転生する源光 ― 狂言「柿山 伏 」の後景 ―

〈原著研究論文〉
―
―
謙一郎
虚実皮膜の間に揺れる存在
―
狂言・説話・源光・柿山伏・天狗・鳶・山伏
(二〇一五年一月五日受理)
加田
狂言「柿山伏」の後景
転生する源光
―
キーワード
一. はじめに
『 日 本 紀 略 後 編 一 』の 、醍 醐 天 皇 の 御 時 、延 喜 十 三 年 三 月 十 二 日( 九
一三 年 四月二十 一 日) の項に 、 右大臣源 光の死が 報ぜら れて い る。
○ 十 二 日 乙 卯 。右 大 臣 源 朝 臣 光 薨 。年 六 十 八 。號 後 西 三 條 右 大 臣 。
狩猟 之閒。馳入泥中。其骸 不見。有薨奏。
源光は、清和天皇の御宇で ある貞観二年(八六○年)十二月に従四
位 上 に 叙 さ れ 、以 降 、美 作 守 、相 模 権 守 、讃 岐 権 守 、左 兵 衛 督 、参 議 、
播磨権守、中納言、民部卿、権大納言、右大臣、 右近衛大将等を歴任
する。注目すべきことは、地 方官を歴任した光は、宇多天皇親政に よ
る「寛平の治」、すなわち 「公民・公地 の体 制の全面的崩壊を いくら
かで も 食い と める ため 」( 注 一) の政 治を 支え た 人 物と 言え るこ と で
ある。
醍醐天皇の御宇、昌泰二年二月(八九九年)、権大納言となる。昌
泰の変(昌泰四年、九○一年)の際に 藤原時平と結 び、 右大 臣菅原 道
真を 排斥し、道真の大宰府 への左遷後、 ただちに右大臣を 襲った人 物
でもある。
ま た 「 世 に 光源 氏 と い ふ 」 と あ る ( 注 二 ) か ら 、 貴 族 と して の 教 養
にあふ れた美貌 の公卿で あっ たようだ。 光は 仁明天皇の皇子で あり 、
臣籍降下して 源朝 臣の姓を 賜って いる から、 そのような 出自から 見て
も、まさに「光源氏」と呼ばれるにふ さわしい貴族であった。
さら に、 延喜 九 年( 九○ 九 年) に左大 臣 時 平が 三 十九 歳で 夭折し た
後は、左大臣が置かれなかったから、光はその死まで の四年弱 の間 、
朝廷において のナンバーワンであった。死後、即座に、 正一 位を追 贈
されて いる。
しかしそのように光り輝く公卿で あっ たにも拘ら ず、 光の死に様 は
悲惨で ある。功成り名を遂げた高齢の最高権力者が泥中に没し、その
遺体 も 見つから な かっ たと い うこ とは 、 明ら かに 異常事 態で あ る。
また、『扶桑略記 第二十三 醍醐天皇上』 の延喜十三年三月十二
日の項に、光の死に纏わるもう一 つの奇怪な 逸話が伝えられて いる。
三月十二日、右大臣源朝臣光薨、年六十八、丞相先年夢、有化人
告云、汝以年五十七為命之限、須早修延命法、覺了憂歎、拝謁増
命和尚、令修観音法、然間丞相夢、有優婆塞、身長五寸許、以羽
覆面、来合語曰、 能留 可去 之人、是施 無畏者也、汝知之耶、謂施
無 畏 者 、是 叡 山 座 主 増 命 和 尚 也 、汝 命 已 延 六 年 、覺 了 、感 涙 如 雨 、
遥拝叡岳、因之丞相常語人云、天台座 主者、観音化身也、其後且
令 座 主 和 尚 、修 延 命 菩 薩 之 法 、其 時 丞 相 亦 夢 、有 壮 年 比 丘 、語 云 、
汝命復加三年、 于時丞相年六十八薨、果如其夢焉、
『扶桑略記』は、一一○七年以前には 成立していた歴史書。仏教を
中心に した編年体 の通年史で あり、著者は、 比叡 山において 、 顕密 の
碩才と 謳わ れた皇 円。 皇円は 法然 の師で ある。本 文はす べて 資料の 引
用に よ って 構 成 さ れて いる と みら れて い る 。
(『 日 本 古 典 文 学 大 辞 典 』)
先の引用箇所は、「已上傳文、○日本高僧傳要文抄同ジ」との註が
あるこ とからも、 ある 程度は 当時にお いて 信 じら れ、広 まって いた 逸
話と考えて よい。
光は夢で、 「命 之限」は五十七歳で あることを「化人」によって 知
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ら さ れ 、「 延 命 法 」を 修 め る こ と を 勧 め ら れ る 。そ こ で 、比 叡 山 の「 増
命和 尚」に拝謁し、「観音法」を 修して いただく。すると光の夢に 、
「身長五寸許、以羽覆面」の「優婆塞」が顕れ、「施無畏者、是叡 山
座主増命和尚也」と明かし、「命已延六年」と告げられる。「施無畏
者」は、「安心を授ける者」(坂本幸男・岩本裕訳注、岩波文庫『法
華経 下』による。「施無畏者」は、 妙法蓮華経観世音菩薩普 門品 第
二 十 五 に あ る言 葉 。) 、す な わち 観世 音 菩薩 のこ とで あ る。 夢 から 覚
め た 光 は 、い た く 感 動 し 、比 叡 山 を 遥 拝 し た 。ま た 、常 々 、人 に 、「 天
台座主者、観音化身也」と語ったという。さらに後日、「延命菩薩 之
法」を 修してい ただく。ま た光は夢を 見る。今度は「壮年比丘」が 出
てきて、「汝命復加三年」と告げる。時は過ぎゆき、光は、果たして
夢 の お 告 げ の通 り に、 六十 八 歳で 薨去 し た。 以 上 が 、 『 扶 桑 略 記 』 に
伝えら れた逸話で ある。
こ の 逸 話 は 、光 の 延 命 の 奇 蹟 と 同 時 に 、光 が「 化 人 」・「 優 婆 塞 」・
「壮年 比丘 」の言 葉を 信 じ、 「遥 拝叡 岳 」し、「 天 台座 主者 、 観音 化
身也」と「常語 人云」という、光の信心深い性質を 伝えている。「 常
語人云」という記述から、当時の多くの人々が、実際に光から聞か さ
れて い たこ とが 窺 わ れ る ので 、こ の逸 話 の信 憑性 を 、 あ る 程 度 は 信 じ
て よ い ので は な い か。 こ の 光 の信 心深 い 態度 は 、 歴 史 上 に 生 き た現 実
の光の性格をも、ある程度は写し取っていると考える。
さて 、 今一 度、 『 扶 桑 略記 』 に あ る 「 化 人」 ・「 優 婆 塞 」・ 「 壮 年
比 丘 」の 言 葉 を 検 討 し よ う 。『 新 潮 国 語 辞 典 現 代 語・古 語 第 二 版 』
を引いてみる。
化人 ①仏 ・菩薩が衆生を 救うために仮に人の姿となって現れた
もの。〔三宝絵下一七〕〔今昔一一・二二〕②鬼神などが人間に
ばけたもの。〔宇治拾遺六五〕〔日ポ〕
優 婆 塞 〔 仏 〕在 家 の ま ま で 仏 法 に 帰 依 し 、戒 を 受 け た 男 性 。〔 三
宝絵中二〕「―が行ふ道を しるべにて 」〔源・夕 顔〕
比丘 〔仏〕①托 鉢す る修行 僧。 出家し た男 性。 僧侶。〔三宝 絵
下〕②(誤
って ) 比丘 尼の呼 称。 ③女子をいやし めて い う語。 「と かく何 事
も―がさする」〔狂・痩松〕
以上、 それぞれ の語の意味を 鑑み た上で 、こ の逸話を 読む際に、源 光
が夢に見た者たちは、「化人」の①「仏・菩薩が衆生を救うために仮
に人の姿となって 現れたも の」と考えて 、ほぼ間違いはなかろう。
ただ し、一 つの問 題は、「 優婆塞」の容 姿で ある。「身長五寸許、
以羽覆 面」という、明らかに異形の者で あるこ の「 優婆 塞」を 、ど の
よう に 捉え たら よ い の か。こ の異 形の 者 を 、 記 述 者 は 「 優婆 塞 」で あ
る と し て い る 。源 光 が「 常 語 人 云 」際 に 使 用 し た 言 葉 は 、果 た し て「 優
婆塞」という言 葉であったろ うか。それはわ から ない。
しかし、「身長五寸許、以羽覆面」の異形の者を、光が、「仏・菩
薩が 衆生を 救うために仮に 人の姿となって現れたもの」と捉えてい た
ことは、こ の逸話 から 読み取 れる。それゆえ に、こ の異 形の者を、 即
座に、「化人」の②の意味で の「鬼神などが 人間にばけ たも の」と 断
じ 、「 護 法 天 童 」や「 天 狗 」の 類 と 捉 え る こ と は 早 計 で あ る と 考 え る 。
と も あ れ、 『扶 桑 略記 』 の 記 述を 信 じ る ので あ れ ば 、 歴 史 上 の 現 実
に生き た源 光は 、 信心深く、 延命 の奇 蹟を信 じ、夢 に現 れた者 たち の
言を 信 じて い た、 少な くと も その よう な 一 面 が あ っ た、 と 考 え て も よ
いかと思う。
さ て 、延 命 の 法 の 験 も 尽 き た 。時 平 の 夭 折 、そ れ に 続 く 光 の 変 死 は 、
当時の人々 の目にどのように映っ たので あろ うか。
『大鏡』の時平の件には、菅原道真の「御霊」の影が色濃く差して
い る 。無 念 の 死 を 遂 げ た 道 真 は「 き た の ゝ 神 」と 化 し て 清 涼 殿 を 襲 う 。
時平は 大刀を 抜き はら って 、 「ご 存命 中も、 自分 の次の地位に おら れ
たで は な い か。 今 日 、 神 と お な り に な っ て も 、 現 世 に お いて は 、 自 分
を敬遠されるべきである。どうして、そのようになさら ずに、いら っ
し ゃ る こ と がで き よ う か 。 」 と 、 「き た のゝ 神 」 を 恫 喝 す る 。 そ し て
「一度はしづまら せ給へりけりとぞ、世 人申はべりし」。
しか し、大 鏡 の作 者は 、時 平に軍 配が 上がっ たかに 一 見は 見え るこ
の逸話を、次のように締めくくる。「されど、それは、かのおとゞ の
い み じ う お は す る に は あ ら ず 、王 威 の か ぎ り な く お は し ま す に よ り て 、
理非を しめさせたまへるなり。」この件の御霊の態度は、『日本古 典
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加田:転生する源光 ―狂言「柿山伏」の後景―
文学大系 大鏡』(注三) の補注二十四に、松村博司に よって 的確 か
つ簡潔に解説されている。
個 人 と して の道 真 の霊は 時 平 に 恐 れ たわ けで は な い が、 朝廷で 定
めら れ た秩 序を み だすこ と は 王威 に 服 さ ないこ と に なる から 、 左
大 臣 の 公 職 に 対 して 一 度は 時 平 の 言を 聞 き 入 れ た と い う ので あ る 。
御 霊 は 、 時平 の 言 に 屈し た ので は な い 。 御 霊は あ くまで 、 朝 廷 の 定
めた秩序を ないが しろ にす ることを好まなかっただけで ある。
同時代や後世の人々に、御霊に対するそのような理解があれば、時
平や 光 の死 は、 当 然、 御霊 に よる 怪異 と して 認識 さ れ、 恐れら れ、 語
られることになる。(注四) それはわ たく したち の生きる現代で あ
って も 決して 埒 外 のこ とで は ない 。 例 え ば 『 広 辞 苑 』 の 菅原 道 真 の 項
には 、 次 の よう に 御霊 に よ る 怪 異 が記 さ れて いる ので あ る から 。
死 後 、種 々 の 怪 異 が 現 れ た た め 御 霊 と し て 北 野 天 満 宮 に ま つ ら れ 、
のち 学問の神と して尊 崇される。
時 平 や 光 の死 が 、 「 種々 の 怪 異 」 の 一 つと して 数 え 上 げら れて い た
こ と は 、注 目 す べ き で あ る 。『 大 鏡 』で 語 ら れ る 時 平 は 、あ く ま で「 歴
史 文 学 の 中 の 登 場 人 物 と し て の 時 平 」、も し く は「 同 時 代 や 後 世 の 人 々
に 解 釈 され た時 平 」で ある と 言え る。 そ の意 味に お いて 、 先 に 引い た
『 広 辞 苑 』に お け る 道 真 の 項 を 持 ち 出 す ま で も な く 、道 真 も 同 様 、「 歴
史 文 学 の 中 の 登 場 人 物 と し て の 道 真 」、も し く は「 同 時 代 や 後 世 の 人 々
に 解 釈 され た道 真 」で ある 。 虚実 皮膜 の 間に 揺れ る 存在 と して 、 時 平
も道真も光もいる。
そして源光は、 光の生前の逸話として 語ら れた次節に挙げる物語 に
よって 、光自身 の実人生と その意志の有無・実際とは何らの関わりも
なく、 意外なる 文学上 の転 生を果 たすこ とになる。
二.
