戦後教育における「市民」の位置 - So-net

戦後教育における「市民」の位置
日本型生活保障システムとの関連で
仁平典宏(東京大学)
問題設定
教育学は、戦後、政治や経済から切り離された独
自の価値に自閉することにより、他の領域に影響を
持ち得なくなった――これを教育学の自閉化テー
ゼと呼ぶことにしよう。本稿の課題は、このテーゼ
が孕む誤認の所在について、次の三つの問いのもと
で再検討することである。
第一に、戦後の教育学言説の変容を追尾すること
で、
「自閉化」と呼ばれる事態が、いかなる言説環
境に対する反応であり、そこに何が賭けられていた
のか記述し直す。第二に、市民社会論や社会福祉学
など隣接領域における戦後の言説変容と比較する
ことを通して、
「自閉化」という観察がどこまで妥
当なのか問い直す。第三に、教育学の言説の変化を
「自閉化」と観察してしまう教育社会学的欲望の所
在について検討し、それがいかなる「戦後」の継承
の失敗によって生み出された錯視なのか考察する。
日本型生活保障システムと教育社会学
まず、本報告では、言説環境として福祉レジーム
に注目する。公教育が社会権の一つを構成すること
を踏まえるならば、教育政治/言説の変容を、福祉
政治/レジームの構造との関連で検討することに
一定の妥当性があるだろう。
さて日本の社会保障は、よく知られているように、
非常に低レベルの公的社会保障と、それを補完する
代替システム(企業福祉、家族福祉、低失業率)の
発展によって特徴付けられ、日本型生活保障システ
ムと呼ばれる。日本の教育のパターンは、このシス
テムと不可分である。例えば企業福祉はメンバーシ
ップ型雇用を前提にしており、それが要請する企業
特殊的スキルは教育に職業的レリバンスを求めな
い。その構造が一元的な教育制度と受験競争の要因
となる。教育社会学は、日本型生活保障システムを
前提として、その教育(もしくは人的資本供給)に
おける機能と逆機能(教育機会の不平等など)を分
析対象としてきたとも言える。だからこそ有用な知
として流通したが、その有用性は、当該システムの
前提に対する深い自明視と不可分なものであった。
この教育社会学から見ると、教育学は現存システ
ムの実証的検討という点では何の有用性も持たな
い知であり、両者の差異は当為学/事実学という区
別によるものと観察される。それはさらに自閉系/
社会系という区別とも重ね合わされるだろう。だが、
教育社会学も特定の当為(機会の平等)にコミット
している以上、当為学/事実学という二項図式は成
立し得ない。では自閉系/社会系という区別は妥当
だろうか。むしろ戦後教育学/教育社会学の差異は、
コミットする福祉政治の種別性に起因すると考え
られないだろうか。
欠乏と恐怖からの自由
この点を考える上で、福祉国家には二つのレベル
があるという点に注目したい。一つは、給付国家と
いう側面である。これは財や社会サービスに分配や
提供に関わるもので、公教育の供給もこの機能に結
びついている。もう一つは――しばしば見落とされ
がちだが――規制国家という側面である。これは搾
取、差別、暴力、圧政等に対して個人を守るために
規制を行うものであり、人権擁護や労働規制はここ
に含まれる。
この給付と規制の機能は、規範としても憲法前文
に〈欠乏と恐怖からの自由〉という形で刻まれてい
る。この二つの〈自由〉は、戦争の惨禍を踏まえて
戦後の出発点に据えられたものだ。それは現在にお
いても、人間の安全保障(human security)概念の
柱に据えられるなど、普遍性を有している。だが日
本型生活保障システムは、給付国家(欠乏からの自
由)の側面が小さい上、規制国家(恐怖からの自由)
の側面が著しく弱いという特徴がある。
この枠組と重ねた時、既存の教育社会学の守備範
囲に偏りがあることが分かる。給付国家の側面につ
いては、確かに教育機会の平等については知見を重
ねてきたが、結果の不平等の問題を自らの対象から
外してきた。同時に不平等や貧困を生成させるメカ
ニズムの把握を、教育システムを越える形で追求し
てきたとは言いがたい。また抑圧・差別からの自由
の前提である規制国家の側面については――一部
のジェンダー研究やマイノリティ研究を除けば―
―十分に取り組まれてこなかった。それが、現在の
