平常心是れ道 - 経営禅研究会

2015 年 5 月 19 日 B 班 Vol.41
経営禅研究会 飯塚 如風
【 平 常 心 是 れ 道 】
じょうしゅう
な ん せ ん ふ がん
どう
趙 州 和尚がまだ若かった時のことです。師匠の南泉普願に、
「道とは、どんなものでしょうか」
と尋ねました。趙州のいう「道」とは、人間が生きるうえでの正しいあり方、禅の真髄、すなわ
ち禅道を指したものです。禅道とは何かと尋ねました。問われた南泉は、「平常心是れ道」と答
えました。趙州は、「どうしたら、それをつかみ取ることができるでしょうか」と尋ねると、南
泉が、「そんなものが特別にあると思って探し求めたら、ますます道からはずれてしまう」と答
えました。
「それをつかまえないなら、どうしてそれが道であることが分かるのですか」
「道とは、
ち
ふ
ち
知るとか知らない、といった次元のことではない。知不知という分別をなくせば、そこに道が現
きわ
れる」と南泉が答えました。趙州は大いに悟るところがあったといいます。その心を究めること
が道であり、その道に立てば日常生活そのものが、道、すなわち禅道の体現であるということで
す。「道」というと、禅道をはじめ、茶道、華道、剣道などという日常とかけ離れた特別なこと
を想定しますが、そうではなく日常の生活そのままが、道の発現であることを忘れてはならない
のです。
しかい
「此界、他界といわず平常心なり」
しょうぼうげんぞう
道元は『正 法 眼 蔵 』の「身心学道」の中で、
「平常心というは、此界、他界といわず平常心なり」
平常の心とは、こことか、あそことか分けることなく、いつ、どこでも平常の心である、と説いて
います。
スポーツ選手などがよく「平常心で闘います」とコメントすることがあります。いままで努力し
てやってきたことを乱さずに、平常の力をそのまま発揮したいということです。しかし、特別に練
習した成果をそのまま出すことだけが、平常心ではありません。
平常心は、日常の練習を「此界」とすれば、試合は特別ゆえに「他界」とみますと、その「他界」
の結果だけを求めることではありません。日常生活の「此界」の身心そのものが、特別の「他界」
においても、そのまま踏まえられていなければならないのです。つまり平常心は、特別なもののた
めに平常を保つのではなく、日常と特別のあり方を分けることなく保たれるべきものなのです。い
わば平常心は、このときに発揮するとか、あのときに使うというものではなく、いつ、どこでも、
一貫してある心のことです。その心は、命そのものを生かしているものと言ってもよいでしょう。
道元は、平常心は命の働きそのものであり、その命に生かされている私たちは、日常のすべてで
誠心誠意をもって対応しなければならない、と説いてやみません。日常において、おざなりな行い
をすることは、自他の命を粗末にすることなのです。
【 禅 と 経 営 】
■「平常心是れ道」とは経営道です。
■経営道は頭で考えるのではなく、毎日の実践の中から体得するものです。
■経営リーダーは、「平常心是れ道」を身に付けることです。
■景気・不景気、業種、業態に関係なく経営道を推進することです。
■過去・未来、大きい・小さいを比べるのではなく、今・ここを一所懸命生きる。
■戦略は奇手、妙手ではなく、基本の組み合わせです。
■お客様から選ばれる必然性のある企業にすることです。