記述される源光
異様な光景であった。醍醐天皇の御宇、五条の道祖神の座す 所
に 、大 き な 、実 を 実 ら せ る こ と の な い 柿 の 木 が あ っ た 。そ の 上 に 、
仏 が 顕 現 し た ので あ る 。 仏 は めで たき 光 を 放 ち 、 様 々 な 花を 散 華
させて いる。仏 の降臨である。京に住む者は大挙して、顕現した
仏を 拝すために、 押しかけ 群がっ た。
六・七日が過ぎた。仏は相変わらず、木の上にいる。
それを聞いた聡明な光大臣は、柿の木の上に仏が 顕現するこ と
に納得がいかなかった。「木の枝先に、実の仏が顕現なさるはず
がない。こ れはき っと、天狗など の仕業で あろう。 外術 の効力は
せ い ぜ い 七 日 間 だ 。今 日 、私 が 直 に 出 向 い て 、見 極 め て や ろ う 。」
と、束帯を つけ 正装し、木 の下に 檳榔 の車で 乗り付 け、仏と 対 峙
した。
仏は、 花を 降ら せ、 光を 放って い た。 し かし 、 光大 臣はこ れ を
怪しく 思い、ひ と 時ば かりも の間、瞬き もせず、わき目もせず、
見つめて い たとこ ろ、 どうにもならな くなっ たのか、羽が折 れ た
糞鳶 と 化し、木 の上から地 面に落ち た。 衆人はこ れを 見て 、 「 奇
異なこ とだ 」と 思 っ た 。糞 鳶 がバ タバ タ して いる のを 、 小童 部 ど
もが 打ち殺 して し まっ た。
右大 臣はこ のありようを見、「考えて い たとおりで ある。実 の
仏が、どういう仔細あって 唐突に木の枝先に 顕現 される のか。い
や 、 さ れる わ け が な い 。 人 々 が 物 事 の 道 理を わき ま え な いで 、 日
頃拝み大騒ぎして いたことこ そ、愚かなことである。」と言い残
して 帰 って いっ た。 そ の 場 に い た 人々 は 大 臣 を 賛 美 し、 その 話 を
聞いた世の人々も、「大臣は賢い人だなあ」と言 い合い、こ れも
また賛美した、と語り伝えて いると言う。
以上の説話は、『今昔物語集』巻第二十第三に伝わる源光にまつわ
る説話である。なお、 典拠は未詳とされる。 ただし、『帝王編年記 』
十五 醍醐天皇 昌泰三年の条に、「同庚申正月廿五日、源光卿河 原
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院木 上有金 色仏 守落之。誦若 以色 見我 文云々 」とあ り、 同話 の異伝で
あるとされている。(注五) また『皇年代略記』と『皇代暦』に 、
「昌泰三年正月右大臣光河原院木上金 色仏見」とある。(注六)
また『宇治拾遺物語』にも、同文的同話がある。「『今昔物語集』
は一一二○年代が成立 の上限で、一応、このころが成立年時の目安と
される」(『日本古典文学大事典』)が、『宇治拾遺物語』は「通 説
として は、一二一○年代を 中軸に、十三世紀 前半 の成立とみるべき 」
(西尾光一、『日本古典文学大事典』、岩波書店)と言う。
『今昔物語集』『宇治拾遺物語』等における源光
以上述 べて き た源 光に 関す る 記述 の存 在 に よって 、 以下 に述 べ る よ
うな、 文学 上の転 生を 光はす るこ とになる。
三.
本 節 で は 、『 今 昔 物 語 集 』や『 宇 治 拾 遺 物 語 』に 記 述 さ れ た 説 話 と 、
その周 辺の記述を 整理するこ とに よって 、こ の説話 の宿して い る源 光
の転生の「種」を 明ら かにしてゆく。
さて 、 前 節で 光 と 天 狗 の 説 話 の 梗概 を ま と めて お い た が、 話 題 の 中
心、テーマは何で あろうか。
鳶は、天狗の化けたものとされる(注七)。しかし、こ の説話は仏
に 化 け た糞 鳶、 す なわ ち 天 狗 が話 題 の 中 心で は な い 。 確 かに 、 こ の 説
話は 『今昔物語集』中でも、 天狗を話 題とし た一 連の説話の中に置 か
れて は いる (注 八 )。 とは 言 え 、 話 題 の 中心は、 「 光大 臣」 のとっ た
態度、 そのあり ように 関して の、 語り 手 の深 い関 心 にあ ると 考え た 方
が妥当であろう(注九)。
さて 、 右大 臣源 光 は 、 それ ぞ れ の 説話 集 が 編 ま れ た 当 時 の世 の 中 の
理に 従 って 、合 理 的な 考え 方をす る 人と して 描か れて い る。
それゆえに、右大 臣が 顕現 し た仏を 不審に思う理由は、 成立 時期が
ほぼ二百年も異なる『今昔物語集』(十一世紀後半成立とされる。 )
と『宇治拾遺物語』(十三世紀後半成立とされる。)とでは、微妙に
異なる。
実ノ仏ノ此ク俄ニ木ノ末ニ可出給キ様無シ。此ハ天㺃ナドノ所為
ニコ ソ 有ラ メ。 外 術ハ七日 ニ ハ不過ズ 。 今日 我行 テ 見ム。
『今昔物語集』巻二十第三「天㺃、現仏坐木末語」(注十)
まこ と の仏 の、世 の末に 出給べき に あら ず。 我行て 、心み ん。
『 宇 治 拾 遺 物 語 』上 、巻 二 ノ 一 四「 柿 木 ニ 仏 現 ズ ル 事 」( 注 十 一 )
実在 し た源 光の没 年で ある 延喜十 三年 ( 九一 三年) より一世 紀 半ば
かり後に成立し たと考えら れる『今昔物語集』において は、「木ノ 末
ニ」仏が顕現するはずがない、「天狗ノドノ所為」であろうと、「 光
ノ大 臣」は 考えて いる。それに対 し、 光 の没 年より三世紀半 の後に 成
立したと考えら れる『宇治拾遺物語』で は、「木ノ末ニ」は「世の末
に」と改められて いる。ここ には 大き な差異がある。まず、 『今昔 物
語集 』 に沿 って こ の説話を 考えて みよう 。
こ の差 異を 考え る ためには、 それ ぞれ の成立 時期 の時代 背景を 考え
てみる 必要がある。いわゆる 末法 思想が多く の人々に影響を 与え たこ
とに、 注意をしな くて はなら ない。伊 藤 博之は、こ の時代に ついて 、
以下 のように述べている(注十二)。
末 法 と は 、親 鸞 の『 教 行 信 証 』「 化 身 土 巻 」に 引 く『 末 法 灯 明 記 』
によれば、 正法五百年、像法一千年を 経て「釈迦の法、 滅尽」して
しま う 千五 百年 後 以後 の時代を 指 し、 釈 迦入滅に ついて 諸説行 わ れ
て い た ので 、 『 日 本 霊 異記 』 で は 「仏 の 涅 槃 し た ま ひ し より 以 来 、
延暦 六 年 歳 の次 り 丁卯に 迄 る まで 、一 千 七百二十 二 年を 逕た り 。 正
像の二 つを 過 ぎて 末法 に 入 れ り。 」( 『 新潮 日 本 古 典集 成』 ) と い
うように、すで にこ の頃から、人心が 悪にのみ傾く「末劫」に 入っ
てしまったとする考え もあった。しかし一般には、釈尊の入滅を周
の穆王五十一年壬申(紀元前九四九年)とし、正法千年、像法千年
とする説が支持 され、永承七〈一○五二 〉年をもって末法第一年と
する 考え 方が行 わ れて いた。こ の頃から 都の治安は 乱れ、群盗は 横
行し、南都北嶺の大寺院は 僧兵を養って 強訴を繰り返す騒然とした
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加田:転生する源光 ―狂言「柿山伏」の後景―
時代 に 入り、社会 的な 利害の対立が武力によって 決着を つけら れて
しまう、「闘諍堅固」「白法隠没 」(『大集経』) の末法の様相が
顕在化するに至った。
藤原時平の没 年で ある延喜九年(九○九年)、お よび源光の没年で
ある延喜十三年(九一三年)は、『末法灯明記』によればすで に末 法
の 時 代 と な る 。し か し 一 般 に お い て は 、ま だ 像 法 の 時 代 に 縋 り 付 く 人 々
が多かった時代で あっ た。 『今昔物語集』成立の十一世紀後半は、 永
承七〈 一○ 五二 〉 年を もって 末法 第一 年 と一 般に お いて 多く の 人々 も
認めざるを得なかった時代で ある。『宇治拾遺物語』成立の十三世紀
後半は 、ま さに 誰もが 末法 の世と 認める 時代で あっ た。
このことが、『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』における、「木ノ
