの資質、つまり属性や様態に影響さ
れず、特定の性質と結びつくことのない資質を示します。そして「ル」はルーパ・ラティタ、どんな姿形にも
制限されずあらゆる姿形に遍在する、といういう意味です。このことからいえば、この大宇宙もそれを構成す
る万物も、教えを授ける教師、教科書としてみなされるべきです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
83p)
◇
ほんの少し考えてごらんなさい。「どうして人は神性を忘れてしまったのか、このとるにたらない幻想に陥
ってしまったのか」心(マインド)がはかない快楽を追いまわしている結果であると分かるでしょう。どう対
処したらよいのでしょうか。答えはたったひとこと、「崇拝」です。すべてを「崇拝」として行いなさい。*
ヤト
バーヴァム
タト
バーヴァティ―――「人は想ったものになる」人はいちどプレマ(神の愛)を味わ
ってはじめて神を想えるようになります。だからこそアヴァターはプレマの味をあなた方に与えるためにきた
のです。神へのせつなる想いがあなた方のハートに植えこまれるように。(*Yath bhavam thath bhavathi)
神の御名により、神をつねに近づけておくことができます。祈りやプージャ(礼拝)は神の御名の後に続け
られます。神の栄華と恩寵により、あなた方が神をたたえ必要のすべてを神に頼るようにです。はじめはたた
える者とたたえられる者には距離や違いがありますが、サーダナ(霊性修行)が強く確かなものになるにつれ、
しだいに混じりあっていきます。なぜなら個と普遍はひとつだからです。波と大海だからです。完全に融合し
ます。融合するとエゴは消失し、名、姿、カースト、肌の色、教条、人種、宗教や宗派、権利や義務、すべて
の象徴、記号が結果として消えていきます。
そのような人々、「個」という狭さから自らを解き放った人々にとって、なすべき仕事はたったひとつ、人
類の向上、世界の幸福に貢献し、愛をふりそそぐことです。たとえ何も言葉にしなくても、彼らの至福の状態
が世界に至福をふりそそぐのです。すべてに愛があり、すべてのために愛があり、すべてが愛です。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
240p)
◇
すべて知ったなら知らされるべきすべてを知らしめるもの、それを知りなさい。これがウパニシャッドに述
べられている、グルがウッダーラカに与えたアドバイスです。あなたは核であり、あなたの世界の中心です。
あなたなしにあなたの世界はありえません。あなた自身を知らずして、あなたの創りだしたこの世界について
26
知ることはできません。人々は人に会うとこう言います。「どうされてますか?」しかし自分自身に「私はど
うしているのか」を尋ねたことがありますか?
人についてこう尋ねます。「あの人は誰ですか?」しかし自
分に「私は誰なのか」と尋ね、その答えを探ったことはありますか?
これがヴェーダンタ哲学の教え、ヴェ
ーダの学僧たちがしきりにあなた方に伝えてきたことです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
134p)
◇
あらゆる行いを、神によって促され意図され祝福された、神に捧げ差しだすものとして行いなさい。神の御
名のナマスマラナ(臆念)がこのサーダナを助けます。神の御名はその御名で呼ばれる神を心に強く想いなが
ら唱えなければなりません。録音したテープをテープレコーダーで再生するような、同じ調子のくりかえしで
はいけません。一生とは神を知るためのものであり、とるにたらない成功の数々を手にするためのものではな
いことを理解しなさい。理想と決意と行い、この3つどれもがひとつの最終目標、至福の成就にむけられなけ
ればなりません。神の御名はあらゆる行いを崇拝のようにありがたいものにし、崇拝行為の立会人となり、御
名で呼ばれる神に形を与えるでしょう。真理を明かす英知を授けてくれるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
228p)
◇
自らの真の姿を見ることは、自由の扉を開くことです。そのためにはハートの鏡の裏面をサティア(真理)
とダルマ(正義)でコーティングし、準備を整えなければなりません。そうでなければ像は姿を映せません。
どんな行いをするにも真理と正義を守っていれば、自らの真の姿が明かされていくのが見えるでしょう。行い
とその必然的結実という重荷が生じる、あなた方はそう言うかもしれません。しかし神の恩寵はその重荷を一
瞬にして焼きつくします。万物の中に自らを見、自らを万物の中に見るとき、あなたは真理を知った、クリシ
ュナはギータの中でこう言います。ですから私にたいして抱くのと同じ量、同じ質の愛を、他のすべてにたい
しても育みなさい。あなたが普遍になったとき、どこが自分の家、どこが自分の街だといえますか?
