2015.11

週刊 RO 通信 no1121 2015 年 11 月 23 日(月)
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対米従属の原点 ペリーの白旗
矢吹晋先生が「対米従属の原点 ペリーの白旗」
(花伝社)を出版された。折もおり、南シナ海に
おける米国の航行の自由作戦を支持し、自衛隊の活動を検討するというような発言が出ており、み
なさまのご一読をお勧めする。1853 年 6 月 3 日、ペリーが率いる総勢 1,600 人・4 隻の艦隊が浦賀
沖に現れ大騒動になった。すったもんだの末、久里浜に急きょ設けられた幕の内で、米国大統領ミ
ラード・フィルモア(在任 1850.7.9~1853.3.4)の国書を入れた箱と、もう 1 つの箱が手交された。
1 つの箱に国書が入っているのは間違いない。他の箱になにが入っていたか。白旗 2 枚と、その使
い方の説明書が入っていた。
白旗授受の記録があいまいなので、
白旗授受を否定する見解もあるが、
矢吹先生は、丁寧にさまざまの資料を読み解き、白旗 2 枚とその意味の説明書が入っていたと結論
する。固い歴史の本のはずが、あたかもミステリーの謎解きにも似て、論の展開は極めて面白い。
白旗の意味はなにか。日本が、あくまで開国を肯んじないならば、武力に訴える。米国は必ず勝
つ。その際、敗北を認めて白旗を掲げ、講和を求めるとき砲撃を停止する。つまり、脅迫が目的で
あった。国書は美しい外交辞令であり、白旗は隠された「もう 1 つの意志」である。外交辞令の行
間を読み解かなければならない。白旗による恫喝なくして幕府はペリー外交を受け入れなかったで
あろうというわけだ。ペリーに随行していたのが通訳サミュエル・ウィリアムズ(1812~1884)で、
彼は 1837 年、商船モリソン号で海難救助した日本漂流民を引き渡すべく、大砲抜きでやってきた
が、異国船打ち払い令による砲撃で追っ払われた。鎖国令があろうとも、海難事故の漁民を救う協
定は結べるはずだ。和交の姿勢は示すとしても、打ち払い令の問答無用の壁を突破するにはどうす
るべきか。2 つの箱作戦を立てたのはウィリアムズに違いない。ところが、大方の歴史学者はウィ
リアムズの役割をきちんと検討していない。実際、幕府与力は、相手は「浦賀において余儀なけれ
ば武力行使する。その際でも白旗を掲げれば砲火はしない」とし、
「一座に居合わせた異人一同殺気
面」が現れていたという記録を残した。かくして白旗の記録が日米明確に残っていないのは、脅し
たほうも脅されたほうも恰好いい話ではないから、なんとなくウヤムヤにしたのであろう。1855 年
には江戸城大火で文書庫が焼失したのでもある。
時は流れて、米ミズーリ号艦上での日本降伏文書調印(1945.9.2)
。マッカーサー(1880~1964)
は、2 つの星条旗を掲げた。1 つはペリー艦隊が掲げた旗、もう 1 つは日本軍が真珠湾攻撃した日、
ホワイトハウスに掲げられていた旗である。ミズーリ号は、ペリー艦隊が停泊した位置に停泊して
いた。マッカーサーの胸中が、平和になってよかったね、というものであったろうか。ペリー艦隊
の恫喝外交と、日米開戦をつなげば、間違いなく「力」の誇示であっただろうことは、素人にもす
んなり理解できる。だから矢吹先生は――「ペリーの白旗」とは、米国から見て「対日政策の原点」
を示すもの、日本から見れば「対米従属の原点」を確認するものにほかならない。安倍の考える「脱
戦後レジーム」とは、結果的に見て、対米従属度をより深めることであった。これをもって「脱戦
後体制」
を自賛するのは、
どこか著しく壊れているように見える――と書かざるをえないのである。
矢吹先生が敬愛する朝河貫一博士(1873~1948)に、
「日本の禍機」
(1909)という論文がある。欲
ボケして、迷走する日本に対し、
「反省力ある愛国心」を持てと呼びかけた。しかし、野望外交の幣
は改められるどころか、やがて一目散に大惨禍への道をひた走った。昨今中国が「大国化」したと
いう論調が多いが、事実誤認も甚だしい。中国は 4000 年にわたって常に大国である。日本は一貫
して小国である。
たまたま一時的に彼我の明暗があったとしても、
日本の得意時期など極めて短い。
反省・思慮なき連中は、いま、再び 1853 年の辺りを徘徊するような精神状態にあるといわざるを
えない。歴史から学ばないものには、政治家の資格はない。オツムのなかが依然として鎖国状態に
あらずや。