末 ニ 」 と い う 記 述 と 「 世 の 末 に 」 と い う 記 述 の差 異 と な って 表 れて い
ると、わたくしは 考え る。
源光は、一般的に多く の人々には、像法末期に死 んだと認識されて
いたに違いない。それゆえに、『今昔物語集』における「光大臣」 の
言動には、仏の顕現自体を 否定する要素は記述されていない。
「此ク俄ニ木ノ末ニ可出給キ様無シ」と言うにとどまる。第一節で
触れ た『扶 桑略記』の記述を 思い 出して 欲しい。 歴史上 の現 実に生き
た 源 光 が 、「 化 人 」・異 形 の「 優 婆 塞 」・「 壮 年 比 丘 」の 言 葉 を 信 じ 、
「遥拝叡岳」し、「天台座主者、観音化身也」と「常語人云」とい う
記述を 、で ある 。 歴史 上に現 実に 存在 し た光は、信 心深 い性 質 の持 ち
主で あ っ た 可能 性 が 高 い、 と 考え ら れ る のだ 。
「 釈 迦 の 法 、滅 尽 」と は 、こ こ で の「 光 大 臣 」は 、認 識 し て い な い 。
む し ろ こ の 怪 事 件 を 、仏 法 に 敵 対 す る「 天 㺃 ナ ド ノ 所 為 」だ と 断 定 し 、
「外術 ハ七日ニハ不過ズ。 」と天狗の術 の限 界を 述べ、 六・七日が 過
ぎたので、外術も験が切れる頃合いと判断し、「今日我行テ見ム。 」
と、 極 めて 生き 生き と 、仏 法 の教 え の 上で 、 合 理 的 に行 動を 起こ す の
で あ る 。こ の際 の 「合 理」性 とは 、あ く まで 、仏 法 の教 義上 に おけ る
合理性であると考える。仏法を深く信じるゆえに、偽仏に敏感に反応
して い る と も 言 え よう 。 「 光 大 臣 」は 、 像 法 末 期 の 切 れ 者 と して 颯 爽
としている。
しかし『宇治拾遺 物語』の「 右大 臣殿 」の言 動の記 述は、「まこ と
の仏 の、世 の末に出給べき にあら ず。」と、仏の顕現自体を 否定し去
って い る。こ れは 『宇 治拾 遺 物語』の作 者が 末法 の真只 中に 生きて い
て、 意識的か無意識的かは判然と しない が、 「木 ノ 末 ニ 」を 「 世 の 末
に 」 と 置き 換えて しま っ た ので あ ろ う 。 も し くは 、こ の 作者 が 『末 法
灯明記』の説に従ったと考えるならば、右大臣殿も末法の幕開けの時
代に死 んだ者の一 人と作者に 認識 されて いたわけで あり、こ の変更 は
肯ける。
「右大臣殿」は、「まこと の仏の、世 の末に出給べきにあら ず。」
とは 重々知りながらも、「我行て 、心みん。 」と して いる。ここに 、
実地検分を しなければ 気が 済まない合理精神を読み取るか、末法の世
であっても一縷の望みをかけて仏 の顕現を願う心を 読み取る のかは 、
大変に難しい問題である。「木ノ末ニ」という記述を、「世の末に 」
という記述 へと変 更し た作者 の意図に 沿うならば、 後者 の解 釈も十 分
に可能で あると、わたくしは考える。 その根拠として、 事件解決後 の
「光大臣」と「右大臣殿」の言動を挙げる。
「然レバコソ、 実ノ仏 ハ何ノ故ニ俄ニ木ノ末 ニ現 ハレ可給キゾ。
人ノ 此レヲ 不悟シテ、日来礼ミ喤ルガ愚ナル也」ト云テ返リ給ヒ
ニケリ。
『今昔物語集』巻二十第三「天㺃、現仏坐木末語」
大臣は、「さればこそ」とて 、帰給ぬ。
『宇治拾遺物語』上、巻二ノ一四「柿木ニ仏現ズル事」
こ の 相 違 に 関 し て 、『 新 日 本 古 典 文 学 大 系 今 昔 物 語 集 四 』は 、「 然
レバコソ」の脚注に、次のように言及している。
宇治拾遺「さればこそ」のみで光は多く語らず、より威圧感が増
す。 本集で は群 衆への侮蔑 感がある。
確かに、『今昔物語集』における「光大臣」 の言 動には、「侮蔑感
がある」が、その侮蔑感の性質が問題で ある。「光大臣」が嫌うも の
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以音聲求我
不能見如来
は、「群衆」自体ではなく、「群衆」が物事の道理をわきまえないこ
と、 そ の上日頃 拝 み大 騒ぎ して い たこ と 、す なわ ち 群衆 のあ り よう な
ので あ る 。 「 群 衆 」 の 中 に は 、 当 然、 高 位 の 公 卿 や 僧侶 、 有 徳 人 ( 金
持ち )もい たば ずで あ り、一概に 「愚 か 」な 人々 の集団 と断 定でき る
もので はな かっ た。しかし、 たとえ、ど のような高 位の者がい たと し
ても、物事の道理をわきまえず、日頃拝み大騒ぎしていたそのあり よ
うに、 「光大臣」は我 慢がならな かっ たと考えるべきで あろ う。こ こ
に実在した源光の面影を窺うことは可能で あろう。地方官を 歴任し た
光は 、 世情 に 通 じ た政 治家で あっ たと 考えら れる から、 「 群 衆 」を 一
概 に「 愚 か 」と 断 じ て 済 ま せ る 人 格 で あ っ た と は 考 え 難 い か ら で あ る 。
(注十三)
ま た、『宇治拾 遺物 語』 の「右大臣殿 」は 、「多く語らず、 より 威
圧 感 が 増 す 。」と 言 え る か ど う か 。「 さ れ ば こ そ 」の 後 の 省 略 部 分 は 、
「まこ との仏の、世の末に出給べきにあらず。」で はないか。「右大
臣殿」は、「まことの仏の、世の末に出給べきにあらず。我行て、 心
み ん 。 」と 、 行 動 を 起こ し た ので あ る 。 「 さ れば こ そ」 は 、 「 思っ た
通り だ 。 」 (注 十 四) 、 「 そ れみ たこ と か 」 (注 十 五) など と 訳 さ れ
て い る 。わ た く し は 、試 み に「 考 え て い た と お り で あ る 。」と 訳 し た 。
「 右 大 臣 殿 」は 、何 を 指 し て 、考 え て い た と お り と 呟 い た で あ ろ う か 。
わ た く しは 、や は り、 まこ と の仏 が末 法 の世 に 顕現 な さ るは ず がな い
ことを、自分自身の目で確かめ、「さればこ そ」と呟いたのだと解 釈
する 。 そこ には 、 群衆 への 侮 蔑 感 も威 圧 感も ない 。 ある のは 、 末法 の
世に 生を 受けた一 人の人間 の姿が あるだ けで ある。
『宇治拾遺物語』成立 のほぼ一世紀後、一三 六四年から一三八○年
頃に 成立したとされる 『帝王編年記』十五 醍醐天皇 昌泰三年の 条
の「 同庚申正月廿五日、源光卿河原院木上有金色仏守落 之。誦若以 色
見我文云々」にも着目しよう。
「若以色見我」とは、『金剛般若経』にある一節で ある。
若以色見我
是人行邪道
もし色を以て われを見、
音 声を 以て わ れを 求む る とき は、
こ の人は邪 道を行ずるも の、
如来を 見るこ と能わざるなり。(注十六)
道真との因縁
源光卿は、
『 金 剛 般 若 経 』の こ の 一 説 を 誦 し て い た と い う の で あ る 。
『金 剛 般若 経』 は 、「 日本で は、 仏 教 諸 宗で 読誦 さ れる のみ な ら ず 、
上代には歌代とされたこともある 」と言う(注十七)。源光卿が「 河
原 院 木 上有 金 色 仏 守 落 之 」 が で き たこ と は 、 経 典 読 誦 の 霊 験 と して 記
述者に捉えられ、かつその説くところ の仏法の真理こそが、源光卿 の
行動の原理であったとも記述者によって 捉えられて いることが読み 取
れる 。こ の 点に お いて 、『 宇 治拾 遺 物 語 』 よ り一 層深 く 、 末 法 の世 に
ある 諦観が 漂って いるこ と は 明ら かで あ る。
記述され続ける源光は、時代 の変遷、記述者 の変遷とともに、少し
ず つ 、そ の 姿 、あ り よ う を 変 容 さ せ て い っ た 。し か し 、源 光 の 個 性 は 、
いず れ の時 代に お いて も、 そ の時代 の 理 にお いて 合 理的で あ り 、 自 ら
実地 検 分 し な くて は 気 が 済 ま な い と い う 点で 、 不 変で あ っ た と 言え よ
う。
四.
