続きを読む

「頼山陽」の子孫ではない
当方の名字は「頼」ですが、「頼山陽」の子孫ではありません。
また、同期会毎にどこどこで「頼山陽」の子孫に会ったというお話を頂戴しますが、いずれ
も「頼山陽」の子孫ではないと思われます。今年、同期会が開催されるに当たり、同様のお話
を頂かないように多少説明しておきたい。
まず、頼家の家系図:
道圓→道喜→善祐→享翁→春水→(山陽)→聿庵→誠軒→古梅→成一→惟勤
これが「頼宗家」または「広島頼家」の系譜。
注1:備後御調(みつぎ)郡西野村頼兼(現在三原市頼兼町)にあった頼兼城の城主=岡崎
頼兼は戦国時代に小早川隆景に滅ぼされた。夫人・丹下氏は実家の宇都戸城主のもとで男子を
もうけ十郎左衛門と名付けられる。十郎左衛門の庶子が竹原に移り住み、これが道圓(通称:
総兵衛、諱:正成)で頼家の初代となった。紺屋を業とした道圓は屋号を「頼兼屋」とし、こ
れが後の「頼」となる。
注2:岡崎頼兼は敏達天皇の王子・葛城王(橘諸兄)を祖とする橘氏である、と系図には書
かれているが、これはマユツバかもしれない。
注3:頼家六代目を継ぐハズだった山陽(通称:久太郎)は自らの脱藩事件(寛政12年=
1800年:久太郎21歳)により頼家を廃嫡される。そのとき妻(藩医御園道英の娘・淳
子)は身ごもっており離縁したがその子=聿庵(後の広島藩藩儒)を引き取り最終的に頼家六
代目とした。
注4:頼家十代目の惟勤(つとむ)氏はお茶大教授。岩波文庫の「日本外史」は惟勤氏と父
親・成一氏との共作。
頼家を廃嫡された久太郎(山陽)は座敷牢で過ごし、30才のとき離藩を許され浪人とな
り、神辺・菅茶山の塾頭を一年務めたあと、京都へ出て塾で生計を立てる。これを「京都頼
家」という。
京都頼家の家系図:
山陽→支峰→庫山→久一郎→新(あらた)
注1:山陽は後妻(医者小石玄瑞の養女として)を娶り水西荘に居住する。晩年、その鴨川
沿いに山紫水明処(四畳半+二畳の水間)を建て文人のサロンとした。
注2:安政の大獄で斬首された三樹三郎は支峰(通称:復二郎)の弟。
注3:山陽玄孫の新氏は知恩院の前にある邸宅(旧彦根藩京都家老宅)で「頼山陽旧跡保存
会」という財団法人をもつ。また、河原町丸太町にある国定史跡「頼山陽書斎山紫水明処」、及
び、護国神社の霊山にて「養正社(明治維新の無名功労者を祀る)
」を所有・管理している。
注4:玄孫の新氏の夫人は染谷寛治氏の孫娘。
注5:染谷寛治氏は 武藤山治氏とともに鐘紡を中興した。
「攻めのサンジ、守りのカンジ」
注6:染谷氏は佐竹本三十六歌仙の切り売りオークションへ参加し、藤原兼輔の「人の親の
心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」を落札。なお、南禅寺にある染谷邸は後に
松下幸之助氏が買い取り、現在、松下の迎賓館「真々庵」となっている。
ということで、頼山陽の子孫と言えるのは、「広島頼家」と「京都頼家」しかいない。当方
はその両家の人脈を全て知っているので、その方々以外に「頼山陽の子孫」はいない。
両家の他に「竹原頼家」と「杏坪(きょうへい)頼家」とがある。
「竹原頼家」は山陽の父
親=春水(通称:弥太郎)が広島藩の藩儒になったため、春水の弟=春風(医者・儒者、通
称:松三郎)が地盤を継いだ。
竹原頼家の家系図:
春風→熊吉(号:景譲、久太郎廃嫡後頼宗家の養子となるが家督相続前に病死)→尚平→有
