東若林町のお囃子楽曲 - 東若林町祭り保存会

東若林町のお囃子楽曲
平成 26 年度 東若林町八幡神社氏子総代 瀬崎安男氏からの書面説明を、そのま
ま引用させて頂きます。
「東若林地区の太鼓や笛は、約 90 年前の先人の人達が、他村の笛の音節を色々
と替えて今の笛や太鼓のたたき方にしたのです。
そして時代とともに大太鼓になりました。
大太鼓をたたくのも笛の音節、笛が吹けなければ太鼓はたたけないものです。
音楽でも基礎になる節や音色、又は音譜が一番大切ですが、今は子供が中心の
お祭りですので、その辺は楽しくお祭りが出来れば良いのではないかと思いま
すが、伝統ある笛・太鼓の音節色 残していきたい思いです。」
【なんばん】(ばやし)
お宮様から出発時と帰着時にたたく曲です。
【道中ばやし】【ばかばやし】
出発して、道をゆっくり引く時に太鼓をたたきながら行きます。
昔は道中、長い道のりでした。
【そもそも】(ばやし)
この曲は、各町村の屋台が一同にそろう時(又は村境にて)となりの屋台の
曲をこわす時にたたく曲で大太鼓の競演となりました。
以上、瀬崎安男氏の詳細説明から、東若林町本来の楽曲は4曲である事と各楽
曲がどのような条件下で、たたいていいたのかも解る。
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外来お囃子楽曲
(後に外から入ってきた曲)
【ノーエー節(農兵節)】
30 年ほど前、まだ可美村だった頃、時の保存会青年部が他の字(あざ)〔若
林・増楽・高塚〕の青年会と公式に交流を持ち毎年、練習時に各 字(あざ)へ
挨拶回りで行き来し、挨拶回り先で自字(あざ)の太鼓を披露する習慣があった。
高塚青年会が東若林へ来た時、軽快なテンポとリズム感の良い「ばかばやし」
を大そう気に入り、祭り当日高塚で たたきたいから教えてほしいとの依頼を
受けた。
我が東若林の楽曲を気に入ってもらえるのは大変喜ばしい事で、東若林とし
ても高塚の楽曲を1曲教えてもらうことになり、双方合意の上で高塚の「ノ
ーエー節(農兵節)」を取り入れる事となった。
東若林の「ばかばやし」は、高塚では「ひがしわか」の愛称で親しまれ、今
現在も たたいています。
『ちなみに、このノーエー節(農兵節)とは、静岡県の数ある民謡のうち
でもチャッキリ節とともに全国に知れわたっている民謡で、元唄は嘉永年間
(1848~1853)には、すでに束海道筋で唄われており盆踊り唄や田草取り唄
などから変化したものである。』(ノーエー節(農兵節)詳細は別紙参照)
しかしながら時が経つにつれて、お囃子としての「ノーエー節(農兵節)」
の由来も伝えきれていない昨今、東若林町本来の4曲を覚える前に「ノーエー
節(農兵節)」に走る傾向が顕著になった。(平成 23 年頃)
これは、笛・太鼓に係わる人員に、東若林町のお囃子楽曲の由来を含め「ノ
ーエー節(農兵節)」の由来をしっかり伝えきれていない事が原因で、責任の
一端は祭り保存会にあり、大いに反省すべき点である。
今日、今一度「ノーエー節(農兵節)」やりたいというのなら…
笛・太鼓に携わる者が、まず東若林町本来のお囃子4曲(笛・太鼓)を完全
に覚え、その後役員でそれが東若林町に相応しいものであるかどうか改めて
検討し、祭り当日のやり方などしっかり協議した上、その曲の由来と今日ま
での経緯を全員に説明し祭り関係者全体が十分理解した上でやるべきだと思
う。
やり方の一例として挙げるなら、境内アナウンスで楽曲の由来その他を祭り観
覧者に紹介、説明後時間を定めて行う。
笛・太鼓の全体練習必須は言うまでもない。
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【舞ばやし】
20 数年前、時の青年部の一人が新曲を取り入れたいとの要望により、やり
始めた曲である。
東若林にとって新曲を取り入れる事に青年部内でも賛否両論の意見があった。
もちろん私自身もその時の青年部であり当事者の一員で、新曲を取り入れる
事に反対の意向を表明していたが、数人の強い要望に押し切られ渋々といえ
承諾してしまった。
新曲というからには、その発起人またはその関係者が新たに作曲したものだと
思い込んでいて、しっかり確認すらしなかった私自身、不徳の致すところであ
る。
保存会レベルでの協議もなく青年部のみの判断で、やり始めたがしばらく後に
その曲は、発起人またはその関係者が作った曲ではなく今現在も舞阪で行われ
ている楽曲だとわかる。
更に掘り下げていくと、時の青年部の一人が舞阪に縁があり舞阪の祭りに参
加出来ない事情から、ここ東若林でやりたいという極めて安易な発想からで
ある事も解かった。
しかも何のアレンジも加えておらず太鼓のたたき始めの位置を少々ずらした