前節で 考察した説話を 考え る際に、天狗が化けた仏 の現れた柿の木
の問 題が残る。こ の柿の木を 巡って、源光は、菅原道真の御霊と結 び
付けら れて 語ら れ る。
今昔、 延喜ノ天皇ノ御代ニ、五条ノ道祖神ノ在マス所ニ、大ナル
不成ヌ柿ノ木有ケリ。
『今昔物語集』巻二十第三「天㺃、現仏坐木末語」
昔、 延喜の御門御時、五条の天神のあたりに、大なる柿の木の、
実なら ぬあり。
- 29 -
加田:転生する源光 ―狂言「柿山伏」の後景―
『宇治拾遺物語』上、巻二ノ一四「柿木ニ仏現ズル事」
柿の木に関する注を引用する。
柿の実 のならな い 木、 神格 化 され た古木 の巨 樹を さす ので あろ う
か。(注十八)
柿の木で、 実のつかないのがあっ た。 柿の木は古来神聖なも のと
され、 実の つかな い木一般も 同様 (万 葉集二 )で あった。当 然 の
こ と と し て 実 の つ か な い 柿 の 木 は 一 段 と 特 別 視 さ れ る 。( 注 十 九 )
こ の よう な一 段 と特 別 視 さ れて いる 神 聖な 木に 、 天狗が仏 に 化け て
出たのであった。光は、こ の偽仏を見つめ続け、 その正体を露 見さ せ
た。 天狗は 「糞鳶 」になって 落ち た。神 聖なる木に、「糞」という 穢
れを冠 せら れた「鳶」が宿って い たので ある。神 聖な木を 汚し た咎で
あろ うか、糞鳶は小童部どもに打ち殺された。因果応報とも言うべき
事 件 で あ る 。偽 仏 の 正 体 を 暴 い た 源 光 は 、「 大 臣 は 賢 い 人 だ な あ 」と 、
人 々 に 賛 美 さ れ た 。こ れ で 目 出 度 し 目 出 度 し と な る べ き は ず の 説 話 は 、
その 柿 の木 のあ っ た場所に よって 、さら なる因果応 報を 予感 さ せる 。
柿の木は、 「五 条ノ道 祖神ノ 在マス所 」、「五条 の天神 のあ たり」
にあっ たので ある。『新日 本 古典文学大 系 宇治拾遺物語 古本説話
集』七十三頁の脚注を 引用し よう。
聖代 と される醍醐朝に起こ っ た神秘的事件の顛末。今昔二十ノ三
は 、よ り 具 体 的 で あ る 。五 条 、実 の つ か ぬ 柿 の 木 、く そ と び な ど 、
怪異・禁忌にかかわるものが続々と出る。かしこ き 大臣の威力が
語ら れているが、こ の光が怪死し、それも五条ゆかりの道真の報
復 に よ る と も 考 え ら れ た こ と を 背 景 に お く と 、印 象 が 一 変 し よ う 。
柿の木は、光が失脚させた菅原道真にゆかりのある土地にあった。
五 条 の 神 聖 なる 柿 の木 から 、 光が 落と し たのは、 単 なる 「糞 鳶 」で あ
った ので あろう か。敗者は 、 歴史 上、 後 の世 の評 価にお いて 不当に 扱
わ れ る 。こ の 説 話 に 、光 と 道 真 の 因 縁 を 嗅 ぎ 付 け る こ と は 、当 時 の 人 々
狂言へ転生する説話
にお いて は 自然 なこ とで あ っ たと 考え ら れる 。現 代 にお いて も 、こ の
説話 は 「かしこき 大臣の威 力が語られて いるが、こ の光が怪死し、 そ
れも五条ゆかりの道真の報復によるとも考えられたことを背景にお く
と、印 象が一変 」する性質 のものとされているからで ある。
因 果 応 報、落 と した者は 落 と さ れる 。 光は 、本 稿 の冒 頭で 述 べ た と
お り 、泥 中 に 没 し 、そ の 遺 体 も 見 つ か ら な か っ た 。こ の 因 縁 に よ っ て 、
光は狂言の世界に転生する。
五.
柿の木を めぐる対立は、はるかに時代を下り、狂言世界に持ち越さ
れる。現在、狂言 の台本資料としては 最古される『天正狂言本』( 注
二十)にも、その姿を 現す。『天正狂言本』は、 簡明な筋書きを集 め
たも ので ある。 以下、 「かき くい 山ぶ し 」の項を 全文挙 げる。
く
一.山ぶし一人大みね歸りとて、ひだるきとて、かきの木へのぼ
りくふ。又二人出て、山ぶ しをだます。大き なと びがとゆふ。山
ぶしうれしがりて 、いろ
の身なりするとて落る。二人の者手
ば たき して わら ふ 。む ね ん が りて い の る 。 し り し さ りに い の り つ
けら るゝ 。うぶ つて 歸る。 後なげる。と め。
こ の 筋 書 き は 、ほ ぼ 、現 行 の「 柿 山 伏 」と 同 一 で あ る 。異 な る 点 は 、
ア ド が 現 行 で は 一 人で あ る の に 対 して 、 『 天 正 狂 言 本』 で は 二 人で あ
るこ とで ある。なぜ、二人で なくては ならないのか。こ の二 人は、 い
っ た い 誰で あろ う か。 前節 まで の 考 察 を も と に 検 討 す る 。
まず、柿の木がある。柿の木が何処にあるかは、明かされない。 実
がな って い るとこ ろ から、こ の木はすで に、 神聖な 木と して は 語ら れ
て い な い。 テー マはあ くまで 、木 から 落 ちる 山伏と 、山 伏を 木 から 落
とす二 人と の関係性に絞り込まれている。
そこで 一 つの仮 説を 提出す る。 山伏を 菅原道真、二人を 藤原時平 ・
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鶴岡工業高等専門学校研究紀要 第49号
く
源 光 が 転 生 し た 姿 と 考 えて み ると いう 仮 説で ある 。 「かき く い 山伏 」
の 登 場 人 物 を 、偽 仏( 天 狗 )を 道 真 に 、二 人 を 時 平・光 に 置 き 換 え て 、
前節まで の考察を基に解釈してみ よう。
道真は高い身分(「山伏」の位)に 昇った。それを時平・光の二 人
が、 道真を、「あなたは、 より高位(「鳶」の位)の者に見え る」と
「だます 」。道真は「うれしがりて (注二十一)、いろ
の身なり
す る と て 落 る 」 。 「 二 人 の 者 手ば たき して わ ら ふ 」 。 道 真は 「む ね ん
がりて いのる」。こ の「い のり」は有効で あった。二人は、 「しり し
さ り に い の り つ け ら るゝ 」 。 道 真 の 方 へ 招き 寄 せ ら れる ので あ る 。 そ
して 、 二 人は道 真を「うぶ つて 歸る」。 しか し、は るか後世 に なって
は、 両者の対立 の詳細もすで に風 化して いる。なに しろ 、生き 馬の 目
を抜く下剋上の世 の中である。二 人は過去の因縁と呪縛を断ち切り、
道真を「なげ」捨てる。
以 上 の よ う に 解 釈 を す れ ば 、ア ド が 二 人 も 登 場 す る こ と に 筋 が 通 る 。
御霊と なっ た道 真 の報復は 、 時平 と 光 に 死を 与え た 。 「 しり し さり に
いのりつけらるゝ 」とは、泉下の道真のもとへ招かれることと考えて
よい。「うぶつて 歸る」は、二人がいまだに、道真の呪縛の下にあ る
ことを表していると考える。
特に、 道真 の後 に 右大 臣を 襲っ た 光は 、 泥中 へ引き ずり 込ま れ た。
因 果 応 報で ある 。 悲 惨 極 ま る 死 に 様 と 言 え よう 。
しかし、泥中の蓮という言葉がある。蓮 の花は泥中に咲く。道真の
報復を 受け 泥中に 引き 込ま れ たと いう そ の因 縁に よって 、今 度は光 が
蓮 の 花 のご とく 、 悲惨 さと は 無 縁 な者 と して 転 生 す るこ とに な る。
例えば、『今昔物語集』巻第二十「天竺天㺃、聞海水音渡此朝語第
一 」 を 見て み よ う 。 第 三 節 で 述べ た通 り 、 巻 二 十 は 天 狗 を 話 題 と し た
一連の説話 から 始まる。
天 竺 か ら 震 旦 へ 渡 る 途 中 の 天 狗 が 、一 筋 の 水 の 流 れ が「 諸 行 無 常 是
生滅法 生滅々已 寂滅為楽」と 鳴る ので、「正体を突き止め、こ の
法文が鳴る のを 邪 魔してやろ う」と決意し、日本に 渡来し、 琵琶湖 に
出る 。 比叡 山横 川 の流 れに お いて 、法 文 は轟き 渡 り 、 川 上に は 、 四 天
王や 護 法が いて 、 川の水を 守 護して い る 。天 狗は 近づくこ と もでき な
いほどに畏れ、守護の外縁にいた護法天童に何事かと尋ねる。護法 天
童は 、 「こ れは 比 叡山に学 問 する 僧たち の厠を 流 れる川 の末で す。 だ
から 、こ のように尊い法文を、水も唱えています。」と答え た。天 狗
は 「 邪 魔 して や ろ う 」 と い う 気持 ち が た ち ま ち に 消え 失 せて 、 「こ の
山の僧の貴いありようを思うと、物も言えないくらいだ。我は、こ の
山の僧になろう 」と誓いを 起こ し、消え 失せ た。 そ の後、天狗は宇 多
天 皇 の 皇 子 に 転 生 し 、仏 門 に 帰 依 し 、誓 い 通 り に 比 叡 山 の 僧 と な っ た 。
明求僧 正こ そ、 そ の天 狗の転 生し た姿で ある。
以上が、「天竺天㺃、聞海水音渡此朝語第一 」の梗概で ある。こ の
説話に 見る通り、「邪魔して やろ う」と言う 悪因が、明求僧正への転
生への機縁になっている点に留意する。
悪因が善果を引き 出す機縁となる天狗の説話が、『今昔物語集』巻
二十の因果応報を説く説話群の最初に置かれていることは、同巻第三
「天㺃 、現 仏坐木 末語 」を 基 にして いる 「柿山伏 」という狂言 にお い
ても、「悪因が 善果を 引き 出す機縁となる」という発想を用いて の 解
釈も 可能とする。ゆえに、 悲惨な死を遂げた光も、 悲惨さとは無縁な
者と して 転 生す る という解釈をす るこ と も 可 能な ので あ る。
光は、 狂言 の世 界 の登場人物として転 生する。高 位の者では まっ た
くな い が、 瞬き も せず 、わき 目も せず 、 真実を 見 つ めるこ と ので き る
目を 持 つ者として 。
かつて 偽仏を天狗の仕業と 見抜いたその眼力は、 山伏が鳶に成り上
がるこ とが 不可能であるこ とを 見抜く。 山伏が墜落 した姿を 見て、 転
生した光は、「考えて いたとおりである。実の貴い山伏が、どうい う
仔細あって 唐突に 柿の木の枝先で 盗み 食いを される のか。いや 、 さ れ
るわけがない。人々が物事の道理をわき まえないで 、貴い山伏と大 騒
ぎして いたことこ そ、愚かなことである。」と言ったかもしれない 。
それゆえに、通力自在を誇号する山伏を 「なげる」ことが可能とな る
である。
道真は投げられることにより、御霊として の通力を 喪失する。投げ
られたことにより、御霊から 人間へ成り下がったので ある。しかし 、
人間 への成り下がりは 、御霊で あるこ と から 解放されたことも 同時 に
意味する。道真で ある山伏は鳶には成り上がれなかった。しかし、 柿
の木から墜落し、痛みを感じ、一人の人間で あると自覚するこ とで 、
新たな 出発をす るこ とはで き る。ここ に、道真、 時平、 そして 光は 、
完 全 に 人間 へ の 転 生を 果 た し たこ と に な っ た ので あ る 。
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加田:転生する源光 ―狂言「柿山伏」の後景―
仮説の補足
「 後 な げ る 」と は 、三 人 と も に 過 去 の 因 縁 と 呪 縛 を 完 全 に 断 ち 切 り 、
新たな 人間として の物語を 生きる ために、絶 対に 必要な 通過 儀 礼で も
あ っ た に 相 違 な い 。そ し て そ の 通 過 儀 礼 は 、下 剋 上 の 世 の 中 の「 狂 言 」
と言 う 新たな世 界にお いて 、 多く の観 衆に喜ばれる 「と め」 のあり よ
うで も あっ たので ある。(注二十二)
六.
