No,101

№101
平成27年7月3日
【発行】
豊橋市立栄小学校 校長室
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少年Hは体を動かすことが大好きでした。とりわけ
抜きんでてはいましたが、試合の結果はやってみなけ
「足」には自信がありました。負けず嫌いの性格も手
ればわからないほど力は拮抗していました。現にリー
伝って、小学校のかけっこ・徒競走は誰にも負けたこ
グ戦ではA学院大学とは互角の戦いを演じ、C京大学
とはありませんでした。
には勝利を収めたのです。今では到底考えられない夢
小学校4年生の頃、たまたまつけたテレビでサッカ
のような出来事です。
ーの試合を中継していました。少年Hとサッカーとの
“エース”と呼ばれていたHの先輩は、東海学生選抜
出会いでした。当時は釜本邦茂選手が人気、実力とも
でセンターフォワードを務めるような偉大な選手でし
絶頂期を迎えていた頃でした。
「釜本選手のようになり
た。日々の練習では誰よりも早くグラウンドに出て、
たい」。少年は直感的にそう思いました。同時に「サッ
練習が終わってからも最後まで自主トレに励んでいま
カーで身を立て、父ちゃん母ちゃんに楽をさせてあげ
した。関東の雄、法政大学との親善試合で、鮮やかな
たい」と思ったのです。
ゴール決めたり、秋のリーグ戦で得点王争いを演じた
小学5年生になると、もちろん少年Hはサッカー部
にも入部しました。
「にも」と表現したのは、少年が通
っていた小学校の部活動は、シーズン制をとっていた
ため、希望すればどの部活動にも入部することができ
りするなど、この地方では結構有名な選手として活躍
していました。
そんな偉大な先輩がHら後輩に伝えたのが“12の
さわやかさ”です。
たからです。サッカー部だけでなく、ソフトボール、
10ある力を10までしか出せないのは並のプレ
陸上競技、水泳、バスケットボールの各部でも活動し
ーヤー。10ある力を12まで出す努力をすること
ました。
が、自らの力を向上させていくことにつながってい
中学校に進学後も少年Hはサッカーを続けました。
くんだよ。12の力を出しきった先に待っているの
来る日も来る日もサッカーボールを追っていました。
は、疲労感ではなくさわやかさ。その時点での12
もちろん高校に進学後もサッカーを続けました。ただ、
の力は、次には10の力となって、自分の力が少し
中学、高校の6年間の競技生活は、決して恵まれては
ずつ向上していくもんなんだ。
いませんでした。素質に恵まれたメンバーが揃ってい
※「12 のさわやかさ」は、№58 で紹介済のエピソードです。
たにもかかわらず、その素質を生かし切る指導者に出
児童会運営委員会が「めざせ あいさつ日本一!」を
会うことがなかったのです。地区大会でそこそこの成
年間のあいさつ目標に掲げてから2か月半。先生がた
績は収めるものの、上位の大会へはあと一歩のところ
の指導や運営委員会のあいさつ運動のおかげもあって、
でいつも涙をのんでいました。
子どもたちの意識とあいさつのありようは確実に変わ
青年へと成長したHは、進学した大学でもサッカー
部に所属しました。2学年上のチームは、インターハ
ってきています。ありがたいことに、地域のかたから
も高い評価をいただけるようになってきました。
イに出場した経験があるなど、力のある先輩がそろっ
7月のあいさつ運動を来週に控え、児童会室には
ていました。国立大学でありながら、A学院大学やC
「120%のあいさつ」という掲示物が制作されて
京大学など東海地方の並み居る大学と同じ1部に所属
いました。次なる行動とそれに続く成果を期待しつつ、
していました。当時はA学院大学(ドーハの悲劇のときの日
先輩からの「12 のさわやかさ」の教えを思い出しまし
本代表正ゴールキーパー松永成立が所属していました)が頭一つ
た。子どもたちにもぜひ味わってもらいたいことです。