2015/4/28 覚書 (鈴木貞美) 1、宮崎湖処子『帰省』とその文学史的位置をめぐって 宮崎湖処子『帰省』(1890)は、都会の学生生活に馴染んだ者が故郷に帰って覚える感傷 と見聞をつづった感想録で、その抒情性と田園趣味により、 「ロマン主義」の名を冠せられ ている。だが、精神の自由への希求、想像力による創造性を指標とするロマン主義の理念 によるものではなく、また、森鷗外「舞姫」(1890)のように一人称視点で自身の恋愛を振 り返る私小説 (イッヒ・ロマン) の構えをもとっていない。都人が鄙に覚える感傷の表現 は、中世から江戸時代に盛んな紀行文にも伝統的に見られるもの。その田園賛美も隠里に 桃源郷を想うことも、宮崎湖処子が陶淵明の詩に馴染んでいたことが下地をなしている。 「帰省」もまた、西洋ロマン主義を漢詩の実感主義によって受容し、また伝統的なリアリ ズムの方法を接合し、漢詩、短歌、長歌の「改良」を目指した「新体詩」の流れが呼び起 こした抒情的散文のひとつといってよい。 その精神史上の意味は、自由民権運動――立身出世と対になった政治的ロマン主義―― の挫折によって生じた精神の空隙を「懐かしい家郷の再発見」によって埋めるものであり、 同様の心情と伝統的教養とを共有する知的青年層に浸透した。すなわち、制作と受容の契 機ともに時局的特殊性が強く、のちに継承される要素は小かった。それこそが「帰省の前 に帰省なく、帰省のあとに帰省なし」といわれる所以であろう。 同時期、北村透谷が「楚囚の詩」(1889)を破棄し、『蓬莱曲』(1891)へ駆け上った行程、 すなわちキリスト教ロマン主義から日本的象徴主義への飛躍と比較対照して考えれば、「帰 省」の文学史上の位置は自ずと明らかであろう(鈴木貞美「北村透谷の『文学』観」、『「日 本文学」の成立』所収 を参照されたい」。 2、先行する評価が依拠する「自然主義-対-ロマン主義」図式の無効性について 宮崎湖処子「帰省」をロマン主義的抒情的散文の嚆矢と見る、小田切進に代表される見 解は、ゲオルク・ブランデスが、エミール・ゾラの「自然主義」をブルジョワ社会の欺瞞性 を告発するイプセンらの作風にまで拡張した「ロマン主義‐対‐自然主義」の二項対立図 式に縛られたものにほかならない。その図式は、20 世紀への転換期の一時期、国際的にひ ろがったが、実際のところ、できあがる傍から、国際的にも日本においても、五官の感覚 1 や意識を重視する印象主義からスピリチュアリズムに立つ象徴主義への流れが台頭するこ とにより、崩れていた。当時は、フローベールもドストエフスキーも「自然主義」に分類さ れていた。今日、誰もそのような見解に立つ者はいない。 日本の「自然主義」作家に、「自然科学」の立場を表明した者など、誰ひとりとしていな い。ヨーロッパで、その意味での「自然主義」が衰退していることは、森鷗外『審美新説』 (1900)によって伝えられており、それぞれが「自然主義」や「新自然主義」の名の 下で、印象主義から象徴主義への道を探っていたからである。つまり、日本文芸における 「自然主義」は、内実のない符牒にすぎなかった。 ところが、1920 年代に、科学を標榜する「マルクス主義」イデオロギーが台頭し、「自 然主義」を「科学主義」ないし「実証主義」の流れと見る立場を温存させた。「プロレタリ ア文学」運動の挫折後、たとえば小林秀雄は、それまでリアリズムを手法として扱ってい たにもかかわらず、 「私小説論」(1935)で、それを「実証主義」に格上げし、それが浸透し なかったことをもって、日本近代文学の欠点とし、欧化主義を主張し伝統主義に対峙しよ うとした。同じく 1935 年前後の時代の悪気流のなかで、明治中後期の文学史を「自然主 義」対「反ないし非自然主義」という図式で見る図式が田中保隆によってつくられた。 小林秀雄らが日本主義、伝統主義と見なして対峙した流れは、蒲原有明『春鳥集』(1903) 序文に発する芭蕉を日本的象徴表現の代表とする見解が、象徴詩派や太田水穂ら歌人、ま た荻原井泉水ら新傾向俳句、そして「世界に冠たる日本象徴主義文芸」を標榜する萩原朔太 郎らによって育くまれたものだった。さらに、世阿弥の能楽を象徴主義と見るフランス人 宣教師、ノエル・ペリの見解などが加わることにより、中世の禅林の生活文化を基盤とす る「わび・さび」や幽玄を「中世美学」のように抽象化し、もって「日本的なるもの」と 称揚する機運が、1935年を前後する時期にアカデミズムに台頭した。その流れは、 『日 本浪曼派』を名乗る保田与重郎らの象徴主義=芸術至上主義の台頭を手伝いもした。この流 れに、欧化=近代化主義をもって対峙する時代錯誤は、やがて小林秀雄らが戦時期に伝統 主義に加担する結果を招いた。 