1 日本国憲法の制定過程 2015 年 7 月 22 日改訂版

日本国憲法の制定過程
(1)GHQ 草案の執筆者たち
2015 年 7 月 22 日改訂版
改憲派はしばしば、
「日本国憲法はわずか九
水草修治
<アウトライン>
日間で GHQ の素人たちがつくった憲法にすぎ
ない」というが、それは事実なのか。
序
民政局長コートニー・ホイットニー准将。
1 日本国憲法の制定過程概観
(1)日本国憲法関連
略年表
(2)GHQ 草案の執筆者たち
(3)米国務省極東班と戦後計画委員会
(PWC)
運営委員会。コロンビア・ナショナル・ロー
スクール夜間部で法学博士。本職は弁護士。
民政局次長チャールズ・L・ケーディス大佐。
運営委員会と司法権に関する小委員会を兼任。
コーネル大卒、ハーバード・ロースクール卒。
2 「基本的人権尊重」
「国民主権」は明治
の自由民権運動の復活である
(1) 憲法研究会「憲法草案要綱」
(2) 起 草 者 鈴 木 安 蔵 の 思 想 的 源
泉・・・植木枝盛
(3)「象徴」天皇
3 9 条の起源
(1)その発案者は
(2)幣原喜重郎の深謀遠慮
むすび
弁護士。連邦公共事業局服法律顧問など歴任。
ニューディーラー。
民政局法規課長マイロ・E・ラウエル中佐。
運営委員会。司法権に関する小委員会を兼務。
スタンフォード大、ハーバード・ロースクー
ル卒。弁護士。政府諸機関で法律顧問。高野
岩三郎ら「憲法研究会」のメンバーなど、在
野の憲法草案を取り入れる橋渡しをした。
アルフレッド・R・ハッシー中佐。ハーバ
ード大学政治学学士・バージニア大学ロース
クールで法学博士。弁護士。日本国憲法前文
序
の草稿を記述した。文章家。
「日本国憲法は押し付け憲法だ」と喧伝さ
フランク・E・ヘイズ陸軍中佐。立法権に
れているが1、実際のところ、日本国憲法はど
関する小委員会。本職は弁護士。国会に関す
のようなプロセスを経て作成され制定された
る部分を記述。
のであろうか。
そこには、米国側の周到な準備、明治の自
由民権運動の研究者鈴木安蔵の苦闘、そして、
サイラス・H・ピーク博士。行政権に関す
る小委員会担当。コロンビア大学で修士号・
博士号取得。コロンビア大学で助教授。
戦前、軟弱外交と罵られて失脚し、戦後、首
ミルトン・J・エスマン陸軍中尉。行政権に
相に抜擢された平和外交の旗手幣原喜重郎と
関する小委員会担当。コーネル大学卒、プリ
マッカーサーとのやりとりというドラマがあ
ンストン大学で政治学と行政学で博士号。合
った。そうして生まれた日本国憲法の三大原
衆国人事院で行政分析担当官。
理は<基本的人権尊重・国民主権・戦争放棄
>である。
ピーター・K・ロウスト陸軍中佐。人権に
かんする小委員会担当。オランダのライデン
大学医学部卒。シカゴ大学で社会学と人類学
1
1
日本国憲法制定の過程の概観2
たとえば、西修『日本国憲法を考える』(文芸春
秋社、1999 年)第二章「成立過程の『自己欺瞞』
とは」また、児島譲『史録 日本国憲法』を見よ。
2日本国憲法の制定過程にかんする基本的資料は、
高柳賢三・大友一郎・田中英夫編『日本国憲法制
定の過程』(有斐閣)。新資料をふまえたものは、
原秀成『日本国憲法制定の系譜』全三巻(日本評
論社、2004,2005,2006 年)である。小さな本で新
資料をふまえたものは、鈴木昭典『日本国憲法を
生んだ密室の九日間』(創元社、1995 年)。本書は
GHQ 草案に先立つ営みと、GHQ 民政局による憲
法作成を詳細にレポートしていて興味深い。
1
で博士号。
る。
ハリー・エマソン・ワイルズ。人権にかん
1944 年 2 月
戦後計画委員会(PWC)
する小委員会。ハーバード大学で経済学卒。
ペンシルベニア大学で博士号。テンプル大学
で人文学博士号。
が設置。
1945 年 8 月 14 日
ポツダム宣言受諾。
9 月 27 日
ベアテ・シロタ嬢。人権にかんする小委員
(以降Mと略記)を訪問。
会。特に女性の人権の項目を担当。日本生活
10 月 9 日
の実体験があり、六ヶ国語を駆使して諸国憲
10 月 11 日
法の人権条項を調査・起案した。
幣原内閣成立
Mと幣原首相の面談。
Mは婦人解放など五大改革
その他、多士済々であって、押し付け憲
法論者たちがいうような「素人集団」では
昭和天皇、マッカーサー
を幣原首相に指示、
10 月 25 日
憲法問題調査委員会(松
ない。日本国憲法の原案である GHQ 草案
本 委 員 会 ) 設 置 。
の源流のひとつは、開戦直後からの入念な
→国体護持を最優先課題。
研究に基づいて知日派の米国知識人たちが
→Mが天皇に関する議論OK
準備した占領計画を背景としている。
「短時
日で素人たちが作り上げた」というのは、
デマの類である。
12 月 8 日
松本国務相、憲法改正四原
則を表明。
12 月 26 日
憲法研究会「憲法草案要
綱」
(儀礼的天皇・国民主権・人権尊重)発表。
(2)日本国憲法関連
略年表
米国の日本占領政策には二つの指針があっ
モスクワでの米英ソ中外相会議で極東委員
会(FEC)を 46 年 2 月 26 日に創設を決定。
た。一つは、ポツダム宣言であり、もう一つ
1946 年 1 月 1 日
は SWNCC3-150「降伏時におけるアメリカの
1 月 24 日
初期対日指針」である。これらは日米開戦直
お礼にMを訪問。天皇維持と戦争放
後から準備されてきたものを背景としている。
棄を憲法に盛り込むことで合意。
1928 年 8 月 27 日
パリ不戦条約(ケロッグ・
1 月 25 日
ブリアン協定)締結。米
擁護」の電報を打つ。
国はじめ 15 カ国が国策
2 月 1 日
の手段としての戦争の放
改正案をスクープ
棄を宣言する。日本の全
2 月 3 日
権代表は幣原喜重郎。
M憲法改正三原則(天皇元首・戦争
1942 年 8 月
太平洋戦争開始直後、米国
幣原首相がペニシリンの
Mがワシントンへ「天皇
毎日新聞が松本委員会の
ホイットニー民政局長、
放棄・封建制度廃止)を示して、民
国務省内に極東班が設置
政局に草案作成を命ず。
され、日本全面降伏後の
2 月 4 日
政策について研究を始め
業を開始→2 月 10 日成案。
2 月 8 日
3
天皇、人間宣言
1945(昭和 20)年 10 月 8 日付けで国務・陸・
海軍三省調整委員会(SWNCC (State-War-Navy
Coordinating Committee))の下部組織である極東
小委員会がまとめた資料。これをもとに翌年 1 月 7
日付けの日本の憲法改正に関する米国政府の公式
方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が
作成される
GHQ民政局
条文化作
日本政府松本委員会「憲
法改正要綱」を GHQ に棚上げされる。
2 月 13 日
ホイットニー民政局長ら、
GHQ 草案を吉田外相・松本国務大臣
らに手渡す。
2 月 22 日
幣原首相は受け入れを閣
2
議決定。→GHQ 案を邦訳作業。
則から独立させる。軍事力は「日本がふた
2 月 26 日
たび国際平和の障害になることを防ぐ」。
極東委員会発足。
3月4日
政府案を GHQ に否定さる。
「日本の軍備撤廃」「重工業の抑制」「常設
3月5日
GHQ 原案で対訳作業を徹夜
の国際軍事査察組織の設立」などを考慮す
で完成し、
「憲法改正草案要綱」完成。
べきである。・・・言論の自由、憲法改正、
3月6日
教育改革にも触れる6。
政府は緊急記者会見で「憲
法改正草案要綱」発表。
天皇は「憲法改正発議」勅語を発出。
T354「戦後日本経済の考察」(1943 年 7
4 月 10 日
月 21 日)フィアリー
戦後初の衆議院総選挙。
30人を超える女性議員が選ばれる。
4 月 17 日
「日本は経済的安定のために国内改革を
憲法改正草案発表。
遂行せねばならない。地主制と小作制度は
5月3日
極東国際軍事裁判所開廷。
長年の積弊であり、農地改革の必要は日本
5 月 16 日
第90回帝国議会が開か
国内でも認められている。しかし終局的に
れる
は農村の過剰人口を工場労働者として吸収
5 月 22 日
第一次吉田茂内閣成立。
する以外に解決はない。産業部門について
6 月 20 日
憲法改正案、帝国議会に
は、約七割の工業生産と貿易を支配する四
提出。
7 月 2 日
台財閥とその他数個の財閥を解体せねばな
らない。7」・・・農地改革、財閥解体の必
極東委員会、憲法に国民
主権を明示することを求める。
10 月 7 日
帝国議会、憲法改正成立。
11 月 3 日
日本国憲法発布。
1947 年 5 月 3 日
要
T358「日本、最近の政治的発展」(1943
年 7 月 28 日)ヒュー・ボートン
日本国憲法施行。
「軍部への優先や、東条首相のもつ独裁的
(3)米国の用意周到な戦後統治計画・・・
権力の集中は、明治 22 年発布の、君主制が
米国務省極東班(1942 年 8 月)と戦後計画委
確立された大日本帝国憲法の枠組みの中で
員会(PWC41944 年 2 月)
達成された。」
日米開戦の翌年 1942 年 8 月、米国国務省
「陸軍大臣と海軍大臣は天皇に直接奏上す
内に極東班が設置され、戦争後、日本の無条
るという慣習が認められている。したがっ
件降伏を前提として戦後処理についていかな
て両大臣は、奏上した軍事的に重要なこと
る方針で臨むかの研究が開始された。研究に
以外を内閣総理大臣に報告する。この軍部
携わった人々は知日派・親日派知識人5たちで
の独立した権限は、大日本帝国憲法の第十
あったことは、戦後の米国の対日政策に大き
一条(統帥大権)と第十二条(編制大権)
な影響を与える。
で明白にされている。」
「その結果、軍部は政治的に力を持つこと
T357「日本の戦後処理に適用すべき一般原
になり、軍事的な政策、方針を政府に強要
則」(1943 年 7 月 28 日)ブレイクスリー
することができた。」
満州・朝鮮・台湾は国家と民族自決の原
4
Post-War Programs Committee
5 彼らは共通してラフカディオ・ハーンの愛読者
であったという。
「陸海軍大臣現役武官制は、軍の好まぬ政
6
鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』
(創元社、1995 年)p80
7 鈴木昭典同上p82
3
策を内閣が遂行することを阻止できた。」8
・ ・・・統帥権の独立が問題だった点を指
る。すなわち、領土的目的、軍事的手目的、
経済的・財政的目的、政治的目的、終極的目
的という 5 項目にわたって、実質的にポツダ
摘
ム宣言の内容と重なっている。
T381「日本の戦後の政治問題」(1943 年
10 月 6 日)ヒュー・ボートン
以上のように、GHQ憲法草案はきわめて
用意周到に準備されていた。
「軍部が二度と優位を奪えないように、日本
の国内政治体制は再編制されなければならな
3 「基本的人権尊重」
「国民主権」は明治自
い。」と制度変革の必要を述べている。その骨
由民権運動の復活である
子はGHQ憲法草案の原則がすべて記されて
(1)憲法研究会の「憲法草案要綱」
1945 年 10 月 4 日、マッカーサーは、近衛
いる。
① 内閣強化と軍部の抑制
文麿元首相と会談し、憲法の改正について示
② 議会の強化
唆を与えた。そこで、近衛は佐々木惣一元京
③ 天皇制の存続と改正
大教授とともに憲法改正の調査に乗り出す。
④ 報道の自由と権利章典(基本的人権の尊
さらにマッカーサーは、10 月 11 日、幣原首
重)9
1944 年 2 月
