「江戸時代 人づくり風土記」 (農山漁村文化協会)

第一一章 自治と助け合いの中で 58
人づくり風土記」(農山漁村文化協会)
*1鹿島半郡
半郡ともいいます。天正八年︵一五八〇︶、
の部分を指します。長氏は前田氏の家臣と
圓浦野事件と義民道閑1藩に利用された内紛︵鹿島︶
迪竜が織田信長から鹿島郡の半ばの二の
☆鹿島半郡は加賀藩のなかでも独立した存在でしたが、内紛の処理を藩に委ねたため、藩
なってからも、独自の支配をつづけました。
宮以西五十九カ村をあてがわれたので、そ
は長氏の支配体制を解体し、この地域にも改作法を適用することにしました。その結果農
文縁二年︵一五九回の半郡水帳では二万
*3改作法
のちに百二万石を領しました。
す。藩主は前田氏で、けじめ約百二十万石、
の三国にまたがる江戸時代最大の外様藩で
賀国・能登国︵石川県︶・越中国︵富山県︶
加賀国金沢︵石川県金沢市︶を中心に加
*2加賀藩
六千石となっています。
民たちには藩への反発心が生じ、処刑された遣悶を追慕する気持ちが強まりました。
囚園田道閑の生い立ち
園田家の先祖は、河内国︵大阪府︶の人で、いつのころか能登国︵石川県︶に来て久江村︵今の
鹿島郡鹿島町︶に住みつき、村人にものを教えるなどしていたと伝えられています。寛文元年
二六六一︶に巡閲の父が死去していますが、その宗旨は真言宗で、身分は武士階級ともいわれて
︵約一八二メートル︶四方で、屋敬神を祀っていましたが、これは持ち高三百
島郡鹿島町︶の真顔家、浦上村︵今の鳳至郡門前町︶の泉家らと並ぶ豪農で、やはり十村をつとめ
つなのり としつね
綱紀のときに、後見役の利常︵三代︶
けいあん
︵二八ページを参照︶
どを定めました。改作仕法ともいいます。
十材役による部材支配、百姓助成の制度な
給人の知行地支配禁止、精密な検地の実施、
ておこなった大改革の結果成立しました。
が、慶安四年︵一六五一︶から六年にかけ
藩主
加賀藩が実施した農政の基本制度。五代
道閑けこの二倍の規模の経営者で、下働きの人びととともに、みずから広大な新田開発に力を
また、馬四匹、牛一匹とほかに雇い馬ハ匹を所有していました。
︵同じ上地の人たち︶四人、下働きの人たち五人の農民と、ほかに分家ら三人が従事していました。
上野の実高は二百二十三俵あまりで、労働には脇の者︵十村を支える役の人たち︶五人、地の者
ょうか。同じ半郡内の十村上野の場合と比較してみることにします。
道閑の持ち高は、実高四百十六俵あまりといいます。かれはこれをどのように経営したのでし
ていました。
石とともに長迪頼から賜ったものといわれます。当時能登国の有名な十村である武部村︵今の鹿
道閑の屋敷は百聞
います。
み ち
長
よ
や
尽くしてきたようです︵﹃鹿島郡誌﹄︶。
十村道閑が治安維持と勧農や租税徴収の責任者となっていた村々は、半郡内の五十九カ村でし
*4十村
加賀藩独特のもので、他藩での大庄屋に
あたります。数村から二、三十力村︵のち
時は、久江村の道閑が十村頭となり、他の十村を監督する位置にあったのでした。
後には村名でよぶようになりました。︵三
です。十村組はけじめ人名でよびましたが、
には五、六十カ村まで︶の庄屋をたばれる役
十村の補佐役としては、肝煎と組合頭がいました。この人たちも当他村々の中心になって村の
五ページを参照︶
たが、小字が増加し、垣内も人れると七十五村をかぞえました。そしてこれから話す浦野事件当
ために尽くし、村人だちとは相互に親子のように敬愛しあっていたのです。
T4ドロノ勿ノx jxj’’ ̄ l‘t“﹁い言言ドい⊃、, き しょぅもん*6 か ろぅ かぃと
百姓の身分である十村は、在地の特に利用されやすい場合もありました。五流二年︵一六五九︶、
いいます。
44&1︲M jts/9t&jl o 小さな集落としてまとまっている区域を
道閑が長家の家臣の浦野兵庫と河岸福部に提出した起請文には、十村としての心得と、在地家老 *5垣内
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の浦野と河岸に対して感謝し、忠勤を尽くす、という誓いが書かれています。
自分の言動にいつわりのないことを神仏
*6起請文
鹿島半郡というのは、鹿島郡の西南部のことで、二宮川を境にして、残りの東半分は前田氏の
にかけて誓約する際に作成する文書です。
囚鹿島半郡と十村役
領地でした。打数は五十九カ村︵ただし垣内まで人れれば七十五村︶、石高は三万一千石で、長迪竜