陸・・・・
この系図は男子が多く誰が竹原頼家の家督を相続しているか不明だが、直近では、桃三郎氏
(広島大教授)そのご子息・祺一氏(広島大教授)を存じ上げている。しかし、春風の子孫で
ある以上、頼山陽の子孫ではない。
杏坪頼家について
頼杏坪(通称:萬四郎、名:惟柔【ただなご】
、字:千祺)は長兄・春水の末弟で、兄の助
手として広島藩の藩儒となった。その家系図:
杏坪→舜燾(みちてる)→正義→硯水→燾(てらす)→益(すすむ)→達(とおる)
杏坪の子=舜燾(通称:佐一郎、号:采眞)は広島藩の勘定奉行を務めた経済官僚。当
方の祖父=?は日銀函館支店勤務。燾には二男六女がいた。長男の益は音楽家だったが30
才までに逝去し、家督を継いだ次男の達は外務省で戦前はニューカレドニアに勤務してい
た。当方は?の五女=公美子の子である。
当方が小学校一年のときに両親は離婚し、母親に引き取られたため「頼」という名字になっ
た。つまり、
「杏坪頼家」の流れをくむのだが、「出戻りの頼」ということで、
「杏坪頼家」の家
督を相続する立場ではないし、もちろん、頼山陽の子孫でもない。
さて、頼山陽の子孫である「広島頼家」と「京都頼家」とは、先妻の子孫と後妻の子孫とい
うことやら、諸々の事情があって、交流がなかった。そんななかで、「杏坪頼家」は「広島頼
家」とも「京都頼家」とも親しくしていたのである。
その主たる理由は頼杏坪と甥の山陽との関係であろう。山陽の父親=春水は江戸勤番が多
く、久太郎(山陽)の12才になるまで6年ほどは母子家庭であった。その間、広島で父親役
を務めたのは久太郎(山陽)の叔父=杏坪だったのである。
また、久太郎(山陽)の昌平黌入学(江戸遊学)は、杏坪の江戸勤番に便乗したものであ
り、行きも帰りも杏坪と一緒の行程であった。そして、江戸遊学後の久太郎が脱藩事件を起こ
したとき、江戸勤番(昌平黌の教授)だった父親の春水に代わり、久太郎(山陽)の捜索・助
命に奔走したのは杏坪である。そんなことも語り継がれていたのだろう、
「杏坪頼家」は「広島
頼家」にも「京都頼家」にもウケがよかった。
加えて、「杏坪頼家」の六代目益と「京都頼家」の玄孫新氏とは、新氏が若い頃は三井系の
会社で東京勤務だったこともあり、親友同士だった。新婚時代の新氏は渋谷の高樹町に居を構
え、当方の母親たちは未婚時代に霞町に住んでいたこともあり、親交も深かったようだ。
「京都頼家」の新氏は三人の娘がいたが、三保夫人は戦後直後に4人目を流産した。ちょう
どその頃当方が生まれたので、「京都頼家」玄孫夫婦にかわいがってもらったらしい。当方が小
学校、中学校、高校、大学のとき、京都に遊びに行くと「京都頼家」に泊めてもらったもの
だ。
「京都頼家」は長女に婿をとり6代目とする予定だったが、醜聞が発生し、戸籍離脱となっ
た。そこで三女の娘(新氏の孫)を養女として迎える手筈を整える。明治生まれの玄孫には彼
女が成長するまで長い年月がかかることになった。
「京都頼家」は昭和4年創業のアルミ加工業(年商20億円程度の零細企業)を家業として
いた。だが、会社後継者がいなくなったため、孫娘の代まで空白が予想され、リリーフ投手が
必要となる。そこで白羽の矢が立ったのは、身軽な「出戻りの頼」=当方だった。
そんな経緯で、当方は、会社の専務となり、「山紫水明処」の母屋に居住することになった
次第である。頼家に関する枝葉末節な事柄は当方が一番詳しいかもしれない。