相との会談において、
「憲法の自由主義化」に
戦後計画委員会(PWC)が
触れたので、幣原内閣は、憲法改正に対応す
設置される。Tシリーズを基礎として、占領
ることになった。こういうわけで松本烝治国
政策に具体的に反映する前提でCAC『国と
務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会
地域の諸委員会』文書として書きなおされて
(松本委員会)が 10 月 25 日に設置された。
いく。特に注目されるのは CAC116『米国の
だが、翌年 2 月 1 日、松本委員会が GHQ
対日戦後目的』(1944 年 3 月 14 日)。先にあ
に提出する予定の「憲法改正要綱」が毎日新
げたブレークスリー「日本の戦後処理に適用
すべき一般原則」をもとにしたもの。ここに
はポツダム宣言 10の主要条項が網羅されてい
8
鈴木昭典同上pp84,85
鈴木同上p85
10
ポツダム宣言の後半は下記のごとし。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セ
ラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生
シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国
民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤
ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラ
レサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争
遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル
マテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点
ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保ス
ルタメ占領セラルヘシ
八、
「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本
国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ
決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後
各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ム
ノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又
ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スル
9
モノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一
切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラル
ヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主
義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去ス
ヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊
重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物
賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持ス
ルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再
軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ
在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ
区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関
係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自
由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任
アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍
ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無
条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意
ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府
ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全
ナル壊滅アルノミトス
(出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下
巻 1966 年刊)
4
聞にスクープされた。その内容は、帝国憲法
の通りである。
と本質的に変わるところがない旧態依然たる
Ⅰ
ものだった。
Emperor is at the head of the state.
(松本委員会)憲法改正要綱
His succession is dynastic.
第一章
His duties and powers will be exercised in
一
天皇
第三条ニ「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラ
accordance with the Constitution and
ス」トアルヲ「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラ
responsive to the basic will of the people as
ス」ト改ムルコト
provided therein.
四
第九条中ニ「公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及
II
臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令」ト
アルヲ「行政ノ目的ヲ達スル為ニ必要ナル命
令」ト改ムルコト(要綱十参照)
五
第十一条中ニ「陸海軍」トアルヲ「軍」
ト改メ且第十二条ノ規定ヲ改メ軍ノ編制及常
備兵額ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムルモノトスルコ
ト(要綱二十参照)
第二章
臣民権利義務
八 第二十条中ニ「兵役ノ義務」トアルヲ「公
益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務」ト改ムル
abolished. Japan renounces it as an
instrumentality for settling its disputes and
even for preserving its own security. It
relies upon the higher ideals which are now
stirring the world for its defense and its
protection.
No Japanese Army, Navy, or Air Force will
ever be authorized and no rights of
belligerency will ever be conferred upon any
コト
九
War as a sovereign right of the nation is
第二十八条ノ規定ヲ改メ日本臣民ハ安寧
秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有スル
Japanese force.
III
モノトスルコト
The feudal system of Japan will cease.
第三章
No rights of peerage except those of the
十三
帝国議会
第三十三条以下ニ「貴族院」トアルヲ
Imperial family will extend beyond the lives
「参議院」ト改ムルコト
of those now existent.
十四
No patent of nobility will from this time
第三十四条ノ規定ヲ改メ参議院ハ参議
院法ノ定ムル所ニ依ル選挙又ハ勅任セラレタ
forth embody within itself any National or
ル議員ヲ以テ組織スルモノトスルコト
(2)GHQ 憲法案の背後には憲法研究会「憲
法草案要綱」があった。
①マッカーサー三原則
これを受けて、マッカーサーは 2 月 3 日、
憲法改正三原則をGHQ民政局に命じ、翌日
から民政局はひそかに憲法改正案の条文化作
業を始めた。「マッカーサー三原則11」は下記
11
Ⅰ
天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲され
る。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使
され、憲法に表明された国民の基本的意思に応え
るものとする。
Ⅱ
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛
争解決のための手段としての戦争、さらに自己の
安全を保持するための手段としての戦争をも、放
棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動
かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空
軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、
交戦権が日本軍に与えられることもない。
Ⅲ
日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇
族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。
華族の地位は、今後どのような国民的または市民
的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、
イギリスの制度に倣うこと。
(訳文は Wikipedia)
5
Civic power of government.
室伏・岩淵は中道的で反共派であり、馬場も
Pattern budget after British system.
左翼というよりは自由主義者であった。社会
主義的な考えをもっていたのは、高野と森戸
Copyright©2003-2004 National Diet Library All
Rights Reserved.