いわゆる誓詞です。
所有する上地からの農産物を米の量に換
が前田別家の家臣となってからも、この半郡はひきつづき長家領となっていました。
加賀藩の藩主前田別家は、家臣に知行所︵領内︶を分散して与えていましたから、このように
力所にまとめているということは異例なことです。長家では、半郡の田鶴浜︵今の鹿島郡田鶴 *7石高
算してあらわしたもの。これが支配者の経
加賀藩初代藩主︵一五三八S九九︶。織田
済力を示す数字になります。
加わる上着の扶持百姓にそれぞれ数カ村を支配させ、十付設としたのでした。
信長・豊臣秀吉に仕え、はじめ能登国、の
また別家は能登国に入部して以来、地方の豪農に扶持︵俸給︶を与えて優遇し、地域の地時に *8回即行釘
’一jlくax l=sj
の とのくに にゆうぶ ふ ち じ ざむらい
独立領の状態でした。
来がおおぜい現地住まいをしていて、かれらはもちろん田畑の作業にも従事していましたから、
浜町︶に本拠を置き、徳丸︵今の鹿島郡鹿西町︶には御許屋を置いていました。領内には長家の家
一
長家領鹿島半郡の場合も、藩にならって十村方式をとっていたので、慶安三年︵コ八五〇︶に
〃
59 圓浦野事件と義民道閑一藩に利用された内紛(鹿島)
第一章 自治と助け合いの中で 60
うえ
上
い勢
せ
伊
はつぎのようになっていました。
笠師材︵今の鹿島郡中島町︶
野 ︵同 十三力村︶
︵組下十力村︶
能登部材︵今の鹿島郡鹿西町︶
二郎兵衛︵同 十二カ村︶
ろ べ え
高田村︵今の鹿島郡田鶴浜町︶
道閑 ︵同 十六カ村︶
じ
三階材︵今の七尾市︶
池島 ︵同 土ニカ村︶
久江村
︵浦野事件当時笠師村は太左衛門、久江村道閑は筆頭︶
に
、
加
賀
か国
と
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く国
Kを
加
え増
つさ
ちれ
ゆノ
うニ
の国
くを
に
ち
鎖する大大名になりました。
*9給人
武家が扶持米︵俸給としての米︶を支給し
て、家臣としてかかえておく侍。
*10検地
一打ごとの土地について、地名・面積・
︵水帳・御図帳ともいいます︶に記帳しました。
地勢・収穫量・耕作者などを調べて検地帳
能登口郡︵鹿島郡・羽咋市の一部︶改作法は、慶安四年︵一六五ごよりおこなわれ、同時に十
加賀藩では、慶長元年︵一六〇四︶に越中
囚改作法と浦野事件
村による支配制度もできあがっていきました。当特長連鎖は、加賀藩家老の一人でしたから、改
総検地、元和二年︵一六一六︶から六年に
てから互いに、対立するようになりました。
ともに連頼の功臣でしたが、二代目になっ
沢の連頼の側近にいました。そして先代は、
の で す 。 こ れ に 対 す る の が 、、
加 藤 采か
女 でと
金ううねめ かな
徒党を結び、隠し田を拓き私有化していた
あぎしかもん う るち へいはち
河岸掃部・宇留地平ハ、その他の侍と一族
ん で い ま し た 。 浦 野 兵 庫ひ
・よ
駒う
沢ご
金 右こ
衛ま
門ざ
・わきんうえもん
石を禄し、高田︵今の鹿島郡田鶴浜町︶に住
浦
野
孫
右
ま衛
ご門
は
え、
も長
ん氏
歴
代
の
ち功
よ臣
うで七百
94‘U ¥’
11浦野一派
かけて加能総検地がありました。
作法の状況も承知しており、半郡での実施も考えていたようです。
承応二年︵一六五三︶、連頼は定書を下して、農事の督励や、隠し田・新開地の調査などを兪じ
ました。また、寛文五年︵一六六五︶には、従来の給人による上地の新開とその所有を禁止し、
給人が所有していた開発地内の荒れ地の解放などを定めました。これが翌六年にはじまる半郡検
uJ︲j4%ψsj﹄・ーj、ー ー さむらい
地につながったのですから、このときから侍や給人の不満が出はじめていたのでしょう。
迪頼は、半郡改革の一環として、寛文元年の収納不足を理由に、十村三人の処罰を于けじめ
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御蔵奉行・算用奉行・検地奉行を免職にしました。この改革をこころよく思わなかった侍゜給人
ら浦野一派は、元迪︵迪頼の子︶を推して従来の慣習による統治を要求したのでした。これに追
いうちをかけだのが、寛丈六年の検地です。このときの検地で旧上地調査をおこなうとともに隠
し田の告発を進め、それに反対する者は処罰をするなど、にわかに干渉を強めたために、一般百
娃・十村のあいだにもふんまんが高まっていったのでした。久江の道閑ら十村たちも、在地に隠