だけで楽曲は全く同じものだった。
まんまと出し抜かれたような、何ともあと味が悪い思いの中、時すでに遅し
曲名も「舞ばやし」と名付けられ釈然としないまでも、そのまま行われる事
になってしまったが今にして思えば、この時点で即座に中止にすればよかっ
た事であるが、まさにあとの祭りである。
時の保存会を含め、それに係わったすべての者が、しっかり見極めなければ
ならなかった事にも責任の一端があるのは言うまでもない。
無論、私自身にも大きな責任があり誠に申し訳なく思う次第である。
この曲の軽快なテンポとリズム感は好感が持てるのは確かであり、若者ウ
ケする曲であるのはよく解かる。
しかし、いつの頃から東若林町本来のお囃子4曲を覚える前に、舞ばやしを
覚えてしまう人が急増し、祭り当日も「舞ばやし」になると太鼓をたたく人
が極端に増え、東若林町本来の曲になると途端に人が減る事態が顕著に表れ
るようになり、挙句の果てには「舞ばやし」しか たたけない者まで現れた。
当然ながら地域住民から批判の声も聞かれるようになった。
我が東若林町にも軽快なテンポとリズム感を備えた「ばかばやし」がある。
舞阪の楽曲は舞阪で行ってこそ価値のあるものであり、約 90 年の伝統ある東
若林町の祭りにおいての「舞ばやし」は何の意義も意味もない。
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先に述べた高塚町のとの交流で双方合意の下に交換し合った「ノーエー節(農
兵節)」の経緯とは全く違う。
いわば勝手にやり始め、勝手に取り入れたものであり、ただ単に舞阪の真似
事でしかないのである。
この経緯は今日までに要所では伝えてはいたものの私の力不足も重なり、す
べての方々には伝わってないのが現状である。本来なら、もっと早く声を大に
して、すべての方々に伝えなければならなかったと悔まれると同時に申し訳な
く思う。
以上の経緯と事情により東若林町秋祭りを担う者の一人として、尚且つ東若
林町秋祭りの伝統文化の継承という責務と責任においても今後、東若林町では
「舞ばやし」を行わない事とすべきではなかろうか。
「舞ばやし」をやりたければ舞阪の祭りに参加すればよい。
東若林町の太鼓の楽曲は、他地区の軽快なテンポとリズム感が良いだけで何の
意義もない ただの真似事であってはならないと思う。
平成 26 年 10 月
作成
黒野裕嗣
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農兵節(ノーエー節)
富士の白雪ノーエ
富士の白雪ノーエ
富士のサイサイ
白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ
そぐ
とけて流れてノーエ
とけてサイサイ
三島女郎衆はノーエ
三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ
ながい
御化粧ながけりゃノーエ
りゃ御客がおこる
御客おこればノーエ
さん
石の地蔵さんはノーエ
御化粧ながけりゃノーエ
御客おこればノーエ
女郎衆は御化粧が
御化粧サイサイ
御客サイサイ
石の地蔵さんはノーエ
流れて三島にそ
ながけ
おこれば石の地蔵
石のサイサイ
地蔵さんは頭
が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止る
からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘
島田
娘島田はノーエ
娘島田はノーエ
娘サイサイ
島田は情けでとける
【解説】
静岡県の数ある民謡のうちでもチャッキリ節とともに全国に知れわたっている民謡がこの「農兵
節」である。
元唄は嘉永年間(1848~1853)、すでに束海道筋で唄われていた盆踊り唄や田草取り唄などから
変化したもの。 これを農兵節として取り入れたのは平井源太郎である。
平井源太郎は伊豆韮山の代官江川太郎左衛門が農兵の訓練に際し、
士気の鼓舞と団結を計るために鼓笛隊を組織したことにあやかり、
「ノーエ」を「農兵」として唄と踊りをつけて「農兵節」を作った。
歌詞は、娘小菊を断罪した当時の武家の専横をなじりながらもその怒りを風刺的に作りあげてい
る
【参考資料】
三島農兵節普及会
〒411-0036 静岡県三島市一番町 17-1 三島市観光教会内
TEL.055-971-5000
FAX.055-971-8882
URL.http://www.mishima-kankou.com/entertain/nouhei.html
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