と起草者の鈴木。
高野岩三郎の強い勧めにしたがって在野の
憲法研究者であった鈴木安蔵が第一案を起草
2 月 8 日松本委員会はマッカーサーに憲法
し、上記メンバーによる研究会の討議を経て
改正要綱を提出するも拒否される。民政局は
第二案、さらに討議されて第三案(最終案)
2 月 10 日に成案を得た。
が完成している。
当時、天皇に対する考え方はだいたい三つ
②憲法研究会「憲法草案要綱」
あった。
「その第一は、国家主権論に基づく天
実は、この GHQ 草案をこれほど早く作成
皇機関説の立場から、行政の首長としての天
することが可能であったのは、ふたつ理由が
皇をみとめよう、というものであった。第二
あった。第一の理由は、すでに述べたように、
は、主権は天皇をふくむ国民共同体にあると
日米開戦直後からの米国による戦後政策研究
考え、儀礼的精神的存在として天皇を残そう
があったからである。第二の理由は、日本人
とするもので、いわゆる『シンボルとしての
の手になる憲法改正の民主的な草案が、GHQ
天皇』制論と呼ばれた見解である。そして第
の手元にあったからである。すでに、民間で
三の立場が、いかなる意味においても天皇を
はさまざまな団体・新聞が憲法改正案を発表
みとめず大統領をもって元首とせよ、と主張
しており12、GHQはこれを手に入れて逐次
する共和制論であった。」14。高野は天皇制廃
翻訳・閲覧していた。
止・共和制の立場であったが15、憲法研究会の
http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/r
多数意見は、第二の「主権在民・象徴天皇制」
evision.html#s3
となった。
そのなかで、格別に日本国憲法に直接的影
響を及ぼしたのが、憲法研究会(事務局
鈴
木安蔵)による「憲法草案要綱」である。
憲法研究会は、1945(昭和 20)年 10 月 29
平和主義については「国民ハ民主主義並平
和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民族ト
ノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス」と表現されて
いる。
日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野
そして 11 月末に第一案を公表し、12 月 26
岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準
日、最終案「憲法草案要綱」として、同会か
備・研究を目的として結成された。事務局を
ら内閣へ届け、記者団に発表された。
憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森
孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した13。
鈴木安蔵はかつて京都帝大生の時代、1925
年マルクス主義に傾倒して、京都学連事件で
12
共産党、自由党、進歩等、社会党、憲法研究会、
憲法懇談会、大日本弁護士会連合会、東京帝国大
学憲法研究委員会、個人としては高野岩三郎、清
瀬一郎、布施辰治、稲田正次、里美岸雄たちがそ
れぞれに 1945 年 11 月から 1946 年 6 月にかけて
憲法改正案を発表している。
13 高野岩三郎(元東京帝国大学教授・大原社会問
題研究所初代所長、のちにNHK会長) 馬場恒
吾(評論家、戦後一時読売新聞社長) 杉森孝次
郎(評論家、元早稲田大学教授)森戸辰男(元東
京帝国大学助教授、46 年 4 月に衆議院議員、のち
治安維持法逮捕第一号となって投獄された人
に片山内閣の文部大臣)岩淵達雄(評論家、元読
売新聞政治記者) 室伏高信(評論家、雑誌発行
者、元朝日新聞記者)、鈴木安蔵のみが在野の憲法
研究者であった。後に静岡大学教授に就任した。
14 大内兵衛ほか『高野岩三郎伝』
(岩波書店、1968
年)p389
15 天皇制廃止を唱える高野は個人として『日本共
和国憲法私案要綱』を作成した。
6
物である。彼は、その後、マルクス主義の輸
一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼
入ではなく、日本に生まれた明治の自由民権
ヲ司ル
運動に学ぶべきであると考え、日本の憲法史
一、天皇ノ即位ハ議会ノ承認ヲ経ルモノトス
の研究にいそしんできていた。鈴木は、起草
一、摂政ヲ置クハ議会ノ議決ニヨル
の際の参考資料として、明治 15 年に起草され
国民権利義務
た植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』、土佐立
一、
志社の『日本憲法見込案』など、日本最初の
ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス
民主主義的結社自由党の母体たる人々の書い
一、爵位勲章其ノ他ノ栄典ハ総テ廃止ス
たものを初めとして、私擬憲法時代といわれ
一、国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ妨ケル
る明治初期、弾圧に抗して情熱を傾けて書か
如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス
れた二十余の草案、また外国資料としては
一、国民ハ拷問ヲ加へラルルコトナシ
1791 年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、
一、国民ハ国民請願国民発案及国民表決ノ権
ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法
利ヲ有ス
を参照したとしているが、読んでみれば『憲
一、国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
法草案要綱』は植木枝盛の影響が圧倒的であ
一、国民ハ労働ニ従事シ其ノ労働ニ対シテ報
るという印象を受ける。
酬ヲ受クルノ権利ヲ有ス
同要綱の冒頭の根本原則では、
「統治権ハ国
国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ出生又
一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営
民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定し国
ム権利ヲ有ス
民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家
一、国民ハ休息ノ権利ヲ有ス国家ハ最高八時
的儀礼ヲ司ル」として儀礼的天皇の存続を認
間労働ノ実施勤労者ニ対スル有給休暇制療養
めた。また人権規定においては、
『国家ノ安寧
所社交教養機関ノ完備ヲナスヘシ
秩序ヲ妨ゲザルカギリニオイテ』という留保
一、国民ハ老年疾病其ノ他ノ事情ニヨリ労働
が付されることはなく、具体的な社会権、生
不能ニ陥リタル場合生活ヲ保証サル権利ヲ有
存権が規定されている。このように憲法研究
ス
会の憲法草案要綱の基本構造は、象徴天皇
一、男女ハ公的並私的ニ完全ニ平等ノ権利ヲ
制・基本的人権の尊重・国民主権という日本
享有ス
国憲法の基本構造そのものである。
一、民族人種ニヨル差別ヲ禁ス
下記の国会図書館のサイトを見れば、憲法
一、国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完
草案要綱全文を写真版でも読むことができる。
成社会道徳確立諸民族トノ協同ニ努ムルノ義
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/
務ヲ有ス
052shoshi.html
(以下に記された、議会、内閣、司法、会計
及財政、経済および補則は省略した)
憲法草案要綱
抜粋
憲法研究会案
③GHQ 民政局が「憲法草案要綱」に注目した
高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰
背景
男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵
この憲法研究会の「要綱」には、GHQが
根本原則(統治権)
強い関心を示し、これを英語に翻訳するとと
一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス
もに、民政局のラウエル中佐 16から参謀長あ
一、天皇ハ国政ヲ親ラセス国政ノ一切ノ最高
責任者ハ内閣トス
16
ラウエルはホイットニー、ケーディス、ハッシー
らと同じく実務経験をもつ法律家であった上に、
7
てに、その内容につき詳細な検討と高い評価
している。
を加えた報告書が提出されている。また、政
「この憲法研究会案と尾崎行雄の憲法懇談会
治顧問部のアチソンから国務長官へも報告さ
案は、私たちにとって大変参考になりました。
れている。こうして憲法研究会案はGHQの
実際これがなければ、あんなに短い期間に草
英文日本国憲法の骨子となっている。
案を書き上げることは、不可能でしたよ。こ
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/
こに書かれているいくつかの条項は、そのま
060shoshi.html
ま今の憲法の条文になっているものもあれば、
.
ラウエル中佐の証言がミズーリ州のトルー
マン・ライブラリーに保管されている。
いろいろ書き換えられて生き残ったものもた
くさんあります。19」
「私は民間グループから提出された憲法に感
また民政局内での議論のなかでは、ケーデ
心しました。これで(憲法改正が)大きく進
ィスは次のように述べている。
展すると思いました」
「私はこの民間草案を使
「しかしアメリカの政治イデオロギーと、日
って、若干の修正を加えれば、マッカーサー
本の中での最良、または最もリベラルな憲法
最高司令官が満足しうる憲法ができると考え
思想の間には、日本政府案との不一致ほどの
ました。それで私も民政局の仲間も安心した
ギャップはないと思う20」
のです。『これで憲法ができる』と」。
さらに、ラウエル中佐は「民間の『憲法研
憲法研究会のものが特に民政局のラウエル
究会』草案について、ケーディス(陸軍大佐・
の目に止まり、GHQ 草案作成上、格別の影響
民政局次長)たちと話し合ったことについて
を持ったのには、実は、背景があった。ラウ
も、次のように述べている。
エルは起草者の鈴木安蔵と面識はなかったが、
「たしかに話しました。憲法研究会の草案
「鈴木安蔵と植木枝盛は、ラウエルが来日し
に関する私のリポートをケーディスと議論し
た当初からもっとも注目してきた名前であっ
ホイットニー准将(民政局長)に提出する前
た21。」というのは、ラウエルは鈴木の『現代
に彼の承認を受けたはずです。私たちは確か
憲政の諸問題』の巻頭論文「日本独特の立憲
にそれを使いました。私は使いました。意識
政治」の英訳されたものを来日前に読んでい
的あるいは無意識的に影響を受けたことは確
たからである。ラウエルはこれをカナダの外