し田平新開地を特つ百姓と一体でしたから、当然浦野一門の検地反対運動に同調したのでした。
浦野一族は、一門二十三人が家に箭り、主君の指示あっても退去せず、一族以外の検地反対者
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六六七︶正月から、改めて騒動の動きとなったのでした。それは、在地家老の浦野孫右衛門が
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迪頓とその手元連の対立の状態を知りながらも元連を仰いで、正月年賀に出府した半郡十村・村
肝煎たちに浦野沢への誓詞と検地反対の訴状を書かせ、また金沢の滞在費の助成もしました。ま
た二月に人って、半郡の百姓だちからも、浦野夙に従うという誓詞を集めました。一方、金沢に
いて、連頼の補佐にあたっていた加藤采女︵藩詰めの良家重臣で反浦野沢の頭︶は、高畠︵今の鹿島
郡鹿島町︶の郡奉行に使いを出し、村肝煎十六人とその百娃への同調を求め、反浦野沢の組織化
浦野沢十村と百姓の訴状が元連のもとへ提出され、検地再開の中止、十村・百姓の帰村など、
を介じていたのです。
長家父子によるかけひきのなかにあって、連鎖は騒乱になっ`てもしかたがないと、急転して藩ヘ
の提訴にふみきったのです。
末光院様︵長連竜の母で前田美作の継
能登部材上野・三階打池
ながや の
能
xlj きゅうこうぃん っ2つ ’‘−11リしにー
この提訴には、連頓と前田家の家老である本多敵役との密談によるものという説があったり、
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長家滅亡にかかわる大事として陳述書け提出しないとか、
妻︶の弁明を仰ぐなど、いろいろな方法で勤いたようです
大道閑の処刑
ず、浦野一門とともに検地反対に参加した、十打順の久江村道閑・
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uW1 ’IZitM I L︲‘  ̄’ ̄‘‘’”” ̄ ̄7 ̄1“ ̄4一ヽ/ ’ /
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と むらがしら く え の と べ うえの み かい いけ
これを一挙に処理してしまいました。
寛文七年二月、長連鎖は、結局自分の千でこの問題を処理することができずに藩に訴え、藩は
O
じま たかた じ ろ べ え はちべ え かさL た ざ え もん じん え もん 島・高田村二郎兵衛・高田村ハ兵衛・笠師打火左衛門・笠師村仁右衛門、肝煎能登部材長屋・
寛文七年二六六七︶に処刑された道閑の刑場
跡の石碑。金沢城下の牢から故郷の久江︵鹿島
郡鹿島町︶に移され、無残な最期を遂げました。
㎜
浦野事件と義民道閑一藩に利用された内紛(鹿島)
圓
61
登部材平右衛門が捕らえられヽ金沢の長家牢に投獄されました・そして三月十六日から二十日ま *
以上十村・百姓の処刑の前に、八月には浦野一門の処刑が執行され、浦野父子五名は切腹、性
八
︶
正
月
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笠
師
村
人
左
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か・
さ三
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たも
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気て
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ま
す
み。
かい いけじま
六
JJ藩の最高裁判所にあたります。なか
くじば
12公事場
く事
揚
じ奉
行
はが
入
ぶ牢
以
ぎ上
よの
う罪
人
にの
ゆ審
う理
ろを
うし、
公
藩主の裁可を受けました。
*13処刑の宣告状
道閑らの処刑宣告は、公事場で審理され
たうえ、藩主の裁可によって出されたもの
です。﹁はり付﹂は極刑で、はりつけ柱に
縛りつけて、体の両わきから槍で突き殺す
もの。生まれ在所で処刑されます。﹁刎首﹂
は首を斬り落とすもの。﹁梁首﹂は、斬り
落とした首を路傍にさらし、罪を広く人び
とに示すものです。
*14検使
2J