ヘイトスピーチや国家の圧政の問題に対する知を
教育社会学に求めても、十分な知見を得られないと
いう状況につながる。日本型生活保障システムの弱
さは、教育社会学の盲点と重なっている。
その一方で、戦後教育学は、ある時期まで〈欠乏
と恐怖からの自由〉の問題に正面から取り組んでき
たとも言える。次にその点を見ていこう。
「社会学」としての戦後教育学
まず〈恐怖からの自由〉については、国家の圧政
を生まないための自律的市民の育成という課題が
広く共有されていた。これは戦後市民社会派とも共
通の課題である。堀尾輝久の師に戦後市民社会派を
開いたとされる政治学者の丸山眞男がいるが、彼の
リベラリズムの根底には、ジュディス・シュクラー
と同様の恐怖からの自由があるという。
一方で〈欠乏からの自由〉については、戦後教育
学はマルクス主義の影響のもと、資本主義の分析の
中に教育機会の不平等や子どもの貧困の問題を含
み込ませていた。もちろん、教育の固有の領域をど
う確定していくかという関心を有していたが、そこ
にはマルクス主義的階級還元論を超克するという
重い課題があった。この枠組の下では、教育機会の
平等の追求という教育社会学の至上目標は、単に資
本主義システムの延命に寄与するものでしかなか
った。教育学が目指していたのはより深いレベルで
の解決=資本主義の揚棄である。
以上の言説磁場が変容するのが1960年代である。
貧困の不可視化が進む中で、資本主義の転換という
説明図式が前景化する。それは国家独占資本主義段
階における労働者の馴化=体制内化という社会モ
デルであるが、その観察の背景にあるのは、日本型
生活保障システムの形成であった。いずれにせよ、
ここから市民社会論の反転した大衆社会論が訴求
力を獲得していく。そこでは、労働者の馴化=消費
社会化によって、市民社会の頽落形態の大衆社会が
登場したと捉えられた。この大衆社会論は、
「大衆」
が消費社会によって本来の「人間性」や「労働者性」
を失っていると捉えるという意味で、疎外論と親和
的だった。批判理論の主要な課題は、貧困問題の解
消から、疎外からの回復、つまり失われた「人間性」
の回復となる。教育学でも周知のように、1960~70
年代以降、
「発達」や「人間性」という概念が価値
化していく。そしてその事態こそが、教育学は内部
でしか通用しない価値に「自閉化」しているという
教育社会学的観察を招き入れることになった。
だが重要なことは、この言説磁場の変容は教育学
だけで生じているわけではなく、社会学や社会福祉
学などでも共通して見られたということである。例
えばこの時期、社会学でも、アメリカの大衆社会論
者やフランクフルト第二世代など、大衆社会化によ
る疎外の問題に取り組んでいた論者は多い。その意
味で、戦後教育学は「社会学」的でもあった。
むしろ、教育社会学がその言説磁場の影響を全く
受けなかったとしたら、その方が人文社会科学の中
で特異な位置にあったとも言える。
教育社会学の「誕生」と自閉化
ここで戦後の教育社会学の発展過程に目を向け
よう。藤田英典の整理によると、1950 年代から 60
年代にかけて、教育社会学は教育学や社会学から自
立を果たしていくが、そのシステム分出において主
導的な役割を果たした理念が、実証主義への定位と
政策科学への志向(清水義弘)であった。
ここで注目したいのが、教育学との差異を打ち立
てた「実証主義」という思想財の機能である。これ
は、狭義の「実証主義」的方法論の外部にある説明
図式への参照を遮断することを意味した。これは戦
後の出発点に置かれていた〈恐怖と欠乏からの自
由〉という問題系の忘却と実質的に重なった。
教育学では〈恐怖からの自由〉の問題系は、国家
からの自律、封建遺制の克服、市民的主体の形成と
いった戦後民主主義的課題として重視されていた。
一方、教育社会学は、これらの問題系は、教育科学
論争などを通して、人文科学/社会科学、規範学/
事実学という区別の運用の中で、自らの対象から外
していく。また〈欠乏からの自由〉の問題系につい
ても、教育機会の平等という形では重視された一方、
マルクス主義的な資本主義分析は忌避された。これ
は格差自体のマクロな構成メカニズムを分析対象
から外すことでもある。前述のように、マルクス主