かです」17。
交官であり当時最もすぐれた日本研究者であ
また、GHQ の憲法草案の中心となったケー
ったハーバート・ノーマン 22から借りたが、
ディス大佐は、憲法研究会の「憲法改正案要
実は、ノーマンはこの本を親交のあった鈴木
綱(ママ)」があったから、アメリカ側は九日
安蔵から借りていたのだった。ノーマンは、
間で憲法草案を作成することができたのだ、
明治に植木枝盛という偉大な民主主義者がい
と回想している 18。鈴木昭典はケーディスに
たこと、そして、鈴木安蔵がその研究者であ
インタビューした際のことばを次のように記
ることを知悉していた。こうしてノーマンを
シカゴ大学で民政訓練学校において、明治憲法と
日本の政治制度の研究をし、その専門家として訓
練された人物だった。
(小西豊治、前掲書 pp101-102)
17 NHKの番組「NHKスペシャル日本国憲法の
誕生」(2007 年 4 月 29 日放送 DVD あり)アメリ
カ・ミズーリ州のトルーマン・ライブラリーに保
管されているラウエル中佐の録音テープ再生の番
組の字幕による。
18 伊藤成彦
『物語日本国憲法第九条』
(影書房 2001
年)p32
介して渡された件の論文によって、ラウエル
の中に鈴木安蔵と植木枝盛の名がセットで刻
まれることになった。ラウエルは鈴木の件の
鈴木昭典、同上書 p150
鈴木昭典、同上書p196
21 小西豊治『憲法「押し付け」論の幻』p105
22 在日カナダ人宣教師ダニエル・ノーマンの息子。
軽井沢で生まれた。
19
20
8
論文の英訳されたものを民政局の同僚たちに
だが、敗戦後、ひとたび葬られていた民権主
も回覧して読ませたチェックリストが残され
義が民主的立憲君主制の日本国憲法というか
ている23。
たちで復活してきたのである。
憲法研究会の鈴木安蔵がものした憲法草案
家永三郎は次のように指摘している。
「日本
要綱が発表されたとき、ラウエルと民政局が
国憲法は、植木枝盛草案ときわめてよく似て
ただちにこれに注目して英訳したのには、こ
いる。主権在民、基本的人権の保障、地方自
のような背景があった。
治の確立、みなしかり。その平和主義は枝盛
の『無上政法論』と精神を同じくする。男女
④『憲法草案要綱』と GHQ 草案
同権、家の廃止を確信とする新民法は、枝盛
事実、鈴木安蔵らの手になる「憲法草案
の家制度改革論と寸分たがわない。枝盛の政
要綱」の内容は、GHQ 草案に酷似する。先
治上、社会上の改革論は、日本国憲法体制の
に掲げた憲法研究会案のうち、根本原則と
青写真であり、半世紀前に国民が臨みながら
して述べられる<国民主権、天皇の位置づ
実現しえなかった期待が、敗戦という不幸な
け、基本的人権>が述べられているところ
まわり道をたどって実現したと見るのは、決
を振り返られたい。
して強弁ではない。
・・・
(中略)
・・・日本国
憲法について言うならば、その原案となった
1946 年 2 月 13 日、GHQ 民政局は英文の
いわゆる GHQ 草案の作成に当り、占領軍は
日本国憲法草案を日本側に渡した。松本委員
日本人有志の憲法研究会の草案を参考として
会にとっては青天の霹靂だった。もっとも首
その内容を取り入れているのであり、かつ、
相幣原喜重郎首相のみは、マッカーサーとの
その憲法研究会草案は、戦前におけるほとん
やりとりで、内容について相当承知の上であ
ど唯一人の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵
ったという観測(堤堯)もあって、筆者はそ
が植木枝盛草案その他を参考にして起草した
れが的を射ていると思う。松本委員会は知ら
ものなのであるから、日本国憲法と植木枝盛
なかったが、この英文新憲法の骨子は、日本
草案との酷似は、単なる偶然の一致ではなく
人からなる憲法研究会「憲法草案要綱」だっ
て、実質的なつながりを有するのである。24」
植木枝盛「東洋大日本国国憲案 25」から抜
たのである。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/
粋しておく。
076shoshi.html
●基本的人権の保障に関する条項
第五条
日本国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺
(2)
「憲法草案要綱」起草者、鈴木安蔵の思
減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス
想的源泉・・・植木枝盛
第六条
鈴木安蔵のおもな思想的源泉は、植木枝盛
日本国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干
渉スルコトヲ施スヲ得ス
の「東洋大日本国憲案」をはじめ、明治時代、
第四十条
日本ノ政治社会ニアル者之ヲ日本
弾圧下に自由民権運動のなかで起草された
国人民トナス
数々の民間憲法草案であった。明治時代に国
第四十一条
権主義と民権主義のたたかいがあったが、結
スルカ及自ラ諾スルニ非サレハ日本人タルコ
局、国権主義が勝利を収めて、外見立憲君主
トヲ削カル丶コトナシ
日本ノ人民ハ自ラ好ンテ之ヲ脱
制(実質専制君主制)の帝国憲法ができた。
24
23
小西豊治同上書 p108
植木枝盛『植木枝盛選集』
(家永三郎編
庫)解説 pp321,322
25 植木同上書 pp85-111
岩波文
9
第四十二条
日本ノ人民ハ法律上ニ於テ平等
トナス
第四十三条
第六十一条
日本人民ハ法律ノ正序ニ拠ラス
シテ室内ヲ探検セラレ器物ヲ開視セラル丶コ
日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ自
トナシ
由権利ヲ犯サレサルヘシ
第六十二条
第四十四条
ザルベシ
日本ノ人民ハ生命ヲ全フシ四肢
ヲ全フシ形体ヲ全フシ健康ヲ保チ面目ヲ保チ
第六十三条
地上ノ物件ヲ使用スルノ権ヲ有ス (レ脱)
自由トス
第四十五条
第六十四条
日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖
モ生命ヲ奪ハサルヘシ
コトヲ得
第四十六条
第六十五条
日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ何
日本人民ハ信書ノ秘密ヲ犯サレ
日本人民ハ日本国ヲ辞スルコト
日本人民ハ凡ソ無法ニ抵抗スル
日本人民ハ諸財産ヲ自由ニスル
等ノ刑罰ヲモ科セラレサルヘシ又タ法律ノ外
ノ権アリ
ニ於テ麹治セラレ逮捕セラレ拘留セラレ禁錮
第六十六条
セラレ喚問セラル丶コトナシ
其私有ヲ没収セラル丶コトナシ
第四十七条
第六十七条
日本人民ハ一罪ノ為メニ身体汚
日本人民ハ何等ノ罪アリト雖モ
日本人民ハ正当ノ報償ナクシテ
辱ノ刑ヲ再ヒセラル丶コトナシ
所有ヲ公用トセラルコトナシ
第四十八条
第六十八条
日本人民ハ拷問ヲ加ヘラル丶コ
トナシ
第四十九条
第五十条
書スルコトヲ得各其身ノタメニ請願オナスノ
日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス
日本人民ハ言語ヲ述フルノ自由
第六十九条
日本人民ハ諸政官ニ任セラル丶
ノ権アリ
日本人民ハ議論ヲ演フルノ自由
権ヲ有ス
第五十三条
リ其公立会社ニ於テハ会社ノ名ヲ以テ其
書ヲ呈スルコトヲ得
権ヲ有ス
第五十二条
権ア
日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スル
モ自由ナリ
第五十一条
日本人民ハ其名ヲ以テ政府ニ上
●革命権
第七十条
日本人民ハ言語ヲ筆記シ板行シ
政府国憲ニ違背スルトキハ日本人
民ハ之ニ従ハザルコトヲ得
テ之ヲ世ニ公ケニスルノ権ヲ有ス
第七十一条
第五十四条
人民ハ之ヲ排斥スルヲ得
日本人民ハ自由ニ集会スルノ権
ヲ有ス
第五十五条
政府威力ヲ以テ壇恣暴逆ヲ逞フスルトキ
日本人民ハ自由ニ結社スルノ権
ヲ有ス
第五十六条
日本人民ハ自由ニ歩行スルノ権
自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ
日本人民ハ住居ヲ犯サレサルノ
民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコト
ヲ得
日本人民ハ何クニ住居スルモ自
第七十三条
由トス又タ何クニ旅行スルモ自由トス
ルヲ得
第五十九条
第七十四条
日本人民ハ何等ノ教授ヲナシ何
等ノ学ヲナスモ自由トス
第六十条
自由トス
政府恣ニ国憲ニ背キ擅ニ人民ノ
日本国
権ヲ有ス
第五十八条
ハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得
第七十二条
ヲ有ス
第五十七条
政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本
日本人民ハ如何ナル産業ヲ営ムモ
日本人民ハ兵士ノ宿泊ヲ拒絶ス
日本人民ハ法庭ニ喚問セラル丶
時ニ当リ詞訴ノ起ル原由ヲ聴クヲ得
己レヲ訴フル本人ト対決スルヲ得己レヲ
助クル証拠人及表白スルノ人ヲ得ルノ権利ア
10
道理あらんや。(後略)26」
リ
● 植木枝盛「如何なる民法を制定す可き
● 皇帝(天皇)について・・・立憲君主制
における無答責の原則
耶」・・・個人の尊重
「その民法を制定するには一民一民を以て社
第一章 皇帝ノ特権
会を編成する者となすや、一家一家を以て社
第七十五条 皇帝ハ国政ノ為ニ責ニ任セス
会を編成する者となすやを一定せざるべから
第七十六条 皇帝ハ刑ヲ加ヘラル丶コトナシ
ず。
・・・かつてつらつらこれを察す天下一民
第七十七条 皇帝ハ身体ニ属スル賦税ヲ免カル
一民を聯(つら)ねて国を成す者あり、けだ
植木枝盛の憲法案
し最もその理を得たるものにして進化の徴に
http://homepage2.nifty.com/kumando/si/si0
あらずんばあらず。一家一家を聯ねて国を成
10515.html
す者あり、理欠くる所ありて進化未だ足らざ
http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/descripti
るものなり。27」
on14.html
まとめると、明治の自由民権運動特に植木
●植木枝盛「男女の同権」
枝盛の主権在民・基本的人権尊重・個人尊重
「男子にして権利あれば婦女もまた権利ある
が、憲法研究会(とくに鈴木安蔵)によって
べし。婦女にして権利なしとすれば、男子も
「憲法草案要綱」に流れ込み、これが GHQ
また権利なしと謂わざるべからず。何となれ
に提出されて、GHQ 草案の骨子となり、それ
ば男女の二者は特に分かってこれを称すれば
が日本国政府に押し付けられたというわけで
こそ爾かく男女と別るれども、そもそも人類
ある。
たるの大段落に至ってはかつて少しも相異な
ることなければなり。同じくこれ人なり、し
(3) 象徴天皇について
かして甲には権利ありとなし、乙には権利あ
2 月 3 日に出された「マッカーサー三原
らずとなす、これ自ら撃切するものと謂わざ
則」においては、天皇にかんしては国家の元
るべけんや。むしろ上帝人を造るの初めにお
首に位置付けられていた。Emperor is at the
いて甲の人の額には『汝権利あるべし』との
head of the state.