事実を検視するためにとくに派遣される
役人です。
た。
武家時代に武士の挙動を検察する役目でし
て
き
わ
め
て
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酷
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﹂
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﹁
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さ︵
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ぅ かんぶん 横目は横目付ともいいます。一般的には、
し
︱il
に牢獄・死刑執行揚がありました。四入の
づ j a 4 ー φー
ペ数回にわたって訟ヤ索
出され、同二十九日に公事場の牢に移されました。大町はその晩死 とらノ
道
へい
兵
六
ろく
まん
万
衛光夫で八7 開方
亡していますが、これによって獄中での取り扱いの苛酷さがしのばれます。
十二月四日、処刑の宣告状が下りました。
覚︵長家文書︶
此者於能州久江村はり付
道閉せがれ
長九郎左衛門領分十村久江村
三
人
絹
首
はねくび
元
此者久江村巣首
じ郎
兵
ろ衛
べ え
二
兵4太″
れ
に
つ
い
て
は
、
﹁
差
出
人
が
藩
の
重
臣
の
連
名
で
、
重
大
事
項
と
し
て
取
り
扱
わ
れ
て
い
る
が
、
罪
状
に
比
*
1
5
横
訣
よこめ
こ
同領分小百姓能登部材
同領分十村高田村
同 同
62
第一章 自治と助け合いの中で
⑤浦野事件と義民道閑一一藩に利用された内紛(鹿島)
63
の侍は流罪︵島流し︶平坦故になりました。また、元連は塾居となり、連鎖は家老職を退いて、
元連の子の時速に家督をゆずることになったのです。一門の侍には自害した者もいました。
*16蜃居
武士や公卿に科せられる刑罰の一つで、
門を閉ざして屋内の一室に謹慎しているも
のです。
*17打御回
囚半郡の接収と村御印の下付
浦野事件が落着してから四年目の寛文十一年︵一六七ご三月、速頼の死去を機に、藩主は江
改作法の結果、物成︵地租︶や小物成
れた藩主の黒回状です。
︵雑税︶などの税額を記して打々に下付さ
戸から下命して、半郡領を接収しました。同時に同額の知行所を、他の家臣なみに分散して長時
速︵元迪の子︶に与えました。ここに藩内での独立領は消滅しました。しかし旧領民のあいだに
は、この接収の際、﹁虚空に太鼓の音が響きわたった﹂という話が伝えられており、これは半郡
駅才によ *18免
です。免四ツ七歩は、四割七歩ということ
米の公定収穫高に対しての課税率のこと
百姓2の
怒り
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L‘WILldj/ めん
寛文十二年二月ヽ旧半郡ヤ聯へ﹁猷ダ聯せ渡し﹂の覚え書きが与えられ、厳重な藩の
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って、三万一千石から五万五千三百六十石余に定められました。
です、十村道閑の時の五十九力村のなかに
は、免五ツ五歩という高い税の村もありま
改作法はこのようにして完成され、延宝七年︵一六七九︶三月、村御印が下付されました。こ
の村御印による久江村の草高︵米の総収穫高︶は、千九百七十九石で免四ツ七歩、これは非常に
した。
た人をいいます。
農民などのために命をかけて権力と闘っ
*19義民
割高で、その証拠に天和三年ニハ○六︶に、千六百一石にへりました。じつは義民道閑追慕の
源はここから出ているのです。
宍道閑を追慕する村人
﹁肥った饌は鳥をとらない。百姓も衣食が足りては農業をおろそかにする。力をなくした賑は
鳥を逃がし、百姓も疲れれば耕作はできないだろう﹂
これは、幼少の五代藩主綱紀にかわって、改作法を実施した三代藩主であった利常の言葉です。
﹁百姓には、収権高を上げさせなければならないが、必要以上に富を与えていくと働く意欲を失
うので、上納を薗かにさせなくてはならない。また、働き過ぎて体をこわしてしまっては、田を
耕すこともできないので、きちんと管理しなければならない﹂ということです。徳川家康も同じ
意味のことを言っています。それで、利常が農政改革をおこなうにあたり、十村に槍や鉄砲を与