もはや
あなたは個でなく普遍なのです。この意識を心にしっかり抱きなさい。神はたやすく心動かされます。バター
のように、ほんの少しの熱が神の心を溶かすのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
143-144p)
◇
ヴェーダは3つの部分からなりたちます。カルマ、ウパサナ、ジュナーナです。カルマ、すなわち献身的な
姿勢で、その結果結ぶであろう利益にとらわれずに行いに従事することで、心の純粋さが築きあげられます。
ウパサナ、多種多様の姿で顕れる神の栄華を想いながら、体系だった礼拝を行うことで、集中力が授かります。
この2つにより真理をはっきりと認識できるようになります。いわばジュナーナ(霊性の英知)を得るのです。
幻惑というヴェールが落ち、至福があらわになります。今日ではこの3つは無視され、笑いものにさえなって
います。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
123p)
◇
秘訣は内なる源泉を見いだすことです。決して欠乏することなく、つねに満ちあふれ、つねにみずみずしい
泉です。なぜなら神からわきあがる泉だからです。肉体とは何ですか?
5つのさやに包みこまれたアートマ
に他なりません。アンナマヤ(食物でできたさや)、プラーナマヤ(生気でできたさや)、マノマヤ(マイン
ドでできたさや)、アナンダマヤ(至福でできたさや)の5つです。この5つのさやについてよくよく考える
ことで、サダカは外側から内側へ、そして最後のさやへとたどりつける認識力を手に入れます。このように一
歩一歩ひとつひとつのコシャを捨てさりすべてを消失させていくことで、ブラフマーと合一する英知に達しま
す。
(サティア・サイ・スピークス5
27
191p)
◇
◇
◇
◇
4つのユガのうち、現在のカリ・ユガは他の3つ(クリタ・ユガ、トレタ・ユガ、ドゥワパラ・ユガ)より
はるかに英知を得、識別力(ヴィヴェーカ)を養うのに適しています。なぜなら自らを解き放つためのやさし
い道が数多くあるからです。経典はいいます「人々よ、カリ・ユガに匹敵する時代などありえない!」スマラ
ナとチンタナだけで神に到達しうるのです。スマラナとはつねに神を心にとどめておくこと、チンタナはたえ
ず神の栄華に想いをはせることです。おおぜいの人が、カリ・ユガの間にこの世の終末の大洪水をみることに
なると恐れています。また現在いたるところで紛争がおきていることから、カハラ・ユガ、戦争の時代と呼ぶ
人もいます。いいえ違います。この時代には神を求める人々や、ヴィヴェーカを獲得し身につけるには黄金の
時代なのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
◇
個人の努力と神の恩寵、そのどちらもが大切です。シャンカラは言いました「*イシュワラ
エヴァ
プムサム
アドワイタ
157p)
アヌグラハト
ヴァサナ―――神の恩寵を通じてのみ、人は大宇宙の非二元性にたいする情
熱を育むことができる」唯一無二なるものへの情熱です。唯一なるものを見ること、それがジュナーナ(霊性
の英知)であり、ジュナーナのみがカイヴァリヤム(解放)を授けます。(*Ishwara anugrahath eva pumsam ad
waitha vasana)
これまでに求めてきたものを全部書きだしてごらんなさい。とるにたらないものや一過性の名誉、はかない
名声ばかりを求めてきたことが分かるでしょう。神のみを、自らの浄化と成就のみを求めなさい。6つの頭の
コブラが内にひそみ、あなたの心を毒していることをこそ嘆きなさい。6つの頭とは、欲望、怒り、貪欲、執
着、傲慢、悪意です。蛇使いが笛を使ってするように、それらを静かにさせなさい。静かにさせる旋律とは、
神の御名を高らかに歌いあげることです。そしてうっとり聴きいり、動くことも傷つけることもできなくなっ
たところを、蛇使いがするように首をおさえて毒牙を引き抜くのです。そのあとではそれらは遊び道具も同然
です。思うがままに扱えます。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
55p)
◇
新聞は世界がどれほど愚かであるか、どれほど英雄的行為が少ないか、どれほど名誉がはかないものかを知
るために読みなさい。伝えられた情報の中にそれを読みとったならわきにおしのけるでしょう。味気ない紙く