七字を印し乙の人の額には『汝権利あらざる
政部の天皇その他を担当した小委員会が作成
べし』との九字を印するなどの約束あらんに
した第一次案には、
「第二条、日本国は皇統が
は、世間あるいはこれを証拠として甲には権
君臨し、天皇は世襲である。皇位は、日本国
利を有せしめ、乙には権利を有せしめざるも
の象徴であり、日本国民統合の象徴であり、
可ならん。ただ上帝の人を造る至公、至正、
天皇は、皇位の象徴的体現者である。天皇の
決して甲の人の額には『汝権利あるべし』と
地位は、主権を有する国民の意思に基づくも
印し、乙の人の額には『汝権利あるべからず』
のであって、それ以外の何ものに基づくもの
と印するが如き、偏仁偏愛なきをいかんせん
でもない」とあった28。「国家の元首」と「象
や。
(中略)それ男もまた人なり、女もまた人
徴 symbol」という表現はかなり違う。
ところが、GHQ 民政局行
なり。男もまた幸福を享けざるべからず、女
にもかかわらず、
「象徴」は第一次案に現わ
もまた幸福を享けざるべからず。あに男子に
れ、民政局内で議論の的になることもなく、
権利ありて、しかして女子には権利なしとの
26
「男女の同権」
(植木枝盛『植木枝盛選集』家永
三郎編、岩波文庫 1974 年)所収pp153,154
27 植木同上書 pp191-192
28 小西豊治『憲法「押し付け」論の幻』p145
11
すんなり合意された。小西豊治の推定によれ
族のふるさとと言うか、日本人全体のお友達
ば 1946 年 1 月に民政局内で回覧され読まれ
である。だから永くつづいてきたのであり、
ていた弁護士布施辰治「打倒?支持?天皇制
本来のその在り方に戻るのが陛下の願いであ
の批判」
(新生活運動社)を背景としているの
った。31」
ではないかという。布施はここで天皇のあり
幣原が「象徴天皇」を発案したというので
かたについて「民の心を酌んで君の心とする」
はないが、たしかに明治から戦前の軍事大
と表現しており、これが上記第一次案の
権・政治大権をもった天皇のあり方は、確か
symbol ということばで表現されたのであろ
に日本の伝統にそぐわない異形のものであっ
うとしている。あるいはそうかもしれない。
た。逆に言えば、明治以降の覇王のような天
さらに肝心なことは、この「象徴」という
皇制が伝統に背くものであったからこそ、数
表現は、すでに前年 12 月 26 日に発表され、
十年で破綻してしまったと言えよう。
民政局が深い関心を寄せていた憲法研究会
「憲法草案要綱」の根本原則第三項、
「1
天
皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を
3
(1)その発案者は
司る」とぴったり内容的に一致する用語であ
ったということである。
第9条の発案
日本国憲法は、憲法研究会の鈴木安蔵が書
いた草案を骨子としてGHQが作成した英文
また、天皇は「象徴」であるという表現は、
憲法草案を邦訳したものである。しかし、憲
憲法研究会で元来共和制論者であった室伏高
法研究会の「憲法草案要綱」には軍隊に関す
信が議論の中で発案・発現したのが最初だと
る定めがなかった。では、憲法 9 条はどこか
いう岩淵辰雄と三宅晴輝の証言があるが、発
ら来たのだろうか? 9 条は誰の発案によるも
言した当人の室伏は記憶になく、鈴木安蔵の
のか。
書記録にも残されていない29。1945 年 12 月、
①マッカーサー発案説
岩淵はこの象徴天皇説を GHQ 憲法顧問コー
一見すると、それは先に述べた「マッカー
ルグローブに伝えた。岩淵は、コールグロー
サー三原則」(マッカーサー・ノート)が出典
ブが民政局に「象徴天皇」を伝えられたのだ
であるかに見える。ここで、
と信じている 30。コールグローブの証言、通
第一項には天皇は元首として存続、
訳者の証言は得られていないが、あるいは、
第二項は戦争放棄・戦力放棄、
そうであったのかもしれない。
第三項では封建制度の廃止
いずれが事実であったにせよ、GHQ 民政局
という三点が指示されている。第二項には、
内には、第一次案が検討されたときには「天
「国権の発動たる戦争は廃止される。日本は、紛
皇を象徴とする」件については、異論は発せ
争解決の手段としての戦争のみならず、自国の
られなかったほどに、すでに彼らは合意して
安全を維持する手段としての戦争も放棄する。日
いたし、それは憲法研究会の「憲法草案要綱」
本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつ
の「天皇は国民の委任によりもっぱら国家的
つある崇高な理想に信頼する。日本が陸海空軍
儀礼を司る」と一致していたのである。
を保有することは、将来ともに許可されることがな
幣原喜重郎が最晩年(昭和 26 年)に述べて
く、日本軍に交戦権が与えられることもない。」と
いることであるが、
「元来、象徴が天皇本年の
書かれている。防衛のための戦争をも禁ずる(こ
姿であり、権力などとは関係はなかった。民
の部分の記述は、当時運営委員会のケーディス
29
30
小西、同上書 pp166-169 参照
小西、同上書 pp172-173 参照
平野三郎『平和憲法の水源』(講談社 1993
年)p136
31
12
の主張によって削除)という部分を除いてほぼ現
約二時間半会談をした。この会談の内容につ
行の憲法第九条と同じである。ちなみにケロッグ・
いて、マッカーサーは 1951 年 5 月 5 日米国
ブリアン条約 32を嚆矢として、今日では憲法にお
上院軍事・外交合同委員会聴聞会で証言をし
33
いて平和主義を掲げる国は 148 に及ぶから 、第
ている。
一項の戦争放棄はめずらしくはないが、第二項
戦力不保持が日本国憲法 9 条の特異性を示して
いる。
GHQ 草案第8条は次のとおり。「国権の発動
「日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、
言ったのです。
『私は長い間熟慮して、この問
題の唯一の解決は、戦争をなくすことだとい
たる戦争は、廃止される。いかなる国であれ他の
う確信に至りました』と。彼は言いました。
国との間の紛争解決の手段としては、武力による
『私は非常にためらいながら、軍人であるあ
威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。陸
なたのもとにこの問題の相談にきました。な
軍、海軍、空軍のその他の戦力を持つ権能は、
ぜならあなたは私の提案を受け入れないだろ
将来も与えられることはなく、交戦権が国に与え
うと思っているからです。しかし、私は今起
られることもない」こちらも現行憲法とほぼ変わら
草している憲法の中に、そういう条項を入れ
ない。昭和憲法の骨格は、マッカーサー・ノート
る努力をしたいのです。』と。
が若干の改変を経てそのまま用いられた。
それで私は思わず立ち上がり、この老人の
両手を握って、それは取られ得る最高に建設
②9 条は幣原喜重郎の発案
的な考え方の一つだと思う、と言いました。
だが、マッカーサーはこの戦争・戦力・交
世界があなたをあざ笑うことは十分にありう
戦権放棄条項を自ら思いついたのか?そうで
ることです。ご存知のように、今は栄光をさ
はなく、九条戦争放棄条項は日本の首相幣原
げすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその
喜重郎の発案であるとマッカーサーは証言し
考えを受け入れようとはしないでしょう。そ
た。(以下は、伊藤成彦氏の「軍縮問題資料」
の考えはあざけりの的となることでしょう。
1995 年所収論文から略述。)
その考えを押し通すにはたいへんな道徳的ス
1946 年 1 月 24 日正午、幣原首相はペニシ
タミナを要することでしょう。そして最終的
リンのお礼としてマッカーサー元帥を訪ね、
には彼らは現状を守ることはできないでしょ
う。こうして私は彼を励まし、日本人はこの
1928 年 8 月 27 日、フランス外相ブリアン
と米国国務長官ケロッグが提唱し、米国、イ
ギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本
など列強諸国 15 カ国が署名し、その後、ソ連
などが加わって合計 63 カ国が署名した。同条
約(pact)では、
「国際紛争解決の手段として
の戦争」
「国策遂行のための戦争」が違法とさ
れた。ただし自衛戦争は対象外と確認された。
33 「いまや世界に、190以上の国家が存在
する。成典化憲法を有している国家は、18
0を超える。結論から先にいえば、これら1
80以上の成典化憲法中、平和主義といえる
条項を包含している国の憲法は、148にお
よぶ。このことは、わが国の安全保障や国際
貢献の方策を考える際に、日本国憲法の特異
性をもちだすことはできないことを示してい
るといえよう。」(駒澤大学 西修ゼミナール
「世界の現行憲法と平和主義条項」)
32
条項を憲法に書き入れたのです。そしてその
憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的
な感情に訴える条項があったとすれば、それ
はこの条項でした。」
マッカーサーは『マッカーサー大戦回顧録
Reminiscences 』でもこの件に触れていて、
内容は一致している34。
34
「幣原男爵は一月二十四日(昭和二十一年)私
の事務所を訪れ、私にペニシリンの礼を述べたが、
そのあと私は、男爵がなんとなく当惑顔で、何か
をためらっているらしいのに気がついた。私は男
爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦
情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の
13
この会談については、日本側からの証言も
考えていたらしいが、本国政府の一部、GH
ある。幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌は
Qの一部、極東委員会では非常に不利な議論
次のように回想している。
が出ている。殊にソ聯、オランダ、オースト
「(幣原は)世界中が戦力を持たないという
ラリヤ等は殊の外天皇と言うものをおそれて
理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様に
いた。
・・・だから天皇制を廃止する事は勿論
なるには戦争を放棄するという事以外にない
天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めた
と考えると話し出したところが、マッカーサ
のだ。この事についてマッカーサーは非常に
ーが急に立ち上がつて両手で手を握り涙を目
困つたらしい。そこで出来る限り早く幣原の
にいつぱいためてその通りだと言い出したの
理想である戦争放棄を世界に声明し日本国民
で幣原は一寸びつくりしたという。
・・・マッ
はもう戦争をしないと言う決心を示して外国
カーサーは出来る限り日本の為になる様にと
の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法
意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないとい
ってやった。
首相は、私の軍人という職業のためにどうもそ
うしにくいと答えたが、私は軍人だって時折りい
われるほど勘がにぶくて頑固なのではなく、たい
ていは心底はやはり人間なのだと述べた。
首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる
「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日
本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と
提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふた
たび権力をにぎるような手段を未然に打消すこと
になり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は
絶対にないことを世界に納得させるという、二重
の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だ
った。
首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注
ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本
に残されている資源は何によらずあげて経済再建
に当てるべきだ、とつけ加えた。
私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経