さて 、前節で 述べた仮説の補足をしたい。佐竹昭広は、山伏の失敗
を「 祈 禱 の 失 敗 」で あ る と し 、「 山 伏 の 権 威 は 、祈 禱 の 失 敗 に よ っ て 、
完 全 に 否 定 さ れ る のだ 。 」 と 断 定 して い る 。 そして 、 「 狂言 の 中で 、
山伏の祈禱がとにかく成功しているのは、『柿山伏』と『苞山伏』く
らいで あろ う。 」としている。
しかし、現行と異なる結末を伝える台本も存在する。注二十二で 触
れた通り、和泉流の台本、 江戸時代の版本『狂言記』は、現行 の姿 と
は異なる。佐竹が言う「里 人を祈りもどす祈禱」の成功で終わるので
ある。このことは、無視してはならない。
祈祷 の成功で終わる狂言が、 「柿山伏」と「苞山伏」の他にも、和
泉 流 の 台 本 に 伝 わ っ て い る 。「 勸 進 聖 」で あ る 。別 名 、「 白 鬚 道 者 」。
能「白髭」の間狂言と言う。こ の狂言は、『補訂版国書総目録』に よ
れば、『狂言三百番集』下(注二十三)に翻刻された形でしか伝わっ
ていない。
海津 の 浦で の出来 事。 白髭 明神本 社 上 葺 のた めの 勧 進聖が、 奉 加を
断 っ た 道 者 を 乗 せ た 船 の 出 港 を 、祈 祷 に よ っ て「 大 鮒 一 獻 現 れ 出 で ゞ 。
道者に 向ひ 。怒 れる有様。 ま のあ たりなる奇特」を 見せ付け 、 道者 に
奉加 させることに 成功する。 それを 見て 、「鮒は 悦 び踊りは ねて 。 船
の 綱 を 口 に く は え て 。ば つ く が 間 を 片 時 が 程 に 。堅 田 の 浦 に 引 着 け て 。
それより都へ上せけり」。以上が、「勸進聖」梗概である。
勧進 聖 の祈 祷 の 台詞は 、 同 じく『 狂言 三 百番集』 下 に収 めら れて い
る 「 柿 山 伏 」 の 山 伏 の 祈 祷 の 台詞 と 酷 似 して いる 。
く
く
くやむな男。くやむな道者。 臺嶺の雲を凌ぎ。臺嶺の雲を凌ぎ年
行 の 。 功を 積む こ と一 食断 食 立行 居行 。 斯程尊き 勧 進聖 に。 な ど
か 驗 の な か る べ き 。ぼ ろ お ん
。南 無 水 神
。
(勸進聖)
く
く
悔やむ な男。臺嶺の雲を凌 ぎ年行 の。 功を積む事一 食断食。立行
居行 。斯程貴き 山 伏に。諸神諸佛われに力を 添へ給へと。苛高の
珠數のつめをに入れたるを。さらり
と押揉んで。一祈りこ そ
祈 た れ 。ぼ ろ お ん
。ト 祈 る 。常 の 如 し
(柿山伏)
く
く
勧進聖は遊行の僧。山伏の姿では 登場しない。縞熨斗目、括り袴、
十徳、角頭巾、腰帯、杓を 腰にさす。珠數懐中という姿であり、明ら
か に 山 伏 の 姿 で は な い 。と は 言 え 、そ の 祈 祷 の あ り よ う は 、山 伏 の「 常
の如」き 台詞の「ぼろおん
。」であり、 その山伏との共通性は明
らかで ある。あるいは、こ の狂言は山伏狂言 の一 つで あったかもし れ
ない。そのように考え るのは、『宇治拾遺物語』に、次のような説話
が伝 わ って いる からで ある 。
越前国からふき の渡りの出来事。熊野、御岳、白山、伯耆の大山、
出雲 の鰐淵等々、 修行をし 尽くし た、けいとう坊という 山伏が、渡 し
守に「渡せ」と言う。 渡し守は、聞き 入れず、船を 出す。けいとう 坊
は「いかに、かくは無下にはあるぞ」と言うが、聞く耳を持たず、 船
を出す。けいとう坊は、大いに怒り、「召し返せ、
」と叫ぶ。そ
れで も 船は 進んで ゆく ので 、 けい とう 坊 は 袈 裟と 念 珠を 取 り 出 して 、
「護法よ、召し返せ。 さもないと長く仏法とお別れ申し上げる」と 叫
び 、袈 裟 を 海 に 投 げ 入 れ よ う と し た 。す る と 、風 も 吹 い て い な い の に 、
船 は こ ち ら へ 寄 っ て 来 る 。け い と う 坊 は そ れ を 見 て 、
「寄って来るわ、
寄って 来る わ。 早く引 っ張 って お いで な さい ませ。 早く 引っ 張 って お
いで な さいませ」と言 う。 岸で 事の成り行き を 見て いた群衆は、真 っ
青になった。船が一丁足らずに近づいた時、「さて今は打ち返せ、打
ち返せ」と、けいとう 坊が叫ぶので、群衆は 口々に、「無残なおっ し
ゃりようだなあ。忌まわしい罪にもなります。そのままにして 、お 止
めください。そのままにして 、お止めください」と言う。それを聞 い
た け い と う 坊 は「 今 少 し 、け し き か わ り て 」、「 は や 、打 ち 返 し 給 へ 」
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鶴岡工業高等専門学校研究紀要 第49号
と叫ぶと、船はひ っくり返ってしまっ た。それを 見たけいとう坊は 、
「あな 、い たのや つ原や、 まだ知ら ぬか 」と言って 、帰って い った 。
「世 の末なれども、三宝おはしましけりとなむ」。
以 上 が 、『 宇 治 拾 遺 物 語 』に 収 録 さ れ た「 三 六 山 伏 、船 祈 返 事 巻
三ノ四」の梗概で ある。
こ の 説 話 に 関 し て の 、「 山 伏 の 験 力 を 臨 場 感 を た た え つ つ 語 る 説 話 。
多用される会話文が迫力に富む。」という評価(注二十四)、「末 法
にお いて も なお 仏 法は 顕然 た りと いう 、 山伏 の法 力を た たえ る のが テ
ーマ。こ の種の法験信仰は、むろ ん当 時一般的なも のだが、ま た一 方
に船頭 の態度にもうかがえ る ように、こ れを 小馬鹿にす る否 定的な 風
潮も 出て いる。結局は 山伏 の勝利に終わるが、こ の二つの思想の葛 藤
として も注 目される一 編で ある。 」という評 価(注二十五)には、 注
目し たい。 狂言 「 勸進聖」を 考え る上で も、 それが 山伏狂言 の一つで
あっ たかもしれないと推測する際に、示唆するところがあるからで あ
る。
まず、「山伏 の験力を臨 場感を たたえ つつ語る 説話」で あるこ の 説
話が 、 「末 法に お いて もな お 仏 法 は 顕 然 たり 」と い う 「 思想 」を具 現
化し たもので あることに注意したい。「こ の種の法験信仰は、むろ ん
当 時 一 般 的 な も の 」で あ っ た が 、「 こ れ を 小 馬 鹿 に す る 否 定 的 な 風 潮 」、
「 思 想 」も 出て き て い ると い う 時 代 背 景を 見逃す わ けに は い け ない 。
そしてこ の説話は、「二つの思想の葛藤としても注目される一編」と
して 位 置づ けら れて い る。こ の「 葛藤 」は、 「仏 法 」の 「験 力 」「 法
力」を 巡って の対 立で ある 。 なら ば、 「 験 力 」「 法 力」 とは 何 か。
こ の説話には「護法」なる者が登場する。「護法」とは、『新潮国
語辞 典 現 代語 古 語 第二 版 』 に 拠 れ ば 、 以 下 の 通 りで ある 。
①仏 法を護持すること。教法を保 護すること。②仏 法を 守護する
鬼神。「―善神〔 平家四・三井寺炎上〕」③化物や 病気などを追
い払う法力。
「護法 」は 、「 仏 法を 守護す る鬼 神」で ある。末法 の世 に、 山 伏の言
うこ とをに耳を 貸 さな い者が 出現 した時、山伏の護持して いる仏法 の
正当性を守るために、 護法が 船を 曳き 戻し、 船をひ っくり返す。こ の
く
ような構図が窺える。
末 法 の 世 の 群 衆 は 、船 を ひ っ く り 返 せ と 護 法 へ 命 じ る 山 伏 に 対 し て 、
「無慙の申やうかな。ゆゝ しき 罪に候。さて おはしませ。
」と言
う 。そ れ を 聞 い た と き 、山 伏 は「 今 少 し 、け し き か わ り て 」、「 は や 、
打ち 返 し給 へ」 と 叫ぶ 。「 今 少し 、け しき か わ りて 」の 描写 は 重要 で
ある。仏法を謗る行為をな し た者 の船をひっくり返すこ とが、 「無 慙
の 申 や う 」で あ り 、「 ゆ ゝ し き 罪 」と は 何 事 か 。山 伏 の「 け し き 」は 、
「今 少 し 」 「 か わ 」る 。 山 伏 の怒 りは 、 それ まで は 船中 に あ る 者 に 対
して で あっ たが 、 今や 、仏 法 の理を知ら ぬ群 衆のあ りよう自体 にも 向
け ら れ た の で あ る 。知 ら ぬ ば か り か 、「 無 慙 の 申 や う 」と 山 伏 を 謗 り 、
「ゆゝ しき 罪」な どと 僭上 の沙汰を叫 んで は ばか ぬ群衆に対 して 、 目
に物を 見せなくて はならない。そこで 、「はや、打ち返し給へ」と 叫
ぶこ とになるので ある。船はひっくり返って 、「あな、いたのやつ 原
や、まだ知らぬか」と言い残し、山伏は立ち去る。
こ の 山 伏 の 言 葉 を 、『 日 本 古 典 文 学 全 集 宇 治 拾 遺 物 語 』で は 、「 あ
あ、ひどいわからずやどもめ。わが法力のほどをまだ知らぬか」と訳
して い る( 注二 十 六) 。ま た、 『 新日 本 古典 文学 大 系 宇治拾 遺 物 語
古本 説話集 』で は 、「 ああ、 何と あわ れな奴らだろ う。 まだ仏 法の 威