ずにすぎないからです。それと同じで一度だけ生きなさい。一度だけ生まれるために生きなさい。にせの愛着
が喜び悲しみの混じりあったこの幻惑の世界に何度もあなたを誕生させるほど、この世に恋してしまってはい
けません。すべては神の監督する劇にすぎないと知りながら、この世とのかかわりあいから一歩ひき、少し離
れていないかぎり、巻きこまれすぎてしまう危険があります。世界を犠牲心、奉仕、心の拡大、感情の浄化の
ための訓練場として活用しなさい。この世の価値とはそれだけのものです。
(サティア・サイ・スピークス7
4.完全なる帰依
―――
67p)
霊的解脱、命のゴールに達するために
帰依なくして解脱はありえません。小さな「私」にしがみついているかぎり、監獄の4つの壁は頭上に迫っ
てきます。「私」を消しさればあなたは自由です。「私」を消滅させるにはどうしたらよいでしょう。自らを
神の御足に捧げこう言いなさい、「私」ではなく「あなた」です―――それであなたはのしかかる重荷から自
由になります。つねにニランジャナ―――広大、無限の神―――とともにいなさい。絶対なるものと溶けあう
ことを夢見、意志しなさい。超越者、限りない者からの呼び声で耳を満たしなさい。壁や柵、錠前、鍵、鎖を
超えなさい。自らの無限性に心をさだめることでたやすくなしとげられるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス2
28
224p)
◇
◇
◇
◇
あなた方はたったひとつの目的のために生まれてきました。死ぬためです。つまり「私」を死にいたらしめ
るためです。ブラーマ(幻想)が死を迎えたとき、あなたはブラーフマン(至高の魂)になります。むしろ、
あなたがブラーフマンであることを知る、といえるでしょう。経典、修行、ヤジナ、教えの数々は、どれもみ
な真のあなたの姿が見えるよう、目の前に鏡をすえるためのものにすぎません。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
242p)
◇
人には他との違いをきわだたせる独自の資質があります。ティアガ、手放し放棄し犠牲にする能力、意欲で
す。高次の目的のためにこの資質が授けられました。
その目的とは実際何のことでしょう。ヴェーダはそれを明確に示しています。「不死は放棄によってのみ獲
得される」死ではなく不死であること、それが純然たるダルマであり人間性の本質です。だからこそ人類は創
造物の頂点に位置するのです。しかし人はこの尊い資質を失い、利己心の奴隷になって生きています。エゴ(ス
ワルタ)に執着すると、より高次の意識レベル(パラルタ)とのつながりを失います。その結果、真理(ヤタ
ルタ)を逃すことになります。そして真理を逃してしまえば、相矛盾する結末(ナナルタ)に対面することに
なるのです。この思考プロセスの惨事(アナルタ)が、山のような精神的混乱(アシャンティ)につながりま
す。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
65p)
◇
肉体や心を捧げるといういいまわしは伝統的、慣例的に用いられてきたものにすぎません。捧げる行為はア
ートマ・アルパナとしてしばしば重要視されてきましたが、行いとして表現するのはさらにばかげたことです。
あなた方は本来アートマであるというのに、どうやってアートマがアートマに捧げることができるでしょう。
「肉体は五元素でなりたつ。衰えゆくのは避けられない。しかし肉体の内に宿る者には誕生も死もなく、欲望
も絶望も、執着も束縛もない。事実その内在者とは、アートマとして肉体に宿る神々の中の神である」これが
求道者たちが求めてきたことです。ですからアートマ・アルパナとは意味をなさない言葉です。あなたの内に
は神に捧げる「あなたのもの」などまったく何もないのです。
では自らを捧げるとは、何を意味し示唆しているのでしょう。神の遍在を体験すること、神それのみである
と知ること―――それが真の帰依です。あらゆるもの、あらゆるところにつねに神を見る、それが真のシャラ
ナガティです。神が享受し、神が体験する。もしもあなたが捧げ、神が受けとるなら、あなたが上位について
しまいます。それでは神が全能とはいえません。仰々しいいいまわしで神の栄華を減じてしまってはいけませ
ん。
(サティア・サイ・スピークス15
29
147-148p)