義的枠組と戦後教育学は、
「機会の平等」の追求だ
けでは、資本主義の延命装置になると捉えられた。
だが逆に教育社会学にとっては、その類の「説明」
こそが単純で検証不可能な命題だった。一方で、
「機
会の平等」や、その背景にある「近代化」論は、方
法論的に検証可能な問いということになる。
教育社会学は、
「実証」可能な分析枠組/指標だ
けを自らの対象にすることで、戦後の論壇を彩る資
本主義論争等の政治的な論争から、自らを切り離す
ことができた。方法論的禁欲はイデオロギー闘争か
ら自らを守る意味もあった。だがそれは、教育社会
学こそが、マクロな政治や経済をめぐる論争から
「自閉化」していたということでもある。この操作
によって、教育社会学は「戦後」の磁場の遮断を早々
に行うことになった。
だがその「自閉化」は、教育社会学に、教育学以
上のプレゼンスを与えていくことになる。ここで注
目したいのは、近代化論自体が、1960 年代に転換し
ていったということである。戦後日本の論壇におい
ては、取り組むべき「近代化」とは、
「封建遺制か
らの解放」
「近代的市民主体の形成」といった講座
派的/市民社会派的な問題系だった。ここから描か
れるのは、不完全で歪んだ日本の近代化像であり、
戦後教育学もこれに依拠していた。これに対し、
1960 年代のアメリカでは、
別の形で日本の近代化を
描き直すプロジェクトが進んでいた。ここでは、近
代化の基準を、主体・市民といった人文学的問題系
ではなく、都市化や識字率など実証・数量化可能な
構造項目で捉え、それにより奇跡的に成功した近代
化という日本像が浮かび上がる。教育社会学が親和
的だったものこそ、この「実証科学」的な近代化論
であり、その後の影響力の源泉となる。
だがその代償として、教育社会学は、
〈恐怖と欠
乏からの自由〉という戦後的な課題を、継承するこ
となく発展することになった。また、疎外からの回
復も自閉化した問いとして自らの視野から消した。
社会福祉学と疎外論的問題設定
確かに、戦後教育学は疎外論的展開を遂げた後、
政治への回路を不可視化させていく。だが、それは
疎外という問題系を受け入れることの唯一の帰結
だったのだろうか。ここで社会福祉学の議論を参照
してみよう。実は、社会福祉学はある意味で教育学
と非常に似た展開をたどっている。
1950 年代には、
社会福祉の領域でもマルクス主義
との関係で、社会福祉の固有の場所の探求が行われ
た。つまり、マルクス主義に依拠し資本主義的生産
関係の枠内で社会政策/社会事業を位置づけよう
とする議論が大きな影響力を有していた。そこでは
分配の問題こそが重視された。これに対して福祉が
孕む人間同士の関係という相に固有の位置を与え、
それを擁護しようとする議論があった。この立場は、
マルクス主義に依拠する社会政策論者から反動的、
非科学的という激しい批判にさらされた。
1960 年代以降――教育学と同様に――この言説
磁場が変わっていく。分配論的問題系だけではなく、
疎外論的問題系=「人間的なもの」が固有の重みを
持って捉えられるようになっていくのである。この
ような言説構成の変化は、生活水準の上昇や日本型
生活保障システム(≒労働者の包摂)の形成の中で、
典型的なものだった。だが教育学と異なるのは、再
分配を求める運動論と、人間性や関係性を重視する
議論との統合を図る立場が成立したことである。そ
の中で、社会福祉学における疎外論的展開は、福祉
国家の拡張という政策的ベクトルと接合していく。
それは、1970 年代のコミュニティケア、QOL の向上
をターゲットにした政策、反管理・反専門職を掲げ
る地域での自立生活運動などに結実していく。その
問題系では、再分配の問題は忘却されることなくそ
の前提に措かれ、研究者もリアル政治に参画してい
った。これらは、疎外論的転回が政治の回路の消失
し、
「自閉化」した教育学と異なっている。
戦後の「継承」をやり直す
以上の議論を踏まえた上で、当日は、教育学、教
育社会学のそれぞれにおける「自閉」の構造を検討
し、それを回避する方向について考察する。そこで
はシティズンシップ教育が検討の俎上に上げられ
るだろう。以上を通して、戦後を「継承」し直すと
いう作業の一端を試みたい。