力を 知らないのか。」と訳している。(注二十七)
こ の 時 点で 、 船 は 沈 んで い る ので ある か ら 、 「わ が 法 力 の ほ ど を ま
だ知ら ぬか 」や 、 「まだ仏 法 の威 力を 知 ら な い の か 」は おか し い。 山
伏 の 法 力 は す で に 示 さ れ 、同 時 に 仏 法 の 威 力 も 示 さ れ て い る の だ か ら 。
そこ で 、わ たく し は 、 「ま だ 知ら ぬか 」 とい う言 葉 は 、こ の 説 話 の
結びの言葉と考え合わ せ、「世の末なれども、三宝おはしましけり。
ま だ 知 ら ぬ か 」 と い う 趣旨 と して 捉え る べき か と 考 え る 。 「 ま だ 知 ら
ぬか 」は 「 思い 知 ら ぬ か」 の 意で ある 。 そして 、こ の山 伏 の言 葉を 、
「な んとま あ、や っかいな 群 衆だ 。末 法 の世で は あ って も、 三 宝は こ
のように厳然として世におわしますのだ。まだ思い知ら ぬか」と、 わ
たくしは意訳する。
こ の ように 考えて き たとき 、 「三 六 山 伏、 船祈 返 事 巻三ノ 四」
のテ ー マは 、 「 二 つの 思想 の 葛 藤 」で は 決して な く 、む しろ 山 伏に 代
表 さ れ る 仏 法 の 護 持 者 と 、「 仏 法 」の 何 た る か を 知 ら ず に「 法 験 信 仰 」
を「小馬鹿にする否定的な風潮」との「葛藤」と 見るべきで あろう。
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加田:転生する源光 ―狂言「柿山伏」の後景―
山伏には仏 法という確 たる信 仰が あるが、こ の説話に記 述されて い
るその他の群衆には思想などはまったくない。ある のは「風潮 」に 乗
って 、 「斯 程貴き 山伏 」を 「 小馬 鹿に す る 」 態度で ある 。 そ の 定 見 な
き 群 衆は、こ の怪 事を 見聞き し、 「世 の末な れども 、三宝おは しま し
けり」と語り継ぐことになる。
こ の説話に ある ような 葛藤のあっ た時代に、 原「 柿山伏 」や 「 勸 進
聖」 が 演 じら れ た ので あろ う 。 山 伏 の 験 力は いま だ 有 効で あ り 、仏 法
の体現 者で ある 山 伏を 小馬鹿 にして 去 って ゆ く庶 民を、 山伏が 「む ね
んが りてい のる 」。庶民は、 「し りし さ りにいのり つけらるゝ 。う ぶ
つて 歸 る 」 こ と に な り 終 わ る 。こ のよ う な 形 が 、 現 行 の 「 柿 山 伏 」 以
前の原「柿山伏」の姿として 想定でき よう。
そ し て 、山 伏 の 失 敗 談 で あ っ て も 、「 茸 」、「 梟 」、「 腰 祈 」、「 呪
ひ男」などは、祈祷自体は 効力を発揮している。 しかし、その験力は
行き 過 ぎで あっ た り、 ま たは 験 力 不足で あっ たり して 失 敗す る 。
こ の失敗す る祈 禱は、 仏法を 侮り かつ山 伏を 嘲笑し た者 へ、 「 悔や
むな男 」と 山伏が腹を 立て て な された祈祷で はな い。山 伏の験 力を 信
じた者によって 依頼される 難問への祈 祷であり、 そ の結 果が依頼者 や
山伏 の思う よう に 行かないこ とで 、山 伏が笑われる という趣 向 の失 敗
談で あ る。 そこ に は 、 通力 自 在で は な い 山伏 が 描 か れて いる が 、 そ こ
には「法験信仰」を「小馬鹿にする否定的な風潮 」は見当たらない 。
祈祷 自体が 、ま っ たく の無 力なも のと して は 、描 か れて いな い から で
ある 。 祈祷 に よる 効果 の過 不足が 、 そして そ の験 力を 制 御で き ない 山
伏が 笑わ れ る ので あり 、祈 祷 や 山 伏の験 力自 体が 否 定さ れて い るわ け
ではない(注二十八)。以上、佐竹昭広 のように、「山伏の権威は 、
祈禱の失敗によって、完全に否定される」と断定はでき ないと、わ た
く し は 考え る。 そ して 、 庶 民 が 山 伏 の 権 威を 完 全 に 否 定で き な かっ た
時 期 に は 、『 狂 言 三 百 番 集 』や『 狂 言 記 』が 伝 え る と こ ろ の「 柿 山 伏 」
や 「 勸 進聖 」 の よ うに 、 山 伏 の験 力に よ って 、 「 し りし さり に い の り
つ け ら る ゝ 」庶 民 が 演 じ ら れ て い た で あ ろ う と 、わ た く し は 推 測 す る 。
七.
おわりに
―
笑われる者と笑う者
―
最後に、源光や 菅原道真は転生したその姿を 、当時の観衆から 、大
いに 笑われたので はないか、という指摘をしておき たい。
『 今 昔 物 語 集 』や『 宇 治 拾 遺 物 語 』の 例 の 柿 の 木 の 説 話 を 知 る 者 は 、
「 柿 山 伏 」 を 見て 、 即 座 に そ れ が パ ロ デ ィで あ る と 気づ い た は ずで あ
る。 権 力者で あ っ た源 光が 柿 主と いう 庶 民と して 出てき て 、 霊験あ ら
たかな天神様で ある菅原道真が盗み食いをする山伏として 登場する だ
けで も、当 時の観 衆は大喜 びではなかっ たかと、わ たくしは、 当時 の
上演 の実態に ついて 、 考え を 巡ら せる ので あ る。 ( 注二 十九 ) 光 も
道真も 、と もに 笑われる。 そして 笑う 者 は笑うこ と に よって 、 笑わ れ
る者の存在を受け入れる。
そこ に 登場 す る 柿 主に は、 『 今 昔 物語 集 』 の 「 光 大 臣」 にあ っ た 庶
民への侮蔑感や、『宇治拾遺物語』の「右大臣殿」にあった末法の世
ゆえ の諦観などはない。常に観衆と同じ地平に立つ人間として 、い か
に時代が移り変わろうとも、颯爽と舞台に立ち続けているので ある 。
現世において地 方官を 歴任し世情に通じた源光としては、満足のゆ く
転生のありようで はなかっ たかと、わ たくしは信ずる。 そして 、二 十
一世 紀 の今 日に お いて も、 虚 実 皮 肉の間 を 揺ら ぎ 、 呵々 大 笑 して い る
源光の転生後の姿を、 密かに 想像する ので ある。
注
注一 北山茂夫、『日本の歴史4 平安京』、中央公論社、一九六五
年。
注二 日置昌一編、『日本歴史人名辞典』、講談社学術文庫、一九九
○年。初出は一九三八年。
注 三 松 村 博 司 校 注 、『 日 本 古 典 文 学 大 系 二 十 一 大 鏡 』、岩 波 書 店 、
一九六○年。
注 四 『 大 鏡 』に「 あ さ ま し き 惡 事 を 申 お こ な ひ た ま へ り し 罪 に よ り 、
このおとゞの御末はおはせぬなり。」とある。前出『日本古典文学
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鶴岡工業高等専門学校研究紀要 第49号
大系』 の頭 注に よれば 、「 あ さま しき 惡 事」とは 「 あき れる よう な
悪 事 。道 真 を 讒 言 し た こ と 。」で あ る 。ま た 、三 木 紀 人・浅 見 和 彦 ・
中村義雄・小内一明校注、『新日本古典文学大系四十二 宇治拾遺
物語 古本説話集』(一九九○年)で は、光の死は、同書の説話 の
脚注 の中で 、 光 の死を 、以下 のように 捉 えて いる 。 「か しこ き 大 臣
の威 力が語られて いるが、こ の光が怪死し、 それも五条ゆかりの道
真 の 報 復に よる と も 考えら れ たこ とを 背 景に おく と 、 印 象が 一 変 し
よう。 」(七三頁)
注 五 小 学 館 刊 行『 日 本 古 典 文 学 全 集 今 昔 物 語 集 三 』三 十 八 頁 参 照 。
校注・訳は、馬淵和夫・国東文麿・今 野達。
注六 岩波書店刊行『日本古典文学大系二十五 今昔物語集四』一 四
九ページ頭注参照。校注は 山田孝雄・山田忠雄・山田英雄・山田俊
雄。
注七 池田廣司・北原保雄著『大蔵虎明本狂言集 の研究 本文篇上』
四一七頁頭注に、天狗と鳶、山伏の関係が以下のようにまと めら れ
ている。
天狗がトビになる話は『今昔』(巻二十)等に見え、中世になっ
て も 謡 曲「 鳶 」に「 幾 星 霜 を 経 る 鳶 の な り あ が り た る 天 狗 の 姿 」、
西源院本『太平記』(巻五「相模入道好田楽事」に、天狗の姿を
叙するにはまずトビを あげて いる。さらに同書(巻十)「天狗催
越後 勢 」に は、 山 伏の形を し た天 狗が あ っ たこ と が 述べ ら れ 、 ま
た謡 曲「車 僧」「鞍馬 天狗」「大会」などで も天狗が山伏姿で 登
場する。つまり、中世には「天狗=トビ」と「天狗=山伏」の関
係が共 存し、「 山 伏のはて = トビ 」と いう関 係が 成立す るこ とが
可能で あり、『守武千句』にも山伏とトビが付合になっている。
田 口 和 夫「 狂 言 に つ い て 」( 静 岡 英 和 女 学 院 短 大 紀 要 一 号 )参 照 。
他 に 、佐 竹 昭 広「 有 世 の 面 影 ― 狂 言 の 陰 陽 師 」(『 下 剋 上 の 文 学 』)
参照。
こ こ で 注 意し たいのは、 「 幾星霜を 経 る鳶 のな り あが りたる 天狗 の
