“アートにTRIP”資料館 エスカリエ特講 〜文化にみる当時の社会〜 世界史のしおり 2015年度1学期号付録 写真提供:JTBフォト 聖ソフィア大聖堂『デイシス』 解 説 帝国の残照─聖ソフィア大聖堂 『デイシス』と宗教・文化の接 点イスタンブル 早稲田大学大学院博士後期課程 武田一文 マリア,右には洗礼者ヨハネが立つ三者の立像で 授業 活用例 ビザンツ帝国とともに歩んだ聖ソフィア大聖堂とモザイク壁画 ─『デイシス』を中心に─ 福岡県立東筑高等学校 今林常美 ある。デイシスとは「嘆願」を意味し,マリアと 最近,授業の冒頭でよくやる導入方法が,年代 多い。まず,制作年に関して,一般には,ニケー ヨハネがイエスに人類の救済をとりなしていると をあえて大きく板書して,王朝名・国名や事象名 ア亡命政権のミカエル8世が第4回十字軍による され,ラテン帝国(1204〜61)の占領から,奪還 などを聞くやり方である。大きな流れを生徒にま ラテン帝国を滅ぼしてコンスタンティノープルを なった直後の制作と考えられている。終末での救 ず把握させるには効果的な方法である。それは, 回復した直後の1261年に制作されたという説が有 済こそがビザンツ人の究極の希望であった。 今回のテーマにそくして示せば, 【395~1453】の 力だが,一方で第4回十字軍前説や首都回復後し 537年,東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスに ビザンツ絵画は写実的な背景を描かず,モザイ 国名と首都名はどこか,ということになる。ビザ ばらくしてからという説も出ており,定まってい より,神の叡智にささげられた大聖堂が首都コン クの場合は金,フレスコの場合は青一色で塗り込 ンツ帝国の名とその首都コンスタンティノープル ないということである。さらに, この『デイシス』 スタンティノープルに建立された。直径31メート める。モザイクはテッセラとよばれる色ガラス片 の名を確認し,さらにこの都市の象徴的建造物は の向かい側壁の床下には,第4回十字軍によるコ ルの大ドームをいただく聖ソフィア大聖堂は以後 (金色は金箔をガラスにはさんだもの)をしっく 何かという発問で,6世紀にユスティニアヌス帝 ンスタンティノープル攻略の立役者であったヴェ 900年にわたり首都,そして帝国最大の教会であ いの地に埋め込み,絵画を描く技法である。『デ がビザンツ式で建立した聖ソフィア大聖堂を写真 ネツィアのドージェ(統領) ,エンリコ=ダンドロ り続けた。1453年,オスマン帝国により滅ぼされ, イシス』の技法は卓越しており,時に数ミリのテッ とともに導きたい。生徒には,この大聖堂がビザ の墓が設けられおり,聖ソフィア大聖堂から多数 多くの聖堂が破却されるなか,聖ソフィア大聖堂 セラを駆使し,人物の表情を実に繊細に描く。各 ンツ帝国とともにその荒波を越えて,現在トルコ の財宝・聖遺物類を持ち帰ったとされるダンドロ はモスクへと変更された。偶像を禁ずるイスラム 人の頭部には聖なる人物を示す頭光が描かれ,イ 共和国の博物館として,世界遺産として,世界中 が,なぜここに埋められたままになっているのか, 教徒は壁画をしっくいで塗り込めはしたが,大聖 エスはそれに十字架が加わる。十字架の色が違っ の人々に親しまれ,愛されていることを紹介し, 今もってよくわからないのである。この点につい 堂は首都イスタンブルの大モスクとしてその威容 て見えるのは,色彩をかえたのではなくテッセラ ついでに簡単なイスタンブル案内も行っておく。 て浅野和生氏は,このダンドロこそ『デイシス』 を保ったのである。20世紀,トルコ共和国の成立 の埋め込む角度を背景とわずかにかえ,光の反射 に伴い再び転変のときがくる。世俗主義を志向す に差異を生んでいるためである。光によって表情 る政権は,いくつかのかつて教会だったモスクの をかえるのは,フレスコにはないモザイクの魅力 アの聖ヴィターレ教会のモザイク壁画写真 (一部) なかに興味深い推測と思われる。生徒にも歴史の 壁画を修復,博物館とした。聖ソフィア大聖堂も であった。一方,胴体の表現は顔に比べ非常に簡素 の登場である。 「①ユスティニアヌス帝(1世) 謎追究の醍醐味の一端を味わわせてやりたいもの 一部のしっくいがはがされ,500年近い時を経て で量感に欠ける。 これはビザンツ美術特有の奇妙な とビザンツ帝国の高官たち」を見せ,中央の紫衣 である。 壁画がよみがえったのである。 対照といえる。