~みんながつながる バトンをつなげる 四日野90周年~

<家庭数>
第2 号
平成27年4月30日発行
品川区立第四日野小学校
校長
青木
幸代
http://school.cts.ne.jp/hino4/
~みんながつながる バトンをつなげる 四日野90周年~
皆様のおかげで、今年度、第四日野小学校は90周年を迎えました
5月24日
校長
青木 幸代
風薫る五月、校庭には抜けるような青空のもと、地域の方から寄贈いただいた鯉のぼりが
悠々と泳いでいます。
『みどりの丘をめぐらして 桐の花咲く日野の里』と校歌に歌われるほどの田園地帯であっ
たこの辺りですから、家々に鯉のぼりが泳いでいた時代はさぞのどかな景色であったことでし
ょう。90周年を迎える今年、時間を見つけては古い資料にあたっているためか、何事につけ、
「昔の四日野ではどうだったかしら?」と思いを馳せることが多くなっています。
さて、四日野の歴史を遡ったとき、わたしたちが決して忘れてはならない出来事がこの5月
にありました。今月はそのことを記したいと思います。
そのこととは、今からちょうど70年前、太平洋戦争の真っただ中にあった昭和20年の
5月24日早暁、空襲により校舎が全焼してしまったことです。
「・・・先生や地域の人々は、自分の家は焼けても学校だけは守ろうと、あとからあとか
ら落ちてくる焼夷弾をほうきで叩き消したり、バケツリレーで水をかけたりして火を消
しました。
・・中略・・けれど夜明けにはまた燃え出し、校舎は全部燃えてしまいました。
」
(開校80周年記念誌より抜粋)
多くの子どもたちはこの時までにすでに都下に疎開をしていて、直接に空襲に遭うことはな
かったようですが、焼け野原となった学校を見た子どもたちはどんな想いだったでしょうか。
校舎が焼けてなくなってしまった場所にはその後、焼け出された人々が住まうためのバラッ
ク住宅ができ、四日野は廃校になりかけました。けれども、
「子どもたちのために四日野を何
が何でも再建したい。
」という保護者・地域の方たちが、戦後の飢餓と混乱の極みであった中
においても、校舎再建のために拠金や労力を出し合い、わずか1年後の昭和21年5月には、
仮校舎が復活しています。
70年前のその夜、消火にあたってくださった方々はもちろんすでにこの世になく、空襲を
体験した方々もかなりのご高齢になられ、お話をお聞きすることが難しくなっています。けれ
ども、否、だからこそ私は、
「雨あられと焼夷弾が降り注いだ」
(開校35周年記念誌より)と
いう中、命をかけて学校を守ろうとしてくださった人々の姿、また、四日野復活に向かった方々
の気持ちに、できる限り思いを致したいと思います。そして戦後70年がそうであったように、
これからの将来においても、今を生きる私たちが、二度と戦争の惨禍を起こさないことで、7
0年前の方々の思いに報いなければならないと心に誓い、そのことを子どもたちに伝え、5月
24日を迎えたいと思います。
校歌の最後は、
『いく千代かけてゆるぎなく 我が学び舎は栄えゆく』で結ばれています。
「ゆるぎなく」を実現するのは、他ならぬ私たちであり、これからを生きる子どもたちです。