姿」という、鳶の上位に天狗があるという点である。鳶が成り上が
ると天狗となり、天狗が零落すると鳶に成り下がるという関係が読
み取れる。
鳶と山伏の関係はもう少し複雑である。小学館刊行『日本古典文学
全集 狂言集』(校注・訳は、北川忠 彦・安田章。)三七○頁頭注
には、「山伏の果ては 皆鳶となる」という句が以下のように解説さ
れて い る。
こ の よ う な 諺が 実 際 に あ っ た ので あろ う 。 山 伏・ 天 狗・ 鳶 が 一 体
のも のだとする 考え方は中世に普 及して いたが、 その場合は 天狗
が 成 り 下が っ たも のが 鳶で あ り、 ま た 「 山伏にもや 今年 なら ま し
/正月 の二 日 の夢に鳶を 見て 」( 守 武 千句)を 見て もや は り 鳶 か
ら山伏に成り上がるのであって、「山伏の果ては皆鳶となる」は
むしろ 堕落 した姿と思われる。ただこ の前後 のセリ フは 逆に 成り
上がる よう な感 じにと れる が 、こ れは 狂言なるがゆえに 、故 意に
そ れ を 逆に と り な し た ので あ ろ う か。 『 狂 言 不 審 紙 』 に は 「 諺 に
慢心せしを 天狗と言。 然ば 山伏の天狗に 成と言心にて鳶に成と言
か」とある。
北川・安田は、守武千句の付合のありようを 誤読していると、わ た
くしは 考え る。 「 山伏にもや 今年 なら ま し」という 前句 に対 して 、
「正月 の二日の夢に鳶を 見て 」と、山伏より上位の鳶を 持ち 出して
初夢 の縁起を担いだという解釈も 成り立ち、 その方が「正月」とい
う 祝 祭 的 な 時 間 に お い て は ふ さ わ し い と 考 え る か ら で あ る 。ゆ え に 、
「や は り鳶 から 山 伏に 成り 上がる 」は 間 違いで あ り、「 『山 伏 の果
て は 皆 鳶 と な る 』は む し ろ 堕 落 し た 姿 」も 誤 り で あ る と 考 え る 。「 た
だこ の前後 のセリ フは 逆に 成り上がる ような 感じにとれるが、こ れ
は 狂 言 な る が ゆ え に 、故 意 に そ れ を 逆 に と り な し た の で あ ろ う か 。」
とある 両氏 の疑問は、 前述 の立場に立て ば解 消す る。
『狂言不審紙』の「諺に慢心せしを天狗と言。然ば山伏の天狗に成
と言 心にて 鳶に 成と言 か」と いう 件も 、 「山 伏が 慢 心す る( 天 狗に
なる) と鳶になるというので あろ うか 」という趣旨で あ り、 山伏 の
上位に 鳶を 置いて いるこ と は 明ら かで あ る。
以上の述べてき たように、天狗と鳶、山伏の関係は、次のように整
理で き る。
天狗 ← 鳶 ← 山伏
天狗 → 鳶
山伏の修行の果ては皆鳶と成り上がり、幾星霜を経る鳶が成り上が
るのは 天狗で ある。ま た天狗がその正体を露 見す ると鳶に成り下が
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加田:転生する源光 ―狂言「柿山伏」の後景―
る。鳶は羽を折ら れ、まま周囲の者に殺されてしまう。ゆえに、鳶
が山伏に成り下がるこ とは、 原則 的にないと考え る。山伏姿 の天狗
が存在したことで 、「鳶が 山伏に成り下がる 」という関係性把握の
上で の混 乱 も 生 じ たので は な い か と、 わ たく しは 推 測す る。
注八 前出『日本古典文学全集 今昔物語集三』において、こ の説話
の性 格は、 「前話 に引き続く 天狗 の失敗談で 、天 狗が金 色の仏 に 化
して 五 条の道祖神 の柿 の木に現じ、種 々 の霊異を 示したが、 右大 臣
源光に見破られ、地上に落ちて小童に踏み殺された話」とされる。
注 九 小 学 館 刊 行『 日 本 古 典 文 学 全 集 宇 治 拾 遺 物 語 』( 校 注・訳 は 、
小林 智 昭。 )に お いて 、こ の 説話 の性 格 は、 「低 劣 な俗 信や 迷信 の
盛行 す る 時 代に お ける 、 い わ ば 知 性 の 勝 利で あ り 礼 賛で ある 。 十 二
~十三世紀にかけて台頭するこういう傾向の一面は、本集の中にも
うかがわれるところで あり、注目される 思想 的特 色で ある。 」と さ
れる。
注十 小峰和明校注、
『 新 日 本 古 典 文 学 大 系 三 十 六 今 昔 物 語 集 四 』、
岩波書店、一九九四年。なお、『今昔物語集』本文の引用は 同書に
よっ た。
注 十 一 『 新 日 本 古 典 文 学 大 系 四 十 二 宇 治 拾 遺 物 語 古 本 説 話 集 』。
なお『宇治拾遺物語』本文の引用は同書によった。
注十二 伊 藤博 之、「思想と 文学 仏 教 思想がも たらし たも の 」、 日
本文学 協会編『日本文学講座 2 文学史 の諸問題』、大修館書店、
一九八七年。
注十三 『日本 の歴史 4 平安京』の「受領と郡司・百姓の抗争」、
「時平と道真」参照。特に三三四頁の「天皇が受領 の中から 保 則と
道真をえら んだところに、国政の第一線で奮闘してきた受領の経験
と識 見が、 中央 政 界で 大き く も のを い う 時代 にふ みこ んで い た ので
ある。 」と の記 述は、 同時代に地 方官を 歴任 した光のありようを 推
測す る 手が かり と なる 。 光は 、 時 の権 力 者で ある 藤 原時 平よ り も 、
藤原 氏 の傍 流で あ っ た保 則 や 菅原 道真 に 近い 存在で あっ たこ と が わ
かる。
注十 四 『日本古典文学全集 今 昔物 語 集 三 』で な されて い る 訳。
注十 五 『日本古典文学全集 宇 治拾 遺 物語』で な されて い る 訳。
注十六 中村元・紀野一義訳注、『般若 心経 金剛般若経』、岩波 文
庫、一九六○年。
注十七 岩波文庫『般若心経 金剛般若経』二○○頁参照。
注 十 八 『 新 日 本 古 典 文 学 大 系 今 昔 物 語 集 四 』二 二 六 頁 。『 万 葉 集 』
巻二 の「玉葛実成らぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふなら ぬ木ご
とに」が引かれている。
注十九『新日本古典文学大 系 宇治拾遺物語 古本説話集』七二頁。
注二十 古川久校注、日本古典全書『狂言集』下、朝日新聞社、一 九
五六年。
注十五 『新日本古典文学大系 今昔物語集四』二二八頁参照。
注十 七 『日本古典文学全集 今 昔物 語 集 三 』で な されて い る 訳。
注十 八 『日本古典文学全集 宇 治拾 遺 物語』で な されて い る 訳。
注 十 九 『 新 日 本 古 典 文 学 大 系 今 昔 物 語 集 四 』二 二 六 頁 。『 万 葉 集 』
巻二 の「玉葛実成らぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふなら ぬ木ご
とに」が引かれている。
注 二 十 『 新 日 本 古 典 文 学 大 系 宇 治 拾 遺 物 語 古 本 説 話 集 』七 二 頁 。
注二十一 古川久校注、日本古典全書『狂言集』下、朝日新聞社、 一
九五六年。
注 二 十 一 注 七 参 照 。『 天 正 狂 言 本 』に お い て も「 と び 」は「 山 ぶ し 」
より、高位の存在である。
注二十二 佐竹昭広は、現行の「柿山伏」に関して 以下のような疑 問
を発している。(「嘲笑の呪文」、『下剋上の文学』、筑摩書房、
一九六七年。)
祈禱で はい つも 失敗す る山伏物に あって 、男を祈 りもどす祈 禱に
成功する「柿山伏」は、たしかに例外的存在である。山伏に祈禱
させれば、まず失敗に終わることを期待した狂言の観衆が、ここ
にな ん の抵 抗も 感 じな いで いら れ たのだろ う か。 「 柿山 伏」 の 原
型は 、こ の よう な 不自 然な も のを ふ く ま ず、 観 衆 が もっ とす な お
に 受 け い れ るこ と ので き る 筋 立て を も っ て い た ので は な い か 。 高
い 木 に 登 っ た ば か り に 、ふ だ ん は 傲 岸 不 遜 な 山 伏 が 、烏 だ 、猿 だ 、
鳶だと翻弄され た末、 木から 振り落と されるという 筋は、こ の部
分だ けで も 、すで に「を か し 」と して じゅ う ぶ ん ま とま って い る
と 思 う 。 ( 中 略 ) 柿 の 木 か ら 墜落 して 腰を 引 き な が ら 逃 げて ゆ く
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鶴岡工業高等専門学校研究紀要 第49号
く
く
く
く
く
くく
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山伏を、「やるまいぞ
」と追い込む ような 形で 完結 して い た
ので は あ る ま い か 。 し か し 、 観 客 は つ ね に 筋 の 複 雑 化を 要 求 して
や ま な い 。 山伏 が 木 か ら 落 ち る 程 度で は も の たり な い と 感 じ た 人
びと の 意を 汲んで 、腰を ぬか し、 負わ れて は いる 山 伏のあわ れ な
姿が 加えら れ、 そ れに もあき たら ない 人 びと の意を 体して 、 里 人