このようにして作られた「実証主義=自然主義」対「ロマン主義」の図式は、第二次世界大戦 後、中村光夫らロマン主義の推進派が逆方向から強化したことにより、文芸批評および近 代文学の研究者たちに浸透した。この愚かな図式が「明治以来の欧化主義」「明治以来の脱 亜入欧」図式とともに、いまだに払拭されずにいる。既成の概念や分析図式の無効性を暴き 2 だし、日本文化全体の近代化・現代化の仕組みについて徹底的に考えなおす機運を醸成す る努力を続けることがまだまだ必要である。 3、今後の課題 『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』では、イギリス産業革命期に「近代の超克」思想 の淵源を探り、その20世紀における展開、そして、その日本における展開の概要を20 世紀の終わりまで辿ったが、残されている問題としては、①これまでの見解を、より精密 にすることで解決できる問題、➁欠如が明らかな問題、➂さらなる飛躍的発展を必要とす る問題の三つに分けて述べておく。 ①これまでの延長線上に解決が予測される課題。 ア、日本における象徴主義の展開、「生命」なるものの象徴表現の道筋のあらあらは、『入 門 日本近現代文芸史』にまとめてある。俳句界の動きのうち、荻原井泉水について は、『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』で言及した。 イ、それと関連する「生活の芸術化」の展開について、ウイリアム・モリスの思想の受容 が、1920 年からふたたび、本間久雄、堺利彦らの著作によって浮上することについて は、やはり『近代の超克』で論じておいた。 また、いわゆる「修養日記」の定着については、阿部次郎『三太郎の日記』と関連さ せて、 『概念史研究―日記と随筆』(2016)で論じる。 「修養」の季節については、 「信仰 の価値」が国際的に説かれたことについて、 『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』で 論じた。『宮沢賢治―氾濫する生命』(2015)でも、個別具体例を補う。 ウ、日本における芸術至上主義の問題については、保田与重郎については解決してある が、そこに至るまでについては、おいおい補強してゆかなくてはならない。谷崎潤一 郎『陰影礼賛』などがわかりやすい例である。 志賀直哉について二、三補足すれば、 「十一月三日午後のこと」をめぐる和辻哲郎と 正宗白鳥の応酬に整理をつけること、また小林秀雄の初期の「志賀直哉論」にも及ぶ だろう。その他、志賀直哉「清兵衛と瓢箪」ほか、いわゆる「芸道小説」の流れと 1930 年代後半からの永井荷風の諸作も検討課題として浮上しよう。 ➁「芭蕉=象徴主義」論の流れの第二次大戦後の展開を解明すること。 「芭蕉=象徴主義」論の流れは、第二次世界大戦後、とくに唐木順三によって理論化が進 3 められ、知識層に浸透した。その全面的な検討には、中世の精神史との本格的な取組が 必要になる。現在、唐木順三『中世の文学』(1965)を指標に、その検討を進めているが、 道元をふくめて、東洋的観念論――いわゆる天台本覚思想――の展開を整理することが 鍵になろう。また「中世ルネサンス」論の流れの見直しにも取り組まなくてはならない が、一休宗純の「風流」「風狂」思想のしくみの解明などが難問の部類に属すると思う。 他方、前近代の古典におけるジャンル概念について、 「日記」と「随筆」とのふたつの 課題を日本古代史の研究者、中世文学の研究者からもらい、それぞれに答える道を探っ てきた。概念史研究は、ひとつの概念のみ追うことでは満足な成果はえられない。それ らふたつをあわせ考えることにより、 「説話」および「批評文」とをあわせ、前近代の物 語―小説系以外の散文ジャンルについて、一挙に解決する道が開けつつある。 『概念史研 究―日記と随筆』で一応の整理がつくと思う。この作業により、前述した中世の精神史 へのアプローチにも糸口がついた。 『鴨長明論』など、個別課題ととりくみながら、進展 をはかってゆきたい。 ➂その他 最も大きな課題は『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』で少しふれた三枝博音の自然 論を検討しつつ、 『日本人の自然観』をまとめることである。これには、日本における科学 =技術史ととりくまなくてはならず、一朝一夕に運ぶものではない。それらと上記したこと を併せ、はじめて『日本精神史』をまとめることができる。余命との競争になるが、中断 を厭うことなく、ゆるゆると進めるつもりでいる。 4
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