験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたり
する事柄にはほとんど不感症になっていたが、こ
の時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を
国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止
することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。
現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひ
き起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。
二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何
百という戦場で生残った老兵として、私は世界中
のほとんどあらゆる国の兵士と、時にはいっしょ
に、時には向い合って戦った経験を持ち、原子爆
弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のこ
とながら最高度に高まっていた。
私がそういった趣旨ことを語ると、こんどは幣
原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらし
く、私の事務所を出るときには感きわまるといっ
た風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私
の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家
と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後に
は私たちは予言者と呼ばれますよ』と言った。」ダ
グラス・マッカーサー『マッカーサー大戦回顧録
下』(中公文庫 2003 年)pp239,240 (『マッカー
サー回想録』昭和39年版、朝日新聞社)
に明記すれば列国もとやかく言わずに天皇制
へふみ切れるだろうと考えたらしい。
・・・こ
れ以外に天皇制をつづけてゆける方法はない
のではないかと言う事に二人の意見が一致し
たのでこの草案を通す事に幣原も腹をきめた
のだそうだ。35」
幣原首相は外相時代、平和外交の旗手であ
った。ところがその後、日本は中国において
「自衛」と称して侵略を続け日米開戦にまで暴
走してしまった。その苦い経験に基づいて、
明瞭な戦争放棄が必要と考えたのだろう。ま
た連合国側の天皇処罰要求を前に、国体護持
のためには、これ以外に道はないと考えたと
いう面もある。他方、軍人マッカーサーは太
平洋戦争の残酷さを経験し、かつ核兵器の登
場という事態を見て、少なくともこの一時期、
戦争の廃止以外には人類を滅亡から救う道は
ないと思い至ったのである。マッカーサーは、
その後の朝鮮戦争の頃の動きを見ればわかる
ように、永続的に戦争放棄を維持し続けるほ
どの信念を持っていたわけではなかったのだ
が、この一時期、幣原発案の戦争放棄の理想
に感激し、それが日本国憲法に刻み込まれる
ということになったらしい。一種奇跡に近い
タイミングだった。
35
大平駒槌の娘、羽室ミチ子が父から聞いてメモ
したもの。憲法調査会「憲法制定の経過に関する
小委員会第四十七回議事録」(大蔵省印刷局 1962
年)古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』
(岩
波ブックレット 2006 年)より
14
て、天皇を統治権の総覧者とし、議会の
だが、
「自主憲法」制定を目指す人々にとっ
議決条項の拡大、国務大臣の権限の拡大、
ては、9 条が幣原の発案であるということは
さらに自由・権利の強化を行うことを挙
我慢ならない。格別、幣原喜重郎の長男幣原
げている。
道太郎(元獨協大学教授)は、激越な調子で
② 厚生大臣だった芦田均の日記によれば、2
父幣原喜重郎が 9 条発案者だという説を否定
月 19 日の閣議でGHQ案について蒼ざめ
しており 36、半藤一利はマッカーサーの証言
た松本委員長から報告があった後、
「以上
を疑っている 37。しかし、文書的証拠は明白
松本氏の報告終ると共に、三土内相、岩
に、幣原が 9 条の発案者であった事実を語っ
田法相は総理の意見と同じく『吾吾は承
ている。幣原の発想と提案を受け入れ、憲法
諾できぬ』と言ひ、松本国務相は頗る興
に書き込むことを決定したのはマッカーサー
奮の体に見受けた」とあること。
である38。
そして古関は戦争放棄・戦力放棄はマッカ
古関彰一は、戦争放棄が幣原の発想である
ーサー発案だという説を唱えている。だが、
という説に疑問を投げかけて、二点根拠をあ
いかがなものだろうか。ごちごちの守旧派の
げている39。
松本国務大臣がGHQ案を押し付けられて蒼
① 幣原首相の下に組織された憲法問題調査
ざめて閣議に臨んだという当時の状況に対す
委員会委員長、松本烝治が、1945 年 12
る想像力が欠けていると思われる。
月 8 日の国会答弁で憲法改正4原則とし
36
『拝復(略)小生 先考喜重郎が天皇を最高戦
犯ととして東京裁判付託の人質にとられ、涙を呑
んで受け入れた祖本、総司令部草案を戦後の痴
志、無知な国民が平和と繁栄の生みの親として
奉戴し、日米安保の片務条約に依存しつゞける
現状看過するに忍びず、多年に互り亡父雪冤の
戦を戦って来ました。小生の憲法改正に関する
所見は、(ー)現行憲法改正 (ニ)新憲法の制定
(三)明治憲法の復元改正
の三論中、教育勅語復権も加え、(三)を支持して
いますので(ー)(ニ)すら至難の戦後の世論に鑑
み、祖国回天の至業達成のため、微カを致し居
ります。
神道指令の失効も小生の心願であります。尊台
の御健勝と御健闘を祈り居ります。 敬具
十一月ニ日 幣原道太郎
久保憲一様
37半藤一利は、マッカーサーの上院での証言
は当時朝鮮戦争が激化し、アメリカ議会は日
本国憲法に第九条を制定したマッカーサーの
責任を追求する雰囲気にあったから、彼には
幣原にその責任を転嫁する意図があったのだ
ろうと推測している。半藤一利『日本国憲法
の二百日』p252
38 深瀬忠一『戦争放棄と平和生存権』
(岩波
1987)、芦辺信喜『憲法・第三版』
(岩波 2002)
はこの理解。
39
古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』
(2006
年岩波ブックレット)
1 月 30 日の閣議における軍に関する規定の
討論において、軍の規定を改憲に含めるべき
であると主張する松本に対して、幣原は次の
ように発言している。
「軍の規定を憲法の中に置くことは、連合
国はこの規定について必ずめんどうなことを
いうにきまっている。将来、軍ができるとい
うことを前提として憲法の規定を置いておく
ということは、今日としては問題になるので
はないかと心配する。この条文を置くがため
に、司令部との交渉が、一、二ヶ月も引っか
かってはしまいはしないか40」
幣原喜重郎『外交五十年』には彼の亡くな
った3月2日付で書かれた序が付けられてい
るが、彼はその 10 日に逝去していて、遺書に
あたる一文である。序文の中で幣原は「ここ
に掲ぐる史実は仮想や潤色を加えず、私の記
憶に存する限り、正確を期した積もりである。
若し読者諸賢において私の談話に誤謬を発見
せられたならば、幸いにご指教を賜わるよう、
万望に堪えない。 41」と言っている。下に、
40
鈴木昭典、同上書p162 憲法調査会資料より。
幣原喜重郎『外交五十年』(中公文庫昭和 61 年、
41
15
その全文を掲げる。
団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも
強いのである。例えば現在マッカーサー元帥
「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理
の占領軍が占領政策を行っている。日本の国
の職に就いたとき、すぐに頭に浮んだのは、
民がそれに協力しようと努めているから、政
あの電車の中の光景であった。これは何とか
治、経済、その他すべてが円滑に取り行われ
してあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努
ているのである。しかしもし国民すべてが彼
めなくてはいかんと、堅く決心したのであっ
らに協力しないという気持ちになったら、果
た。それで憲法の中に、未来永劫そのような
たしてどうなるか。占領軍としては、不協力
戦争をしないようにし、政治のやり方を変え
者を捕えて、占領政策違反として、これを殺
ることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を
すことが出来る。しかし八千万人という人間
全廃して、どこまでも民主主義に徹しなけれ
を全部殺すことは、何としたって出来ない。
ばならないということは、他の人は知らない
数が物を言う。事実上不可能である。だから
が、私だけに関する限り、前に述べた信念か
国民各自が、一つの信念、自分は正しいとい
らであった。それは一種の魔力とでもいうか、
う気持ちで進むならば、徒手空拳でも恐れる
見えざる力が私の頭を支配したのであった。
ことはないのだ。暴漢が来て私の手をねじっ
よくアメリカの人が日本へやって来て、こん
て、おれに従えといっても、嫌だといって従わ
どの新憲法というものは、日本人の意志に反
なければ、最後の手段は殺すばかりである。
して、総司令部の方から迫られたんじゃあり
だから日本の生きる道は、軍備よりも何より
ませんかと聞かれるのだが、それは私の関す
も、正義の本道を辿って天下の公論に訴える、
る限りそうじゃない、決して誰からも強いら
これ以外にはないと思う。
れたのではないのである。
あるイギリス人が書いた『コンディション
軍備に関しては、日本の立場からいえば、
ズ・オブ・ピース』
(講和条件)という本を私
少しばかりの軍隊を持つことはほとんど意味
は読んだことがあるが、その中にこういうこ
がないのである。将校の任に当ってみればい
とが書いてあった。第一次世界大戦の際、イ
くらかでもその任務を効果的なものにしたい
ギリスの兵隊がドイツに侵入した。その時の
と考えるのは、それは当然のことであろう。
やり方からして、その著者は、向こうが本当
外国と戦争をすれば必ず負けるに決まってい
の非協力主義というものでやって来たら、何
るような劣弱な軍隊ならば、誰だって真面目
も出来るものではないという真理を悟った。
に軍人となって身命を賭するような気にはな
それを司令官に言ったということである。私
らない。それでだんだんと深入りして、立派
はこれを読んで深く感じたのであるが、日本
な軍隊を拵えようとする。戦争の主な原因は
においても、生きるか殺されるかという問題
そこにある。中途半端な、役にも立たない軍
になると、今の戦争のやり方で行けば、たと
備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃
え兵隊を持っていても、殺されるときは殺さ
し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な
れる。しかも多くの武力を持つことは、財政
方法だと思うのである。
を破滅させ、したがってわれわれは飯が食え
も一つ、私の考えたことは、軍備などより
なくなるのであるから、むしろ手に一兵をも
も強力なものは、国民の一致協力ということ
持たない方が、かえって安心だということに
である。武器を持たない国民でも、それが一
なるのである。日本の行く道はこの他にない。
わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍
読売新聞社刊は昭和 26 年 4 月)序
備を全廃すべきだという不動の信念に、私は
16
達したのである。42」
先生の独自の御判断で出来たものですか。一
般に信じられているところは、マッカーサー
(2)幣原喜重郎の深謀遠慮
元帥の命令の結果ということになっています。
幣原喜重郎の側近であった平野三郎は、昭
もっとも草案は勧告という形で日本に本に提
和 39 年 2 月憲法調査会で「幣原先生から聴取
示された訳ですが、あの勧告に従わなければ
した戦争放棄条項等の生まれた事情について
天皇の身体も保証できないという恫喝があっ
43」という通常「平野文書」と呼ばれる陳述
たのですから事実上命令に外ならなかったと
をしている。
思いますが。
「昭和二十六年二月下旬のことである。同
答
そのことは此処だけの話にしておいて貰
年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前の
わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)