を祈りもどす祈 禱と、山伏を投げ出す里 人の報復が付加された。
わ た く し は 現「 柿 山 伏 」の 生 成 を 上 述 の ご と く 想 像 し 、「 柿 山 伏 」
の原 型を 、 狂言 と して すで に 一個 のま と まりを 有 す る前 半部 、 鳶
のま ね を し た山 伏 が木 から 飛 んで 墜落 す るく だ り まで だ っ たと 推
定したい。原「柿山伏」には 山伏の祈 禱の場面が存在しなかっ た
と 見 る ので あ る 。 「 柿 山 伏 」 の原 型は 、 山 伏 の祈 禱 の 失 敗を テ ー
マに し た狂言で は なかっただろう。自在 の神 通力を 誇る 山伏が、
「惣じて山伏のはては鳶になるといふ」俗諺を信じて空を飛ぼう
とし、 見事に失敗する、山伏 の通力の失敗を テー マにし た狂言だ
ったと思う。
現 行 の 「 柿 山 伏 」 は 『 天 正 狂 言 本 』 の 筋 立て の通 りで あ るが 、 和
泉流の台本、江戸時代 の版本『狂言記』は、現行 の姿とは異なる。
佐竹が 言う 「里 人を祈 りも どす祈 禱」 の 成功で 終 わ るので あ る 。
シ テ【 庵点】悔やむな男。臺嶺の雲を凌 ぎ年行 の。 功を 積む事 一
食断食。立行居行。斯程貴き山伏に。諸神諸佛われに力を添へ給
へ と 。苛 高 の 珠 數 の つ め を に 入 れ た る を 。さ ら り
と 押揉 んで 。
一祈りこ そ祈たれ。ぼろおん
。ト祈る。常の如し。アド【庵
点】あれは何を ぬかし居る。あのやうな者には構は ぬが よい。急
い で 歸 ら う 。ト 云 う て 。橋 掛 り へ ゆ く 。一 の 松 よ り 苦 し む 體 に て 。
ひ よろ
として 戻り。シテの前にこ ける。シテ【庵点】貴い山
伏はこ のや うな も のぢ や。 連 れて いて 看 病せい。 ア ド【 庵点 】 な
う
。恐ろしや
。ト 云うて 。シ テを負ひて 入るな り。
野々村戒三・安藤常次郎校注『狂言三百番集』下
山伏「定言ふか。 それ山伏といつぱ、役 の行者の跡を継ぎ、難行
苦行、こけの行する、今此行力かなわ ぬかとて、一祈りぞ祈 つた
り 節【庵点】橋の下 の菖蒲は誰が植へた菖蒲ぞ。 柿主「やい
山伏、おかしい 事をせずとも、往ね 山伏「やい、定言ふか。も
一祈りぞ祈つたり、ぼうろぼん
、そりや見たか、山伏の
く
く
手柄には、物に狂ふは 手柄で はないか。
橋本明生・土井洋一校注『新日本古典文学大系五十六 狂言記』
『狂言三百番集』は和泉流の江戸末期の和泉流の台本。『狂言記』
は 江 戸 時代 初期 の 狂言 台本 と して 考え るこ と も一 般 的に なって い る
(岩波講座『能・狂言 Ⅴ狂言の世界』)。
両者ともに佐竹 の言う よう な 「山伏を 投 げ出す里 人 の報復」が、
全く 欠 如して い る 。こ のこ と は 、 「 柿 山 伏」 の原 型を 考 え る 際 に 外
して は なら ない。特に 『狂言 記』刊行 の 影響は、 狂言界 のみ な ら ず
歌舞伎 界、 知 的 な 読者 層に 大 き か っ たは ずで ある 。 江戸 時代 初 期 に
は、 『 狂言 記』を 基に して 、 実際 の上演 もな され たはずで ある 。 山
伏 が 祈 禱 に 成 功 し 、そ の 通 力 を 誇 示 す る こ と で 終 わ る 狂 言 の 存 在 は 、
原「 柿 山 伏 」 の あ り よ うで あ っ た 可能 性 も 否 定で き な い ので あ る 。
そ れ は 、本 稿 本 文 で 述 べ た よ う な 新 た な「 人 間 と し て の 物 語 」で は 、
まっ たくない。中世以来の怪異の延長線上にある、落とした者は落
とされるという物語で ある。 山伏を木から落とし た者は、その報復
として 「 なう
。恐ろしや
。」と恐怖に打ち震え、もしくは
恐 怖 の あ ま り「 物 に 狂 ふ 」の で あ る 。こ れ も ま た 、登 場 人 物 た ち を 、
シテを 菅原道真、アドを源光が転生した姿と考えてみるという仮説
に立て ば、 『天 正 狂言 本』 以前の因縁因 果の物語と して 、 筋は 通る
かと考える。それゆえに、わ たくしは 原「柿山伏」の形を最も忠実
に伝えているのは 、和泉流 の台本や『狂言記 』で はなかったかと推
測して いる。
なお、佐竹昭広は、同じく「嘲笑の呪文」において 、「柿山伏」
の原 型が山 伏の 墜落で 終わ る とい う推 定について 、 以下 のよう に も
述べて いる。
「とんびになる」という昔話(『日本昔話集 成』 第二部笑話1二
八九~ 二九○ペー ジ) の存 在が、こ の推 定を 支持 して く れる と 思
う 。 多 分、 こ の よ う な 民話 が 「 柿 山 伏 」 の素 材 と な っ た ので あ ろ
う。ここで は、特に、ラフカディオ・ハーンによって記録された
天狗の話を紹介しておく。「松江に、鳶川という力士あがりの男
が 住 ん で い た 。… … 鳶 川 は 珍 し い 死 に 方 を し た の で あ る 。じ た い 、
こ の男は悪ふざけ の好きな男で あった。ある日のこ と、 かれは、
か ら だ に 羽 根 や ら 、高 い 鼻 や ら を つ け て 、天 狗 の 姿 に 変 装 を し て 、
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加田:転生する源光 ―狂言「柿山伏」の後景―
楽山の近く の鎮守 の森の高い木の上に 登ったもので ある。しばら
くす る と、 のんき な百 姓ども が寄って きて 、ひと つ天狗を 拝む べ
えといって 、いろ んな 供物を かれに供え た。 鳶川はこ のありさま
を木の上から見下ろして、ひとり興じながら、あっぱれ天狗の腕
前を 見せようというので、木の枝から枝へと、身軽にえいと飛ぼ
うと し たひ ょう し に、 足を 踏 みは ず して どう と下 に 落ち 、 と う と
う首の骨を 折って しまったので ある」(『日 本瞥 見記』 第十五 章
「キツネ」)
登 場 人 物 の 名 前 が「 鳶 川 」(「 糞 鳶 」に 対 応 。)、「 鎮 守 の 森 」(「 五
条」に対応する 聖なる 場所を 設定。) の「高い木 の上」(「実のつ
か ぬ 柿 の木 」に 対 応。 )に 出 現 して い る 点、 「天 狗 」を 拝む 庶 民 の
存在、「天狗の腕前」を見せようとして 木から落ちる点、首の骨を
折り死亡する結末など、明らかに、『今昔物語集』や『宇治拾遺物
語』 の説話 の影響下に ある 昔話で ある。こ の昔話 の原点が両書の説
話が あ るこ とに つ いて 、佐 竹 が 沈 黙して いるこ と は 、 不 可思 議で あ
る。
沈黙の理由として 、件の昔話が「笑話 」として捉えられている点
が挙 げら れ ると 考え る 。「を かし 」を 狂言 の 中核 と して 捉えて い る
佐竹は、「五条、実のつかぬ柿の木、くそとびなど、怪異・禁忌に
か か わ る も の が 続 々 と 出 る 。か し こ き 大 臣 の 威 力 が 語 ら れ て い る が 、
こ の光が怪死し、 それも五条ゆかりの道真の報復に よるとも考えら
れ たこ とを 背景 に お く と 、 印 象が 一 変 」 して し ま う よう な 説 話 を 、
狂言 の素材として 考え るこ と から 外し たかっ たので はないか。 「 笑
話 」 と して すで に 位置 づけ ら れて いる 「 と ん びに な る 」 は、 両 書 の
説話 のように不自然なものをふくまず、佐竹にとっては、狂言 の素
材と して、もっとすなおに 受けい れるこ とのでき る 筋立てを もって
いたので はないか。以上のように 考え ることもで き るかと思う。
注二十三 野々 村戒三・安藤常次郎校注、『狂言三百番集』下、冨 山
房百科全書、一九四二年。
注二十四 『新日本古典文学大系 宇治拾遺物語 古本説話集』七 九
頁。
注二十五 『日本古典文学 全集 宇治拾遺物語』一三八頁。
注二十六 『日本古典文学 全集 宇治拾遺物語』一三八頁。
注二十七 『新日本古典文学大系 宇治拾遺物語 古本説話集』七 九
頁。
注二十八 祈祷 の効果が思う ようにならないとき 、 山伏は依頼者に 詰
ら れ る 。今 まで 信 じて い たこ とが 間 違 って い たと も 、 山 伏は 責 めら
れる。しかし、 その際に、祈祷の有効性や山伏全般に対する、依頼
者の信頼は揺らいではいないと読み取れる。
注二 十 九 当時の観衆が「 柿山伏」を 見て 、 『今 昔 物語集』や 『宇 治
拾遺物語』のパロディであると気づいたならば、 たとえ注二十三に
おいて 触れた原「柿山伏」で あっても、当時の観 衆は大喜びで はな
かったかと推測する。高位の者が庶民へと零落し、山伏や柿主とな
って 出て くるだけでも、十分に「狂言 綺語」なる笑いの場を 提 供で
き た の で は な い か 。本 歌 取 り や 俳 諧 の 文 学 が 盛 ん な 我 が 国 に お い て 、
当時の庶民の知 的水準は、あるいは予想外に高かっ たかもしれない
ので あ る 。
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