8世紀におこった 「聖像破壊運動」 を着た人物こそがユスティニアヌス帝であること ミカエル8世はこの後も世界史の舞台に登場す ビザンツ帝国(ギリシア正教)の教会は内壁全 は最終的に聖像擁護派が勝利したが,その結果ビ を示すとともに,聖ソフィア大聖堂の場合,聖堂 る。1261年にビザンツ皇帝としてパレオロゴス朝 面を壁画でかざることが特徴である。著名な技法 ザンツ人は聖像と偶像をよりはっきりと峻別する で輝きを保つモザイク壁画は建造時点ではほとん を開いた彼は,虎視眈々と帝国奪取をねらう,仏 がモザイクであるが,時間,コストともばくだい ようになり,立体造形は忌避された。そのため西 ど製作されず,本格的な壁画の製作は9世紀後半 王ルイ9世の弟にして両シチリア王であったシャ にかかるモザイクで装飾される教会はそれほど多 欧(カトリック)では一般的な彫刻による人物像 以降になることを説明し,その背景や理由を生徒 ルル=ダンジューの十字軍計画をつぶしにかかっ くなかった。より広範に用いられたのがフレスコ はビザンツ聖堂に存在しない。絵画表現も自然主 に問うてみる。授業でも取りあげた726年のレオ た。1282年3月30日の「シチリアの晩祷」事件(パ であり,いずれも人物像や物語場面を組み合わせ, 義的な表現からは離れるようになったのである。 3世による勅令以来のイコノクラスム(聖像破壊 レルモ)もアラゴン王のシチリア占領も彼の周到 壁面にすきまなく描く。しかし聖ソフィア大聖堂 2015年現在,聖ソフィア大聖堂は博物館として 運動)論争の存在を導き出せれば発問は成功であ な秘密工作があってこその事態と考えられている。 の壁画の多くは剝落して失われたか,モスク時代 一般に公開されている。しかし昨今,一部のイス る。聖堂内最奥部の『聖母子』のモザイクは聖像 地中海世界は中世においても活発な歴史が展開し のアラビア文字や抽象的な装飾の下に隠れたまま ラム教保守派はこのような聖堂をモスクに戻すべ 擁護派の「勝利宣言」といえるかもしれないこと ていたことを生徒には認識させたい。 である。 きと主張し,すでに2013年,トラブゾンに建つあ を写真を見せながら紹介する。 ニンブス イ コ ノ ク ラ ス ム ここで, 『明解世界史図説 エスカリエ 七訂版』 (以下,エスカリエ)p.104を開き,有名なイタリ をつくらせた張本人ではないか,少なくともその 可能性は十分にありうると指摘されており,なか 最後に『デイシス』に関するクイズを出して締 とはいえ聖堂を散策すれば,9世紀から13世紀 る聖堂がモスクへと戻され,公開されていたキリ この後,聖堂内には多数のモザイク壁画が製作 めくくりとする。「モザイクの三者の頭にかかる までのさまざまなモザイクを見つけることができ スト教時代の壁画はおおい隠された。聖ソフィア されていくことを10~12世紀までのいくつかの壁 光背の由来は何だろうか」 。答えは一つではない る。いずれも9世紀の作である皇帝像が出入り口 大聖堂では同様の事態にならぬよう願いたいが, 画写真を提示することで確認し,さらに13世紀後 が,仏画や仏像にも光背が見られることに気づい 上部,聖母子像が聖堂奥の天井部に描かれる。階 一方で500年近い年月をモスクとして使われた歴 半ごろの作品とされ,今日最も評価が高い『デイ て,「仏教方面から」という解答が出れば正解と 上廊には11世紀と12世紀の皇帝夫妻像がかざられ 史もまた無視できまい。いずれにせよこの聖堂に シス』(エスカリエp.99②)へと生徒を誘いたい。 してよいだろう。厳密には古代イランの民族宗教 る。しかし最も印象的であろう作品は,階上廊壁 は,対立ではなく共生のあかしとしてあり続けて エスカリエで聖堂内での位置を説明し,壁画の拡 ゾロアスター教の化身とされるミトラ神を描いた 面に描かれた『デイシス』 ( 『明解世界史図説エス もらいたい。 大部分を教壇で提示してその美しさ・荘厳さをま 絵画に円形の頭光が描かれており,そのあたりが ずは生徒とともに味わうことにする。 ルーツとされている。ここにも東西文化交流の軌 カリエ』p.99②)である。画面下方はほとんど残 存しないが,中央にイエス・キリスト,左に聖母 【主要参考文献】浅野和生『イスタンブールの大聖堂 モザ イク画が語るビザンティン帝国』 (中央公論新社,2003年) 世界的に有名なわりに, 『デイシス』には謎が 跡を見いだすことができるだろう。
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