ことだった」というから、
『外交五十年』と並
の春から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込ん
んで、あるいはそれよりさらに最終的な遺言
だ。僕が決心をしたのはその時である。それ
的な意味をもつことばである。ここには、幣
に僕には天皇制を維持するという重大な使命
原が改正憲法に戦争・戦力放棄条項を入れる
があった。元来、第九条のようなことを日本
ことにどういう意図をこめたかが示されてい
側から言い出すようなことは出来るものでは
る。そこには三つの意図があった。
ない。まして天皇の問題に至っては尚更であ
①第一の意図は、天皇制の存続である。米国
る。この二つに密接にからみ合っていた。実
は共産主義に対する防波堤として、天皇制存
に重大な段階であった。
続を方針としていた。当時、ソ連、オースト
ラリア、ニュージーランドは天皇制の存続に
幸いマッカーサーは天皇制を維持する気持
反対していた。ソ連は天皇制の存続そのもの
ちをもっていた。本国からもその線の命令が
に反対だったがオーストラリア、ニュージー
あり、アメリカの肚は決まっていた。所がア
ランドは天皇制そのものよりも天皇制存続す
メリカにとって厄介な問題があった。それは
ることによって日本が再び軍国化することを
豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題
恐れていたのだった。だから、ソ連以外の国々
に関してはソ連に同調する気配を示したこと
は日本が戦争・戦力放棄をすると宣言すれば、
である。これらの国々は日本を極度に恐れて
天皇制が存続することに反対する理由がなく
いた。日本が再軍備したら大変である。戦争
なり、天皇制を維持することができる。しか
中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を
も、幣原は、そもそも明治以後の大元帥とし
寒からしめたから無理もないことであった。
ての天皇というのは本来的なものではないの
日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。
だという見方をしていたから、天皇から政治
殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の
的軍事的実権を外すことはよいことであると
不可分とも言うべき関係であった。これらの
見ていた。
国々はソ連への同調によって、対日理事会の
評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。
「問
よく分りました。そうしますと憲法は
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を
同時に提案することを僕は考えた訳である。
幣原喜重郎前掲書 pp218-221
「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の
生まれた事情について」平野三郎氏記 憲法
調査会 昭和三十九年二月
http://kenpou2010.web.fc2.com/15-1.hirano
bunnsyo.html
42
43
豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐
れるのであって、天皇制そのものを問題にし
ている訳ではない。故に戦争が放棄された上
で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、
17
戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼
れは実に重大なことであって、一歩誤れば首
らの対象とする天皇制は廃止されたと同然で
相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行
ある。もともとアメリカ側である豪州その他
為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君に
の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃
さえも打ち明けることのできないことである。
え、逆にソ連を孤立させることができる。
幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペ
この構想は天皇制を存続すると共に第九
ニシリンというアメリカの新薬を貰いそれに
条を実現する言わば一石二鳥の名案である。
よって全快した。そのお礼ということで僕が
もっとも天皇制存続と言ってもシムボルとい
元帥を訪問したのである。それは昭和二一年
うことになった訳だが、僕はもともと天皇は
の一月二四日である。その日僕は元帥と二人
そうあるべきものと思っていた。元来天皇は
きりで長い時間話し込んだ。すべてはそこで
権力の座になかったのであり、またなかった
決まった訳だ。」
からこそ続いていたのだ。もし天皇が権力を
もったら、何かの失政があった場合、当然責
③第三の意図は、緊迫の度を増しつつあった
任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、
資本主義と共産主義の戦場に、日本の青年た
常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本
ちが米軍の尖兵として引っ張り出され、血を
の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持す
流させられることを未然に防止することであ
る神主のようなものであって、むしろそれが
った。この平野証言には次のようにある。
天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が
天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思
う。」
「問
答
元帥は簡単に承知されたのですか。
マッカーサーは非常に困った立場にいた
が、僕の案は元帥の立場を打開するものだか
第二の意図は頭に血の上った天皇主義者の
ら、渡りに舟というか、話はうまく行った訳
攻撃を避けることである。天皇から軍事的政
だ。しかし第九条の永久的な規定ということ
治的実権を剥ぎ取ったうえで存続させるとい
には彼も驚いていたようであった。僕として
うことを日本側から発案することは実際的に
も軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思っ
は不可能であった。そんな提案を内閣がすれ
たので、その意味のことを初めに言ったが、
ば、頭に血の上った連中が内閣は国体と祖国
賢明な元帥は最後には非常に理解して感激し
を売り渡す売国奴であるという猛反対をする
た面持ちで僕に握手した程であった。
ことは目に見えており、大混乱に陥るであろ
元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの
う。そこで、幣原は戦争・戦力放棄を GHQ から
侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対
出させようと考えた。
する影響の二点であった。それについて僕は
「この考えは僕だけではなかったが、国体
に触れることだから、仮にも日本側からこん
言った。
日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。
なことを口にすることは出来なかった。憲法
日本がアメリカの尖兵となることが果たして
は押しつけられたという形をとった訳である
アメリカのためであろうか。原子爆弾はやが
が、当時の実情としてそういう形でなかった
て他国にも波及するだろう。次の戦争は想像
ら実際に出来ることではなかった。
に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界
が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やア
そこで僕はマッカーサーに進言し、命令と
メリカでもロシアでも日本でもない。問題は
して出してもらうように決心したのだが、こ
世界である。いかにして世界の運命を切り拓
18
くかである。日本がアメリカと全く同じもの
ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。
になったら誰が世界の運命を切り拓くかであ
このことはやがてロシア人も気付くだろう。
る。日本がアメリカと全く同じものになった
彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもな
らだれが世界の運命を切り拓くか。
いのである。世界の共通の敵は戦争それ自体
好むと好まざるにかかわらず、世界は一つ
である。」(「平野文書」には、この後続いて、
の世界に向って進む外はない。来るべき戦争
天皇が受け容れた経緯についての問答が記さ
の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。
れている44。)
その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、
ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にす
後年、マッカーサーは、自分が幣原の深謀遠
る突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待す
慮にはめられたことに気づくことになる。1950 年 5
る以外にないであろう。同時にそのような戦
月 3 日憲法記念日、幣原は衆議院議長としてマ
争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不
ッカーサーを訪ねている。そのとき同行した衆議
幸か、日本は今その役割を果たしうる位置に
院事務総長大池真の手記に次のようにある。
ある。歴史の偶然は日本に世界史的任務を受
けもつ機会を与えたのである。貴下さえ賛成
するなら、現段階における日本の戦争放棄は
対外的にも対内的にも承認される可能性があ
る。歴史の偶然を今こそ利用する秋である。
そして日本をして自主的に行動させることが
世界を救い、したがってアメリカをも救う唯
一つの道ではないか。
また日本の戦争放棄が共産主義者に有利
な口実を与えるという危険は実際ありうる。
しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切
であろう。世界はここ当分資本主義と共産主
義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロ
ギーは絶対的に不動のものではない。それを
不動のものと考えることが世界を混乱させる
のである。未来を約束するものは、たえず新
しい思想に向って創造発展していく道だけで
ある。共産主義者は今のところはまだマルク
スとレーニンの主義を絶対的真理であるかの
ごとく考えているが、そのような論理や予言
はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろ
う。現にアメリカの資本主義が共産主義者の
理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も
示さないのは、資本主義がそうした理論に先
行して自らを創造発展せしめたからである。
それと同様に共産主義のイデオロギーもいず
れ全く変貌してしまうだろう。いずれにせよ、
44
「問 天皇陛下はどのように考えておかれるので
すか。
答 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみ
と思っている。マッカーサーの草案をもって天皇
の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対され
たらどうしようかと内心不安でならなかった。僕
は元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛
下の時は吉田君にも立ち会ってもらった。しかし
心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革
案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、
といわれた。この英断で閣議も納まった。終戦の
御前会議の時も陛下の御裁断で日本は救われたと
言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言っても