え、反対する百姓の追放や打ち殺しも許しているのです。これは、当時、一揆のような集団行動
の形での動きはなかったまでも、反対の勢力が徐々に表面化していた証であって、このことがや
がて加賀藩中期以後に発生した一揆︵五十五件︶へとつながっていったのです。
十村道閑は、近隣の肝煎が連判しなかったなかにあって、十村頭として浦野一門と行動をとも
にし、処刑されたわけですが、その結果、半郡内の百姓たちは動揺し、同情の気持ちが高まると
ともに藩に対する非難の声がいっせいにあがったのでした。浦野事件は中期以後の十村・肝煎に
対する強訴とは異なり、大百姓である十村から直接領主に対しての加賀藩史上では唯一の強訴で
あったのです︵﹃加賀藩農政思考﹄︶。
半郡家老とともに検地中止の訴状を提出し、極刑によって最期を遂げた道閑に対する追慕の念
は、出身地の久江村はいうにおよばず、鹿島半郡内外の人びとの心に、今も生きつづけています。
道閑にかわって新十村となった酒井村︵今の羽咋市︶大和は、道閑処刑当時同調しなかった一
人でしたので、地元との融和策から自分の名前を道閑の別名であった万兵衛に改名して十打とな
りました。そのため夏の夜、久江川ハ谷口のほうから来る源氏螢の群れは、その万兵衛に対する
道閑の亡霊の闘いであるといわれています。そして、万兵衛は、十村になってわずか二年で不在
となりました。十村道閑の守護神贈宮と愛宕明神の勝軍地蔵尊は、半郡百姓を見守る神として尊
崇され、厳粛な神事がおこなわれています。
文化十三年︵一八一六︶十村市楽︵能登部組で浦野事件後の新十村の子孫︶が、道閑百五十回忌に、
江
村
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題
げ記
い院
か道
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い禅
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こ家
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件
当
く時
は
よ肝
う煎で、
久
隣村でしたが訴訟には加わらず、事件後朝十村になったのでした。このころ鹿島地方に凶作によ
る暴動かたびたび起き、十村は、そのたびに強訴を受けていましたから、人びとからこれは百五
文化十三年︵一ハー六︶に建立さた道閑の墓碑。
道閑の死後、十村の後任をつとめた市楽家の子
孫の手で手厚く供養され、建てられました。
四
64
第一章 自治と助け合いの中で
十年間の農民の恨みがつのったものといわれ、まったく道閑ののろいともいわれてきました。
元治元年︵一八六四︶七尾市の冠づくりの名工遣関屋九左衛門の子孫が、造関二百回忌を、七
十五村から志を受けて営み、人びとの涙をさそっています。実は処刑された造関の息子兵ハに処
心
刑の直前男児が出生しており、その家系がつづいていたのでした。
ニじ
昭和四十一年︵一丸六六︶には、遣関三百年祭を鹿島町久江区において挙行しています。
悌Jミ
おいたわしや道関さまは七十五村の身代わりに
この臼すり唄は、後世永く、半郡地域でうたわれるようになりました。事件後重い租税で苦し
んだ村民たちの思いをあらわすものといえましょう。記念事業には、わらべ堂良二体地蔵尊︵道
閑の子ど九二人︶の安置、遣関公園の造成と指定、元禄墓碑修築と七十五村からの供養石の収納、
大型の三百回忌記念義民遣関顕彰碑も建設され遣関公園となりました。道関がはりつけにされた
刑場跡も記念塔建立によって整備されました。
消え行く跡に形あり霜柱
の遣関辞世の句碑も建てられています。
遣
悶
追
つ慕
いの
ぼ心
は
、
久
氏
比
古
神
社
くの
春
での
遣
ひ開
票
こ︵
か
け
ら
神
事
︶
に
も
生
き
て
い
ま
す
。
道
開
方
、
谷
内
や ち
兵南方により、当屋の宿で大飾り僻二膳をお供えします。往時は村総出︵村内百六上戸の大村で全
家庭二人労力を提供します︶で、全戸が玄米一升六合供出して全量を僻に総仕上げしたといいます。
かた
かけら神事の古儀は徐々にうすれつつありますが、今も追慕されている義民道閑はここにも脈々
と生きているのです。
︵堅
即
藩に利用された内紛(鹿島)
65 ⑤浦野事件と義民道閑
鹿島郡鹿島町の道閑公園内に建つ義民道閑顕彰
碑。十村頭をつとめた遺閑の遺徳をしのび、そ
の三百回忌を記念してつくられたものです。