よいだろう。もしあのとき天皇が権力に固執され
たらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかっ
たであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪
人になるというようなことは考えられないであろ
うが、実際はそんな甘いものではなかった。当初
の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのであ
る。それを外してくれたのは元帥であった。だが
元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変
していたに違いない。天皇は己を捨てて国民を救
おうとされたのであったが、それによって天皇制
をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。
正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断に
よって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,
天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しな
かったろう。危機一髪であったと言えるが、結果
において僕は満足している。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年
金森君から聞かれた時も僕が断ったように、この
いきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばなら
ないことだから、その積りでいてくれ給え。」
筆者注:ここに登場する「金森君」とは、国立国
会図書館長、金森徳次郎(1886-1959)のことであ
る。彼は 25 年秋、幣原衆議院議長を訪ね、日本国
憲法成立の経緯を明らかにするように求めた。だ
が幣原は「まだその時期ではないようです」と答
えて、沈黙を護った。
19
「マックァーサー元帥から次のような発言が出
されているが幣原は沈黙を守っている。そし
たことを記憶している。『日本国憲法制定に当た
て、2 月 3 日にマッカーサーは件のマッカー
り、ミスター幣原は日本は一切の戦力を放棄する
サー・ノート三項目を発し、その第二項に戦
と言われたが、私はそれは約五十年間早すぎる
争・戦力放棄を盛り込んだ。そして、2 月 10
議論ではないかというような気がした。しかしこの
日GHQ草案は完成し、13 日に日本政府に提
高邁な理想こそ世界に範を示すものと思って深
示された。
い敬意を払ったのであるが、今日の世界情勢か
ら見ると、何としても早すぎたような感じがする』
マックァーサー元帥の発言に対し、幣原議長
45
はニガ笑い して聞いておられただけであった。
1946 年 3 月 6 日、日本政府は戦争放棄、象
徴天皇、基本的人権尊重などを盛り込んだ「憲
法改正草案要綱」を発表したが、同時に、昭和
天皇は次の勅語を発している。
その後間もなく朝鮮事変が起こった。46」
「朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セル
以上、まとめておく。マッカーサーと幣原と
ニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民
いう当事者両名の証言を疑って、9 条は幣原由
ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラル
来ではないと主張する 47のは、無理がある。日本
国憲法の三大原理の三つ目、戦争・戦力放棄条
項もまた、本質的に国産である。
1946 年 1 月 24 日に幣原がマッカーサーに
戦力放棄についての発案を伝えた。このあと
30 日に守旧派で国際政治の状況の見えてい
ない松本委員長による改正案 48が閣議に配布
45
堤堯は言う。「ニガ笑いの意味は何か。英
語でいえば grin である。幣原の心中は、会心
のニヤリだったのではないか。平たく言えば、
幣原はマックをハメ込んだ。・・・憲法九条はい
わば『究極のトリック』だった云々。」(堤堯
『昭和の三傑』集英社インターナショナル
2004 年)堤の書は学術書でなく一般書なので、
引用などは不正確なところがあるが、その洞
察は非常にすぐれていると筆者には思われる。
46
幣原平和財団『幣原喜重郎』(1955 年、昭
和 30 年)p634
47
衆議院憲法調査会報告書(2005 年 4 月)に
は、北岡伸一「軍備放棄条項の発案者が幣原
であるというのは虚偽である」とあり。他方、
参議院憲法調査会報告書には「なお、第9条
の発案者については、日本側か、GHQ側か
議論があるところであるが、・・・(中略)・・・
その9条をつくった当事者は明らかに日本側
(幣原喜重郎)である・・・との意見も出さ
れた。」とある(発言者不明)。
48松本委員会 憲法改正要綱 の要点抜粋
第一章 天皇
一 第三条ニ「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラ
ス」トアルヲ「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラ
ス」ト改ムルコト
四 第九条中ニ「公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及
臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令」ト
アルヲ「行政ノ目的ヲ達スル為ニ必要ナル命
令」ト改ムルコト(要綱十参照)
六 第十三条ノ規定ヲ改メ戦ヲ宣シ和ヲ講シ
又ハ法律ヲ以テ定ムルヲ要スル事項ニ関ル条
約若ハ国庫ニ重大ナル負担ヲ生スヘキ条約ヲ
締結スルニハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要スル
モノトスルコト但シ内外ノ情形ニ因リ帝国議
会ノ召集ヲ待ツコト能ハサル緊急ノ必要アル
トキハ帝国議会常置委員ノ諮詢ヲ経ルヲ以テ
足ルモノトシ此ノ場合ニ於テハ次ノ会期ニ於
テ帝国議会ニ報告シ其ノ承諾ヲ求ムヘキモノ
トスルコト
七 第十五条ニ「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ
栄典ヲ授与ス」トアルヲ「天皇ハ栄典ヲ授与
ス」ト改ムルコト
第二章 臣民権利義務
八 第二十条中ニ「兵役ノ義務」トアルヲ「役
務ニ服スル義務」ト改ムルコト
九 第二十八条ノ規定ヲ改メ日本臣民ハ安寧
秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有スル
モノトスルコト
十 日本臣民ハ本章各条ニ掲ケタル場合ノ外
凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ
侵サルルコトナキ旨ノ規定ヲ設クルコト
十一 非常大権ニ関スル第三十一条ノ規定ヲ
削除スルコト
十二 軍人ノ特例ニ関スル第三十二条ノ規定
ヲ削除スルコト
第三章 帝国議会
十三 第三十三条以下ニ「貴族院」トアルヲ
「参議院」ト改ムルコト
第五章 司法、第六章、第七章 補則(省略)
20
ベキモノナルニ顧ミ日本国民ガ正義ノ自覚
し、下記のように相当の箇所にわたって修
ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ
正を加えて両院とも圧倒的多数をもってこ
希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シテ誼ヲ万邦ニ修
れを可決した。
ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ国民ノ総意ヲ基
衆議院での修正点は、①国民主権の原則
調トシ人格の基本的権利ヲ尊重スルノ主義
を明確にしたこと、②戦力の不保持を定め
ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家
た第 9 条第 2 項に「前項の目的を達するた
再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ(こいねが
め」という文言を挿入したこと(いわゆる
う)政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ其
芦田修正)、③生存権の規定を追加したこと、
ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ(官報号外)
」 国民の要件、④納税の義務、国家賠償、刑
(アンダーラインは筆者による)
事補償について新しい条文を追加したこと、
⑤内閣総理大臣を国会議員の中から選び、
昭和天皇の勅語には、ポツダム宣言受諾
国務大臣の過半数は国会議員とすると規定
を法的根拠として、戦争放棄、国民主権、
したこと、⑥すべての皇室財産は国に属す
基本的人権の尊重が表現されている。公文
ると規定したことなどであった。
書として、
「昭和天皇が、はっきりと「ポツ
貴族院での主な修正点は、①公務員の選
ダム宣言の受諾」という言葉を使ったのは
挙において普通選挙を保障したこと、②内
これだけですが、ここには国民主権の原則
閣総理大臣とその他の国務大臣はすべて文
も戦争放棄も基本的人権の尊重も明記され、 民でなければならないと規定したことであ
それが『朕の意思』であると宣言している。
った。
49」昭和天皇はすでに徹底した憲法改定を
改正案は枢密院の審議を経て、十一月三
するように、幣原に指示を与えていた50。
日「日本国憲法」として公布され、翌一九
四七年五月三日から施行された。
4.帝国議会での原案修正と完成
結び
GHQ 草案は邦訳されて、六月二十日第九
米国側は開戦翌年から知日派の専門家た
十回帝国議会衆議院に改正案として提出さ
ちを用いて、用意周到に日本の戦後政策を研
れ、衆議院と貴族院はそれぞれ原案を検討
究して来た。その結果は、<内閣強化と軍部
の抑制、議会の強化、天皇制の存続と改正、
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河上民雄「<河上民雄氏に聞く>「日本国憲法」
をいま新しく考える―憲法研究会の「憲法草案要
綱」をめぐって―」
http://alter-magazine.jp/index.php?%E2%80%95
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A%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%
89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1%E3%80%8D%E3%82
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0%95
50 古関(前掲書pp20-22)はこの勅語を分析し
て、大急ぎで作られたことを明らかにし、最初の
二行つまり「朕・・・顧ミ」の部分は幣原文書に
よればGHQとの交渉のなかで加えられたことを
指摘している。GHQにとって天皇がポツダム宣
言の要求する国民主権を自らの意思で履行するこ
とを確認するために加える必要があったとしてい
る。その通りであろうが、さりとて勅語の公文書
としての意義は変わらない。
基本的人権の尊重、封建制の廃止>といった
ことだった。
他方、日本では、 明治にひとたび潰された
自由民権運動の憲法案(特に植木枝盛)を研
究した鈴木安蔵が起草した憲法研究会案は、
<国民主権・基本的人権の尊重・平和主義・
儀礼的天皇制>を述べている。そして、漠とし
た平和主義の内実である戦争放棄・戦力放棄
を決定したのは、総理大臣幣原喜重郎の発案
とマッカーサーの決断であった。
日本側と米国側が準備してきた事柄と本質
的に一致した。そうして英訳され肉付けされ
21
て、GHQ草稿日本国憲法が作られ、これ
を日本政府が邦訳した。
そして、帝国議会にかけられ、衆議院と
貴族院で、相当の検討と修正が加えられて
完成を見た。
ちなみに、1946 年 5 月 27 日の毎日新聞に
憲法に関する世論調査の結果が掲載されてい
るが、象徴天皇制に反対した人は 13 パーセン
トにすぎず、85 パーセントの人が支持している。
当時の日本国民は国民主権となった新憲法を
支持していた51。
51
伊藤真『伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門』
(2009 年)p60
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